完全になめらかなパプリカ/Can cells need numerical public α?

杞戸 憂器

プロローグ

 生きていることを、いつも忘れている。


 椅子に座っている時に大地の存在を意識しないように、夢を見ている時にこれが夢だと気付かないように、自明の前提として、常に、すでに、僕は生きていて、ふとした時にそれを思い出す。


 パン切ナイフが落ちて、高い音が鳴り響いた。機体が揺れたのだ。

 触れることはなかったが、落下した刃物への認識が僕に危険を連想させ、ああ、そういえば生きているんだったと思わせてくれる。


 その程度の刺激でしか実感を得られないぐらい平坦な生活を強いられている、ということだろう。これは自虐ではなく、単なる事実だ。ナイフは後ろに控えていた給仕ロボットが回収して、新しいものを出してくれた。もうパンを食べるつもりはなかったのだけれど、親切なプログラムに敬意を表して笑顔で受け取った。


 対面に座っている相手は、そんな僕の様子を意に介さず、培養された名前のない動物の肉を一切れずつ口に運んでいる。きっと、いきなりテーブルクロスを引き抜いても、僕の頭が突然爆発しても、興味を示すことはないだろう。向こうにとっては立体映像なので、服が汚れる心配もない。


 そう思っていた。

 これまでもそう思ってきたし、今後もそう思い続けるはずだった。

 だが、僕の予想はいじわるな数列クイズのように、簡単に打ち砕かれた。


「プレゼントを贈っておいたから、帰ったら開けておいて」


 声がした。

 僕は一瞬、それが人間の声だと認識できなかった。

 この時の僕の驚きは、世界中で僕にしか理解できないだろう。


 なにせ、妹が喋ったのだ。


 いつ以来だろうか。最後に会話した記憶はもう霞んでしまっている。

 声が出せないわけではない。ただ僕と妹が唯一顔を合わせる、正確には、合わせ

なければならない<食事>の最中において、凡そ会話というものは存在しなかった。


 テーブルの上に並ぶ物を適切な順序で、適切な作法で、適切な時間で胃の中に運ぶ。僕にとってそれは儀式のようなものだった。

 昔は僕から喋りかけていたような気もする。全く反応がないので、いつしか止めてしまった。


 「あ」と反射的に声を出して、次の言葉を考える。

 あまりにも突然で、何を言うべきか分からなかった。


 プレゼント? 僕に?

 僕の誕生日からは半年ずれている。開けるということは物体が包装されているのか。データではない。ファイルを開くという表現は可能だが、それなら帰ってからという時間と場所の制約は必要ないはずだ。従って、恐らく物質。


「何かな」


 何故かな、とも聞きたかった。どうして、とも。


 心臓の鼓動が早まる。驚愕の反応が、遅れてやってきた。強いストレスが身体に負荷をかけているのが分かる。


 ようやく絞り出した僕の言葉は、テーブル越しに映し出された妹に届いているのかどうか。反応は返ってこなかった。幻だったのか、という妄想が湧くほどに、何事もなかったかのように妹は<食事>を続行していた。


 絹糸のような黒髪の狭間に、僕によく似た顔がある。


 <食事>の最中に、妹の顔を見るのが苦手だった。


 鏡を見ている気分になるのだ。それも、向こうの方が優雅で、洗練されていて、美しい所作で<食事>を実行する。顔を上げるたびに、僕は自分を否定されたように感じてしまう。


 結局、その日の<食事>において、それ以上の発話はなかった。


 妹が何も言わない以上、僕からも無理に求めることはしない。無駄だと知っているからだ。


 デザートのアイスクリームをスプーンで真っ二つに割きながら、僕はぼんやりと考えていた。


 プレゼントの正体について。

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