5.4 会わなければならない

 耳の裏に触れ、テキストファイルを開く。視界に浮かんだ白い窓に、思考でタイプしていった。現れる文字を見つめては消し、視線を動かして変換する。


   *   *   *   *


 懐かしき軟禁部屋は僕が出ていった時のままそこにあった。2週間も住んでいるので、もしかしたら今年に入って僕の家よりも寝泊りした回数が多いかもしれない。本社ビルとは別に、名目上存在する僕の実家は【遺言状】における季節行事でしか使用していない。


 部屋を眺めて、シーツが新しくなっていることに気付いた。シーツの張り替えは比較的複雑なので、人間の手によるものだろう。これは技術の観点ではなく、コストの観点からそう推測できるだけのこと。政府の秘密施設に出入りできるハウスキーパーという職業を一瞬想像したが、公安局の新入りがやらされる仕事と考えた方が妥当かもしれない。


「それでは、何かあればコールしてください。会議は情報交換も兼ねているため、凡そ2時間後に終わる予定です」

「そんなに?」


 途方もない長さに驚いた。情報の同期で済ませらると思っていたが、そうでもないらしい。


「生産性がないやりとりが、生産性を発揮する手続きとして必要なのです」


 ナイトウはきっぱりと言った。流石は公務員だけあって実感が籠っている。


「チョウや他の研究所から抗体作成の経過報告と、シン大臣の殺人事件の進展なども議題に上がっていますから、今回はいつもより長くはあります」

「そうか。短い時間にかなり動きがあったから」

「各国の諜報部と協力と言えば聞こえがいいですが、足並みを揃えるとどうしても遅くなりますね」

「二人三脚みたいに?」

「今回の場合は、八人九脚といったところです」

 それは確かに遅そうだ。

「じゃあ、頑張って」

「はい」


 一礼してナイトウは去ろうとする。


「あ、待って」

「何か?」

「取得してほしいリストがあるんだ。捜査上の事由だけだと申請が下りないだろうから、僕のサインをしておいた」


 ナイトウは訝し気に僕から電子署名を受け取った。要求したリストの名前を見て、少し考えてから首を小さく傾ける。


「こんなものを、何に使うんです?」

「確認作業かな。決裁権限を渡してあるから、申請手続はツチヤ君にお願いして。指示もテキストにして入れておいた」

「分かりました。出しておきます」


 姿が見えなくなるのを確認して僕は部屋に戻った。ベッドに寝転がり、見たいわけでもない天井を見る。申請は恐らく通るだろう。事件が起きていなければ、僕でも閲覧はできないが、今なら正当性を持ってリストを開示できる。


 今なら。


 僕だけが。


 今だから?


 違和感が全身を駆け抜ける。


 いや、違う。もう一人いる。


 僕が先だった。


「そうか……そのために」


 追いつめているつもりだった。

 けれど、深く奥へ進むに従って、それが予定されていたパターンの一つに過ぎないと分かる。


 僕が切り開いた道筋は、あらかじめ舗装されていたのだ。天才にとって唯一の誤算が、妹の存在だったのだろう。その処理のために、計画がルートを外れた。それでも失敗にはならない。僕というバックアップがいたから。


 セドリック氏の言葉を思い出す。天才とは、凡人が何十年もかけて辿り着く場所に、一瞬で達してしまう。彼は薄々、勘付いていた。いや、勘付くように舗装された道を歩かされていた。


 再びテキストファイルを開く。

 ナイトウに宛ててメール。ツチヤ君へ送ってもらう指示を追加した。


 AIとナイトウの検閲では見つけられないだろう。逆向きの斜め読みなんて。


「仕事を増やすなって、言われるかな」


 ひと昔前なら、受け取った手紙を破り捨てて怒りを表現したはずだ。頭の中に届く文章は破れないから、大抵近くにいる人間が犠牲になる。もしかして、社内でツチヤ君の伝説が増えていくのは、僕のせいなんじゃないかと、今何となく気付いてしまった。


 部屋にいても仕方ないので食堂でコーヒーを飲むことにした。生きていても仕方ないけれど死ぬことにしたりはしないので、動機付けが多少言い訳がましいかもしれないな、と自分で思う。


 食堂に至る通路で、人間に出会うことはなかった。動くものは監視カメラのヘッドと清掃用のロボットだけだ。カメラの映像をリアルタイムで見ている人間もいないだろう。急に走ったり、不可解な動きをしなければ、搭載されたAIも注目はしない。


 コーヒーメーカからカップを取って、何となく、初めてナイトウを誘った時に座った席を選んだ。もう何回も選んでいて、指定席のように感じている。


 数えてみたら、食堂には全部で36席あった。そのうち座ったことのある座席は3つしかない。このまま何年も保護されていたら、特定の座席だけが老朽化して交換されることになるだろう。ランダムに針を落とすモンテカルロ法のような座り方をした方が良いだろうか、と無意味な気遣いが頭を過ったが、結局は同じこと。僕一人では試行回数が少なすぎて偏りが出る。


 ぼんやりと計算してみたが、全部屋に要人が保護されていて、毎日全員が食堂を1回は使用する条件が280年ほど続けば、座席の老朽化はほぼ完全に平準化されると分かった。ただし、全部屋で要人たちを養うだけの税金があれば、座席は毎日新品に交換できるから、この思考実験は実現しない。


 何故、現実で成立しないのか。

 座席にそこまでの価値はないからだ。

 恐らく、似たような思考実験をウイルスの作成者はしたのだろう。

 まだ湯気の立つコーヒーに口を付けた。インスタントの安易な苦みが口の中に広がっていく。文句を言う相手はいない。


 食堂には僕だけが座っていた。

 長い間待っていると、依頼していたリストがツチヤ君を経由してナイトウから届いた。会議が終わったらしい。リストを開き、羅列された名前を眺めてため息をつく。


 一晩、食堂で過ごした。


 地下なので日が出ているかどうかは分からない。ずっと同じ姿勢で座っていたせいで、健康維持用の微弱な電気が左手の小指に流れたので時間の経過を認識できたのだ。気付いたら、朝と呼ばれる時刻になっていた。


 睡眠は飛行機の中でとったし、カフェインを摂取したことも一因だろう。

 立ち上がり、エレベータ側に進む。僕の部屋とは反対方向だ。

 食堂と通路のカメラが同時に僕の方を向いたのが分かった。この経路は僕がこのフロアに保護されて以来、散歩をかねて何回も通っている。目新しい動きではないので、警報が鳴るわけではない。


 エレベータは閉じていた。

 職員の生体認証を通さなければ使用できないのは確認済みだ。

 エレベータホールの真ん中に僕は立っている。


 初めてナイトウと会った時のことを思い出す。彼女は僕のビルの避難経路を知っていた。あれは建築時に提出した法定記録と災害訓練レポートを得ていたのだろう。どちらも当局に提出する文書なので、公安であればその程度は取得できる。


 視界の端に映ったデジタル時計に注目する。

 予定時刻まで1分を切っていた。

 見つめてズーム。秒表示を出す。


 まだ30秒。

 どんな建築物であっても、災害時に脱出できる避難経路は必ず存在する。

 このフロアでは、エレベータホールの右手にある非常階段への扉がそうだ。


 残り20秒。

 要人向けや職員の生活用エリアを持つなら、尚更なければならない。

 今、その扉はエレベータと同じくロックされていた。


 あと10秒。

 当然だ。災害時ではないのだから。

 誰かが火事でも起こさなければ、職員以外は開けられない。

 

 けたたましい警報が鳴った。

 バンと金属が外れる音がして、非常用扉のロックが開く。

 僕は体当たりする勢いで扉を開け、非常階段を全力で駆け上がった。

 カメラには映っただろう。けれど、現状においてそれは異常な行為ではない。災害時に外へ逃げるのは正常な判断だ。


 フロアが地下何階なのか、ナイトウに聞いておけば良かった。それぐらいなら教えてくれたかもしれない。螺旋を描く非常階段はずっと上まで続いていた。あとどれぐらい走れば辿り着くのか。


 息が上がってきた。日頃の運動不足の賜物だ。


 ようやくB3の表示が見えた。表示があるということは、地下3階まではダミーの施設として登録されているのだろう。


 階段を2段飛ばしで進む。

 警報が段々と大きくなる。足元にうっすらと煙が流れているのが分かった。


 ようやく自然光。


 地上への扉は文字通り輝いて見えた。


「お待ちしておりました」

「無理を言ってごめん。ありがとう」


 地上の駐車場スペースが業火に見舞われていた。吹き荒れる火柱の煽りを受けて、ツチヤ君のロングスカートがたなびいている。こんな無茶苦茶な事を頼めるのは、彼女しかいない。


「何のことやら。私は施設を探し出して、無理な残業を押し付けてきた代表に退職願いを叩きつけてやろうとヘリで乗り付けたら、うっかり事故を起こしてしまったに過ぎません」

「僕が乗る方は?」

「上空に待機させています」


 その言葉と共にツチヤ君が右手を高く上げると、空から縄梯子が落ちてきた。上を見ると、サイレンス装備を施された小型ヘリが浮かんでいる。


「後を任せていい?」

「事故を起こしてしまった以上、現場検証が必要ですので」

 ツチヤ君は事務的に答えた。

「それじゃ、行ってくる」

「代表。本当にお一人で?」

「妹の出迎えなら、兄が一人いれば十分だよ」


 それが最適解だった。大勢を引き連れていくわけにはいかない。公権力は拒否されるだろう。僕の目的は逮捕ではないのだ。限定された世界の平和を訴えるつもりもない。


 ヘリに乗り込む。運転手は知った顔だった。サンダというベテランの社員だ。ツチヤ君に言われて叩き起こされたのだろう、可哀そうに。


「目的地はどちらで?」

「一度、通信で部屋を使いたい。そのあとでジェット機に乗る、と思う。両立できそうなところ」

「会社の敷地からは遠いですね。通信が公共ラインで良けりゃあ空港です」


 オーケーを返すと、ヘリが進路を変えた。独特の浮遊感に身体が引っ張られそうになって壁に手をつく。こういうアトラクションは苦手な方だ。


「航空会社はうちの系列?」

「2社は直系。航空機リース含めりゃ5社は系列ですよ」

「1機、丸々使いたい。すぐに発着できる状態にできる?」

「一般客の予約が入ってますから難しいでしょう。2時間もらえるなら本社から整備したのをよこせると思いますが」

「ダメだ、時間が惜しい。1機でいいんだ。全席僕が上乗せ5倍で予約するから、キャンセルしてもらってくれ。退かないならその2時間後のプライベートジェットで運べばいい」

「代表のそういう無茶って、ツチヤさんの担当なんすけどね」


 サンダは力なく笑った。走行が安定するとオートに切り替わり、彼は耳の裏に手を当てて航空会社とやり合い始めた。横で聞いていると、確かにツチヤ君の方がスマートだった。彼女は怒鳴ったり「しょうがねぇだろ」と叫んだり娘の学費を稼ぐためだと泣き落としを使ったりはしない。


 コール。


 ナイトウからだ。


――今どこにいるんです!


 怒っている。当たり前だ。


「これから妹を返してもらいに行く。公安君たちが来ると警戒されるから、一緒には行けない。ごめん」


――犯人が誰か見当が付いているということですか? 何故我々に教えてくださらないんですか!?


「確定したわけじゃない。でも確信はしている」


 ツチヤ君から受け取ったリストを見て、行動する決心がついた。


――私には貴方を守る義務があるんです!


「大丈夫だよ。殺されはしない」


――どうして分かるんですか。


「うーん、勘かなぁ」


――ふざけないでください! すぐに追いかけます!


「僕の位置情報を追えたとしても、多分一時間以内にまた移動すると思う。落ち着いたら、僕から連絡するよ。それじゃ」


 何か言いかけたナイトウを遮って、コールを切った。

 次に会う時は平手打ちぐらいでは済まないかもしれないな、と思う。

 次があれば、だけれど。


 始発の便が出る前だけあって空港にいる人間はまばらだった。いたとしても、ロビーに集まっているから、上空から見える範囲ではロボットの方が多い。肉体的な移動を伴う用事が減っているので、フライトに出向く人間も減少傾向にある。


 出入口前を強引にランデブーポイントに指定してヘリから降りた。

 白いスーツを着た男性が直立している。


「お初にお目にかかります、施設長のイシカワです」

「突然申し訳ない。一部屋、通信設備付きの部屋を貸してください」


 運転手から要求は伝わっているはずだが、一応僕からも口頭で伝えた。無理を通して話がこじれるのが一番のリスクだ。


「代表が緊急のご用件とあらば……、外交用の通路がありますので、そちらに一室準備させております」


 お礼を言って、イシカワに案内されて中央通路を歩いた。まだ多くのショップがシャッターを閉じている。ガラス張りのラウンジで何人か寝ているのが見えた。


「こちらに」


 イシカワが掌をかざすと、壁だと思っていた部分が左右に開き、中から通路が出現した。国賓や外交官向けの秘密ルートだ。存在は知っていたが、実際に見るのは初めてだった。


「部屋は奥にありますか?」

「途中、右手にございます。すぐ分かるかと」

「ありがとう。ここからは僕一人で大丈夫です。通信が終わったら、また指示を出すので、誰か待機させておいてください」

「かしこまりました。引き続き、私がその役を承ります」


 イシカワを扉の前において、僕は扉の中に入った。通路はなだらかにカーブしている。構造上スペースを取りすぎないように工夫した結果、そういうデザインになったのだろう。細い反面、天井は異様に高い。


 しばらく歩くと、言われた通り小部屋があった。

 ノブを回し、中に入ると見覚えのある配置だと分かる。

 黒い革張りのソファに、ガラステーブル。

 色や材質は違ったが、座標は公安や軍の基地にあった部屋と同じだ。統一規格なのだろう。

 使われていない部屋のわりに、埃一つ落ちていない。


 ソファに座り、ガラステーブルを指で二回叩く。出現したARアイコンを見つめて電源を入れ、ネットワークに繋いだ。


 インプラントが流行る前は、皆こうしてハードに頼っていた。今では隅に追いやられがちだが、宗教と身体的な理由でインプラントが入っていない人間も多いので、公益性の高い施設ではこの手のハードは標準装備されている。

 

 僕のアカウントでログイン。

 管理画面でセキュリティを目いっぱい下げてやった。

 検索ウィンドゥを開く。


 真っ白い壁紙の右上に、ゴルプレックス社のロゴが置かれている。会社自体はどこでも良かった。単にシンプルなのが気に入って、僕がよく使っているだけだ。カーソルを合わせると、「何を検索しますか?」というメッセージが浮かんだ。 


 入力。

≪誰がウイルスを作成したのか?≫

 結果。

 コンピュータウイルスの紹介。次は戦争の概略をまとめたページが表示された。コンピュータに期待しているわけではない。入力内容をデリート。


 入力。

≪誰が時間を進めなければならなかったのか?≫

 結果。

 知らないミュージシャンの歌詞集。時間の定義についての解説。偉人の名言が並ぶ。入力内容をデリート。


 入力。

≪犯人の名前は?≫

 結果。

 ミステリのネタ晴らしサイト。近いタイトルの映画記事。コンテンツの批評。もしこんな方法で本当に表示されたら面白い。入力内容をデリート。


 入力。

≪犯人の名前は、××××××××××≫

 エンターを押す。

 結果。入力した人物の略歴が表示された。顔写真も出ている。

 入力内容をデリート。


 あとは待つだけだ。

 僕は部屋のソファにもたれて、ゆっくりと息を吐いた。


 深淵を覗く時、深淵もまた等しくこちらを見返している。妹の引用を思い出す。あれには前段がある。怪物と戦う者は、自らもまた怪物とならぬように心せよ。これから対峙する相手は紛れもなく天才だが、僕は天才にはなれない。その点だけは安心していられる。


 目を瞑って、呼吸を意識する。

 心臓の鼓動が早まっているのが分かった。

 空港のアナウンスが残響の様に聞こえてくる。

 どれぐらい経ったのか。

 静寂に包まれて時間の感覚が曖昧になっていく。

 

 ピコンという電子音が鳴り、目を開いた。

 誰かが部屋を同期した。


 部屋全体がスクリーンの様になって、視界の映像が二重になる。

 やがて僕の対面に、人の姿をしたものが形を成していった。設備が古いせいか立体映像の解像度は少し低い。あちらは夜なのか、それとも照明を落としているのか、影がそこにいるように見える。


「やはり、貴方だったんですね」


 僕は立体映像の人物に語り掛けた。


 そこにいるわけではない影は、ゆっくりと頷いた。

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