2.贖罪のラインダンス

2.1 食べなければならない

 ウイルスへの抗体を製造するための比較サンプルとしてニューデリーの研究所に向かってほしいとオサダ課長から依頼を受けた。


 形式上、依頼ということになっている。


 献金の甲斐もあって、その時点で僕は保護対象でありつつ、同時に捜査へのオブザーバーとしての地位を確立していたからだ。窮屈なのが嫌で、遺言状規則を盾にして融通を利かせた結果でしかないのだが、オサダ課長は僕が問題解決に向けて積極的に取り組んでいると評価しているらしい。


 飛行の直前、公安基地の特定を防ぐという名目で薬を飲まされた。すぐに意識が朦朧としてきて、気が付いたらリクライニング座席に僕の身体があった。


 ここはどこで、今どういう状況なのか把握するために辺りを見回すと、右前方の座席から「おはようございます」とナイトウが声をかけてきた。テーブルにベーコンエッグが乗っているのが見える。


 時間帯は、どうやら朝の確率が高い。


  *   *   *   *


 ドリンクホルダに収まったサイダーが小刻みに震えていた。


 怖いのかもしれない。何しろマッハ2.2で飛行中だ。空気抵抗なのか、雲にぶつかっているのか、原因は分からない。自動運転オートパイロットからのアナウンスはないので、テクノロジーから「これぐらいは我慢してください」と言われているに等しい。


 そんな可哀そうなサイダーを飲み干し、身体を起こす。


「ご気分はいかがです?」


 後方の大きなクッションに埋もれているチョウ博士に話しかけた。彼は公安部に所属する生物兵器を担当する技術者で、今回の任務において重要な地位を占めると紹介され同行することになった人物だったが、今は青褪めた顔で弱りきっている。


「薬はねぇ、飲んだんですよ。自律神経の働きを安定化させる、自作の強力なやつです。でも駄目ですねぇ、精神的な要因だと思います。だって、今エンジントラブルで落っこちたとして、海上なら遺体の回収は無理だ。そう考えたら、もぅ無理です」


「人はいつでも死にますよ。統計的な有意差はありません」


 慰めになっていないな、とは自分で思ったが何を言っても効力はなさそうなので問題は感じなかった。ただ放っておくのも気が引けるのでナイトウに到着までの時間を尋ねてみる。


「残り27分で到着予定です」


 ナイトウは僕たちの前方の席に座り、アイマスクを外さないまま応じた。リクライニングは完全に倒している。チームが違うとはいえ、同僚である以上はドライに接するのが彼女の基本姿勢なのだろう。 


「おぉ神よ、なぜこのような愚かしい乗り物を作りたもうたのか。昔の人類は良かった。紐で土器に模様を付けるなどしていた。なんて可愛らしい! 進化したばかりに苦しむ羽目になったのだ」

「オーバーだなぁ」


 喋っていると気分が落ち着くのが分かったのか、チョウ博士はクッションから立ち上がり、座席の肘掛けに腰をおろした。彼が普段着だと言い張る白衣が折れて皴になっていたが気にする様子はない。


「これはねぇ、一度調べたことがあるんです。北京原人は乗り物酔いにならなかったことはご存知ですか」

「それは、乗り物がそもそもなかったからでしょう?」

「素晴らしい」


 チョウ博士が力ない拍手のジェスチャをしてくれた。


「まぁ、化石には臓器も神経もないので、実際のところは分かりませんが、樹木での生活が長かったから、不規則な揺れには強かったかもしれない。でも、まぁ仮にバスや舟があったとしても、彼らは乗り物酔いにはならなかったんですよ」


 第二問というわけだ。僕は正直に首を振った。このまま気持ちよく喋らせ続けた方が、チョウ博士にとってもベターな気もしていた。


「それはねぇ、乗り物酔いという文化がないからです」

「なんだかずるいな」僕は笑った。「酔うことは酔うんでしょう?」


「その通り。ですが、それは彼らにとって体調不良ではあっても乗り物酔いではないわけです。そういう認識がない。なんだか川に浮いていた丸太に乗っていたら気分が悪いなぁ、ぐらいのものです。それは乗り物酔いではない。体調不良です」


「名付けなければ、存在しないということですか?」

「うーん、まぁ、私の考えはそれに近いですね。例えば百人一首にも聖書にも乗り物酔いに関する記載はないでしょう? 事象としては、当時からあったはずなのに」


 想像してしまったせいで、乗り物酔いの和歌が詠まれた数というオート検索がバックシンクでなされたが、やはりヒットはなかった。ホトトギスは当時でも希少な鳥だったが数多く残されているし、ミミズはよく見かけたはずだが一句も見つからない。記録された過去の世界というものは、フォーカスを当てられなかった部分のディティールがぼやけて、省略され、忘れられ、消し去られてしまう。


「私ね、今回のウイルスもそういう感じなんじゃないかって思うんですよ」

「聖書に記述がない?」


 冗談めかして返すと「それもあります」とチョウ博士が頷いた。


「待って、その話、レポートに記載がなかったけど」


 声の方を振り向くとナイトウが起き上がり、こちらを見ていた。アイマスクを外し、チョウ博士を睨んでいる。階級は同じと聞かされていたが、力関係はナイトウが上らしい。


「思い付きでも他人の説でも、考えられうる事柄は纏めて提出するルールでしょう」

「いえ、これはまぁ、何と言いますか、今さっき思いついたもので」


 大したものではない、とチョウ博士は言い訳した。両手をあげて降参のポーズをとる。


「飛躍した考え方、とでもいいましょうか。レポートには不向きなのですよねぇ、えぇ」


 憮然とした表情でナイトウが立ち上がり、僕とチョウ博士とで正三角形を成す位置の座席に座った。片眼鏡をかけ直し、足を組む。優雅かつ威圧的な動きだった。


「続けて」

「えぇと、なんだか申し訳ない。そこまで大した話でもないのですよ。別にウイルスで死ぬこと自体は珍しくないでしょう。もっと言うなら『死』そのものが、当たり前の事象なわけで、本来は慌てたり驚いたりするようなものではない。それにも拘らず、世界中の金持ちたちが『死』を再発見して動揺している」

「死ぬことを忘れていたみたいに」

「そうです。スーパーマーケットで売られている培養肉のように、『死』は綺麗にパッケージされて無味無臭の存在になってしまっていた。ですが、現実的には売り場に並んでいるのは死骸の肉片なわけです。両者は言葉や認識の違いであって、死が並んでいる事実に違いはない。今回それを思い出したのがたまたまウイルスだった、というだけのことなんです」


 私にとっては飛行機ですけどね、と笑ってチョウ博士は肩をすくめた。


「まぁ、死にたくないというのは本能的なものでしょうし、そのおかげで私の研究予算が五倍になったわけですから、文句はありませんけどねぇ」

「報告書は四倍になってたはずだけど」


 ナイトウが冷たい目を向ける。


「あー」チョウ博士が咳き込んだ。しまった、と顔に書いてある。「言い間違えました。そうですねぇ、そうでした、四倍です」

「えっと、そういえば聞いてなかったけど、研究所に着いたら、僕はどうすればいいのかな」


 見かねてヘルプを差し出すとナイトウがこちらを向き、チョウ博士が神を見るかのような目で僕に向けて両手を合わせた。


「基本的には血液と細胞を取って、抗体の製作実験をする予定です」

「それぐらいなら、サンプルを送れば良かったんじゃない?」


 わざわざマッハでニューデリーまで来なくても。


「専門ではないのでお答えしかねます。任務の遂行上、その必要が認められたということです」


 いかにもお役所的な返しだが、ナイトウからすれば当然の返答なのだろう。悪びれる様子はなかった。


「オノデラさんが必要なのはですねぇ、ウイルスの反応がα細胞のコアな部分に働きかけるからですよ」

「コアですか?」

「ええ、つまり融合して遺伝子の寿命を再生する仕組みをピンポイントで破壊してしまうように設計されているんです。正直言って、敵ながら天才の技ですね。誰もあの変移を再現できていないのに、狙って破壊できるんですから」


 創造と破壊は表裏一体。破壊できるということは創造のプログラムも理解できる、ということなのだろう。


「ウイルスの作成者はαやβ細胞を再現できるんですか?」


 それができるなら、確かに紛れもなく天才だ。父もライゼル博士も結局は偶然にその細胞ベースを作り上げ、その直後に殺されている。それから現在に至るまで、その再現実験はこの分野の主流といって良いだけの予算が注ぎ込まれているものの、結局成功に至った者はいない。


「可能性は92%です。再現で満足していれば、世界の英雄でしょうね」

「でも、それと僕がニューデリーまで行くのと何の関係が?」


 素朴な疑問だった。そして、チョウ博士が気の毒そうな表情をしたのを見て、その理由を悟ってしまった。当たらないでくれ、と願いながら、恐らく間違いない、という確信があった。


「つまりはですねぇ、すごく難しい実験なので、沢山サンプルが要るんです」


 やっぱりそうか。


「αの方と、βのオノデラさんとで比較実験もしたいですし、現地の研究者仲間とも協議して色々と試してみないといけないわけで、ああ、楽し、いや、まぁ大変なわけですね。世界を救わないと」


 つまりはモルモットとして連れてこられたわけだ。


「そう暗い顔をなさらずとも、すぐ終わりますよ、きっと」


 絶望的な気分に沈む僕を見かねてか、ナイトウが鞄からクッキーを出して手渡してくれた。銀の袋に包まれていて、メーカーは分からない。


「ありがとう。これ、何味?」

「ミルク味です。鉄分が多く含まれています。多く血を抜かれても平気なように、今のうちに沢山食べておいてください」

 返事をする気力もなくなって、せめてもの反逆として目いっぱい微笑んでやった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る