4.有形のプロメテウス

4.1 覚えなければならない

 雲を切り裂いて僕は飛んでいた。


 もちろん、僕自身にジェットエンジンは搭載されていない。飛行機に乗っているという意味だ。客観的には「運ばれている」が正しい。けれど、人間の矜持がそれを許さない。なんていうのは、大袈裟だろうか。


 そんな思考を巡らせたせいで、インプラントが気を利かせて、両足に装備するジェットパーツを視界に掲示してくれた。余計なお世話というやつだが、無視すればすぐに消える。僕の筋肉はナチュラルなので耐熱できずに溶けてしまうだろう。今のところそのあたりは改造する気がない。


「国境を越えた」

「よく分かりますね」


 そう言ってナイトウが耳の裏に触れた。訂正されないということは、当たっていたのだろう。


「アドブロックが効かなくなったから」

「セキュリティで防げるのでは?」

「ライバルの広告を見るのも、まぁ仕事のうちだよ」


 それからしばらくの沈黙。


 さっきからこういう単発の情報交換しか行われていない。研究所行きの飛行機ではチョウ博士がいたので何とかなったけれど、基本的に無口な人間が集まると静寂が機内で膨らんで押しつぶされそうになる。耐えきれなくなって適当な話題を見つけ、投げては消える。海に石を投げている気分だった。


「お土産、これで足りるかな」

「本気でそれを配るおつもりですか?」

「差し出がましいようですが、もっと相応しいものがあるのでは?」


 ツチヤ君とナイトウが続けざまに言った。これだけのリアクションはフライト以降、初めてのヒットだ。二人の目線は、僕の隣の席に置かれた二つの袋に向いている。


「セドリック氏の方には、当然こっちは渡さないよ。お腹を壊すからね。もっと酷くなるんだっけ? アレルギーの度合いがピンと来ないけど」

「いえ、そういう意味ではなくてですね」


 セドリック氏は父親のα細胞を使用しているため、後天的な遺伝作用によって特定のナス科植物に対する消化酵素が少ない。これはα細胞の原種であるライゼル博士がアレルギー持ちだったことに由来するためだ。


「……自家栽培の野菜を渡すのは失礼では?」


 ツチヤ君の疑問と同時に、バランスを崩した袋が傾いた。中からパプリカの鮮烈なオレンジが顔を覗かせる。他にも赤、黄色、グリーンの様々なナス科野菜を詰めてあった。今年は特に出来が良い。色も艶も申し分ない。


「金銭的な価値に換算できるものなんて、彼は自力で手に入れられるよ。文字通り、何でもね。そこへいくと、僕自らの手で栽培したトマトやキャベツやパプリカは、僕が直接渡さなければ手に入らない。幾ら積まれたって、僕がノーと言えばノーだ。だから価値がある」


 キャロットスティックをつまんで咥えると、舌に触れたところから甘みが広がって唾液が分泌されてくる。二人にも勧めたのだが、さっきから食べているのは僕だけだった。


 元々暇つぶしで始めた家庭農園だったが、段々趣味が高じて量が増え、部屋の片隅どころか一室が丸々がジャングルのようになり、屋上を占領し、各階毎に種類が分かれて、ついには専用の植物工場を建てるに至っている。


 厳密にいえば機械管理ということになるので、僕が栽培したというのは事実と異なるとの意見が想定されるが、お城だってピラミッドだって作業者と建造主は異なるわけだから、問題はないはずだ。あくまで趣味の範疇で非営利目的の用途にのみ出荷しているため、ネットでも現地でも購入することはできない。


 セドリック氏は、その価値を理解できるだろう。度を過ぎた金持ちというのは、もうそれぐらいでしか、価値を測ることができないのだ。自分がそうだから、想像は容易だった。


「それにしても、犯人についての話というのは、何だろうね」

「もし、ライゼル氏の情報網で特定できたというのであれば、速やかに開示いただく必要があります」


 ナイトウは出発前に言ったことを繰り返した。聞き逃すことができない情報だったこともあるが、僕の護衛としての任務が継続中なのでついてきたのだ。


「エージェントはまだ掴んでない」


 声がして、驚いて飛び上がりそうになった。


「スズ様、一体どうして……」


 対面の席に現れたのは妹だった。立体映像だ。<食事>以外で姿を見ることがないせいで、存在そのものに違和感が拭えない。


 ツチヤ君が一歩引き、頭を下げる。


「驚く必要が分からない。ここは家族の所有物」

「ああ」僕は慎重に言葉を選ぶ。「その通りだ」

「ツチヤ、貴女の趣味、変わっていないのね」


 妹は人形のような無機質な瞳を、ツチヤ君に向けた。今は16世紀のブリティッシュスタイルだ。ロングスカートを抑える両手が僅かに震えているのを、僕は見逃さなかった。


「はい。おかげさまで」

「とても素敵よ」

「ありがとうございます」


 僕以外の人間となら、妹は無口ではなく寡黙と言える程度には自然に会話をする。ただ、それでも滅多に見かけることはない。


 普段のツチヤ君なら褒められた相手が女子だった場合、有無を言わさず相手に似合うメイド服を身繕い始めるのだが、それ以上のやりとりはなかった。


「初めまして。公安局のナイトウと申します」


 妹の視線を受けて、ナイトウが前に出た。僕の時と同じ、形式的な動作だ。挨拶の仕方までマニュアルに定められているのだろうか。


「初めまして。オノデラ・スズです。一個人にそれ程の情報処理能力はないかもしれませんが、世界平和のために尽力したいと思いまして、兄の依頼を受けました」


 かつて核兵器の発射施設を面白半分で乗っ取った人間からは凡そ似つかわしくない言葉が平然と吐き出される。そして、その前半部分においてなされた謙遜が、ナイトウを著しく動揺させた。


「会議室の会話を、聞かれていたのですか?」


 一個人にそれ程の情報処理能力があるとは思えない。それはほんの数時間前に、ナイトウの口から発せられた疑問であり、妹の言葉はそれを受けての謙遜だった。


「あの部屋の会話は、全て録音されています。それはご存知のはず」

「ですが、セキュリティが」

「鍵のかかった部屋には、鍵を開けて入ればいいだけです」

「ありえません、局は独立回線です。知りようがないはず」


 得体のしれない存在を見るように、ナイトウが妹を見下ろす。妹は無表情のまま、淡々と言葉を紡いだ。


「本当に独立しているものは、外には出られません。一例を挙げるなら、貴女の記憶が媒体となって持ち出されている。トータルな意味で完全な独房に閉じ込められた情報は、情報と呼ぶことができない」


 他人に向けて長く言葉を繋げる妹を見るのはいつ以来だろう。スズは目の前にある文字を読み上げるように、淀みなく続けた。


「私はそこにあるものを知るだけ。その過程で生じる時間やコストは、本質ではない。知らないことは、知ろうとしないことだけ」


 妹の瞳が、ナイトウを見据えていた。立体映像が立ち上がり、ゆっくりと歩み寄る。蝋人形にされたみたいに、ナイトウは硬直していた。


 そっと、妹がナイトウに耳打ちした。

 囁き声は聞こえない。

 しかし、ナイトウの目が見開かれて、僕を見た。


「スズ」


 最後に名前を呼んだのは、少なくとも10年以上遡る。その短い発音が喉を震わせる以上に、僕の背筋が震えた。


 悪魔に魅入られそうなナイトウを助けるつもりで声を出したが、本当はその場の空気をこれ以上妹に支配されたくなかったのかもしれない。僕自身、理由は判然としない。けれど、妹と対話しなければならないのは僕だという自負があった。


「どうしてここに?」

 無言。妹はわざとらしく僕から顔を背け、ツチヤ君を見た。

「スズ様、どうしてこちらに?」


 ツチヤ君が同じ疑問を発する。


「久しぶりにパブリックなネットに入れたから、浮かれているの。色々確認してみたけど、大して変わっていなかった」

「分かっていると思うけど、前のようなことがないように。問題が起きれば、僕にも解除はできない」


 僕は忠告した。また無視されるかと思ったが、ツチヤ君を一々経由するのも面倒だと思ったのか、ようやくこちらを向いた。


「罰はいつだって罪の後だから、最終的な抑止にはならない。それはセキュリティではない」


 妹が僕の前に立つ。


 立体映像はテーブルを貫通していた。<食事>の時でさえ、こんなにも至近距離でお互いの目を見たことはない。僕によく似た顔がそこにあった。いや、正確ではない。僕の母親によく似た顔が、そこにあった。


「深淵を覗く時、深淵もまた等しくこちらを見返している」

「ニーチェか?」

「この世界の基本。少し扉を開いたら、位置を掴まれた」


 通信大手企業が全て敵に回っている可能性を思い返す。妹が凡庸なミスを犯すとは思えなかった。


「そのおかげでまた少し開けたけれど、拠点を変える。今から伝える場所を全て稼働させて。クラスメイトを招いてパーティを開くから」


 本気で当たる、ということだろう。AIだけでなく、世界中に散らばっている「お友達」を集める必要があると判断されたわけだ。


「オーケー。ツチヤ君、決裁権限を渡すから、言われたとおりにして」

「……かしこまりました」


 ツチヤ君は恭しく応えた。妹の前では何故だかしおらしい。


「他に要望は?」

「もうない」


 妹は素っ気なく返事をした。質問をして、返事がくるという当たり前の事実に、今更ながら感動してしまう。


「向こうは手強い?」


 聞いた直後、調子に乗ったなと後悔した。まだ気軽に話しかけるにはタイミングが早かったかもしれない。天の岩戸に閉じこもった神様は、無理やり引っ張り出しても出てこない。向こうから出てきてくれるのを待たなければ。


「まぁまぁ」


 受け答えが成立してホッとした。妹の性格を考えれば、かなりの高評価だ。機嫌がいいというのは本当なのだろう。


「あの、宜しければ公安局と正式にデータ連携をしませんか。情報提供以上のものをお渡しできると思います」


 提案は妥当なものだと思えたが、妹は無言のままじっとナイトウを見つめるだけで回答はしなかった。沈黙が部屋の中に充満していく。


 やがて、重苦しさが飽和点に達しそうになった時、妹の姿が虚空へと消えた。一方的に入り込み、一方的にいなくなる。自由なやつだ。


「私は、嫌われてしまったようですね」

 ナイトウは独り言のように呟いた。

「愛想はない方だから、そうとも限らないよ」


 いつもの<食事>からすれば、あれでも上機嫌な方だ。奇跡的ですらある。まだ聞いているかもしれないので、言わないけれど。


「そういえば、何か囁かれていたよね。あれ、何て言われたの?」

「公安程度なら、大抵の事は知っていると言われました。あとは、その、例を挙げられました」


 ナイトウが言いにくそうに答える。目線が泳いでいた。


「例? 極秘の内部情報とか?」

「まぁ、そんなところです」


 よほど公にできない情報だったのだろう。妙に歯切れが悪い。


「スズ様が話しかけてくださるとは、ああ本当に、震えがきました」

「僕とは毎日喋ってるだろう」

「言われてみればそうですね」

「震えることある?」

「憤慨などで、よく」


 にっこりと微笑むツチヤ君にそれ以上何も言い返せず、僕が負けた。


「それにしても、わざわざ僕に要請してくるなんて、よっぽどだ。位置がバレたなんていうのも初めてじゃないかな」

「位置情報は<食事>や<奉仕>などの【遺言状】規則に縛られている面が大きいかと思われます。履行確認の問題で、ずっと潜っていられないのでしょう。現在地が一定時間毎に知られるのは、今回のような相手ですと、かなり不利です」

「護衛を付けられたらいいんだけどね」

「お近くに誰かが立つことを拒否されますので」


 妹の周辺は全て人工知能付きの機器に頼っている。人間は皆無で、過去何人のガードが契約を切られたか分からない。ツチヤ君ですら4日で戻ってきたのだ。ここ数年、肉眼で生身の妹を見た者はいなかった。今回、空間的に移動するということは、その滅多にない機会を得られる職員が出るかもしれない。


 そうしたら、しばらくの間、仲間内で自慢できるだろう。視覚映像の記録は消されるから、すぐに記憶だけの存在になってしまうけれど。

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