<食事>②

 僕の身体の一部だった爪が、切り離された瞬間から僕の身体ではなくなるように、かつて仔牛の身体の一部だった肉が、今は切り離されて皿の上に並んでいる。それは培養されたタンパク質を合成した所有格のない肉ではない。かつて生きていた肉だ。


 視界の右下にある食品情報の項目にピントを合わせた。しばらく見つめていると、牧場主の顔写真と仔牛の生前の様子などが表示される。もしゃもしゃと餌を食べているシーンだ。


 他の部位を購入したどこかの誰かが、超可愛い!とコメントを付けていて、それに賛同する声がツリーを成している。これを見て笑顔になれる人間は、どこか猟奇的ですらあると僕は思うのだが、一度も問題になったことはない。愛護を超越した感情を持たざるをえない、という意味なら、僕も賛同したいところだが、きっとそうではないのだろう。


「犯人か有力な手掛かりを見つければ、相当の社会価値を示せる」


 そう言って、一口放り込んだ。


 かつて生きていた肉を咥内で噛み、すり潰し、千切って、飲み込む。血液が滴り、脂身が差し込まれた死骸が舌の上で踊る。


 僕と妹の間には、誓約書が一枚浮かんでいる。


「この捜査のために制限を解除させるから、終わってからも同等のラインまで認められると思う。委員会には僕がそう申請するし、反対もさせない。約束する」


 もっとも、誰からも表立って反対されることはないだろうと僕は見込んでいる。僕以上に、妹の報復を恐れるはずだ。


 妹は黙って<食事>を続けていた。非常時の扱いとしてマナーの徹底は優先度が落とされているのだが、律儀にいつも通りの所作でフォークとナイフを使用している。優雅でも、遅いわけではない。すでにほとんど食べ終わっている。


「頼めないか?」


 無言。今回の<食事>で、現在のところ妹は一度も僕を見ていない。目を伏せ、淡々と儀式を進行していた。


「悪い条件じゃないだろ。自由を獲得できる。社会的な要請でもあるし、怯えているαたちも助けられるよ。感謝されるだろう」


 後半は蛇足だったなと自分で思った。感謝でも呪詛でも興味はないだろう。響かない言葉は全てノイズでしかない。


 僕たちの財産も守られる、とは言わなかった。歪な利権構造の上に立っていることを妹は良しとしていない。その結果として、がんじがらめの制限に縛られている。


 妹に付け入る隙があるとすれば、そこしかない。そして、取引の材料として僕が差し出せるものも、解放のカード一枚だけだ。今にして思えば、ヘルメットを僕に贈ったのは間接的に存在を仄めかすことで、この状況を作り出すためではないかと僕は疑っていた。妹であれば、問題を解決しうるという方向に僕を誘導したかったのではないか。

 

「誰がそうしたいの?」


 僕を見ないまま、妹は呟いた。


 反射的に何か返そうとしたのに、僕の喉は震えなかった。打ち返すボールがない。何が打ち返すボールべきなのか、分からない。


 何故、妹に助力を願い出たのか。


 社会的要請と僕は言ったが、社会は人間ではない。


 遺言状を書いた本人は既に死亡している。


 αたちは妹の能力さえ理解できないだろう。


 妹の誘導も事件ありきでしかない。


 公安は僕の提案に従ったに過ぎない。


 僕は。


 僕は、どうだろうか。


 僕が願っているのか。今を維持することを。


 どれも薄い。


 誰もが分子のように、思い思いに振る舞っている。


 その総体がニューロネットワークを模倣して、社会に意思を付随スーパーヴィーンさせているのなら、要請しているのは誰でもあって、誰でもない。所有格のない意思だ。


「分かったよ。諦める。自分で何とかするよ」


 両手を挙げて降参のポーズを取った。


「どうにかなるさ。一人で保護されていた時より、幾分かマシな状況にはなっているんだ。今はツチヤ君もいるし、ナイトウのことも段々分かってきたしね」


 残っていたポテトサラダをスプーンに全て乗せて一口で平らげる。


「これから、セドリック・ライゼル氏のところに行く。重要な話があるらしい。もしかしたら、あっさり解決できるかもしれない」


 立ち上がり、片手を挙げた。


 終了の合図。


 規定より少しだけ早いが、許容範囲だろう。


 溶け合った部屋の融合が解除され、分離される。


 そうなるはずだった。


 違和感を覚えて、部屋を見回す。何も変わっていない。


「準備をする」


 浮かんでいた誓約書には、妹のサインが済んでいた。

 それだけ言うと、妹は部屋の同期を解除して僕の返事を待たずに消えてしまった。どういう心境の変化だ。まさか、僕の自棄が効いたのか。


 案外、最初からやるつもりだったのかもしれない。条件だけみれば、協力するだけで欲しいものが手に入る、願ってもない話なのだ。


「素直じゃないな」


 空のカップを掲げてコーヒーを注文した。


 社会的要請によるものではない。


 緊張で喉が渇いたからだ。

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