7.2 死ななければならない

 最終日、ベッドで目を覚ましても違和感を覚えなかった。もうそれだけ馴染んできた証拠だ。隣には誰もいない。温もりは残っているが、熱エネルギーは全て僕から生じたものだ。身体を起こしてから、数時間前の出来事は夢ではなかったかと自問してみたが、僕の右手がまだ感触を覚えていて、それを否定した。


 顔を洗い、着替えて1階に降りるとロイド君が準備万全の状態で仁王立ちしていた。両手にラケットを持ち、待ちきれないかのように羽ばたいている。空を飛びたいなら、ラケットは穴が開いているから向かないよ、と教えたくなった。


「おはよう、もう朝ごはんは済ませた?」

「うん! いつでもいけるよ!」


 ロイド君は目を輝かせて答える。キッチンの方を見るとサンダがいて、眠たそうな顔をしながら頭を下げた。ドライフルーツ入りのシリアルをボウルに移しているところだったので、僕の分もお願いした。


「ママはもうちょっとしたら起きるって」


 シリカさんが朝に弱いのはこの9日間で把握している。妹も、もう少しかかるだろう。


「食べ終わったらすぐに行こう」

「ウェアに着替えないの?」

「動きやすいし、このままでいいよ。今日で最後だから、着替える時間がもったいない」


 そう。今日で最後なのだ。口に出してから、その事実に慄いた。終わることは知っていたのに、心のどこかでずっと続くとさえ思っていた。こんな些細な連続にさえ永遠性を見出してしまう人間の脆弱さには呆れて物も言えない。


 シリアルを牛乳で流し込み、軽い準備運動をしてテニスコートに出ていくところで、シリカさんと妹が下りてきた。二人ともまだ眠そうだ。覚醒してからの性格は水と油のように異なるが、こういうところは似通っている。


 バトミントン用にネットを調整したテニスコートは、先日遊んだままだった。高さはロイド君の身長に合わせてある。雨も降ったので微修正が必要かもしれないと考えていたが、どうやらサンダが気を利かせたようだ。屈伸運動をしながら、対面で熱心にラケットの素振りをするロイド君を見る。

 

 ロイド君とのバトミントンの対戦結果は、僕が全勝している。

 子供相手だからといって手加減をしたら、頭の良い彼ならすぐに気付くだろうという確信があったし、逆の立場なら絶対に手を抜かれたくないと思う性質なので、僕は全力で戦っている。


 ルールは公式のものに調整を加えて7点先取の3ゲームだ。最初の頃は完勝だったが、今では1ゲームで2、3点くらい彼が取るようになった。これは彼が手首のスナップの利かせ方を覚えたのと、スマッシュの打点が低いので意外に取りにくいのが大きい。成長して青年の体格になれば、すぐに追い越されてしまうだろう。だが、今はまだ僕の方が強い。


「君のパパはもっと強いよ」

「君のパパのスマッシュは大地を割る」

「君のパパが速すぎて残像が見える時がある」


 などと適当な嘘を混ぜ込みながら、彼の闘志を燃やしてみたりもした。セドリック氏には期待に応えてもらうしかない。


 2セット僕が取ったところでシリカさんたちがやってきた。妹はあくまでも渋々というポーズを崩すつもりはないようだが、負けず嫌いな性格が仇となってシリカさんとは良い勝負を演じていた。


 気が済むまで遊んだ。


 午前中の軽い運動と思っていたのに、どうやら僕も妹と同様、負けず嫌いな性分らしくサンダ相手に白熱してしまった。ロイド君は妹と闘っている。僕と違ってシャトルの打ち上げとドロップショットを繰り返しながら、好機を見てラインの際どい位置を狙う妹の戦術は、常に全力で走りながら打ち返すロイド君を疲弊させていた。えげつない勝ち方だ。それでも妹の運動量は相当なもので、打つたびに、シャツはひらめき、脚の筋肉は躍動する。


「代表、余所見ばっかりしてるから負けるんすよ」

「いやサンダ、君の実力だよ。もっと自分を誇るといい」


 楽しい時間はあっと言う間に過ぎ去る。人生もこうだったらいいのに。


 太陽は徐々に昇っていた。

 ずっと観察していたわけではないが、多分そうだろう。自転の速度が肉眼で観測可能なほど変化した記録はない。


 正午まで1時間を切ったところで僕たちはゲームを終えた。予定よりも汗だくになってしまったのでシャワーを浴びるために部屋へ戻り、準備しておいた服を着る。上空からダイブした時の、自前の服だ。いつの間にかクリーニングされていた。あの髭面の管理人がやってくれたのだろうか。帰る前にお礼を言わないと。


 ジェットエンジンの音が聞こえた。


 窓から顔を出すと飛行機が着陸するところで、航空会社のマークからライゼル一家の帰りの便だと判断できた。ああ、もう終わりなのだという実感がようやく湧いてくる。あらかじめの理解なんて、その程度のものだ。死ぬ間際でさえ、いつか訪れると知っていたくせに、同じ事を思うのだろう。


 しばらく飛行機を眺めていると短く3回、扉がノックされた。

 はいと応じたが、ノックの主から返事がない。


「開いてますよ」


 再度そう呼びかけると、扉がゆっくりと開いた。

 元々鍵はかけていない。


「なんだ、シリカさんでしたか」

「入っても良いかしら?」

「勿論です。どうぞ」


 彼女も着替えたのだろう。最終日のファッションはパステルカラーのツーピースで、これまでに比べて非常に大人しいと評価できた。モノクロ映画に登場する公務を抜け出した王女の姿を連想した。


「今日まで楽しかったわ。ロイドにも良い思い出ができたと思う。あの子、同世代の子たちと話が合わないみたいで、コミュニケーションの発育をどうしようかって悩んでいたの。あんなに明るく楽しそうにしているのは、本当に奇跡みたい」

「そうなんですか」驚きはしなかった。彼の知能指数が突出していることは間違いない。

「集団行動による育成は形骸的なものですし、今のままで良いように思います」

「そうかしらね。やっぱり親として、色々とこうした方が良いんじゃないかって悩んだりもするのよ」

 

 シリカさんは大袈裟に溜め息をつき、頭を抱えるジェスチャをした。


「私自身、勢いで生きてきたところがあって、どうあるべきかなんてね、真剣に考えたことないんだから。そんな人間が子供を持つことになるなんて、ホント、今でも信じられないぐらい」

「誰だってそうですよ。どうあるべきかなんて、考えている状態の方が異常なんです。肥大化した自己防衛本能でしかない。ましてそれを、自分以外の人間に適用しようとすることは、傲慢でしかない」

「自分の子供でも?」

「子供だって、他人ですよ。同じ人間ではないわけですから」

「貴方もスズちゃんと同じぐらい、変わってるわよね」


 シリカさんは笑った。両手を広げて、僕に向ける。


「ハグしてあげましょうか」

「なんです突然」


 僕は吹き出してしまった。突飛すぎて予測が付かない。


「愛情で包んであげれば、素直な子になるかなと思って」

「魅力的なご提案ですが遠慮しておきます」

「どうして?」

「恥ずかしいので」

「あらまぁ、それは残念」


 シリカさんはあっさりと引き下がった。するつもりならしただろう。妹が強制的にされているのを僕は目撃している。


「何かお話したいことがあったのでは?」

「ああ、そうそう。ロイドのお礼もあったんだけど、本題は別」


 窓辺に立つ僕と、扉の内側に立つシリカさんの間には、会話するには不自然な距離が空いていた。何となくお互いに感じ取っていたのかもしれない。これから起きる出来事を。


「良いニュースと悪いニュースがあるんだけど、どっちから聞きたい?」


 シリカさんは古いジョークの文句を口にした。

 答える側の作法として、オチを後に言わせるために、どちらの順番で聞くのが適切かを考えなければならない。ジョークを言う側は、どちらの順番で聞かれても成立するように、2種類の回答を用意しておかなければならない。


「じゃあ、良いニュースから」


 僕は順当な方を選んだ。どれだけ秩序の乱れた世界でも、ジョークの作法ぐらいは丁寧でありたいと願っているから。


「α細胞を破壊するウイルスを作成した犯人が、特定できました」


 シリカさんはウェーブのかかった赤毛を指で掬いあげた。さらさらと指の隙間から落ちていく彼女の髪は炎のようにすら見える。


 小さく深呼吸して、僕は続けた。


「悪いニュースの方を」

「犯人は死亡したわ。安楽死でね。逮捕の線で進んでいたのだけど、突入した段階でもう手遅れだった」

「安楽死?」


 心臓が跳ねる。


「お義母さまは最初から、目的を果たしたら死ぬつもりだったのよ。法的な手続きも済んでいた。でも、私たちは彼女の最後の目的を差し止めることに成功したの。お義母さまには悪いけれど、表沙汰になることはない」

「シリカさん、エージェントだったんですね」


 僕は思った通りに言った。シリカさんは動じることなく、淡々と答える。


「結婚を機に退職していたんだけど、まぁ一時的にね、復活したわけ。政府内でお義母さまが主犯だという線が濃厚になった辺りで、打診があって、引き受けた」


 クリスティナ女史を見張っていたから、位置情報が割れていたわけか。ミサイル発射にゴーサインを出したのが政府なら、最初からハッキングの手間も必要ない。記録に手を加えればいいだけだ。


「時間は進まなければならない。お義母さま自身にも、あれは当て嵌まったわけね。どうお考えだったのか、もう聞くことはできないのが本当に残念」

「あのメッセージを、シリカさんも受け取ったのですか?」

「貴方も、セドリックも、私も。まだ非公開だけど、殺された被害者たちも、何らかの形で受け取っているわ。私も含めて、受け取ってもただの悪戯だと思われていたみたいだけど、現在のシステムが崩れることで影響を受けるαたち全員に送っている。もう今のままではいられないぞっていう警告でしょうね、きっと」


 クリスティナ女史は肺がんと老衰から時間を停めて生き続けて、目標に辿り着いた。再現性のない、培養のみで維持されるα細胞という前提が失われることで、僕やライゼル一家が相続した利権構造とそのシステムは土台から崩れていく。


「やはり、公開するつもりだったんですね」

「本来なら、今日の正午にね。ご自身の名前で、極秘に出資していた研究機関から声明が出る予定だった」

「データを抑えたんですか?」

「ええ。お義母さまの送受信記録から、再現実験のデータも、研究機関の権利も人員も丸ごとね。送られたメッセージもその中で見つかった」


 シリカさんが懐に手を伸ばす。白く細い腕が何かを掴んで、ポケットから抜き取った。灰色の筒のようなものが、僕に向けられていた。

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