6.永遠のタクティクス

6.1 行かなければならない

 部屋はしんとしていた。


 今、互いの部屋の境界は溶け合い、一つの部屋として融合を果たしている。相手の側は暗がりに包まれていた。


 何から話すべきだろうか。僕は言葉を選びあぐねていた。相手は待っている。表情はよく見えない。


「一体どれぐらいの間、研究を続けていたんですか?」

「とても長い間」影が答える。


「何故、私だと?」

「最初は、貴方がナチュラルではないと疑っただけでした。シリカさんのパスタソースを口に入れなかったのは、単純にシリカさんが料理上手でないことを知っていたからという可能性もあった」

「……そう。よく分かったわね、そんなこと」

「赤いパスタソースの材料には、唐辛子もあったんです。全部が甘くて濃厚だったと仰られたので、嘘をついていると思いました」


 パプリカもピーマンもトウガラシも、全てナス科トウガラシ族だ。切り刻まれていたとはいえ、ソースに混ざってもそれなりに辛かった。


「ああ、あれは赤いパプリカではなかったの」


 彼女の車椅子が見えた。そして、すぐに補正を受けてソファに溶け込む。通信が安定したのか、立体映像が鮮明になっていく。


 クリスティナ女史は、皺の刻まれた顔で上品に笑った。


「シリカには悪いことをしたわ」

「αになる手術を受けたのは、肺癌が見つかった時ですね?」


「ええ、そう」昔話を語るように、クリスティナ女史は目を細めた。

「私は死ぬわけにはいかなかった。あと少しで辿り着けると確信していたから」


 ツチヤ君に取り寄せてもらったαの手術リストを、視界に映し出す。履歴には何の偽装もされず、そのままクリスティナ女史の名前が載っていた。


「僕も同じように考えました。α細胞に頼りたくないと主張していた貴方が、息子夫婦に隠してまでこっそりと延命した理由は何か、と」


 寿命で死ぬ予定だった。けれど、死ぬわけにはいかない理由がある。その狭間でクリスティナ女史は揺れたはずだ。そして、最後には延命を受け入れた。元々世界一裕福な女性だ。ほとんどを息子に譲っても、財源は幾らでもあっただろう。


「復讐だったのですか?」

「最初はね、それもあったような気がするけれど、今では何もかも遠くにあるような気がして」


 クリスティナ女史はゆっくりと語る。遠い昔にいたかつての自分の幻影を追うように虚空を眺めながら。


「私はね、寂しかったの」


 クリスティナ女史は語り始めた。


「夫はいなくなって、セドリックはまだ小さくて、政府の人間が毎日やってきて私にサインをさせたわ。あの人が残した研究の成果は世紀の大発見だと言われたけれど、当時の私には何が何だか分からなかった」


 枯れ枝のような腕を伸ばして、自身の頬に触れる。

 懐かしい思い出を撫でるように。


「あれよあれよという間に、私はこの国で一番のお金持ちになっていた。大きなお屋敷に住んで、美味しいものを食べて、着飾って、毎日パーティを開いたの。今思えば、心の穴を埋めようとしていたのね」

「でも、すぐに虚しくなった」


 僕が続きを言うと、恍惚に囚われていたクリスティナ女史の表情が曇った。


「そう。長くは続かなかった。何もかも嫌になって、このまま死んでしまおうって何回思ったか分からないぐらい。消えてなくならないでいられたのは、セドリックがいたからよ」


 今はロイドもそうね、とクリスティナ女史は言った。


「ある日、イベントの開会式での挨拶を頼まれてね、あちこちに出資していたから立場上断り切れなくて、原稿を考えていた時に思ったの。『夫たちの偉大な功績により』ってフレーズ、何回言ったか覚えていないけど、私はその内容を何も知らないままだなぁ、って」

「一から始めたのですね」

「一どころかマイナスからよぉ。それはもう、そちらの分野に興味なんて全くなかったし、ハイスクールの時の理系の成績なんて本当に酷かったんだから。あ、お分かりかしら、ハイスクールって概念」

「大丈夫です」


 映画で見たことがある、とは言わないでおいた。


「次の日にハイスクール時代の教科書を探したんだけど、とっくの昔に捨ててしまっていたから、新しいのを買いなおして、読み始めたの。それが第一歩」


 大豪邸の窓辺で、教科書に悪戦苦闘する若き日のクリスティナ女史を想像した。

逆算すると、まだ三十代だったことになる。そこからずっと、着実に彼女は歩き続けたのだ。かつて天才が飛躍した場所へ。


「昔あの人がいっていた意味の分からないジョークがふとした拍子に理解できて、洗濯物を洗う順番に口答えした理由だとか、夜中にうなされていた寝言の中身だとか、あの人が蔵書に落書きしていた記号だとか、あれはああいう意味だったんだって、学べば学ぶほど思い出が深まって、世界は広がっていったわ」


 彼女の資本が入った研究所が世界中にあるのだろう。自らの夫が関わった分野に出資することに誰も違和感を抱かない。出資者であり、ただの妻であったはずのクリスティナ女史が、物静かな研究者として入り込んだとしても。


「私は他の研究者たちよりも、ほんの少しだけ有利な立場にあった。なにせ夫やオノデラさんの研究室を実際に訪れたこともあったから、公式の論文も情報も偽装だという事が早い段階で分かったの。世界中から他の研究者たちの成果を集められたし、自前の設備で再現実験を繰り返すだけの財源も無尽蔵にあった」

「再現に成功したのはいつですか」

「半年ほど前に。そのままウイルスも作成したわ。パーティに来ていた頃から付き合いのあった友人たちは、私の意思を尊重してくれた」


 パーティメンバーは年月を重ね、製薬会社のフィクサーに、通信会社のCEOに、中東の力のある王族になっていたわけだ。元々α細胞が表向きになった混乱期に、内部に入り込み投資を重ねた人間たちなので、先見の明があったのだろう。そして、だからこそクリスティナ女史と同じように、終わりなき大富豪の憂鬱を共有できる。


「貴方の脱出劇、見ていたわ。随分とまぁ大胆なことしたものね」


 くすくすとクリスティナ女史が笑う。刻まれた皺が更に深くなって、緩んだ皮膚が収縮していた。


「私が知らんぷりしていたら、どうするつもりだったの?」

「応えてくれると思っていたので」僕は肩を竦めた。

「貴方の手術記録をセドリック氏に送るぐらいでしょうか。そうしたら、ここに座っていたのはセドリック氏になっていたでしょうね」


 それが描かれていた未来だったはず。


「あの子は迷っていました。貴方の方が勇気があった」

「それは違います。妹の事がなければ、僕は行動しなかった。全て状況証拠と推測ですし、リストを取り寄せて確認さえしなかったと思います」


 我に返ると前のめりになっている自分がいて、深呼吸しながら身体をソファに戻した。脳が興奮しているのが分かる。


「……妹は元気にしていますか?」

「ええ、私の学術的信念に誓って傷一つありません。とても可愛くて、無口な子ね。貴方もそうだけれど、オノデラ博士にそっくり」


 安堵と同時に息が漏れた。


「あの子は本物の天才ね。私なんかとは異次元。歳月の中で錆びたピースを搔き集めて、もうほとんど私の寸前にまで迫っていました」

「確信していたと思いますよ。多分」


 すでに証拠固めの段階に入っていたと僕は推測している。ルームサービスの皿には、ナイフとフォークが直角に重ねられていた。あの十字は、電子的なメッセージを残せなかった妹の置き土産だとすぐに分かった。<食事>において強制され続けたマナーの中に、食器をあんな風に扱うものはない。ギリシャ料理に残された十字架が、キリスト教徒christianosを指していると理解したから、僕は行動したのだ。


「それでも、貴方と妹に差があると僕には思えません。貴方は十分に天才だ。誰も追いつくことができなかった、そして今なお誰も追いつくことができないでいる場所に、貴方は立っている」

「こんなお婆ちゃんを褒めたって、何も出やしませんよ」

「いいえ、出してもらわないと困るんです。僕は妹を返してもらいに来た」


 僕はクリスティナ女史を真っすぐに見た。睨んでいたかもしれない。目の前の老婆は車椅子に両肘をかけ、目を瞑っていた。


「見返りとして、貴方が希望する期間、公安に情報を提供しません。それで貴方の目的は達成されるはずだ」

「そう。そこまで分かっているの」

「分かっているのは、貴方が時間を必要としていることだけです。それでも、その間ずっと、妹は拘束されることになる」


 今、どこにいて、何を思っているのだろうか。


「僕には妹の不安を早急に取り除く義務があります」

「遺言状に書いてあったかしら?」

「どちらでもいいことです。家族なら当然の事だ」

「そうね」クリスティナ女史は頷いた。


「オノデラ博士は几帳面な人だったわ。主人は神経質すぎるとよくボヤいていたけど、あの方なりに理想を追い求めて、貴方たちに規範を残そうとなさった。愛情や道徳を説こうとしたら、あんな論文めいたものが出来上がってしまったようだけれど」

「【遺言状】ができた経緯を知っているのですか?」


 僕は驚いて立ち上がった。物心ついた時、あれは既に完成されていた。


「そりゃあ、書かれていた時にお茶を出してあげましたからね。何を書いていらっしゃるの、と聞いたら、教育論だとか道徳論だとかこの世界の大切なもの全てですと言われて、色々悩んでいらしたわよ」

「そうなんですか……」

「あれは遺言状というより、理想論よ。子供たちがこうあってほしい、という願い。本来なら何てことはないものだと処理されたはずのもの。α細胞が生み出す巨万の社会価値が、その存在と意味と歪めてしまっただけ」


 魂が抜けたような気がした。

 振動があってから、自分が座りなおしたのだと分かる。意識と肉体が分離している感覚があった。


 あれが理想論?

 あの定義と解釈と注釈の混沌が、この世の大切なもの全て?

 クリスティナ女史は白髪をかきあげた。たるんだ瞼の奥にある目が僕を見る。


「貴方の要求を飲みます。そうね、あと二週間、いえ、10日でいいわ。それだけあれば間に合うと思うから」


 あっさりとした回答だった。僕は肩透かしをくらった気分で「はい」と返事をした。


「西海岸に避暑につかう別荘があるの。オフラインだけれど、それ以外は快適な環境だと思うから、そこで過ごしていて頂戴。10日後の正午になったら、自由にしていただいて結構です」

「分かりました。妹は今そこに?」

「ええ。退屈そうにしているわ」


 制限された環境ですらネットの世界に浸りきっていた妹が、いきなり全てのオンラインを取り上げられたらそうもなるだろう。禁断症状が出ていそうだ。


 僕は腰を上げた。ずっと影になっていたが、角度を変えると、クリスティナ女史の側にある立体映像は彼女の書斎から投影されていることが分かった。僕が動いたのに呼応して、データが送られてくる。別荘の位置情報だろう。


「僕が裏切って、これを公安に渡すとは考えないんですね」

「貴方が私を信頼したように、私も貴方を信頼します。妹さんに危害が加わる可能性が増えるようなことを、しないと思ったから。それに」

「それに、何です?」

「貴方の時間は、私が忠告するまでもなく、進んでいる」


 一瞬、何を言われているのか分からなかった。それからTIME MUST GOのメッセージを思い出し、その意味を理解した。α細胞の再現不可能性に頼った利権構造が終わりを告げる以上、僕もセドリック氏も以前のような絶大な基盤の上に胡坐をかいてはいられない。何もしなければ静かに朽ちていくだろう。


「セドリック氏にも同じメッセージを送りましたか?」

「ええ。あの子も、何とか前に進もうとしているのは分かるけれど、どうにも保守的に見えてしまって、ダメね、家族の事となると目が曇ってしまうの」

「僕が言うのもなんですが、それが自然だと思いますよ」


 近しいものに対しては、道徳だとか公平さだとかいった万遍なく適用されるルールを簡単に逸脱してしまう。それは目の前の獲物を過大評価して、食うために命を懸けなければ飢えてしまう動物的な本能に近い。システマティックにあらゆる状況で均一な判断を下せるのは、むしろ機械的と言えるだろう。いずれも人間的ではない。人間的な判断とは、もっと中途半端なものだ。


「これからすぐに向かいます。飛行機を用意させてあるので」

「準備が良いのねぇ」


 揶揄からかうようにクリスティナ女史は微笑む。


「二時間早く妹の所に着けるなら、不安は二時間分減ることになる。最善を尽くすなら、当然そうします。例えばロイド君が攫われたなら、貴方も同じことをするはずだ」

「そうね。その通りだわ」


 これもまた、近しい者のために価値判断が揺れ動いた結果だ。AIならば、たった二時間の不安解消のために、それだけの社会価値を見積もることはない。


「それでは、僕は行きます」

「楽しい時間だったわ。何だか肩の荷が下りたみたい」

「それは良かった」


 通信が切られて車椅子の老婆が消えていく。

 重なっていた立体映像の背景が溶け、元の無機質な部屋が姿を取り戻した。向かい側のソファに凹みはなく、誰もいなかったかのような錯覚を覚える。壁越しに空港のアナウンスが僅かに聞こえてきて、自分が今立っている場所がどこかを思い出した。


 部屋を出て通路を逆行する。

 ここから先は誰にも見つかるわけにはいかない。


 通信はオフにしたものの、空港内はセキュリティの宝庫だ。タイムラグはあるが、顔が監視カメラに映るだけで画像認識で即座に特定されてしまうだろう。そうなれば追跡される可能性が高まる。


 隠し扉を開け、外の様子を伺うと律儀なことにイシカワは扉の外で直立して待ってくれていた。僕を見つけて、威厳のある顔をパッと明るくさせた。


「お疲れ様でございます、代表」

「ありがとう。飛行機の用意は?」

「はい。既に離陸できる準備が終わっております」


 答えに満足したが、そのまま出ていくわけにはいかない。扉から半身を出した状態で周囲を伺うと、自動販売機の補充ロボットを見つけた。飲料の入った段ボールを運んでいる。


「イシカワ。空港スタッフに迷惑をかけたからジュースを奢りたいんだけど、協力してくれるかな」

「ええ勿論。代表のお心遣いに感謝いたします」

「じゃあ、早速あの子を捕まえてきてくれないか」


 僕が補充ロボットを指をさすと、イシカワは「はぁ」と気の抜けた返事をした。

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