1.存在のインスタンス

1.1 逃げなければならない

 【遺言状】

 1.<財産>の<相続人>は、以下の全項目を<遵守>しなければならない。

 (中略)

 3.2 <家族>は<定期的>に<食事>を<共に>しなければならない。

 ※ 記号<>で区切られた字句の定義・解釈は、指定弁護士法人・監査法人及び資産管理財団の総合的判断をもって別に定めるものとする。


   *   *   *   *


 屋上が好きだ。


 僕が人である限り、もう上には行けない。その限界を教えられている気がする。増築すればもう少し高くなるかもしれないが、このビルの構造的な余力は多く残されていない。


 それでも、近隣に僕のビルより高い建造物はないので、中心に立って空を仰げば視界はプログラマーが卒倒しそうな一面の青空ブルースクリーンになる。目を瞑れば暗闇、見開けば青。それ以外は何もない。世界が5分前に誕生したのだとしても、アフリカ大陸が実は存在しなくても、僕の脳が水槽の中にあったとしても、僕の前に現れたものは揺るがない。


「何も落ちてはきませんよ」


 声がして首を横に向けると、ロングスカートが見えた。施されたフリルが風になびいている。僕の周囲でメイド服なんて酔狂なファッションを好んで着用する人物は一人しかいない。秘書のツチヤ君だ。


「空が落ちてくるかも」

「そのヘルメットなら防げるのですか?」

「うーん、送り主に訊いてみたいところだけど」


 何も答えてはくれないだろう。

 被っていた白いヘルメットを撫でると、手の重量が首に感じられた。


「メッセージ性を考慮するなら、何かから身を守れ、ってことだよね」

「ファッションアイテムという線もあります」

「似合ってる?」

「いえ、まったく」


 正直な秘書である。緊急連絡でいきなり呼びつけたから機嫌が悪いのかもしれない。妹が喋るという事件性については彼女も納得済みのはずだが、だからこそ箱を開けた中身に肩透かしをくらい、エネルギーの行き場を探しているのだろう。


 なにしろ、箱を開ける直前までは中身が爆弾かもしれないという緊迫感さえあったのだ。金属探知機にヒットしなくても、プラスチック爆弾の可能性は考慮すべきだと最後まで主張して机の陰に隠れていたのもツチヤ君だった。


「X線検査でも何も見つけられないから、やっぱり、ただのヘルメットかな」

「一応、市販品よりは高性能です。繊維強化型は陸軍にも採用されています」


「入手ルートは調べてくれた?」

「はい。下請けにある製造部門に、直接メールを送られています。スズ様が本気で隠されるおつもりなら我々の調査如きで露見することはありえませんので、この点に大した意味はないかと」

「隠していないなら、そうだろうね」


 妹が気になれば、僕の会社のシステム全体をダウンさせることだって容易だろう。妨害しないということは、必要がないということに等しい。


「行き詰まりだな。なんでこんなものを……?」


 言いながら、ヘルメットを深く被る。グッと押し込めば、視界を遮ることができた。ヘルメットの内側と前髪に隠れて、何も見えない。外から見たら旧式のアンドロイドに見えるかもしれない。しばらくそうしているとツチヤ君の声が聞こえた。


「現実逃避は止めて、現実に戻っていただけますか」

「現実逃避は現実でしかできないから、極めて現実的な行為じゃないかな」

「屁理屈はいいですから、仕事が溜まっています」


 相変わらず刺々しい。まぁ、だからこそ秘書に選んだのだけれど。


 十全な業務遂行こそが彼女にとっての主人であり、生き甲斐なのだ。そういう宗教なのかもしれない。ご神体はきっと、経費削減で存在しないのだろう。


「僕がいなくてもシステムは動くよ。というか、僕がいなければいけない状況の方が、よっぽど最悪だ。」

「理由になっていません。管理者なのですから、他のスタッフに示しがつきません。モチベーションの低下は、効率を下げます」


 効率を持ち出すならその服装はどうなんだ、と思わなくもなかったが指摘はしない。僕の会社の服飾規則を自由と定めたのは、他ならぬ僕自身だ。


「管理しなくてもいいシステムを作るのが、管理者の仕事なんだけどね」


 言いながら身体を起こした。あまり機嫌を損ねると後が怖い。


 耳の裏に触れてサーバに繋いだ。


 ネットワークが開き、稼働状況を表すグラフとチャートが視界に現れる。今年は気温が例年より低いので、トマトの回転率が悪い。食物繊維バーは順調。パプリカは前年比13%の伸び。7階の出荷用コンテナは交換中につき、迂回経路を組んでいるがペースに問題なし。特に目新しい情報はなかった。


 空撮用のドローンから、外からビルを見た映像を表示させた。遺伝子の二重螺旋を模したガラス張りのツインタワーは、今日も良好に稼働している。作物の成熟度合いによって階層を移動させて、グラデーションを維持している。


「わざわざ来たってことは、他に理由があるわけだ」

「素晴らしいご推察に感服いたします」


 皮肉が多量に含まれた微笑だった。普段から発揮してほしいと言いたげだ。


 僕は立ち上がり、歩き始めた。階下に向かいながら話を聞くことにする。ツチヤ君は新品と思しきハイヒールのまま器用に階段を降り、後をついてきた。


「アポイントはないのですが、お客様がお見えです」

「へぇ」


 エレベータの中でそう言われて驚いた。非常に珍しい。通信を使わずに直接来訪するのが極めてコストのかかる行為だし、何よりアポイントがないにも拘らず、彼女がお客様として扱っている点が異例といえる。僕への態度から感じ取れる限り、面倒な思想団体の類でもなさそうだった。


 誰、というよりも、どういう組織だろう。


 想像力を膨らませながら僕は応接室の扉を開けた。


   *   *   *   *


「初めまして。オノデラ・クロムさん、ですね」


 応接用のソファの後ろに女性が立っていた。厳密には女性の外見をした人間、といったところまでしか分からない。黒い髪を斜めに切りそろえ、片眼鏡モノクルの奥にある瞳は紅い。人種はアジア系に見えるが、ハーフなのかもしれない。この程度の造形は費用の問題にすぎないので、あまり当てにはならないけれど。


「ええ、その通りです」


 扉の前で、そう応じた。応答と同時に、通信認証と秘密保持契約NDAが飛んできたので、視界にオーバレイされたアイコンに視線を合わせてサインを返す。仰々しい挨拶をしないところには好感が持てるが、それ以上に彼女には有無を言わさぬ鋭さがあった。


「確認が取れました。公安局のナイトウと申します。事情は後ほど説明しますので、ご同行願います」


「コーアン?」

 馴染みのない言葉で、頭の中での変換に時間がかかった。

「待ってください。まだ仕事が残っていて、その、何というか、忙しい身でして」

 後ろに立っているツチヤ君の表情は見えなかったが、きっと賛同してくれているに違いない。


「一刻を争うのです。今、この状況が、既に危険に晒されていると言えます」


 嘘をついているようには見えなかった。けれど、信じられるかどうかは別だ。ここは僕の所有する本社ビル兼趣味で運営している植物工場で、27階の役員用応接室だ。入口のセキュリティは万全だし、何よりも平和を脅かされるような覚えがない。


「何か誤解されているんじゃないでしょうか。僕にそれ程の価値はありませんよ」

 正直な意見だった。降参のジェスチャをとり、手をひらひらさせてみる。

「ご謙遜を」


 ナイトウは人形のような笑みを作った。マナーとしてだろう。明らかな作り笑いだったが不快ではない。本気で区別ができない相手より好ましくはある。


「社会的に価値があるのは僕個人ではなく、僕に帰属したものですから」

 初対面の相手に対して自嘲的すぎたかもしれないな、と一瞬反省したが、すぐにどうでもいいと思い直す。この手のモラトリアムについては僕の中で処理済みだった。

「兎に角、直ぐに出ましょう。ここは狙われやすい」


 ナイトウはガラス張りの壁を気にしているようだった。警戒していたから最初から立っていたらしい。応接ロボットが運んできたのであろうコーヒーが、寂しそうにテーブルの真ん中に置かれている。


「まさか、27階ですよ。じゃあ例えば――」

 扉の位置から、外の景色を眺める。工業地帯特有のデザインビルが立ち並び、その隙間を縫うようにして配送用のドローンが飛び回っていた。

「あのドローンたちが襲ってくるとでも言うんです

「十分に可能性があります」 


 一番近くのビルを横切るドローンを指さした。すると、風に煽られたのだろうか、ドローンは揺れて高度を落とし、軌道を変えた。


 大きくカーブを描きながら、こちらに近づいている。


 徐々に大きく見えてくる。


「伏せて!」


 いきなり突き飛ばされて、僕は廊下に転がった。


 ガラスが割れる音。


 その直後、轟音と激しい振動が感覚を埋め尽くす。


 理解が追い付かない。


 気が付くと上にナイトウが覆いかぶさっていた。


 柔らかい感触が伝わってくる。


 ツチヤ君は無事だろうか。


 粉塵で視界が悪い。


 焦げた臭いがした。


 室内で燃焼しやすい物質は絨毯とカーテンぐらいだ。位置関係から考えて燃えているのは絨毯のはず。


「逃げます。走ってください」


 思い切り腕を引っ張られて無理やり立たされた。猛然と廊下を突っ切るナイトウを追いかけるのがやっとだった。全力疾走なんてしたのは何年ぶりだろう。


「待って、そっちはエレベータと逆方向ですよ」

「火災用の脱出経路があるでしょう。あれを使います」


 予め調査されていたとしか思えないスピーディな判断だった。年に一度の管理者義務で記憶にはあったが、実際に使ったことはない。ナイトウは当然のように非常用のハッチを開け、準備を進めていた。窓から筒状になったスライダーが落とされる。


 5階からの非常訓練ですら、スタッフはじゃんけんで負けた奴が罰ゲームとしてやらされていたのだ。27階なんて正気の沙汰じゃない。


「さ、来てください」

「待ってください、これは、あ、そうだツチヤ君を助けないと」

「彼女はターゲットではありません。こうした事態を想定して、ヘルメットを装着していたのでは?」

「ああ、いえ、これはただのプレゼントで」

「プレゼント?」

「ああ、いいんです忘れてください」


 これか。このために、贈られたのか。


 だとしたら、もっとマシな方法があったはずだ。


「下にクッションがありますから。多少角度がきつい滑り台だと思えば問題ありません」


 問題の有無を勝手に決めないでほしい、と文句を言う余裕すらなく、強引に腕を引かれて僕はスライダーへと飛び込んだ。


 滑る、というより落下だった。


 子供のころ、悪の組織と戦うヒーローが秘密基地からこういうチューブのようなものを通ってマシンに乗り込む映像を見たことがある。怪人は基地から遠い場所にいるのだから、あんな無駄な設計は止めて、皆でエレベータに乗って駆け足で整備場に行けばいいのに、と疑問に感じたことを走馬灯の中で思い出した。

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