1.2 眠らなければならない

 クッションに埋まる。


 うずくまっている時間はもらえなかった。すぐさま車の助手席に押し込まれ、タイヤが金切り声をあげて発進した。


「手動で運転するの?」

「オートパイロットは法定速度を守りますから」


 公務員にあるまじき発言だが、それだけ非常事態ということらしい。


 輸送車たちに緊急ブレーキを強制しながらドライブが始まった。途中、危険運転の警告通信が入ったが、彼女が何かしらのコードを返すと機械音声が途切れて何も言われなくなった。


「このまま安全な建物に入ります」

「そろそろ説明してもらえませんか。一体どうして、こんな事になっているんです」


 そこでようやく、僕は彼女が怪我をしていることに気付いた。


 さっきの爆発で負傷したのか。


 助手席からでは見えなかったが、右脇腹のあたりから血が滲み出ていた。


「あの、大丈夫ですか?」

「ええ、どうにか」


 ナイトウの表情は変わらない。精神力なのか、あるいは痛覚を低減しているのかもしれない。怪我の度合いは深いように見えた。


 呼吸が荒いのを隠せていない。


「運転変わりましょうか?」

「ご心配なく。それに免許を持っていないでしょう」


 調査したのだろうか。よく知っているな、と感心した。


「免許がなくても運転はできますよ」

「免許がなければ、運転はできません。ドライバー登録が通らない」

「ダミーアカウントがあります」

「それでも駄目です」


 ナイトウは意見を変えなかった。


 彼女の片眼鏡の淵に備えられたランプが、ずっと点灯している。専用通信なのだろう。恐らく片眼鏡越しに仲間からルートの指示を受けているのだ。


「狙われているのは、オノデラさんの遺伝子情報です」


 僕がした質問を覚えていたらしく、前置きもなくナイトウがそう言った。いつの間にかハンドルから手を放している。


「僕の?」

「正確にはオノデラ博士の子供に適用されたβDNAとその適合情報ですね」


 オノデラの姓で博士なら、それは僕の父親のことだ。


 殺されたのはずっと前で、僕はまだ小さかった。僕に莫大な遺産と幾つかの呪いを残してくれたが、今となっては全てが朧げで、僕にとって父の存在というものは物語的ですらあった。


「僕の父がなにか――」


 言いかけた途中、急な加速度がかかって、シートに押し付けられた。フロントウィンドウに後方の映像が映し出された小窓が開き、ナイトウがそれを睨みつけている。高速運搬用の中型ドローンだ。それも2機。


「しつこいなぁ」


 吐き捨てるようにナイトウが呟く。

 ハンドルが切られて、慌ててシートベルトをした。時速メーターを見ると気分が悪くなる。


 歩道に乗り上げ、スピードを落とさないまま直角に曲がる。

 アクセルはベタ踏みで、ポストやガードレールに何度も接触したが、それでも自動ブレーキは発せられなかった。間違いなく改造車だ。


「追突されたら爆発するんだろうね、きっと」

「ミサイル機構は目視できませんので、恐らくそうです」


 直角にターン。

 一時的に道路を逆走して、小路を抜ける。

 ハンドルを凄い勢いで切りながら、交差点を斜めに横切った。


 そんな追いかけっこの最中にピコンと場違いな電子音が鳴った。

 僕の前のフロントガラスに承認画面が現れる。


 メッセージだ。


 この車のセキュリティだろう。承認リクエストに対して〈メッセージを開きますか?〉と表示されている。


「開いてもいい?」

「お願いします」


 ドローンを経由した、相手側からの通信だろう。


 恐る恐るタップすると、小窓が開いた。


【TIME MUST GO】


 内容はそれだけだった。添付ファイルもアプリケーションもない。


「どういう意味かな」

「舌を噛まないようにしてください」


 返答になっていない。それが警告だと理解した瞬間、車内が大きく揺れた。何かを踏み越えて飛んだのだ。着地の瞬間、頭をサイドガラスに思い切りぶつけた。


 建物の敷地に入ったらしい。物流センターのようだ。追跡してきたドローンの姿は見えない。振り切ったのだろうか。何回か曲がり、倉庫の中に入る。輸送扉を開けたトラックの荷台が待機していて、車ごと乗りこんだ。


 ナイトウは周囲の警戒を怠らなかったが、扉が閉まり車内が真っ暗になると、ようやく安堵したようだった。隣のシートに体重がかかる微弱な振動でそれが分かる。


「もう安全です。このままトラックで車ごと局へ運びます」

「余計目立つのでは?」

「出発時にはデコイを同時に放つ予定です。それに、四六時中ダンボールとコンテナが出入りしていますから、外側から監視することが難しいのです」


 断定的な口調だった。そういうものなのか、と納得するしかない。


「あ、そうだ。僕の安全より、ナイトウさんの治療を優先すべきですよね」

「お気遣い感謝します。局に戻ったら医療室に行くつもりです。外傷はどうにでもなりますが、血を失った方が厄介ですね」


 室内灯の薄明りでもはっきりと分かるぐらい、ナイトウの半身は血に染まっていた。破片が幾つも体内に食い込んでいるはずだ。


「どうにかなるとか、そういう話じゃなくて、僕を庇った結果でしょう。その、ありがとうございました」

「気にしないでください。仕事ですので」


 ナイトウはそう答えて、片眼鏡の位置を直した。


 そう、確かに、命に別状はないのだ。

 前世紀なら、このまま失血死していたかもしれない。


 けれど、人間はそう簡単には死ななくなった。西洋医学の発展というには歪だが、遺伝子工学と再生医療の急速な進化によって、今や肉体の大部分は復元することができる。一部ハイエンドのビリオネアしか知らないことだが、最大の禁忌であり難題であった脳ですら、少々高額ではあるものの、言語野などの部分的なバックアップは可能になっているらしい。その手のセールスは最近全て断っているけれど、僕の耳にも勝手に入ってくる。


 トラックが出発したらしく、車体全体がエンジンに連動して震えた。


 ツチヤ君は無事だろうか。ふと思い立って耳の裏に触れたが、通信は遮断されているらしく繋がらなかった。


「生体通信は控えてください。キャッチされる恐れがあります」

「……これは嫌味じゃないんだけれど、僕のは一般回線じゃない」


 それがポジティブであれネガティブであれ<選ばれた人間>が使用する専用回線で、セキュリティも許容されている検索範囲も一民間人のそれとは異なる。


「それでも、です。基地局がハックされている可能性がありますし、それに」

 ナイトウは少し逡巡してから、僕の目を見た。

「通信社そのものが敵である公算が高いからです」

「敵?」


 その言葉に背筋が寒くなった。もうドローンどころか外の景色すら見えない。荷台の中の、そのまた車の中で、突拍子もない秘密を聞かされているなんて、1時間前は思いもしなかった。


「さっき、その、ナイトウさんが言ったことですが」


 頭を整理しなければ。


 立て続けに巻き起こったイベントで情報が山積みになっていた。情報は雑多に置かれているだけでは、ジャングルと何も変わらない。並べ、仕舞い、揃え、研磨してからインデックスを付けて初めて人間にとって価値が生まれる。


「僕に適用されている遺伝子情報を、通信社が狙う理由がよく分かりません。どこなんですか、ゴルプレックス? ヤンシャオ? インフォバンク?」


 いずれも世界を牛耳る大手通信会社だ。検索サービスから公的教育サイト経営、鉱山開発から人工衛星まで幅広いコングロマリットで、僕のファンドも相応の株式を保有している。


「いずれもが候補です。誘拐あるいは殺害が目的と考えられます」

 さらりと恐ろしいことを言われた。

「その二つは、行動の意味合いが違ってきませんか。誘拐したいなら殺さないでしょうし、殺すぐらいなら誘拐しない」


「相手側の目的が不明瞭なので、あらゆる可能性を想定してお答えしています。どちらの勢力も存在するのです」

「複数の組織に狙われているということ?」

「そうなりますね」


 ナイトウは無表情を貫いていた。きっと明日地球に隕石が飛来すると聞かされても「そうですか」と返すのだろう。


「……いえ、すいません。説明が拙速でした。そのあたりのことは、課長から話があると思われますので、到着してからでお願いします」

 ナイトウのシートが倒れ、彼女は横になった。僕には心配することしかできない。

「到着まで30分程度あります。少し休まれた方がよろしいかと」

「こんな状態で寝ろと言われても」


 気になってそれどころではない。


 訳も分からないままドローンに襲われて、公安を名乗る女性が隣で寝ている状況を黙って受け入れられるほど僕に胆力はない。今更気付いたが、オフラインで稼働するライフログが示すストレス値は、ずっと基準値をオーバーしていた。


 左手で視界に映ったハザードアイコンをフリックすると<状況の改善をAIに相談する>項目が表示された。通信が使えないのでどちらにせよ意味はないのだが、状況の改善をAIに相談したところで、答えは出そうもない。


 答えが出るような事柄は、そもそも問題にならないのだ。

 目を瞑り、今日の事を思い出す。

 送られてきたメッセージはどういう意味なのだろう。


 <TIME MUST GO>


 時間は進まなければならない。

 直訳以外に、読みようがない。

 好むと好まざるとにかかわらず時間は進む。

 抗う方法はない。


 だが、その意味するところに心当たりがないわけではなかった。それは、僕が、というより、この社会が抱えている不満を指している。


 文字通りの意味なら、風船のように膨らんでいる不条理と不平等と不公平に針を刺すことになるはずだ。その結果があのドローンの爆発なのかもしれない。応接室の絨毯が焦げた臭いが脳裏を掠めた。


 往々にして、嫌な予感は楽観的な期待よりも当たるということを僕は経験的に知っている。確かに、こういう時は寝るに限る。でも眠れなかった。


 ナイトウはスリープモードに入ったのだろうか。寝息は聞こえない。そういえば、女性と寝床を共にするのは初めての経験だ。母親すら、赤ん坊の僕の隣にはいなかった。


 横目でちらりとナイトウの様子を伺う。声を掛けたら普通に返事をされそうだが、起こしてしまうかもしれない。彼女は寝ているようにも死んでいるようにも見えた。


 両者の違いは、彼女が再び覚醒し、生きたコミュニケーションができる可能性の有無だろう。その可能性に賭けて、僕は彼女の横顔を眺めていた。

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