第4話 鳥居そして丘木
1
中等部の裏に神社がある。苔むした石段はひっくり返りそうなほど急勾配で、見上げても果てが捉えらえないほどに長い。
朱が剥げた鳥居をくぐると、ひび割れた石畳が社まで延びている。賽銭箱には蜘蛛の巣が張っている。鬱蒼と茂る背の高い木立が取り囲んでおり、昼夜問わず薄暗い。
「キワイは手に入った?」
聞こえていないようだった。蝉効果だろう。
大きな声を出すのが厭だから視界に入るよう移動する。
「キワイは」
「ダメみたい」
「死んでるわけ?」
「わかんない」
「あんたが殺ったんじゃないの?」
「今日は図書館に行かなかったんだね」
「気が向かないし」
場所柄あまり暑くなかった。蒸してもいない。風が通るので不快ではない。
「花火しない?」
「一人ですれば」
「一人だと面白くないよ」
「こういうとこでしないほうがいいんじゃない?」
「じゃあやめる」
「用は?」
「模試の結果来た?」
「まだ」
「一番だといいね」
「それだけ?」
「先生はここにはいないよ」
「やっぱ死んだ?」
「死ぬと困る?」
「別に」
「私が死ぬと困る?」
「別に」
「本当は先生に殺してもらいたかったんだ。でも」
「やっぱ死んでる?」
「私なんか殺す価値もないって」
「ふうん」
砂利を踏む。
「帰っていい?」
「気にならないの?」
「死んでんなら気にしなくてもいいんじゃない?」
「そうかな」
「蚊に刺されたくないんだけど」
「明日は図書館来る?」
「気が向けば」
石段を下りきったところで振り返る。
背中に何かくっついている気がしたのだが汗だった。
2
両親が旅行に出掛けた。受験生というのは強制家族行事が免除されるので楽でいい。一週間でも一ヶ月でも好きなだけ旅に出ればいい。一生帰ってこなくてもいいのだがさすがにそれは黙っておいた。行き先に興味がないので聞かなかったがおそらく海外だろう。パンフレットがリビングに散らかったままだ。
まとめてゴミ箱に放り込む。掃除をしたのではない。目障りだから退かしただけ。
電話の呼び出し音がしたがFAXのほうだった。眼に入ったので読んでしまった。構わないだろう。送信側だって見られたくなかったら他の方法を採る。
親がいないからって新聞くらいはとってきたほうがいい。
寝坊なら仕方ない。
意味が取れなかった。記されているのはただそれだけ。紙の中央に小さく横書き。遠慮がちで自己主張を控える、というよりは伝えたい情報を端的に伝えるならそれがベスト、という感じだった。
ぱっと見丸文字だがたまに角ばっているところもあってどっちつかずの筆跡。どこかで見た覚えがある。だいぶ前。もう忘れてしまうくらい遙か昔。
Nだ。
内容から気づくべきだった。こんな奇々怪々なことを思いつくのもそれを平然と実行してみせるのもNしかいない。
急いで郵便受けをのぞきにいく。三紙もあるから嵩張ってぎゅうぎゅうだった。隙間に紙が入っている。封筒はなく便箋が三つ折にされてそのまま。
大学に来たんなら挨拶くらいしてほしかった。
世間話をしようか。
駅に一番近いコンビニで冷たいものでも買って。
Nがコンビニ?
想像できない。
わけのわからないFAXと便箋をポケットに入れて外に出る。最寄り駅には西口にも東口にもコンビニがある。どちらだ。駅に一番近い、というのが引っ掛けな気がする。どこの駅なのか指定していない。Nのやりそうな手口だ。距離から考えると東口にあるほうが改札に近い。しかしどちらも違う気がする。
だいたい冷たいものでも買って、というくだりが意味不明だ。Nが冷たいものを口にしている様子は見たことがない。Nが物を口に入れているところすら見たことがないのだから、何を食べて暮らしているのかも知らない。酸素も必要なさそうに見える。
一番近い。
駅のホームだ。
キヨスクも一種のコンビニだろう。売り物の中で冷たいものといったら飲み物か。冷蔵ケースを開けてサイダを取り出す。ペットボトルの蓋に何かついている。
シールだった。
やっぱり炭酸だろうね。
初等部は開いてるかな。
回りくどい。オリエンテーリングかなにかをさせたいのだ。
シール付ペットボトルを購入して電車を待つ。おそらく初等部にはいない。そこにまた何らかのヒントを置いて他の場所へ移動させようとしている。Nの一手先を予測できれば初等部なんか行かなくて済むかもしれない。
送られてきたFAXをもう一度見る。記された番号に掛けてみたがつながらなかった。Nがこんな最短ルートを揉み消していないわけがない。
案の定、初等部の門は固く閉ざされていた。裏門も同様。
開いてるかな、という書き方が気になる。独り言のように感じられる。
初等部なんか二度と来たくなかった。幼等部から高等部まであるがそれぞれの校舎はかなり離れている。同じ名前が冠されていなければ誰も同じ系列だとは思わない。夏休みなのだから開いているはずが。
プール。
裏門から少し回るとひときわ高い柵が張り巡らされている場所がある。変質者防止のつもりだろうがそうあからさまに塀を高くすると、この裏がプールですよ、と看板を立てているようなものだ。再び低くなっているところから覗けるなんて学校関係者は知らないだろう。つくづく節穴だ。
しかしプールに入れないとすると今度のヒントが発見できない。不法侵入は面倒だし塀をよじ登るのもご免だ。
さっき買った炭酸を飲む。蓋のシールを剥がしたらその裏に何か書かれていた。
プールはプールなんだけどね。
詰めが甘い。
この状況をどこかから観察しているのかもしれないが、シールに関してはこの場所に来る前から貼られていたので一挙一動を読んでいたのだろう。気味が悪いというよりはNらしくて満足かもしれない。
プールはプール、ということは初等部以外のプールなのか。高等部にはないが中等部ならあった気がする。しかしそれならわざわざ初等部は、などと記すだろうか。プールはプール。
区民プール。
汗をかいてきた。髪の毛がじりじり焼ける。絶好のプール日和と言うべきか。
実際にプールサイドにはいないように思う。Nは日に焼ける、とかわけのわからないことを言って水泳の授業をサボっていた。泳げないことを誤魔化す言い訳にしか聞こえない。
駐車場は自家用車や自転車だらけだった。サイダが終わったのでペットボトルをゴミ箱に放る。泳ぎもしないのにわざわざ入場券を買うのも馬鹿馬鹿しい。
区民プール、と仰々しく彫ってある石が花壇に埋もれて文字が読めなくなっている。プールはプール。わざとだ。
花を掻き分ける。
だいぶ失礼だね。
僕はかなづちじゃない。
深海魚ってなかなか面白いと思う。
次は海に潜れとでも言うのか。Nはここが内陸だということをすっかり失念している。水族館か。しかし近辺にはない。
いくらNといえどもそこまで行動範囲が広くはないから、近場でかつ深海魚に関係しそうなことといったら。
図書館。
今日ばかりはクーラがんがんは有り難い。額が涼しい。こちらもプールに負けず劣らずイモ洗い。
背表紙に深海魚と書かれた図鑑をばらばら捲ってみる。小さなメモ用紙。
ハズレの分岐にようこそ。
図鑑なんて凡人的発想は改めたほうがいい。
深海魚だ。
腹が立つというより期待を裏切らなくて好ましい。間違えることも予期されている。
検索システムで深海魚と入力する。案外たくさんヒットして厭になった。おそらくそういう意味ではない。
深海魚だ、という言い方から考えて。
辞書。
禁退出という赤いシールが貼られた分厚い辞典で深海魚を引く。
これではない。もう一つあったほうを開く。
これでもない。最高峰のこれではないのか。小型のものも全部開いてみたがどれにも挟まっていない。国語辞典でないなら。
英和、あるいは和英。
深海魚を英語で言っても一つの単語で済まないから和英か。それで引いたらハズレのときと同形のメモが二枚入っていた。
英和は却下できたかな。
ところで際居の下の名前知ってる?
いたずら電話がつながらない。
もしかしたらショックのあまりのたれ死んでるかもしれない。
安否を確かめに行ってくれないかな。
文字の下に簡易地図が記されていた。
誰が、と思いながら次の紙を見ると。
誰が、て思ったね。
あってたら言う通りにしてほしい。
いきなり不快になった。心配なら自分で見に行けばいい。だがきっとそこに次の指示がある。
気になるのは際居の下の名前、というくだりだが、下の名前を知らないので如何ともしがたい。
電車で十五分もかかった。駅から十分歩く。時間の無駄としか思えないが諦める。Nの描いたとおりの行動をなぞらないと次のステージに移行できない。
大したことのないアパートだった。住居に金をかけないタイプらしい。チャイムを何度か押したが返答がない。
階段脇のポストをのぞく。怪しいダイレクトメールに紛れて便箋が見つかった。丁寧に三つ折されている。
ついにストーカぶりが祟ったかな。
寄り道させて悪かったね。
際居の下の名前に似てる鳥の親友は?
「犬」
「オカヅキならわかってくれると思った」
道の反対側に人が立っている。
艶のない黒髪。冷めた瞳。身長は最後に会ったときよりだいぶ伸びている。
「あのさ、生きてんなら」
「生きてないよ。一回死んだ」
「比喩?」
「飛び降りはしたんだよ。結果が失敗しただけで」
「ふうん」
「聞きたい?」
「失敗したならやり直せば?」
「それがそうもいかない。自殺念慮があるとマークされるんだ。発信機が組み込まれてる」
「どこに?」
「脳」
「SF?」
Nはぞっとするような表情で冷笑する。近いのは肝試しや怪談で背筋が凍える感覚。季節だけならぴったりかもしれない。
「虚構だよ」
「何してんの?」
「キワイをからかいに来たんだけど捉らなくてね」
「死んだんじゃない?」
「実は僕もそんな気がする。ケータイに出ないってのはいままでなかったからね。心当たりない?」
「そんなのないし。だいたいこんなところまで呼ばないでほしいんだけど」
「大学はどこ行くか決めた?」
「言う必要ないし」
「うちには来ないほうがいいよ。見学に来てたみたいだから心配になってね」
アパートの住人のひとりがどこぞへ出掛けるらしい。不審者Nをじろじろと見ながら通り過ぎる。駅とは反対方面へ走っていった。
「なんで?」
「面白くないよ。あんな場所」
「じゃあなんでいるの?」
「居る場所がそこしかなかっただけ。あとは病院かな」
「入院すれば?」
「してたよ。あの手紙は、飛び降り前日に病院で書いた。ちょっとメランコリック過多だったと思うけど」
駅に戻るつもりで足を進める。Nは不必要なほど間隔を保ってついてくる。もしかしたらついてきていないのかもしれない。たまたま方向が同じだから途中まで。そういう雰囲気だった。
「腱鞘炎は相変わらずみたいだね。学年首席は死守してる?」
「知ってるんなら聞かないでほしいんだけど」
「世間話だよ。僕の質問が不快だったら君が尋ねればいい」
「死ねば?」
「久し振りだねそれ。僕に死ねって言ってくれたのは君だけ」
後ろの足音が消える。
Nが立ち止まって何かを見ている。目線の先に特に何もなかった。
「全国模試で二位だったらしいね」
「どっかのだれかのせいで」
「僕じゃないよ。点取り合戦には最初から興味がない。こないだも受けたんだってね」
「だから何しに来たわけ?」
「もう一回別れを言いに」
暑い。
「今度は成功させる」
「ホントに飛び降りた?」
「低かったんだよ。三階の屋上だったから」
「キワイ連れに来た?」
「それはないね。死にたくなさそうな顔してる」
首の後ろの汗を手で拭う。
「今日ニュースとか観た? 学院側はトカゲの尻尾切りでキワイなんかぽっと捨てると思うけどさ」
「何がしたいの?」
「嫌な予感がする。僕の勘て当たるんだよ」
「捜すならひとりで捜せば?」
「手掛かりがないんだ。何か思い当たらないかな」
「ないし」
Nがメガネを外す。
「もう伊達じゃないよ」
「ふうん」
「連れてかなかったの怒ってる?」
「どこに?」
Nの人差し指が空を指す。
「こっちじゃない?」
「オカヅキは下だと思う? どうかな。僕は天のほうがいい」
「地獄行きのくせに」
駅に着いたがNは切符を買おうとしない。切符の買い方がわからないはずはないので電車に乗る意志がないのだ。
「じゃあ」
「淡白だよね」
「心中しようとしたんじゃない?」
「誰と?」
「キワイ」
「それはさっき否定した」
「先に逝ったわけ?」
「誰が?」
「相手が天だが地獄だかで待ってるからそうやって急いでるように見えるけど」
「やっぱ聞きたそうだね。話す?」
「聞いてもらいたいから来たんじゃないの?」
ホームに電車が入ってきたらしい。アナウンスがうるさい。Nがちかちか点滅する電光掲示板を眺めている。
「切符どこまで買った?」
「地獄」
3
「相手は生きてるよ。たぶんね」
「たぶん?」
「僕に弟がいるのは知ってる?」
「さあ」
「兄かもしれない。なんだか変な人で外見年齢を自在に変えられるんだよ。出会ったときは僕より二つ下だったけど最後に見たときは僕より七つは上だった。二十歳前後に見えたよ。その兄が自分の子だって言って連れてきた子がいたんだ。でもその子はどう見ても僕より二つくらい下。ホントの子だったかどうか」
「意味わかんないんだけど」
「僕だってわからないよ」
「逃げられた?」
「ううん、どうかな。こっそり約束したのがバレてどこかに連れてちゃったんだと思うけど。だから心中じゃない」
「待ってるわけ?」
「そのつもりだったんだけど、なかなかうまくいかない」
サイダの泡を見つめる。
「捜せば?」
「捜せないんだ。いないから」
「いない?」
「僕の頭の中にいただけかもしれない」
「なにそれ」
「よくわからない。とにかくいろいろが不鮮明で。入院中に変なもの飲まされてたせいかも」
Nは本当に具合が悪そうだった。あのときように蒼白い顔。シャツの袖からのぞく手は異様に白い。ふっと息を吹きかけたら飛んでいってしまいそうなほど弱々しい。
「キワイ捜してどうするわけ?」
「どうしようかな。特に考えてないんだ実は」
「ストーカぶりが祟ったってのは?」
「キワイのライフワークだよ。高校の頃に付き纏ってた塾の先生が思いのほか近くにいることがわかって」
Nはリモコンでザッピングを繰り広げる。同じチャンネルを二秒以上観ていない。
「こんなおいしいネタ、テレビ局が飛びつかないはずないんだろうけど」
「お得意の勘は?」
「僕の勘ならキワイは死ぬ間際。だいぶ衰弱してるよ」
「そこまでわかるんなら場所のほう探知すれば?」
テレビの電源が消える。リモコンがテーブル上に戻る。
「情報が少ない」
「そういえば、キワイに惚れてる女がいるけど」
「知り合いみたいな口調だね」
「クラスにいるだけだし」
「クラスにいたって僕のことしか知らなかったよね。なるほど相当強引なんだ。その女子について知ってること話してよ」
「なんで」
「キワイが死んだらつまらないから」
「俺はどっちでもいいんだけど」
「最期のお願いかもしれないのに」
「最期のお願いとかいう以前にキワイを助けるとかが気に入らないし」
「その女子が好きなの?」
「違うし」
「だろうね」
グラスを手に取ろうと思ったらNに取られた。あっという間に氷だけになる。
「二酸化炭素の味がする」
「味覚おかしいんじゃない?」
「話してよ」
仕方がないので説明する。特に大した内容もない。言った端から忘れていったのでもうNしか知りえない。
「番号わかってるならかけてよ」
「ヌエジの仕業ってこと?」
「怪しいね。一部分がすごく僕と似てる」
「ふうん」
「君のお姉さん見たよ」
「異世界で?」
「どこだったかな。俄かには思い出せない」
鵺路に電話をかける。Nは冷蔵庫を物色している。
「出ないし」
「メールでも送っといてよ」
「めんどくさい」
「これもらっていい?」
「飲んでから言われても答えようもないし」
Nは紙パック野菜ジュースをずるずる吸っている。誰が買ってきたものか見当もつかない。芋羊羹も見つけたらしくちまちま楊枝でつついている。
「キワイがピンチだとか言った割には暢気だよね」
「僕じゃ見つけられないことがわかった。その極めて疑わしき女子と面識がない」
「俺の時間削れって言ってない?」
「察しがいいね。でもまだ動かなくていいよ」
「いまどこ住んでんの?」
「マンション行った?」
「父親のとこ?」
「寮だよ。僕を見張るためにそこにぶち込んでる。ところでさっきから頭痛いんだ。ベッド借りていい?」
「誰の」
「お姉さんの部屋は片付けた?」
「見てこれば?」
廊下に出て空き部屋を指す。Nは足元がふらふらしている。
「ヤバいんじゃない?」
「実はそう。外なんか出るんじゃなかった」
「薬とか要る?」
「寝たら治るかも」
「それでキワイ捜してるわけ?」
「どういう意味だろう」
空き部屋には鍵がかかっていた。鍵を探すのもドアを破るのも面倒だったのでNを自分の部屋に入れる。
「あっちにいるから」
「ここですれば?」
「気が散るし」
「見てないのをいいことにいろいろ破壊するかもしれない」
「別にいいんじゃない?」
ダイニングで問題集を広げる。テーブルと椅子の高さが合っていなくて不快だった。ここで食事を採った覚えがないことに気づく。
Nの食べかけの芋羊羹を一切れ口に入れる。甘さが濃厚すぎて胃がもたれる。冷蔵庫にあったサイダをグラスに移す。それを飲みながら続きにとりかかる。
夕方と夜の狭間で、鵺路に呼び出される。
4
神社から戻ってきてもNは眠ったままだった。最初から泊まっていくつもりだったのか。それとも殊のほか頭痛がひどいのか。
Nが瞼を下ろしているところを初めて見た。うとうと居眠りなんかしないし、睡眠という行動は限りなく人外の領域にいるNにとって不必要な欲求だと思っていた。単に力が薄れているのかもしれない。でなければあの弱りようはおかしい。
死んでいるのだろうか。そう思って口に手を当ててみる。生温かい吐息が触れる。この状態で鼻と口を塞いだらNは死ぬだろうか。
いや、呼吸を止めたくらいでNは死なない。死ねない。Nは酸素を取り入れるために呼吸紛いの行動を行っているわけではない。人類にとって未知の気体を摂取して脳を稼動させるエネルギィを創り出している。
「あ、どうだった?」
「アタリ。キワイの安否は不明」
Nが眼を擦る。枕元にあったメガネを手繰り寄せ、かける。
「そんなに眼悪いの?」
「この距離で君の輪郭がぼやける。会話再現できる?」
鵺路と話した内容を思い出す。八割方そのままだろう。またも言った端から忘れた。
「ごはんは?」
「欲しいなら買ってくるけど」
「君は?」
「食べた」
本当は食べていない。食欲がなかった。
Nは寝転がったまま天井を見ている。もしくはベッドと天井を結ぶ直線上のどこか。
「その女子はまだ殺してないね。君の出方がよかったから明日いっぱいは平気かな」
「へえ、明後日死ぬんだ」
「その女子の家にも、死んだとかいう婚約者の家にもキワイはいなさそうだな」
「余計面倒なんだけど」
「君はその女子に気に入られてるよ。だからキワイを殺させたら次は君かもしれない」
「ふうん」
「何か作れる?」
「無理」
「お風呂借りていい?」
Nにタオルを与えて浴室に案内する。脱衣場に洗面台と洗濯機が同居している。
「ラバーダックとかないよね」
「意味わかんないんだけど」
「アヒルのおもちゃだよ。知らない?」
「何に使うわけ」
「浴槽に浮かべるんだよ。水鉄砲だったりもする」
いつものからかいだ。ブランクがありすぎたので危うく引っ掛かるところだった。
部屋に戻ってオリエンテーリングの紙類をデスクの上に並べてみる。FAXが一枚、便箋が二枚、メモ用紙が四枚、シールが一枚。
引き出しの中に入れておいたNの手紙がない。Nの仕業だ。ベッドの周りを探したら壁との隙間に挟まっていた。
目立った破壊活動はいまのところなさそうだが、そもそも自分の部屋がどういう配置で何が置いてあったのかまったく思い出せない。デスクとベッドが無事だから特に困らない。
ベッドにNの型が出来ている。触っても熱はなかった。当然だ。Nには体温がないのだから。
一時間経ってもNが帰ってこないので脱衣場に行ってみる。籠の中に服がきちんと畳まれている。気紛れ几帳面なNらしい。一番上にメガネがのっている。確かに度が入っていた。景色がぐにゃりと歪んで見える。
手首が蒸れてかゆいので包帯を取る。強力に貼りついた湿布を皮膚から剥がしていたらNが浴室から出てきた。
風呂上りなのに顔は白いまま現状維持。水風呂に入っていたに違いない。
「溺れてないか気にしてくれたの?」
「ホントはかなづちなんじゃない?」
「僕は単に泳ぎ方を知らないだけなんだ。だから断じてかなづちじゃない」
「泳げないやつのことをかなづちっていうんだけど」
「僕は泳げないわけじゃない。泳いだことがないだけ」
「泳いでみれば?」
「狭いよ」
「違う。プール」
「興味がないな」
Nは服を着てタオルで髪を拭いている。
「どうやって満点取ってたわけ?」
白すぎる。
「そっか。キワイに聞いた?」
「何を」
「たぶん思ってるのと違うよ。僕は天才だから」
シャワーを浴びる。冷蔵庫からサイダを出して部屋に持ち込む。
Nはベッドに寝転がっていた。
人形より白い顔で。人工雪より冷たい眼で。
「君はどこで寝るの?」
「どっか」
「そういえば包帯してないね」
「これから巻くし」
「巻いてあげようか」
「いい。コツがあるから」
湿布がひんやりする。体温を一瞬にして奪われる。
「いつ死ぬの?」
「ゲリラ的にやらないと成功が望めないからね、未定」
「別に止めないんだけど」
「わかってる。オカヅキは止めない。そうじゃないんだ。日を決めちゃうとその日目掛けて生きるわけだから雰囲気とかを読み取られる。発信機だって脳に組み込まれてるから何かを察知するだろうし。ある日突然ぱっと切れちゃう電球みたいに断絶しないとさ」
包帯がきつすぎた。血が流れなくなったらしく手が白くなってくる。
緩めて巻き直す。
「勉強教えようか」
「間に合ってるし」
「することないんだよ」
「ないならないでいいんじゃない?」
「言わないの?」
「何を」
「僕の思い違いかな」
適当に布団を引いて床で寝ることにした。親の部屋は入りたくもないし空き部屋はそもそも門前払い。リビングのソファはもっと厭だった。
朝起きたらNはいなかった。
図書館に行ったら鵺路がいた。わざわざ入り口で待っていたらしい。暑いのにご苦労だ。
「死にたいなら死ねば?」
「先生はどこかにいるよ」
「捜せってこと?」
「うん」
「明日殺すらしいけど」
「わからない」
「何がしたいわけ?」
「わかんない」
「姉の婚約者殺したのもあんた?」
「ううん」
「姉を殺したのもあんた?」
「ううん」
「俺も殺したい?」
鵺路は首を振る。
「ヒントは?」
「県内」
「広すぎるんだけど」
「私が行ったことのあるところ」
「余計わかんないんだけど」
「私の家じゃないしシカさんの家でもないよ」
「俺の時間を無駄にしないでくれる?」
鵺路はいそいそとバックから何かを出す。粒状のガムだった。未開封の、ついさっき買ってきたような。
「お詫び」
「俺の時間安すぎない?」
鵺路はまったく同じガムを三つも買ってあった。出す寸前で拒否したため再びバックの中に戻すところが見えた。
「俺がキワイを見つけたらあんたはどうするわけ?」
「どうしよう」
相当鬱陶しくなってくる。際居を捜しにいくとしても手掛かりがなさすぎる。
Nならどうするだろうか。人外のNなら。
「死にたいなら死ねばいいけどキワイを殺されると俺じゃない奴が困るからキワイは助ける。捜させたいならもう少しヒント出さないと動きようがない。クイズみたいなのでもいいから」
「鳥がいる。夏の鳥」
「それがヒント?」
「木がある。墓の木」
「他には?」
「終わり。オカヅキ君は頭いいからすぐわかっちゃうよ」
「やっぱガムもらっとく」
鵺路から三つ受け取ってポケットに入れる。
暑い。
夏だから暑いのだ。暑いから夏なのかもしれない。
夏の鳥。墓の木。Nはこのヒントを聞く前からわかっていた。だから何もせずにいなくなった。
「ばいばい」
「これから死ぬわけ?」
「わかんない」
久し振りに走る。走っている最中に汗は出ない。止まったときに汗は出るのだ。止まる場所は考えてある。そこまで走れるか。
信号が赤だったら他の場所で横断する。歩道が塞がっていたら車道を行く。息が上がるのも止まってから。走っている最中には走ること以外感じない。風も感じない。無風の中を無言のまま移動する。
いなくなった姉のように。
5
姉について憶えていることは顔と声だけ。それだけで充分のような気もする。
顔は自分には似ていない。両親のどちらにも似ていない。親戚に似た顔はいない。しかし似ているというには比較しなければならないから、姉と比較すべき自分の顔や両親の顔や親戚の顔を憶えていないなら似ているということは出来ない。ただそれだけの話だったのかもしれない。声は高くもないし低くもない。高い声と低い声のどちらでもないから。これもただそれだけの話。
姉の部屋はいつの間にか空き部屋になり、鍵がかけられた。両親がそうしたのだろう。姉の話題も消えた。そもそも両親と話をする機会を持たないよう暮らしていたため姉の話題も何もないのだが。
理由は知らない。訊けば答えてくれたのだろうか。うまく誤魔化されただろうか。あからさまに口を閉ざしただろうか。最初から姉はいなかった。両親はそう思い込みたかったのかもしれない。
姉はいた。少なくとも自分はそう思う。Nも事あるごとに姉の話題を引っ張り出してきた。Nに姉の話をした憶えはないのでいつもの人外的能力だろう。その人外的能力を持ってすれば姉の消息を探知できたかもしれない。
いや、確実に探知していた。知っていたからこそ事あるごとに話題を出したのだ。どこまで気づいているか。それを確認するためだけに。
行方不明。死んでいる。生きている。どれでもいい。現状がどうであろうと存在したことは確かなのだから何も問わない。問う必要がない。
会いたいわけではない。会って何をするのかといわれれば何もない。生きてたんだへえ、くらいで終了。話したいこともなければ訴えたいこともない。思い入れがなかったのかもしれない。顔を声しか憶えていない弟からすれば、たったそれだけの話。
もらったガムを口に入れる。全部で十四粒入っているのを三つもらったからいくつだ。簡単な掛け算だろう。
口の中がスースーする。どうせなら風船ガムがよかった。味がなくなってもしばらく噛んでいるとゴムの味がする。味をつける前の本来の味がわかる。わかりたくもないが。
ひっくり返りそうな石段を駆け上がる。駆け下りるよりも安全だろう。転落方向が見えないだけで格段に安心する。想像力で転げ落ちてしまうだけ。だから落ちるところを想像できない状況下にあれば人は転落しない。足を滑らせたとしてもそれが転落とわかる前にさようならだから、本人は転落とは思わない。
夏の鳥。
朱雀。
賽銭箱の向こうは暗くてよく見えない。大木が生い茂りすぎている。時間という概念を廃して夜と定めてしまった。時計は間もなく止まる。止まった時計は軸という概念から見放される。
社の周りを一周した。入り口はない。声を出しても相手に聞こえなければ無駄骨だ。
だから走る。
林の合間に獣道がある。蝉の大合唱で聴覚が麻痺する。腕がかゆいと思ったら蚊に刺されていた。包帯との境目。どうしてそんなわけのわからない場所を刺すのか。何が気に入ったのか。
上を見ると鬱蒼、下を見ると湿潤。左右は薄闇。
足音がする。自分以外の足音だから幻聴か。鵺路がついてきているのか。振り返っても誰もいない。
姉かもしれない。姿がないから姉だ。
墓の木。
棺桶。
小屋と呼ぶにはおこがましい。納屋と呼ぶにも甚だしい。廃屋と呼べば相応しい。
棺を縦にして力の限り地面に突き立てたような代物。下界とを断絶するのは南京錠ただ一つ。
「いたら何か音出して」
喧しい破壊音。そのまま蹴破ればいいのだが、それが出来ないから大人しくここに収まっているのだろう。
棺が立っている根元を足で掘ってみる。泥が靴に纏わりつく。ぎりぎり手のひらサイズの石が埋まっている。
それを退かしたら鍵が出てきた。
「開けるから」
また破壊音。そのまま壊せばいいのに。
鍵を鍵穴に入れて回す。南京錠が外れた瞬間、何かが飛び出してきた。正面らしき位置からずれて立っていたので衝突は防げた。
際居は特にどこかが拘束されているわけではない。ロープも巻きついていない。猿轡もない。
強いて言えば顔色が史上最悪。自分の声を忘れた鳥みたいに口をパクパクしている。
「ダイジョブ?」
「あいつは?」
「ヌエジならどっか行ったけど」
際居の声に勢いがない。掠れて誰の声なのかわからない。Nが言ったようにこれが衰弱という状況なのだ。
「立てる?」
「ああ」
手は貸さなかった。貸してほしくなさそうな眼だった。
来た道を帰る。たまに振り返って際居が死んでないか確かめる。
際居は首を振りながら頭を叩いている。プールから上がって耳に水が入っていることを認識したときの行動にそっくりだった。実はその通りかもしれない。水攻めだった可能性もある。
「何でお前」
「流れ上仕方なく」
「礼は言わねえよ。頼んでねえし」
「別に感謝されたくないし」
「殺しやがったのあいつだよ」
「ふうん」
「たぶん姉貴も死んでるな」
「へえ」
腕がかゆくてイライラする。足もかゆい。顔もかゆい。少なくとも七箇所は蚊の餌食になっている。
「お前らできてたんじゃねえの?」
「妄想」
「あいつ死んだのか」
「不明」
「てめえ、まともに会話する気」
「皆無」
社が見える位置まで戻ってきた。際居のペースに合わせてのろのろ石段を下りる。一段ごとに止まるなんて遅すぎる。
「いっそ転がり落ちれば?」
「てめえがな」
中等部の正門前で際居を置いていくことにする。初めて意見が一致した。
一緒にいたくないと。
ポケットが重いので未開封のガムを一つ押し付けた。
「なんか機嫌よくねえ?」
「ガムくらいで機嫌がいいとか言われたくないし」
際居がNの氏を口に出す。際居が勝手に呼んでいたNの母親の旧姓ではなくNの本名のほうだった。
「へえ、憶えてたんだ」
「あいつ自殺したよな。五年も前に」
「さあ」
「惚れてたんじゃねえのか」
「誰が誰に?」
「向こうは親友だとか言ってたからお前の一方的かつ惨めな片想いだがな」
「だから誰が誰に?」
際居が目つきの悪い目をさらに細める。単に神社の結界から出て眩しかっただけかもしれない。
「ああなるほど、それで機嫌がいいわけか」
「機嫌なんかよくないし。だいたいなんで俺がキワイなんか助けるために半日潰さなきゃいけないのかわかんない。好きでこんなことしてるわけじゃないんだけど」
「あいつ死んでねえよ。俺のとこにイタ電してくるような暇人はそうそういねえ」
「ニセモノじゃない?」
「なんだ? 自分のとこに電話してもらえねえもんだから嫉妬かよ。馬鹿じゃねえの」
際居はいつもの気色悪い笑いは出来ないようだった。息を大量に吸い込みすぎて咳き込んでいる。自業自得。
「まあいい。忘れろ」
背中に汗が流れる。足を止めたのをようやく思い出す。際居が倒れるまで後姿を見てようかと思ったがあまりにも暑いので諦める。
駅に着くまでにガムを十三個消費した。
たったそれだけの日。
6
「僕のこと好きなんじゃないの?」
「誰が?」
寝返り。
「やっぱり連れてかなかったこと怒ってるね」
病人のような白。
「君は別に死にたいわけじゃなくてさ、僕と」
「死ねば?」
「その死ねばの前に省略されてるのは、勝手に? それともひとりで?」
「一緒に死のうとした奴て誰?」
「知り合いの外科医の子ども」
「それじゃわかんないんだけど」
「ほら」
サイダのグラス。
「君が知りたいことはさ、僕が誰と」
「飛び級てこと?」
「教授じゃなければそうだね。僕の父さん見た?」
「さあ」
「父さんが手を回して大学に入れさせられたわけ。一秒でも長く僕と一緒にいたいから」
「過保護?」
「そう取れなくもない。だけどちょっと違う。父さんは母さんなんか要らなかった。まあ、そういうこと」
氷の音。
「実は高校行ってる」
「付属?」
「朱雀に戻って来いとか言わないの?」
「邪魔だし」
「そうだよね。僕がいないから学年首席なんだし」
「また暇?」
「よくわかったね。あまりにもすることがないから生徒会長になってみた」
「へえ、学校大丈夫?」
「みんな優しいからね。でも君みたいに僕の変化球を平然と受け取れるような人間はいない。それがちょっとつまらない」
崩れる。
「死のうとした奴は?」
「やっぱりそこに戻る。そうだな。第一印象が最高だった。地下で暮らしててさ、コンクリートの床上でぐうぐう寝てるんだ。もうわけがわからない」
「変人」
「僕は変人のほうが好きだけど」
壊れる。
「また頭痛くなってきた。本当は過去想起はしないほうがいい。再発するから」
「何が」
「僕のビョーキ。発作だよ。君は見たことなかったっけ?」
「発作?」
「何だろう。急に意識が途絶えるんだ。白塗りになるか黒塗りになるかわかんないけど。で、目が覚めるとベッドの上。それがあまりにも頻繁になると入院。そういう仕組み」
破片だけ。
「君は死ななくていいよ」
誰ガ本気デ死ネバナンテ。
ダレがホンキでシねばなんて。
「そろそろ寝ない?」
「親友とか迷惑なんだけど」
「君は僕に死ねって言ってくれる唯一の人間だからね」
気ガ楽ニナレバト思ッテ。
キがラクになればとオモって。
「寝ないの?」
「そのうち」
「お姉さんがいないのは君のせいかな」
「なんで」
「僕の勘は当たる。酷い言い方だけど間引きかな」
「じゃあ死んでるわけ?」
「そうは言ってない。この家にいないだけ。違う?」
散らばって。
「そっちこそ寝れば?」
ダレガ。ホンキデ。
死ねば。
ナンテ。
「うん、寝るよ」
キガ。ラクに。
なれば。
とオモって。
「なんでキワイなわけ?」
「キワイはからかうと面白いから」
「基本いじめじゃない?」
「僕の母親を自分の憧れの先生だと思い込んでるみたい。そこを重点的に話題にすると相当愉めるよ。そういう先生も学校にいないしさ」
シにたいなら。
「最悪」
「僕の母親はとっくに死んでる。だから残念だけどその憧れの先生じゃない。キワイに会ったらそう言っといて」
「せっかく助けてもショック死するんじゃない?」
「どうかな。むしろ喜ぶと思うよ。冥土の土産に」
地獄でも。
テンでも。
「誰でもいいわけ?」
「特にこだわりはないね」
イけばいい。
「一緒に死んでくれる?」
オレガイルカラ。
シナナイデ。
7
お姉ちゃんが好きだった。
でもシカさんはお姉ちゃんのことが好きじゃなかった。
お姉ちゃんじゃなくて私のほうを気にしていた。
だから嫌だった。
お姉ちゃんの婚約者のはずなのに、どうしてお姉ちゃんを裏切るの?
お姉ちゃんはお姉ちゃんで別にシカさんのことが好きじゃないって言うし。
むしろ嫌いだって。
シカさんに模試会場に送ってもらったときにもう一回聞いた。
お姉ちゃんのことをどう思ってるか。
シカさんは不思議そうな顔をして言った。
「せりあは君でしょ?」
違う。
私はお姉ちゃんじゃない。
持ってたナイフをシカさんに突き刺した。
シカさんは抵抗しなかった。
「ごめん、ごめんね」
何度も何度も謝ってた。
私は模試が始まっちゃうから車を降りた。
なのに、シカさんが死んだから模試を中断することになっちゃった。
先生が迎えに来てくれたのは嬉しかったけど、先生とお姉ちゃんが通じてるのがわかって嫌だった。
家に帰ったら、お姉ちゃんが泣いていた。
好きでもないのに。
嫌いな男が死んだだけなのに。
お姉ちゃんは私に言った。
あいつはあんたがやったことを黙ってたくて、救急車を呼ばなかった。だから間に合わなかった。
そんなの知らない。
お姉ちゃんは私を責めたいみたいだった。
私のせいじゃない。
じゃあ誰のせい?
なんでお姉ちゃんは泣いてるの?
私はお姉ちゃんのためにやったのに。
そんなこと誰も頼んでない。
あいつはあんたのために捜したのに。
要らない。
私は好きな人がいるの。
シカさんじゃない。
際居先生。
先生のことが好きなの。
邪魔しないで。
邪魔するならお姉ちゃんも要らない。
消えて。
消すのは簡単。
だって、
お姉ちゃんは。
私の中にいるだけだから。
ああ、先生。
こんなに悪い子な私を。
殺してください。
8
夏休み中に受けた全国模試の結果が来た。忘れた頃に郵送されたので封筒を開けるまで思い出せなかった。開封後もしばらく現状を把握できなかった。
また二位。
きっとNが一位。点取りに興味がなくたって大学にいたって全国模試のトップはNに決まっている。各教科の最高点を見れば一目瞭然。
全部フルスコア。いくらマークシートとはいえ確率的に不可能。
N以外あり得ない。あってはならない。認めない。
階段を下りようと思ったら際居の声がした。呼び止めようという魂胆が見え見えなので無視する。
「また二位だってな」
「それがなに?」
「それがお前の限界じゃねえの?」
靴を履いて外に出てもまだ追ってくる。ストーカという語句は際居のためにあるような単語だ。しかし以前より幾分か大人しくなったような気もする。棺桶に閉じ込められたショックが尾を引いているとしたら、ずっと入っていればよかったのに。
助けたことを後悔しているわけではないが、嫌がらせに人生を捧げている際居といえどもある程度懲りたのかもしれない。
「連絡来たか」
「なんの?」
「ヌエジ」
夏休みが終わってから一度も学校に来ない。
「生きてると思うか?」
「どっちでもいいんじゃない?」
暑いから夏、という定義になっているならいまも夏なのだろう。服装も夏のまま。暦はどうか知らない。ほとんどの人間の頭の中が夏のままならやっぱりいまは夏なのだ。
区立図書館に行く前に神社に寄ることにする。遠回りになるが仕方ない。一瞬にして夜になるがそれもまた仕方がない。
おそらく姉はここにいる。
そんな気がする。
賽銭箱に張り巡らされていた蜘蛛の巣はなくなっていた。蜘蛛が撤退したのだろう。
「お姉ちゃんが好きだったんだ」
「へえ」
「シカさんはお姉ちゃんが好きじゃなかったから死んじゃった」
「ふうん」
「お姉ちゃんはシカさんが嫌いだったから死んじゃった」
「あんたは?」
「お姉ちゃんが好きだけど死んじゃってないね」
「ホントに死にたいわけ?」
「殺してほしいみたい」
「それでキワイに頼んだ?」
「うん」
「こんなとこいないで学校行けば? キワイ気にしてたよ」
「先生怒ってない?」
「フツーは怒るんじゃない?」
「オカヅキ君は?」
「別に。ガムもらったし」
朱塗りが剥げて朱色でなくなった鳥居はちょっと押しただけで崩壊しそうな老朽ぶりだった。今現在特に平気なので鵺路は力をかけていないのだろう。寄りかかっているように見えて実は二ミリくらい空間があるのかもしれない。
「オカヅキ君てお姉さんいた?」
「前に言ったはずだけど」
「さっきまでいたんだ。オカヅキ君にそっくりの女の人が」
鵺路は首を動かす。眼で捉えようとしているのではなく気配を察知しようとしているみたいだった。焦点があっていない。
少なくともこの世の事物は網膜に映っていない。
「幽霊かな」
「変装じゃない?」
「名前は何ていうの?」
「忘れた」
「やっぱりいたんだ」
「憶えてないし」
「髪がね、すごい長いの。真っ黒くて。もうひとり髪の長い人と一緒にいたよ。先生を隠すのにいい場所ないですかって訊いたら貸してくれたの。先生を運ぶのも手伝ってくれた。すごく親切な人」
「それが?」
「それだけ。模試の結果来た?」
「二位」
「一位の人って誰なんだろうね」
「変人」
鵺路が笑う。おそらく笑った。
「なんかオカヅキ君、楽しそうだね」
「キワイが元気ないからじゃない?」
「いいことあった?」
「また時間無駄なんだけど」
「ガムは厭きたよね」
今日は持っていないみたいだった。正直に言うとガムはそれほど好きではない。
「死ぬなら止めないから。学校行くのもケーサツ行くのも止めないし。好きなほう取って」
「先生に嫌われちゃたかな」
「そもそも好いてないんじゃない?」
「お姉ちゃんも私のこと嫌いだったかな」
「どうだか」
「先生に言っといて。ごめんなさい。先生の好きな人は死んでません。私は何もしてません。先生を追い詰めるために嘘を吐きました。先生の好きな先生はいまも塾にいます。数学の苦手な人のために優しく数学を教えてくれていますって」
鵺路が鳥居から離れる。石段に向かって歩き出す。平行移動しているみたいだった。エスカレータの段のないヴァージョン。
「飛び降りるなら他にしてくんない?」
「目の前だと迷惑?」
「わかってるなら」
「あっち向いてて」
「そういう意味じゃ」
言い終わる前に鵺路は視界から消える。遅れて音がする。
花火のようだった。
光が先で音が後。
花火をしようと言ったのは誰だったか。もう夏ではないから花火はしたくない。空に上がるのもうるさいから好きではない。
花火は近くで見るものではない。遠くから見るから綺麗なのだ。どん、という轟音しかしない。ただ煙いだけで何も楽しくない。
楽しいはずがない。何を頼りに楽しそう、だとかいいことあった、とか言ったのか。楽しくなんかない。
人が死んだって人がいなくなったってちっとも。
「ここにいた子は?」
社のかげから女が出てきた。漆黒の髪が背中を覆っている。薄っすら笑みを浮かべており、年齢は十代後半から二十代前半。鳥居に触れて周囲をぐるりと見回す。
「さあ」
「そう。何か言いたいことがありそうだったから戻ってきたのだけど」
似たような格好をした女がこちらに近づいてくる。おそらくこの二人は知り合いだろう。それも割と深い。他者を一掃するような視線の会話が見えた。
「オカヅキちたや、て知ってますか」
「さあ、どちらかしら」
笑って。
嗤う。
「いえ、ただの呪文です」
Nは宣言どおりゲリラ的に死ねただろうか。突然電球が切れたみたいに断絶できただろうか。
そんなこと考えたくもない。
9
前のが少しメランコリックだった反省を生かして今回はマニア気味でいこうと思う。ちなみにマニアは何かに熱狂している人のことじゃなくて躁ていう意味だから。鬱の反対ね。そもそもこのマニアも躁から来たわけだから憶えとくといいかも。
どうして前回はあんなにメランコリックだったか考えてみたんだけどたぶん病院に閉じ込められているときに書いたせいだろうね。Y先生が僕のこと詐病だって思ってて苦労したよ。もう一人のM先生は単純だったから好きだったけど。
そうそう、実は君に一つ嘘吐いた。飛び降りてないんだ。飛び降りようとして屋上に行ったらその先生二人が駆けつけてきちゃってね。フェンスの上まで登ったんだけど、M先生がこの世の終わりみたいな顔して止めるもんだから気分を害しちゃって。Y先生なんか飛び降りるんならもっと高いところがいい、とかアドバイスしてくれたんだけどあまりにも他人行儀に抑止しようとするから興醒めしちゃってね。要するに先生たちの演技に見事ハマっちゃったってわけだ。我ながら迂闊。大好きな心理学にしてやられた。さすが天晴れ。
僕の脳に仕込まれている発信機は、僕が強く強く死を希求すると反応するらしくて、危うく先生たちに居場所を突き止められるところだった。というわけで君のことを慮って勝手にいなくなったんだ。君はまだ眠ってたし起こさなかったけど気にしてないよね。書置きとかしたって意味ないしさ。以心伝心とか素敵だよね。君は何らかの残留思念をびびびと感じ取ってくれればそれでいいから。
誰にも見られないようにこっそり寮に帰ったらY先生から連絡もらってね。僕があまりにも勝手なことをするからとか万一の場合を考えてとか、うんざりするような理由でまた入院だってさ。つまらない高校に行かなくて済むのはちょっぴり有り難いけどまったく、せっかく自由に外に出て、て外に出ると具合悪くなるんだけど、とにかく入院だ。またあの白い部屋に閉じ込められる。
閉じ込めとくと安心なんだろうね。部屋は地下だから飛び降りれないし、窓には格子があって抜け出せないし。今度こそドアに鍵をかけられちゃった。でも抜け出そうと思えばなんとでもなるんだよ。隙を見て、てやつだ。そんな気力もないから大人しくしてるだけ。近々またどっか行こうっと。
僕はいろいろ考えた結果、観念的に死ぬことにした。観念的に死ぬというのは響きが最高だ。意味は追々誰かが考えて辞典かなんかに載せてくれると有り難い。君に頼もうかな。そういう仕事興味ない?
ないか。ダメだ。
僕の観念的自殺は確実に成功する。だって観念的なんだから。僕は観念的屋上に観念的に行って、観念的フェンスに観念的によじ登って、観念的に飛び降りる。観念的にさようなら、てわけだ。観念的ってのが玉に瑕なんだけど。まあいいか。あ、ちょっと待ってY先生が来ちゃった。
ふう、と息を吐く。やっと帰ったよ。何をしに来るのかと思ったら大したことない。僕の過去を根掘り葉掘り確認しようとする。僕の歴史の中からとっかかり口を探してるんだろうね。そして僕の父の命令に従って僕を治そうとしている。
治る?
誰が治ってやるものか。だから絶対に僕は治らない。自己治癒力はそんなことに使わない。そもそも治るとかって曖昧な話だと思わない?
治るって何だろう。元の場所に戻る。元の場所ってどこ?
正常。じゃあ正常って何?
異常の反対。異常って何だよ。
ほら、答えられなくなってきた。
Y先生なんか都合が悪くなるとすぐに言葉を濁して帰っちゃう。M先生はもっと悪質。泣きそうな顔で僕を怒鳴りつける。子どもはそんなこと気にするな、とか言いたいらしい。意味不明。解読不能ワールドをゆらゆらと漂ってるわけだ僕の可哀相な脳は。
発信機を取り外せ、て言ったんだけど聞き入れてもくれない。それどころかもっと凄まじい機器を取り付ける計画も持ち上がってるみたい。今度は僕の脳すらコントロール可能な機器かもしれない。そんなことしたら僕の観念的自殺は成功を望めなくなってしまうじゃないか。
観念的自殺を決行します。いやいやダメだよ、そんなことしちゃダメだよ。ううんそうかな。そうだよ。じゃあやめよう、とかいうプログラムが植わってたらそうすればいいのさ。逆らえないから従属だよ。馬鹿馬鹿しい。人間の尊厳とか、倫理とか、学びなおしたほうがいいんじゃない?
特に僕の父さん!
僕のこと好きなのはわかるけど何か勘違いしてるね。最近仲良くしてあげてないから拗ねてるのかもしれない。困ったな。
ううむ、手が疲れてきた。これが君を万年苦しめてる、かの腱鞘炎かな。次にY先生が来たら湿布をして包帯を巻いてもらおうっと。君とおそろいだね。
そういうわけで、僕はたったいま観念的に死ぬから。ああ、楽しみ。ゾクゾクする。字が震えてるからわかるかな。
じゃあね。僕のたった一人の親友。
返事送りたかったら観念的に送って。そうしないとたぶん観念的検閲があって届かないよ。観念的伏字だらけになった君の観念的手紙なんか。
目を通したくもない。
反応算エトルリ引力 伏潮朱遺 @fushiwo41
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