7.終幕のシークエンス
7.1 終えなければならない
いつか終わりが来るとして、僕の人生にトータルスコアがあったとするなら、この9日間はボーナスタイムだったと言っていい。
どんな素晴らしい一瞬があろうと、永遠を夢見る人生の長さで割られてしまえば、単位時間当たりの平均価値は限りなくゼロに近付く。それでも統計を取るなら、この9日間を飛び値として外すことになるはずだ。
きっと僕のライフログをインストールした研究者は苛立たし気にモニターを眺め、髪を掻きむしり、ビタミン剤をラムネみたいにガリガリとかみ砕いてから、この9日間を発見する。グラフの値が桁違いで基準線の範囲に収まらず、肉眼で見落としたと気付く。こいつのせいで妙な結果が生まれたのかと納得してから、美しい曲線を描くために削除するのだろう。
その時の注釈はこうだ。最高の9日間。算出には使用せず。
どんな絶頂も、他人から見たらグラフから突出した異常値でしかない。
為替相場にも似た人生のジェットコースターの面白さは乗らなければわからない。神様みたいに横から見ているだけでは、上下しながら決まったコースを進む運動でしかないのだから。乗りながら揺さぶられている者だけが、エネルギーの奔流にスリルを感じ取ることができる。
僕のジェットコースターは長らく等速直線運動を続けていたので、そんな簡単な事すら、思い出すのに時間がかかった。
* * *
オフラインの生活もいいものだな、と初めて思った。
インプラントを入れる前の生活はもうほとんど思い出せないし、入れた後は体内発電でずっとオンラインに繋がってきた。通信障害や大怪我をするような事故でもなければ、まずオフにはならない。
ここまで長期間、世界から切り離されて生きることが初体験だった。
時間の流れは相対的で、遊んでいる時は早く、ベッドで明日を待っている時は遅くなった。ツチヤ君やナイトウも誘ってやりたいぐらいだった。皆どうしているのだろうなんて思ったりもしたが、約束である以上、誰にも連絡はできない。もっと長期間滞在することになったら、絵葉書を送るぐらいなら、許可してもらえるだろうか。
今日はプールで遊んだ。
シリカさんが宇宙人みたいな銀色の水着で登場して、僕と妹を引きずってプールに投げ込んだ。この頃になると、もう妹も諦めていて、大した抵抗はみせなかった。
毎週AIの勧めにより関連会社のジムで泳がされているので、水泳にはそれなりに自信がある。サンダは僕よりも泳げるはずだが、ずっと浮き輪で寝ていた。シリカさんはロイド君のスイミングフォームを見ていた。
妹はというと、人間は海から陸に上がって進化したというのに何故こんな無意味なことをしなければならないのか、という根源的な疑問に突き当たったままプール内で硬直していた。しばらく様子を見ていたが、潜水で近付き、妹の前で浮上した。僕の方を向いた妹に、手を差し伸べる。
妹は肌の露出を嫌って、地味な紺色の水着だった。膝と肘まで隠れているが、別に競技用ではない。いきなり現れて両手を差し出す僕を見て、何か用かという顔をしていた。
「バタ足の練習から始めよう」
無言。ややあって、屈辱の表情。
「ほら、泳げないと色々と困るだろ」
無言。人間は陸上生物だ、という侮蔑の表情。
「地球がもっと温暖化した時とか」
無言。90度向き直り、歩いていってしまう。
結局、妹はクローゼットに置かれていたビート板を持ってきた。一人で練習することにしたらしい。ビート板に負けたのはショックだが、黙って部屋に戻らなかったので良しとしよう。水着選びの時にそれをやり、シリカさんに連れ戻されてプールに突き落とされているので、学習したのかもしれない。
妹は太陽を反射して煌めく水面をじっと睨み、恐る恐る顔をつけていた。束ねた髪が全て沈むまで潜ると、腕を真っすぐに伸ばし、ビート板を掴んだままパシャパシャと脚を動かした。少しずつ進んでいる妹を、ぼんやりと眺めていた。
別の日はトランプで遊んだ。
午前中にテニスコートを半分ずつ使ってバトミントンをして、昼食のためにパーティルームに集まってクッキーを焼いていた時に雨が降ったのだ。ステンレスのトレイを並べて思い思いのクッキー生地を乗せ、オーブンから立ち込める香ばしさに湿気が混ざり始めた直後、外は豪雨に見舞われた。
トランプはロイド君がリュックに入れてきたらしく、彼の希望によりサンダも入れてトランプ大会が始まった。余談だが、何故だかサンダはロイド君から妙に懐かれていて、僕としては不思議な気分だった。不遜さと丁寧さのバランスが、彼の周囲にはいないタイプだったのだろう。サンダは人徳だと言い張っていたが、多分そうに違いない。
僕たちにとっては皮肉な名前のゲーム『大富豪』が最も白熱した。理由はシリカさんが最下位になったら罰ゲームと言い出したからだ。内容は彼女が持っているメイク道具で、男性は女性に、女性は男性に化粧をして、衣装とライトアップまで含めた本気の写真を撮るというもので、妹の男装がどうしても見たかった僕は代表権限を惜しみなく使い、サンダに目配せしてコンビプレイに徹底することにした。シリカさんも狙いは妹だろう。ロイド君は嫌だなぁと唇を尖らせる程度で、ある意味慣れた対応だった。
5人のうち、3人が妹の敵という状況で始まった『大富豪』は、結果から言えば僕たちの惨敗だった。妹は、場に出た全てのカードを記憶し、並び順を覚え、細かい傷や角の弛みをキーにして、全ての手札を知っていた。後から考えれば、そうとしか思えない場面が何回かあった。
どうでもいいことだが、この時、罰ゲームを受けたのはサンダだ。シリカさんのメイク技術は目を見張るほどのレベルで、カーテンが開かれてヤケクソでポーズを取ったサンダを見て涙が出るほど笑った。妹すら俯いて震えていた。本人は忘れてほしいそうなので詳しい描写は割愛しよう。
映画を観た夜もあった。
媒体はシリカさんが持ってきたスティックで、過去のタイトルが1万本以上が収録されていた。何より意外だったのは、観る映画を選んだのが妹だったことだ。壁に投影されたタイトルをスクロールして、無言で指をさす。突然発揮された積極性に驚いて誰も反対しなかった。
映画は部屋全体に立体映像を投影するタイプで、サメと悪霊とゾンビとクリーチャーが次々に出てきては主人公に倒されていった。僕たちが守られている一般人という設定でストーリーが展開されていく。設備頼りの企画に思えたが、実際に体験してみると一緒に観ている人間同士の緊張が重なり合って臨場感が増幅されていった。ラストも、アカデミー賞を取っただけのことはあった。久々にフィクションで感動したと言えなくもない。シリカさんは興奮したロイド君と感想を言い合い、サンダは泣いていた。4人以上での視聴が推薦されているので、妹は発表当時からこれを観たかったのかもしれない。
表情は変わらないが、スタッフロールの微弱な光に照らされている妹の横顔は、どことなく柔和な雰囲気を漂わせている。
音響が消え、部屋が明るくなると、どこか遠い世界からワープして戻ってきたかのような錯覚を覚えた。ソファに体重を預けたまま余韻に浸っていると、シリカさんが不意に「明日で終わりか」と呟いた。
8日目の夜だったのだ。
「私たちは正午に飛行機で帰るけど、一緒に乗っていく?」
シリカさんが訊いた。奇しくもそれはクリスティナ女史が指定した時刻と一致していた。
「いえ、僕たちは自分の飛行機で帰ります」
そっかー、とロイド君が不満そうに言う。方角的には逆方向だし、ミサイルの事がある。万が一を思えば、同乗させてもらうわけにはいかない。
さりげなく妹も僕と一緒の飛行機に乗ると言ったが、妹から反対の素振りはなかった。もしかして、ひょっとするとだが、多少は丸くなったのかもしれない。
約束の時間になったら、飛行機を呼ぼうと僕は考えていた。どのみち、オフラインのままなら連絡手段はない。到着までの間、ちょっとしたロスタイムが発生することになると気付いて、得した気分になった。
「じゃあ、もう寝ましょうか。明日の午前中が最期だから、目一杯楽しみましょう。何か希望はある?」
「バトミントンが良い!」
ロイド君が高々と手を挙げる。
「もう二回もやったじゃない。そんなに好きだったっけ?」
「僕は構いませんよ。一度くらいはサンダに勝ちたいし」
妹は無言だった。未だに僕とは一戦もマッチさせてくれないが、強いて反対する程の理由はないらしい。どうもロイド君には甘い気がする。弟のように思っているのかもしれない。指摘すると拗ねるので言わないけど。
「まぁ皆さんが良ければ、息子のわがままを聞いてあげちゃおうかな」
「やったー!」
ロイド君は素直に喜んだ。一日中遊んだというのに元気なものだ。そうかと思えば突然スイッチが切れたように寝てしまうので、体力をセーブするということを知らないのだろう。0になるまでフルパワーで動くのだ。僕も、子供の頃はそうだった、ような気がする。
それから僕たちは自分の部屋に戻って、明日に備えることになった。普段なら寝ながらメールのリプライをしたり、更新があったサイトを巡回したりするのだが、何とも繋がっていない環境ではお風呂に入って歯を磨くと、もうやることがない。
ふと窓の外を見ると、星空と月光が地平線まで続いている畑を照らしていた。トウモロコシ畑のゾーンは、輸送車に乗って早い段階で過ぎている。別荘周辺は目視できる範囲では葡萄と薔薇が多かったが、視界に収まっている畑が何を栽培しているのかは分からない。
風が凪ぎ、草が帯状にウェーブをして空気の流れを示した。
雨の水分がまだ残っているのか、月光を乱反射して輝いている。
それは畑を泳ぐ魚の群れのように見えた。
幻想的だ、と思う。
目の前で起きている現実なのに。
どうしてそんな表現をしてしまうのだろう。
窓を開けていたせいで風が入ってきて、カーテンが揺れた。その動きが部屋のグラデーションをかき乱したが、光と影はカフェオレのように濁ったりはしない。その一瞬の出来事が、僕の意識を窓の外の世界から部屋の中へと引き戻した。
妹が立っていた。
ゆったりとした無地のTシャツを着ている。
両腕を下げ、お腹の前で組んでいる。
扉はすでに締まっていた。
ノックしたのかもしれないが、どちらにせよ集中していたから気付かなかっただろう。どちらでもいいことだし、僕は驚きが勝ってしまいそれを尋ねるどころではなかった。
妹は相変わらず黙っていた。けれど、これは明らかなシグナルであり、アクションだ。僕が気付いたのを見て、妹は更に部屋の中へと入ってきた。
客室はベッドの対角線上に、シンプルな椅子と机が置かれている。てっきり、そこに座るのかと思っていた。何か伝えたいことがあるのだ、と。しかし、妹はそんなものの存在を丸っきり無視して、僕が立っていた窓辺まで接近してきた。詰め寄った、と記述できる距離だ。
何があったとか、どうかしたのかとか、そんな声が出そうになった。ただ、あまりにも唐突すぎて、僕の脳は今起こっている状況を理解するのに必死になっていて、それどころではなかった。質問を誤れば、妹が帰ってしまうのでは、という不安もあった。
どうすればいいのか分からない。
手を伸ばせば妹がそこに立っている。
ずっと立体映像だったのに。
不思議な香りがした。
僅かに熱が感じられる。
目の前の存在が生きている、と分かる。
心臓が鼓動を早めた。
僕も生きている、と分かる。
お互いに無言だった。月光が僕たちを照らしていた。僕の表情は逆光で暗くなっているだろう。きっと困ったような、泣き出しそうな、迷ったような顔をしているに違いない。窓から入ってくる風が妹の髪をくすぐるように撫でつけては消えていく。
どれぐらい時間が経ったか分からない。10秒のようにも、10年のようにも思えた。時間の飛躍を感じる程度には衝撃的だったと言える。
やがて妹はおもむろに右手で自分のTシャツの端を掴み、僕の目の前でたくし上げた。露出した柔肌は、日焼けした腕と首元と異なり、まだ誰にも踏まれていない季節外れの初雪のようだった。
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