転落己号
伏潮朱遺
1
母親が帰って来なくなった。
といっても不定期には戻っているらしく、朝起きるとダイニングのテーブルの上に幾ばくかの紙幣が置かれていることもある。それを使って何とか暮らせということなのだろう。元来無駄遣いをしない性質なのでそろそろ隠し場所に困ってきた。
艮蔵としきは欠伸を堪える。
ありがちな夕刻の河川敷。特に出向くつもりもなかったが暇潰しだと嘯いて話を聞いてやることにした。だが如何せん、相手が興奮しすぎているのかまったく脈絡を得ない。
また欠伸が出そうになる。
「つまりなんだ」
「はあ? てめえざけてんのか」
ふざけているわけではない。こちらは親切に先を促しただけである。不備があるのは伝える側であり、受け取る側にはなんら反省点はない。それをわざわざ指摘するのも面倒なのでもう少しだけ耳を傾けてやることにする。
「忘れたとは言わせねえ。こないだここでお前が」
ようやく話題が輪郭を持ち始めた。ここまで辿り着くのにだいぶ無駄な酸素が浪費された気がする。
リベンジマッチの申し入れ。
しかしここで大きな問題にぶち当たった。それを確かめる必要がある。
「お前誰?」
「はあ? てめえいい加減に」
知らないものは知らない。そう言っただけなのになぜ怒りを向けられなければならないのか。むしろ親切だと思う。こちらはこんなに真摯に対応しているというのに。
呼吸する隙すら惜しい。
としきはうるさい口を塞ぐべく顔面に拳を呉れてやった。クリーンヒット。不細工な顔が水面に吸い寄せられる。
ざまあ。
周囲で見守っていた有象無象が飛び掛ってくる。どうやらいましがた吹っ飛ばした男のシンパのようだ。口々に思い思いのセリフを叫んでいたがただのひとつも聞き取れなかった。
同時に叫ぶからだ。
静かになったな、と思ったら何だかやけに視界が開けていた。代わりに仰向けやらうつ伏せやらの木偶の坊が散らかっている。
掃除は不得意なのでそのままにして逃げる。汗すら出ない。
相手の名前を聞き忘れたことに気づく。どのような理由でリベンジマッチを申し入れたのかも不明。
まあいいか。
春はほの暖かい。頭がぼんやりする。昼寝を充分したはずなのにまだ眠い。歩きながら眠れたらいいのに、といつも思う。
プレイしかけのゲームのことが浮かぶ。難航しているわけではないが流れが単調なため少々飽きてきた。今回はハズレだったのかもしれない。同じタイトルで何作も出されているシリーズなので偶に合わないこともある。仕方ない。
足は自動的に家とは逆方向へ向かう。帰っても誰もいないしすることもない。こういうとき少し考えてしまう。
兄弟姉妹がいたら。
友人は大抵親以外の家族と一緒に暮らしている。年齢の近い人間と住んでいる。しかし実際に欲しいかというとそうでもない。
姉妹は共通話題がなさそうだし兄は何となく要らない。兄がいるという友人が貰ってくれ、としきりに訴えるところから判断しておそらく迷惑な種族なのだろう。
では弟なら。
友人の話を聞く限り否定的な評価は下されていない。歳が離れすぎているせいだろうか。まともに会話が出来る年代になったら兄と同じく要らない種族に成り下がってしまう可能性もある。
難しい。あまり羨ましくなくなってきた。
独りのほうが気楽だ。徒党を組むのは柄じゃない。本日河川敷で伸してやった連中も意味もなく集団を作っている。学校も集団。家族も集団。二人以上はもれなく集団。
また欠伸が出てきた。
夕飯を何にしようかと考える。金ならある。だが金をかければ絶対に美味しいものが食べれるのかというとそうでもない。食べたいものを食べるから美味しいのだ。またラーメンにしよう。
家事は一切出来ない。だいぶ昔の記憶だが母親がやっていたのを見たことがある。食事や掃除、洗濯。どれも面倒くさい。家庭科の時間が一番眠くなる。だがそういうのは女性がやるべきだとは思わない。やれる人がやればいい。そう思っているからいつまで経っても身につかない。
栄養面に偏りが出そうだが特に気にならない。調子が悪くなったらその時考えればいい。身体も馬鹿ではない。脳にいろいろ命令されずとも故障すれば動きが優れなくなる。
会計を済ませて外に出る。最短距離で帰るのが惜しいので違う道を通ってみる。方向音痴ではないらしく適当に道を曲ってもいつの間にか家の前に着く。特技なのかもしれない。
ここはたぶん初めて通る道。見覚えのない建物が連なっている。出来損ないの唐揚げのような街路樹の間を歩く。まだ日は沈んでいない。あと二時間は平気だろう。時計を持っていないが何となくわかる。
気配。後ろ。
全速力で走る人間がとしきを追い抜いていった。同年代くらいの男。両手いっぱいの大荷物。それにしてはスピードが速い。
前方。落ちた。
しかし男はそれに気づくことなく駆けていってしまった。としきは落としたものを確認する。
本?
書店の袋に入っている。買い物袋の上にのせたままそれを忘れて走ってしまったのだろう。どこから駆け出したのかは不明だがここでようやく重力に屈したわけだ。
どうせすることもないので届けてやることにする。としきは読書の趣味はないが本好きにとって本を落とすことは相当の苦痛だと想像できる。しかもまだ読んでいないのだ。としきの場合のゲームに置き換えるとよくわかる。買ったばかりのゲームをその帰宅中に落としてしまったら。
悔しい。というより腹が立つ。
男は周囲にはいない。とりあえず走っていった方向に向かってみる。出来損ないの唐揚げのお陰で一本道。このまま進めば。
いた。
しかし相手も相当速い。
競争だ。
勝負事となると負けるわけには行かない。遠くから声をかけて呼び止めるなんて絶対にやりたくない。
追い越して前から渡す。
夕食前のいい運動だ。河川敷での喧嘩らしき催しはちっとも盛り上がらなかった。そもそも盛り上がりたくてわざわざ出向いてやったというのに。弱い。いや弱いなんていうものではない。
へなちょこ。
それがいい。面白くて気が抜ける。駄目だ。
追い越す。そう決めた。
銃だったら射程距離。頭を撃ち抜ける。
ゲームのしすぎだ。現実と虚構の区別がついていない。そういう連中が河川敷にのさばっている。最初はその掃除をするつもりだった。柄にもない。掃除なんか不得意中の不得意なのに。
することが欲しかっただけ。
そんな気がする。
あと数メートル。
抜いた。停止。
男も急停止。
袋を差し出す。
「落としましたよ」
やった。勝った。
「どうも」
相当驚いたらしい。返答までにだいぶ間があった。
「おかえり」
低い声がした。
としきは周囲を見回す。そういえば唐揚げの出来損ないが途切れている。ということは。
曲り道。
そこに小柄な人物が立っている。
「おい、なんで」
男が一目散に駆け寄る。狼狽しているように見えた。
「あまりにも遅いから」
「でも」
「買ってきてくれた?」
「あ、それは」
視線。としきの手元。
まだ受け取っていなかった。
「うっかり者のテンギ君がこの近辺で落として、それを親切な君が拾ってくれたのかな」
凄い。まるで見てきたような。
「どうぞ」
「ありがと」
男が反射的に威圧的な視線を向ける。こちら側に非があるとは思えないのでとしきは多少ムカついた。
「テンギ君。完璧に君が悪い」
男が渋い顔をする。
「礼はさっき言ったから」
あくまでも謝らないらしい。この男しかいなかったら一発喰らわせていたな、ととしきは思う。
「テンギ君が感謝の意を表さないなら僕が表そう。狭いアパートだけど寄っていかない?」
「は? お前何言って」
「じゃあ謝罪できる?」
男がとしきを捉える。数秒間の沈黙。
「悪かった」
棒読みだった。
やれやれ。
「じゃあ改めてアパート寄ってかない?」
「おい、なんでそうなる?」
「いいじゃん。そろそろ話し相手が欲しかったんだ」
「俺がいるだろ」
「飽きたよ」
「飽きたあ?」
「マンネリって言うんだと思う」
男があからさまに厭そうな顔をして舌打ちをする。
なんだか柄が悪い。
「勿論君が厭じゃなければ、の話だけど」
としきは男を横目で見る。物凄い形相で睨んでいる。
親しい友人の家に遊びに行くのとは違う。祖父母の家に厄介になるのとも違う。完全な他人。しかもいまさっき会ったばかり。縁があったのかどうかもわからない。
「それが夕食?」
小柄な人物がとしきの買い物袋に目を遣る。
「奇遇だね。僕の夕食もラーメンだよ」
「そうだったか?」
「今決めたよ。というわけでもう一回行ってきて」
「はあ? お前、俺がいまどれだけ苦労して」
「ラーメンが食べたい」
男が顔を引き攣らせて買い物袋を地面に捨てる。荒々しく方向転換して全速力で駆け出した。
としきはその後姿を見送る。
ざまあ。
「一緒に食べようよ」
としきはもう一度その小柄な人物を見る。
黒縁のメガネ。髪は短いともいえないし長いとも言い難い。背の高さで判断するなら同年代か少し上。童顔というカテゴリを考慮すると年齢は更にぼやける。
としきは何となく見ないようにしていた腹部を一瞥する。太っているにしてもなんだか不自然な膨らみ。
妊娠中。だと思う。
「珍しい?」
「あ、いや」
見ているのが気づかれた。ばつが悪くなる。
「出来れば短気な誰かさんがそこに捨てていった荷物をこっちに運んでくれると嬉しいんだけど」
いつの間にか訪問することに決まっていたらしい。どうせすることもないし本を拾ったついで、と言い聞かせてとしきは袋を持つ。
小柄な人物がゆっくり進むあとをついていくのでなかなか辿り着かない。アパートとやらまで凄まじく遠いのだろうか。
「テンギ君のこと許してあげてね」
距離のことを尋ねようとした矢先に先手をとられた。
「僕がこんなだからストレス溜まってるみたい」
「いや別に」
「ありがと」
それから五分ほどかかってアパートとやらに着いた。としきの足なら二分かそこらの距離だった。
それほど古い建物ではない。しかし新しいかというとそうでもない。階段を上がりづらそうだったので手を貸す。部屋は二階の一番手前。表札は出ていない。
「それ、こっちに」
としきは買い物袋をキッチンまで運ぶ。中身はほとんど食料品だった。卵がなかったのは幸いだが変形しているトレイが哀れだ。
「悪いけど冷蔵庫にしまってくれるかな」
小柄な人間はソファにごろりと寝そべっている。手には先ほどとしきが拾ったらしき本。早速読むらしい。
冷やしたほうがよかれ、と思われたものをすべて冷蔵庫にぶち込む。冷やさないほうがいいだろう、と思われたものはそのまま袋に残し床に置いておく。
1Kというのだろう。狭すぎて収納場所が見当たらない。棚があるならそこに仕舞ってもよかったのだが勝手なことをされても腹が立つに決まっている。短気だという情報もある。
「ありがと」
「いや」
「さっきからいや、しか言わないね。遅くなったけど自己紹介。僕はいおら。君は?」
「カタクラ」
いおらと名乗った人物が目をぱちくりする。がん見とまでは行かないがじろじろ見られている。
「カタクラってうしとらに、難しいほうのくら?」
「うしとら?」
「あ、えっとね」
いおらが書店の袋に何かを書いて差し出す。そこに下手なのか一概にそうとも言い切れないような不思議な文字。
艮蔵。
「合ってます」
いおらは凄く意外だったらしく何度もそうなんだ、と呟く。無理矢理自分を納得させようとしているみたいだった。
としきもよくやる行動。不合理なことがあったときは呪文のようにそれを唱えて自分に言い聞かせる。今日も何度もお世話になった。
同じ癖。
「カタクラだと何か」
「ううん。なんでもない」
怪しい。何か思い当たったに違いない。
「母と」
「いいの。気にしない」
「じゃあ」
ドアが開いた音。男が帰ってきた。
「てめえ性懲りもなく」
「荷物を運んでもらったんだ」
「さっさと帰せよこんなガキ」
「そうだね」
さっきと態度が違う。無理矢理ここに連れてこられたのに、今度は無理矢理追い出されようとしている。
なんという理不尽な集団。
男が迷惑至極な顔をして玄関のドアを開ける。
「ほら、二度と来んなよ」
いおらが申し訳なさそうな顔をして、としきの手に何かを握らせた。紙。先ほど字を書いた書店の袋の切れ端。男のほうに視線を遣って首を振る。
内緒に、と言いたいらしい。
としきはそれをポケットに放り込んで外に出る。間髪入れることなくドアが閉められた。物凄い乱暴な音が反響。
追い出すなら最初から呼ぶなよ、と思う。
としきは癖を実行しながら帰路についた。
2
次の日は学校をサボった。
実はそれほど真面目に通っていない。他にすることがないので仕方なく登校しているだけ。授業もさっぱりわからない。きっと置いていかれているのだと思う。
しかし今日は、することがある。
そうなると暇潰しに通っている学校は蔑ろになる。他の暇潰しが思いつけばそっちに飛びつく。単純な優先順位設定。
要するに何でもいいのだ。いろいろなことを忘れて従事できることなら何でもいい。法に触れない程度ならどんなことでも。
いおら。
名前なのか名字なのか。おそらく後者だろう。としきも艮蔵、としか名乗っていない。初対面なら氏だけで構わない。帰り際に貰った切れ端を思い出す。
明日の午前中にまた来て。
あの不思議な字でそう記されてあった。
おそらく午前中には男が留守なのだろう。どうも歓迎されていないようにしか思えないが。
艮蔵。
これがネックだ。いおらは何かを知っている。知っているからこそ追い出された。そんな気がする。予想は二つ。
母の居所。
知りたくないかといわれれば嘘になるがもうどうでもよくなって久しい。母の不在はラーメン愛好暦に等しい。しかし何をしているのかは何となく想像がつく。
男。
それしかない。母親が子どもを置いて出掛ける場所は、パチンコか男のところと相場は決まっている。
特に気にならない。男を連れてきたいのなら堂々と紹介なりすればいいと思う。再婚するならすればいいし同居したいなら勝手に住めばいい。勇気がないのだろう。
優しいが故にどこか強気に出られない。
母はそんな印象。
もうひとつの可能性。できる限り考えないようにしてきたこと。これを忘れたいがために必死に暇潰しをしているように思えて仕方がない。
父親。
顔すら知らない。名前は偶に母が唱えていたので聞いたことがあるがもう忘れた。
としきの記憶は前いた大きな屋敷から始まっている。母以外にもたくさんの人がいた。彼らは口々に可哀想に、と言った。
何が可哀想なのか。
それがわかったのはだいぶ後。よくあるパターンだが親戚か何かがこっそり話しているのを耳にした。その日に限っては母は出掛けている。これもセオリィ。
母を捨てて出て行った最低の男。
結論から言うとそうらしい。
だが母は父親を責めたことはなかった。親戚や両親が幾ら肯定しても尚、たったひとりで否定し続けた。
違う、あの人は。
なんだというのだろう。別に庇う意味はないと思う。そんなに愛しているというのか。それとも単に認めたくないだけか。
離婚はしていない。母は決して左手の薬指の指輪を外そうとはしなかった。だから艮蔵という忌まわしい姓を名乗り続けなければならない。それだけが苦痛だった。
結局あの大きな屋敷から引っ越した。両親や親戚一同に何やかや言われるのに耐えられなくなったのだろう。
引っ越してから母は家を空けるようになった。
勿論仕事である。母は医師だ。としきが出掛けるのと同時に病院に向かい、としきが寝た後に帰ってきた。勿論帰って来ない日のほうが断然多い。それについては特に何も思わなかった。医者は大変だなあ、と思ったくらい。むしろ働きすぎで体を壊さないかと心配していた。
そして、顔を見なくなってまた久しい。
再び唐揚げの出来損ないと向き合う。もしかしたら単に唐揚げが食べたいだけかもしれない。今日の昼はそうしよう。
新しいのか古いのかわからないアパートの階段を上がる。かんかんと音がする。二階で最も番号の若い部屋のチャイムを鳴らす。
しばらく待った。
もう一度押そうかと思ったときドアが開く。
「おはよう」
いおら。
「テンギ君はいないから安心して」
やはり男は留守らしい。バイト等働きに出ているのだろう。部屋は狭い。ソファがあるから尚狭く感じる。
いおらがソファを占領しているので床に座った。
「昨日はごめんね。吃驚しちゃって」
「カタクラというのは」
それを訊きたかった。としきは相手が拒否しない限り知りうることはすべて開示して欲しいタイプなので家についてからもずっとそれを考えていた。
母か。あの男か。
「下の名前訊いていい?」
「としき」
「としき君て呼んでいいかな」
「なんでも」
いおらはサイドテーブル上のペットボトルを手に取る。
「僕は君のお父さんを知ってる」
後者だった。
「どういう知り合いですか」
「患者と主治医。もちろん僕が患者」
「どっか病気なんですか」
「うん。不治の病」
つい、いおらを見る。発言内容の割に淡々とした口調だったため思わず目がいっただけだが。
「いまも」
「どうかな。もう主治医じゃないよ」
父らしき男は医師なのか。
母と同じ。
としきは壁際を見遣る。本がみっしり詰まった棚。
「いおらさんの病気は」
「だいぶ落ち着いたけど偶にちょっと出るね」
「出る?」
「発作ってわかる? 突然苦しくなって気を失うんだけど。以前より回数減ったからこうやってフツーに暮らせるんだ」
フツーに。
ということは。
「入院してたんですか」
「そうだね。長期療養ってやつかな。実は一歩も外に出られなかったんだ。不治の病のお陰で」
それは。
つらい。
「もう退院を」
「ううん。本当は外に出ちゃいけない」
「え?」
まさか。
いおらは頷く。
「逃げてきちゃった」
「いいんですか」
「わからない。見つかったら強制送還だろうけど。いまのところ発見されてないわけだし」
ここに隠れているのだ。
絶対にそう。
いおらの腹部を見てしまう。
「これのせいで逃げたんだ」
どういうことだろう。病院にいると産ませてもらえないとでもいいたいような口調。それに。
相手。
「あの」
「テンギ君の子じゃないよ。テンギ君はいとこ」
あの男は恋人ではないのか。
だがどう見ても。
「テンギ君は僕が好きなんだよ」
「いおらさんは?」
「僕も好き。だけど」
もっと好きな人がいる。
そんな口調。
「じゃああの人片想いですね」
「そうみたいだね」
嗤う。
ざまあ。
「独占欲強そうですね」
「そうなんだ。だから君にああいう物言いだったわけだね。ごめんね」
「いや」
おそらくここは、あの男の部屋。他の男を根こそぎ排除せんとするあの攻撃的な眼差しも、愛するいとこを匿うため。守るため。相当の精神がないとやっていけない。
ちょっとだけ見直す。
「としき君のお父さんだけど」
「すんませんが、父って呼ばないでくれますか」
父と認めた覚えはない。
「もしかして嫌い?」
「嫌いもなにも、顔だって」
一度くらいその汚い面を顔を見せにこればいいのに。
そうすれば。殴ってやれる。
名前も顔も知らないが故に苛々の捌け口がない。だから河川敷の奴らの顔が変形するのだ。
「君とは似てないよ」
「それならいいですけど」
「でも」
視線。
「顔以外はそっくり」
不快になる。そんなことを聞きにここに出向いたわけではないのに。
「カタクラって聞いたときは本当に吃驚したよ。まさかこの近くに住んでたなんてね。地名は知ってたけど」
「話変えませんか」
「ああごめん。嫌いなんだっけ」
「その男はいまどこに」
「知りたい?」
「当然です」
訊こう。そして。
気が済むまで殴ってやる。
「そうだなあ。僕の最後の記憶だと入院してたとこだけど。たぶん研究所じゃないかな。そっちが大元なわけだし」
「どこにあるんですか」
「本当にいいの?」
「なんでですか」
「フツーは嫌いな人には会いたくないんじゃないかな」
「嫌いだからわざわざ会いに行くんです。向こうが来ないならこっちから行くしかないんで」
「会ってどうするの?」
「ぶっ殺す」
「死んじゃうよ」
「じゃ半殺しで」
いおらが瞬きする。
「君、本当にそっくり」
腹が立った。それを言わないで欲しいといったばかりなのに。相手がいおらじゃなければ。
「殴ってもいいよ」
「は?」
「僕は殴られたことないから。試してみたい」
何を言ってるのだろう。殴られたいと思う人間などいるはずがない。殴られたくないから相手より先に殴る。それが常識だ。
なのに。
いおらは。
「あの、お腹の」
「別にいいよ。顔にすれば問題ない」
「でも」
「僕は殴れない?」
殴れるはずがない。殴れと頼まれたってお断りだ。こんな些細な理由で殴れたり。
した。
殴っていい理由など存在するわけがない。正当防衛でもない。相手に戦意がないとは言い切れないが、それを差し引いても絶対にとしきが悪い。
悪い。
悪いことをしていた。
多少ばつが悪くなる。
「いいよ」
「出来ません」
「どうして」
「無理です」
「理由ならあるよ。僕が君に不当なことを言った。それじゃ駄目かな」
「駄目です」
「じゃあカタクラ先生も殴れないね」
艮蔵先生。
母の名前かと思った。
違う。いおらが言うのなら。
あの男の名。
「カタクラ先生は殴らないで欲しい。僕の発作がここまで寛解したのはカタクラ先生のお陰なんだ」
「一応いいことはしてたんですか」
「いいことなんてもんじゃない。カタクラ先生がいなければ僕の友だちも全員殺されてた」
殺されて。
あの男は命を救ったのか。しかしそれは医師の仕事のうち。当然のことだ。命を救ってこその医者。それが出来なければ。
辞めるべき。
医師としては一応合格らしい。
「すんません」
「ありがと」
見るべき場所がなくて困る。とりあえず床の絨毯を眺めてみる。
「としき君のお母さんてどんな人?」
まさか訊かれるとは思わなかった。
考える。
「やけに元気な人ですかね」
「やけに? 無理してるってこと」
「そういうんじゃなくて。なんというかノリが変というか」
「ノリ?」
上手く説明できない。これは実際に会ってもらわないことにはなんとも。
「雰囲気が変なの?」
「そうとも言えますかね」
「ふうん。面白そうな人だね」
事実、面白いだろうと思う。母の言動は突っ込み封じなのだ。しかし本人がボケているのかというとそうでもない。両方を一人でやって周囲の人間を残らず傍観者にしてしまうのだ。
「いおらさんは」
「僕? いないよ。両方とも」
まずい。訊いたら訊き返すのが礼儀だと思って軽い気持ちで話題転換を試みたのだが裏目に出た。
「すんません。俺」
「いいよ。正しくはいた、だから」
「亡くなって」
「だと思う。実際に死体を見てないからわからないけど」
死体。
出来れば見たくない。肉眼でも写真でもご免だ。
「としき君、きょうだいはいるかな」
「いえ。ひとりです」
「じゃあ僕と同じだ。僕もひとりっこ」
孤児。
この言葉が浮かんだが言わないことにした。
「そういえば今日学校だよね。僕が呼んでおいて変な話だけど」
「気にしないでください。あんなとこ、暇つぶしに行ってるようなもんなんで」
「暇潰し?」
「家にいても特にすることないんで、仕方なくガッコ行ってるってことです」
「じゃあ学校は面白いの?」
「いや、駄目ですね。授業なんかなにやってるかわからないし、座ってるとすぐ眠くなるし、先公はうるさいし」
「線香って静かじゃないかな」
「あ、煙出るほうじゃなくて教員のことです」
知らないのだろうか。
そうか。
ずっと入院。たぶん学校にも。
「ふうん、変な呼び名があるんだね。エテ公みたいだからきっと馬鹿にしてるんだろうけど」
「馬鹿にしてるんです。あいつら俺らのことクズかなんかとしか思ってないから」
「クズ? ずいぶん酷いところなんだね」
「もう最悪です」
「そうか。それでテンギ君もあんなに厭々」
「ん?」
「何か変?」
「えっとあの男の人は」
働いて。
「高校生だよ」
「は?」
「何かおかしいかな」
おかしいだろう。いとこを匿うのにはお金がいるはずだ。のんきに高校なんて行っている場合では。
「テンギ君てそんなに老けてる?」
「いや、歳はそんくらいだと」
「じゃあ何? お金のこと? それなら平気。僕はこう見えてお金持ちだから」
不治の病で長期入院していた金持ちの子。
そういうことか。
「テンギ君もバイトに行ってるし。経済面は心配ないね」
凄まじいバックヤードを持つ人間かもしれない。
いおら。
「じゃあ逃げたってのは」
「本当は逃避行をしたかったんだけど、相手の人を置いて来ざるを得なくなっちゃって。だからひとり」
周囲に反対されたのだろう。
子どもを身篭った。
相手は既婚者なのかもしれない。しかし不倫なら別にひとりで逃げる必要も。相手の配偶者にバレたのか。それなら逃げても。しかし何となく腑に落ちない。
何か。
何か重要なことを隠している気がする。
「じゃあ入院してたとこからここまで?」
「相手の人もね。いまもそこに」
たったひとりで逃げたのだろうか。
何も言えなくなる。
「そんな顔されると胎教に悪いからやめてね」
「あ」
それ以上の言葉が出ない。言っていい事と言ってはいけないことの区別が出来ないからただ黙っているしかない。
「テンギ君に助けてもらったんだよ。僕一人じゃとても生きていけない。だからここに転がり込んだんだ」
それは何となくわかった。
だが黙るしか。
「もう訊かないの?」
「あ、いや」
「そう? 折角話し相手が出来たのに。残念だよ」
話し相手。
いおらのいとこが高校生なら朝から夕方まで留守だ。バイトに行っているなら尚更。
ひとり。
さびしい。
「それで俺を」
「迷惑だったかな」
「いや、俺が来たくて来たんで」
「よかった」
学校にいるより、河川敷にいるより、家にいるより。
ずっと。
たのしい。
「あ、そうだ。いおらさんて名字ですか」
「違うよ。名前。僕がつけた偽名」
「偽名?」
「そう。ここに隠れているから」
「名字は」
「いおらのときはない」
「ない?」
「そう。いおらはただのいおら。家族がいないから」
家族がいない。
そもそもいおらは家族がいないのでは?
「え、じゃあさっきの話は」
嘘。
経歴詐称。
「ううん。それは僕の話。でも子どもはいおらが産むから」
意味がわからない。
いおらと僕という人は別人だとでも言いたいような。
「僕は男なんだよ。だから僕には子どもは産めない。子どもを産みたくても産めないから代わりにいおらが産んでくれるみたい」
「えっと体と中と性別が違うっていう」
「ちょっと違うかな。僕はもともと男なんだ。でも子どもが産めるいおらっていう子もいる」
「じゃあ二重人格とか」
「それも違うね。それはそれで面白いけど」
ちっともわからない。
「わからなくていいよ。僕にもわからないから」
「へ?」
「わからないんだよ。ぜんぶ」
本人にもわからない。それなら部外者にはもっとわからない。そんなんでいいのだろうか。
「そんなもん、て思ってくれないかな」
「そんなもん、ですか」
「そう。仕組みはよくわからないけどそれがあるってことはわかるでしょ。だからそのまま受け取って欲しい。僕は僕だし、いおらは子どもが産めるって」
「はあ」
そのまま。あるがまま。
出来るだろうか。
「出来る出来ないじゃない。これはやろうと思わないと出来ないんだ。としき君なら出来るよ。そんな気がする」
「そうでしょうか」
「ほら、もうそんな気がしてる。見込みがあるなあ」
「見込み?」
「うん。そういう親切な人が僕みたいなわからない主義者の友だちになってくれると僕はとても生きやすい」
友だち。
いおらと。
「なってよ」
「それはもちろん」
「ありがと」
何だかくすぐったい。
初めて友だちができたときのような何とも言えない感覚。
「お腹空いたね」
昼食はいおらと食べた。
料理ができないと言ったら役に立たないと散々文句を言われたが、昨日あの短気な男が買いに行かされたラーメン(鍋で調理するタイプ)がまだ残っていたのでそれを調理したら態度が反転した。
そもそもいおらは態度が変わりやすい。わかりやすいようなまだ裏があるような。不思議な人だと思う。
「テンギ君のより美味しい」
「それは嬉しいですね」
また勝った。
足もとしきのほうが速い。だがとしきは他の料理は出来ないので引き分けという線もある。
「これも美味しいね。なに?」
「唐揚げです。たぶん鶏肉だと」
あの街路樹を唐揚げの出来損ないと評した原因がわかった以上それを満たさないわけにはいかない。どこの店が美味しいのかわからなかったので一番近い店にしたのだが。
「今度テンギ君に作ってもらおうっと」
確かにこれは美味い。運動の効果かもしれない。いおらを待たせている。コンマ一秒でも速く走れ。全速力で帰路を駆ける際に何となくあのいとこの気持ちがわかった気がした。
気のせいか。
「としき君てお母さんの料理食べてるの?」
「いえ、母は帰ってこないんで」
最後に食べたのはいつだったか。遙か昔だったように思える。
「君を置いてどっか行っちゃったのかな」
「たぶん男じゃないかと」
「カタクラ先生は?」
「え?」
「カタクラ先生は知らないの?」
「さ、さあ」
いおらは箸を持ったままテーブルを見つめている。
「それって不倫かな」
「そうでしょうね。離婚はしてないと思うんで」
「そっか」
沈黙。
何か。
何か思い当たった。
「あの、何か知ってるんじゃ」
「知らないよ」
「母の居場所とか」
「僕は君のお母さんに会ったことない」
ではなんだろう。
母でないとするならやはり。
「カタクラ先生は捨てられたのかな」
「息子の俺のとこに帰ってこないってことはたぶん」
いざ人前で口に出してしまうとずいぶんひどい母親のような気がする。もしかすると捨てられたのはあの男だけではないのかもしれない。
自分も。捨てて。
「離婚は?」
「さあ。ずいぶん前から顔も見てませんので」
「そっか」
いおらの様子がおかしい。淡々と喋っていたさっきまでの無関心そうな口ぶりとは打って変わって。見た目にはまったく変化はないがわかる。
何となく。
違う。
「離婚してたほうがいいんでしょうか」
「どうだろう。僕が決めることじゃないし」
その通りだ。勿論としきが決めることでもない。
「カタクラ先生は」
唐揚げをつかみ損ねた。いおらが急に話し出したので吃驚した。
「どうしてるんだろう」
独り言だ。
としきは黙る。
「元気かなあ」
3
ちょうど食べ終わった頃、いおらが昼寝をするといったのでお暇することにした。平日のこの時間なら短気ないとこはいないらしい。当然だ。としきも本来なら学校である。来たかったらいつでも来ていいといわれた。
さすがに毎日は無理だが週三くらいで、と約束して外に出る。
昼過ぎ。太陽が高い。
いまから学校に行くか。それも微妙。他にすることを考える。学校と帰宅以外で。
あった。
ただしいるのか不明。むしろわざわざ会いに行くと付け上がる。そのツラが容易く想像できる。
しまった。いつの間にかアパートの前まで来てしまっていた。自動歩行というやつだろうか。この辺りでウロウロするのはさすがにまずい。ただでさえ神出鬼没。それにこれでは。
会いに来たといっているような。
「あれ、先輩」
早速見つかった。
「張ってたんじゃないだろうな」
「いえいえまさか。ちょうど時間でして」
「こんな時間からか?」
「こんな時間からだから、です。説明しましたよね」
暇な大学生。
「ああ、ガッコ行ってないやつらの」
「今日は講義ないので」
歩く。ついていっているみたいで悔しい。
「先輩またサボってますね」
「いいんだよ。今日は家庭科があるんだ」
三仮崎がニヤリと笑う。
「教えましょうか。僕、大得意ですよ」
「暇すぎだろ」
「そういえば、昨日またやったでしょ。視ましたよ河川敷」
「け、趣味わる」
「今度はどこのグループが吸収合併でしょうか」
「さあな。いちいち名前なんか憶えてねえよ」
「それはそれは。先輩らしい」
駅に着く。
「お暇ならご一緒にどうですか」
「は、誰が。大体ガッコ行きたくないんなら行かないでいいっていうのが俺の持論だからな。そういうやつは駄目だろ」
「そうですね。先輩が演説されたらシンパが増えそうですしね」
「どういう意味だよ」
三仮崎がわざとらしく肩を竦める。
「では、失礼致します。ケンカの際には是非ご一報を」
「そういうのは参戦できるようになってから言え」
「いえいえ滅相もない。先輩の足手纏いにしかなりませんよ。それに僕は平和主義者なんです」
「平和主義な奴はケンカに興味はない」
「争いの背景に興味があるんです。そこを研究したいわけで」
「は、勝手にしろ」
「喜んで」
としきは方向転換する。三仮崎が何か言ったようだったが面倒だったので無視した。
何をしているのかいまいちよくわからない。
心理学というのが三仮崎の専攻らしいが、そういうのは心とか精神とかを扱うのではないのだろうか。どうしてケンカが心理学に含まれるのか意味不明。もしかしたら三仮崎が勘違いしている可能性もある。そうか。
暇だな。
三仮崎との出会いは中三のとき。ケンカの頻度はいまより格段に多かった。三仮崎に言わせれば荒れていたらしいが、としき本人としては荒れていた覚えはない。
いやあ、お強いですね。
これが第一声。どういうわけか憶えている。褒められたのが初めてだったからかもしれない。なんだが単純な中坊である。
先輩。
あまりにもしつこいのでもう反論する気も起きない。許したつもりはないので黙認だろうか。年齢的にもおかしい。後でわかったのだが同じ中学出身らしい。それなら三仮崎が先輩だと思う。絶対にそう呼びたくないが順番的に間違っていない。
いま思えば見事にしてやられた。三仮崎は計算ずくで下手に出ていただけだった。河川敷で暴れる一匹狼的不良に近づくには従順な子分が相応しい。
暇なのだ。
ケンカの観戦というよりは、ケンカの背後事情に興味があるらしいがどちらでも大差ないと思う。どこのグループが強いとか、どこのヘッドがどの辺りで縄張りを張っているだとか。
つまらないだろうに。
としきは生憎どこのグループにも加入していないためそんなことどうだっていい。気が乗れば戦ってやるし、気が乗らなければ立ち去る。
またすることがなくなった。
4
次の日は土曜日。いおらのところに行こうにも平日以外は歓迎されない。あのいとこが目をぎらぎらさせているに決まっている。
本当にすることがない。午前中はゲームをして潰せたがそれも飽きてしまった。新たに買おうにもおそらく欲しいゲームはすでに持っている。
欠伸が出る。
とりあえず昼食の時間だから、と廊下に出たとき。
「としき」
母親だった。判断するのに時間がかかった。
そのくらい久し振り。
特に言うこともないのでキッチンに向かう。母がついてきた。
「元気だった?」
「そりゃまあ」
見ればわかると思う。特に話すこともないのだろう。
「散らかってるね」
「掃除しないんで」
母は偶に真夜中に帰ってきてキッチンを整備していくので水回りだけはきれいである。それ以外はあまり褒められたものではない。足の踏み場もない、という状況だと思う。
「お昼まだだよね。一緒に食べない?」
「なんもないっすよ」
「じゃあ外行こっか」
断るのも面倒なので外に出る。
車?
確か免許は持っていなかったはずでは。
「頑張ったんだよ。教官には運転するなって言われたけどね」
「え?」
それは俄かに嫌な予感。
「乗って」
「はあ」
しぶしぶドアを開ける。新車特有の匂い。後ろの座席に誰か乗っている。中坊にしては小さい。
小学生か。患者かもしれない。
「あきとです」
「どうも。俺はとしき」
のろのろと発進。運転がまごついている。
慣れていないことが丸分かり。
「何食べよっか」
「病院寄ってからでいいっすよ」
そういえば今日は休暇なのだろうか。土曜日の午後は休診だった気がする。
ふらふらしている。中央の線に近づいたり離れたり。
「あきとは患者じゃないんだ」
「へえ」
だとすると。呼び捨てだということから考えて。
そうか。
なるほど。
としきは窓の外を見る。
「それで留守に?」
「ごめんね。なかなか話し出せなくて」
だろうと思う。臆病なのだ。
「父親は違いますよね」
左右に揺れた。
「わかっちゃうんだね」
「俺と同じだったら躊躇わないでしょう」
「そうだね」
声が明るい。
空元気なのか。素なのか。
どっちとも取れそうだ。
「離婚は?」
「したほうがいいかな」
「お好きに」
隣。関心のなさそうな顔。
駐車場。
ファミレスか、と思う。
「嫌だったら他のとこにするよ」
「俺は別に」
「あきとは」
「僕も特に」
味気ない兄弟だ。似ているかもしれない。
店に入る。適当に席に着く。
音。
「あ、ごめん」
タイミングがわざとらしいがきっと本当に電話が来ている。
「どうしよ」
「病院ですか」
「そうなんだけど」
「行かれては?」
「でもせっかく」
母があきとを見る。
「どうぞ」
「ごめんね」
母が駆けていった。置き去りという言葉が浮かぶ。
ドラマか何かだと気まずい、という雰囲気になりそうだが特にそんなことはなかった。あきともきっと同じだと思う。
とりあえず注文するためにメニューを睨む。
食べたいものがない。
あきとを見てみる。顔は母には似ていない。
向こうの父親だろうか。
「似てないですね」
「だよなあ」
向こうも同じことをしていたらしい。
笑う。
「あきとって呼んでいいか」
「じゃあ僕は兄貴で」
「兄貴? やめろやめろ。下っ端みたいだ」
「お兄ちゃんよりよくないですか」
確かに。兄さんでも遣りづらい。
「仕方ないな」
「高校生ですか」
「高二。そっちは」
「小四です。今年十歳に」
ということは。
七歳差。
「敬語やめねえ?」
「よかった」
「何が」
「それ、待ってたんで」
敬語の件だろうか。
「そりゃ気が利かない兄貴だったな」
「本当に」
笑う。
「てゆうか食べたいもんあるか」
「実はない」
「出るか」
「問題は母さんは戻ってくるか」
「ないな。あきとはどう思う?」
「賛成」
店員が違うテーブルに気をとられている間に。
出口へ走る。気づかれなかったと思う。
駐車場。
「どこ行くか」
またラーメンというわけにもいかない。
ひとりではないのだし。
「うどん」
「ん?」
あきとの目線の先にそれらしい店があった。
なるほど。
それもいいか。
「おごってよ、兄貴」
「いいぞ。出世払いで返せ」
走る。
少しだけ。
弟のほうが速かった。
5
あきとと一緒に住むことになった。
もちろん、としきが住んでいるアパート。母も戻ってきたが何となく余所余所しい。まだ小学生のあきと、に格好つけて帰らせてもらったという状況から来る自己嫌悪に悩まされているのだろうか。
医師という仕事上、ということにするが、家事はいままでどおり手抜き。としきに代われるはずもないが、あきとは見事に代理を受け持った。親が不出来だとね、と呟きながら何でもこなす。とても七歳下には見えない。足も速いのだ。
兄。ある意味プレッシャか。
ライバルだとは思わないが単に負けず嫌いなのだ。
その優秀な弟の勉学態度といえば、小学校はいまのところ無遅刻無欠勤の皆勤賞だし、テストもほとんど満点。おそるおそる昨年度の成績表を見せてもらったら二の句も告げなかった。としき自身お世辞でもここまで褒められたことはない。
しかし、多少勉強が出来てちょっと足が速いだけだと思ったら大間違いだった。スポーツも総じて人並み以上。性格も冷静沈着。あらゆる観点から見ても非の打ち所がない。さらに生まれてこの方ケンカなどお目にかかったこともないという。今度見せてほしいといわれたときはさすがに首を横に振ったが、もしかすると棲む世界が異なるように思われる。
父が違うとここまで違うのか。
だが本人はそれをちっとも鼻にかけずむしろ無自覚である。あからさまに自慢する優等生というのは迷惑なだけだが、こういうタイプはとしきも嫌いではない。初めて出会うタイプ。
嫌味でないいい子、という人種だろうか。
こんな正反対の兄弟なのでまったく共通項がないかと心配していたがまったくの取り越し苦労だった。
ゲームの好みがまったく一緒。
あきとが前いた家から持ってきたゲームソフトの九割はとしきもプレイ済みで、年期と資金という面から考えてとしきのほうが断然ソフトも多かったのだが、それらはほぼこれからあきとが購入したいと考えていたゲームだったらしい。
「ホントにいいの?」
「いいって。俺、やり込んであるし」
ゲーム愛好家というのは新作を必ず手に入れてクリアしたら即売りその金でまた新作を購入して、という円環を繰り返している人種もいるが、としきにはそれが出来ない。一度自分のものにしたら程度はどうであれ何らかの思い入れが出来てしまうのだ。ハズレだったというゲームですら手放せない。友人に貸すこともあるが結局は自分のところへ戻ってくるのでソフトは増える一方。
「どれからやろう」
「やるつもりのは全部持ってっていいぞ。いちいち取りに来るもの面倒だろ」
所詮はひとり。一度に出来るゲームはひとつ。棚に陳列されてほこりを被っているよりは、誰かにプレイしてもらったほうがゲームも嬉しいだろう。
「じゃ、ぜんぶ」
思わず息を漏らす。
「食えないな、お前」
会話の運びも面白い。同年代と話しているのと大差ない。十年前に生まれていたなら十年前から同じ家にいればよかったのに、とさえ思った。
あきとが段ボールを抱えて部屋に帰っていった。弟の部屋は隣。もともと空き部屋だった。アパートなのでそれほど広くないが三人で暮らすには充分だろう。
ふとごっそり空いた棚に目が行く。
新しいの仕入れるか。
小学生というのは帰りが早い。委員会だクラブだなんだと始まれば多少は放課後を使わなければいけないがまだ四年。友だちもね、と言いつつさっさと帰宅する冷めたタイプなのでついつられて寄り道もせずに帰ってきてしまった。まだ明るい。出掛け直すのもありかもしれない。
隣の部屋をノック。聞き憶えのある懐かしい曲が聞こえる。もうプレイしているらしい。
「ちょい出掛けてくるわ」
「わかった」
顔も出してくれなかった。もうあっちの世界にいるのだろう。邪魔をしてはいけない。
そういえば。健全な小学生につられて学校をサボらなくなったため疎かになっている行事があった。
いおら。
まずい。自分で週三とか約束しておきながらあの金曜以来まったく顔を見せにいっていない。だがいま訪ねに行ってもいとこがいて門前払いどころかいおらに迷惑がかかる。
どうすべき。
一応近くに行く用事があるし。
と嘯きながらアパートの前まで来てしまった。よく行く店に目ぼしい品がなかったせいもある。
だめもとでチャイム。最悪、つまりいとこが出てくる場合を想定してピンポンダッシュを決行。
走る。階段の手すりの陰。
この間のタイミングならそろそろ。
開いた。
「いおらさん」
「よかった。居留守使おうかと思ったんだ」
「いまは」
「テンギ君はバイト。夜までいないよ」
運がいい。中に入れてもらう。
「どうしたの。最近来なくて寂しかったんだけど」
「いや、その家庭の事情というやつで」
いおらがソファに横になる。
「もしかしてカタクラ先生?」
「いや、そっちじゃなくて。母です。戻ってきました。弟を連れて」
「弟は君の?」
思わず笑う。苦笑いかもしれない。
「そうですね。母に弟はいないみたいなので」
「ふうん。ひとりっこ同盟脱退だね」
「みたいです」
ちゃぶ台の上に皿や箸が出しっぱなしだった。お昼のままなのだろうか。いとこが夜までいないのなら夕飯もひとりだろう。
ひとり。
悪いことをしてしまった。
「それ、片付けましょうか」
「お願い」
台所で食器を洗う。いくら家事が苦手とはいえこのくらいは出来る。料理はなんとなく出来るが発揮する機会がないのだ。ひとりだけだと作る気が起きない。
沈黙。
父、母という流れなら絶対に弟について根掘り葉掘り訊かれるのかと思ったら特に何もこない。いおらは手元の本と床を交互に見てふう、と息を吐いている。
何か思いつめている。
そんな気がする。
「カタクラ先生に会いたいって言ってたよね」
手を止めていおらを見る。
無、という感覚。
「どう? まだ消えない?」
「はい」
会いたい。会ってどうするのかはわからないが。
存在するのならすぐにでも。
「二つだけ条件がある。ひとつ、もしまだ住んでいる人がいたら僕が教えたっていう情報源を内緒にして欲しい。ふたつ、もしカタクラ先生に会えても絶対に殴らないで欲しい。このふたつが約束できるなら、施設も研究所も、両方とも教える」
「どっちにいるかはわからないんですか」
「五分五分だけど最初に行くなら施設にしたほうがいい。研究所に行っても楽しくないと思うから。どうかな。守れる?」
それは。
考えるまでもない。
「守ります」
「いうと思った。ちょっと待ってて」
会える。
顔も知らない父に。
あっという間に地図は出来てしまった。細かい道順の説明をしっかり憶える。施設はだいぶ山奥にあるらしい。駅から一時間以上は歩かなければいけないといわれたがまあ仕方ない。研究所は有名な大学やその他研究機関が併設する場所のようだ。
「出来るならこっちには行かないほうがいいかもね」
「じゃあやっぱ」
施設とやらに。
「そうなることを願ってるよ」
「え、行っちゃいけないとかそういうことですか」
「まあ、遠回しに言うならそうかな。でも本当は施設のほうが公的には秘密だからね。緘口令が敷かれてるんだけど」
それは。
バラしたらまずいのでは。
「というわけだから君も尾行されないように注意してね。行くなら平日の昼間。学校はサボれる?」
「もちろん。最近真面目に通ってるんでなんとか」
あきとの影響ですっかりご無沙汰だった。授業中も出来るだけ寝ないように心掛けているがいまいち内容がわからない。家庭科をサボらなくなったのは進歩だろう。
「お金ある? 新幹線じゃないと日帰りはきついよ」
「平気です。ちょうど買いたいゲームないし」
「君もお金持ち?」
「いや、中流階級です」
「大体の家ってそういうよね。まあいいや。おやつ代くらいは出そうかと思ってるけど」
「いえ、それは」
受け取れない。
父の居場所という、母すら知らないであろう情報をただ同然で貰ったのだ。これ以上何を望むことがあろうか。
「じゃあ代わりに報告においでよ。それで貸し借りなし」
「わかりました」
最初からそのつもりだった。元とはいえ主治医の現在の状況は知りたいだろう。何かから逃げているようだからこっそり連絡を取るわけにも行かないと思われる。
行くなら。
明日。
思い立ったが吉日。
「カタクラ先生に僕のこと言わないでね」
6
チャイム。
出てくるまで五分は待つ。お腹がだいぶ大きい。動くのも億劫だろう。そう思うと更に申し訳なくなる。
ドアがゆっくり。
「来てくれないかと思った」
「約束しましたので」
いおらがいつものようにソファに寝そべる。
心なしか顔が蒼い。
「報告を聞くよ」
「ごめんなさい」
約束を破ってしまった。
「どっち?」
「一番目です」
「なんだ。そっちならいいよ」
「でも」
「一番目は絶対にバレるよ。マデノ先生って人に会ったでしょ。あの人ちょっと気が弱そうだけど頭はいいから。あの施設を知ってて尚且つとしき君にそれを教えることが出来たのは僕だけ。君が訪問した時点で僕のお遣いだなってわかったと思うよ」
としきは黙る。
万里。彼の顔を思い出す。
「実は二番目を守って欲しかっただけなんだ。そっちはどう?」
「とても、殴れるような状況じゃなかったんで」
艮蔵。
確かに父。
「元気だった?」
返答できない。
「壊れてた?」
顔を上げる。
まさか。
いおらがメガネの縁に触れる。
「わかった?」
頷く。
しか。
「そっか。としき君、勘が鋭そうだしね」
ぜんぶ。
知っていた。
こうなることも。
「僕を怨む?」
呼吸。
止めて。
「カタクラ先生がああなったのはすべて僕のせい」
「別れたからですか」
「簡潔に言っちゃえばそうかな」
ちりちり。
空調の音。
「殴ってもいいよ」
「いえ」
「ここにいるのがカタクラ先生の子だとしても?」
思わず。
お腹。
「不倫ていうんじゃない?」
「母も似たようなことしましたし」
「ふうん。こっちもわかってたんだ」
俯く。
「ぜんぶ知りたい?」
「わかりません」
「僕もわからないよ」
慣れない正座のせいか。
痺れる。
「崩していいよ」
「すんません」
すぐに顔に出る。
昨日だって。
「もうすぐ産まれるよ」
「いつですか」
「六月かな」
それなら。
本当にすぐ。
「ますますひとりっこから遠ざかるね」
「みたいですね」
いおらが首を傾げる。
「変な子だね」
「そうですか」
「フツーは怒るんじゃない?」
怒る。だろうか。
母のことも。弟のことも。父のことも。
いおらも。
何も感じない。
なんだろう。
「わからないんです」
「ショウジって言ってなかった?」
頷く。
「それが僕の名前。ショウジのると」
「名字で呼ぶんですか」
「これも偽名だからね」
偽名。
本当の名は。
「音が違えばいいんだ。他と区別するための音。それが名前。だから偽名も本名もないんだよ。でもさ」
メガネ。
外した。
「気になるんだ」
黒いフレーム。瞳と同じ色。
漆黒。
「プレゼントですか」
いおらが。
少しだけ。
「何でもわかるね」
「勘だけはいいみたいで」
嬉しそう。
無表情だが。
わかる。
「もう度が合ってないんだ。どうすればいいんだろう」
「メガネ屋とか」
「じゃあお腹小さくなったら行こうかな」
またかける。
「カタクラ先生の話してよ」
「なんというか、干上がってました」
「何も食べてないってこと?」
「みたいですよ。俺の作ったラーメン転がすし」
「転がす?」
思い出し苦笑い。
「器が割れてなかったんでおそらく転がしたんだと」
「ボーリングと間違えたのかな」
「かもしれないですね」
「何か喋った?」
「母の名前呼んでました」
思い出す。
万里というカウンセラによると。
「俺を母と勘違いしてたんじゃないかって」
「へえ、似てるんだ」
「そんなこともないんですけど」
それは万里にも。
「僕のことは?」
「告白してましたよ。好きだと」
それと。
「会いたい、とも」
いおらが下を向く。
「ホント?」
「捏造しても面白くないっすよ」
「困ったな」
「もっとスゴイこといいましょうか」
いおらが顔を上げる。
言おうか。
言え。
「母は愛していないそうです」
いおらが。
向きを変える。
ソファの背もたれのほう。
「俺ができたこと謝ってました」
「いいよ。そんな」
「気ィ遣うほど大人じゃないんで」
「嘘だあ」
黒い。
髪が。
「あんなにひどいことしたのにさ」
微かに。
「捨てたんだよ。カタクラ先生ひとり置き去りにして。テンギ君と一緒に逃げたんだよ。それなのに」
としきはソファの脇にある。文庫を手に取る。
小説だった。
「嫌いになってもいいのに」
「好きなんですね」
「好きだよ。カタクラ先生が一番」
「俺、帰りましょうか」
「だめ」
手を。
摑まれた。
「テンギ君に追い出されるまで居て」
頭を掻く。
いとこ。
苦手なのに。
「僕のせいだよ」
「何がですか?」
「君がひとりぼっちだったの」
「ひとりじゃないですよ」
「お母さんが帰ってこなかった」
「母だって寂しかったんでしょう」
「弟までできて」
「弟ほしかったんで」
腕の力。
弱く。
「狼少年だよ、としき君」
「そうですかね」
「正直にいいなよ」
「父親と一緒に住んであげてください」
微弱。
放れる。
「ごめんね」
「父に言って下さい」
「許してもらえないよ」
「じゃあ許さなかったら殴りに行きますんで」
「それはだめ」
「約束ですね」
黙って。
頷く。
「ムラサキのると」
視線。
いおらが見ている。
「これ、憶えておいて」
「本名ですか」
「これから使う偽名」
「わかりました」
記憶。
あまり自信がない。
「カタクラ先生のこと、父って言ったね」
「あ」
そういえば。
なんだか認めてしまった。
「お父さんて呼んであげてよ」
「俺は言わないほうが」
母に謝っている光景が。
上映される。
「会いに行ってあげてよ」
万里にも。うきょうにも。そう言われたが。
何となく。
気が進まない。
「今度は僕のこと話していいから。でも行くんだったら」
手。握られて。
冷たい。
ツララのような。
「夏休みにしてね」
「ガッコサボるからですか」
「それもある」
「お別れですか」
「そだね」
両手。
小さい手。
「何でもわかっちゃう」
「俺より年下ですね」
「花丸をあげよう」
そう言っていおらは。
メモ帳に。
花丸を書いた。
「親父にあげていいですか」
「だめ」
メガネを触る。
「これは、としき君にあげる」
「花丸もらったの初めてですよ」
「百点もあげる」
「それも初めてだ」
笑う。
「不真面目なんだね」
「褒め言葉としていただいておきます」
「ねえ、医者にならない?」
「無理ですよ。俺の頭じゃ」
「大学は?」
「いちおう。偏差値低いとこに」
「君は医者に向いてる」
「隔世遺伝なんで」
「それ、冗談?」
「だってどっちにも似てないんですよ」
首を捻る。
「カタクラ先生に似てるけどなあ」
「中身だけです」
「認めたね?」
「そんなもんです」
笑う。
そんなもん。
いい言葉。
「羅城大学ってわかる?」
「え、厭ですよ。あんな恐ろしいとこ」
「実は僕のコネが使える」
「両親がお偉いさんとか?」
「また当たり」
「でも」
医師。
考えられない。
「勉強嫌い?」
「大嫌いです」
「頑張れない?」
「無理っす」
「困ったなあ。絶対向いてると思うんだけど」
不治の病。
ふと思い出す。
「いおらさんの発作。あれって」
「治してくれるの?」
「医者になれば治せますか」
「どうだろう。カタクラ先生にも無理だったからなあ」
決めた。父に無理なら。
「なれますか、俺にも」
「あれ、やる気?」
手。
ツララが。
「そうだね。君なら治せるかもしれない」
温かい。
自分の体温が移動しただけ。
わかってる。
そんなことは。
「なります」
「ホント?」
「コネ使っていいなら」
「面接でケンカ売ればいいよ。一番偉そうな人に」
「へ、そんなこと」
「その人がきっと僕の」
親なのか。
「でもまずセンタだよなあ」
「そこは努力だね」
努力。
苦手だが。
思い当たった。これなら。
「いいこと考えた顔だ」
「暇なヤツがいるんで」
「頭いいんだ」
「もう、嫌味なくらい」
「待ってるね」
「だいぶ先ですよ」
「僕もいろいろすることあるから」
子ども。
「子どもの名前って決まってますか」
「お父さんに聞いて」
7
うきょうと名乗った少女は建物内に入るとあ、と小声で叫んで扉の中へ消えた。紺のワンピースの裾が揺れる。
何か気に障ることでもしたか。
としきはキョロキョロしながら待つ。道順しか教えてもらえなかったので建物を発見したときは探検隊が遺跡を発見したかの如く嬉しかった。あの面倒くさい道も外部の人間をシャットアウトするためだとあらかじめわかってたため、それほど不快ではなかった。むしろ楽しかった。
いい匂い。
そういえばそんな時間かもしれない。顔を見たらさっさとお暇しようと考えていたので昼飯まで気が回っていなかった。
まずい。空腹に気づいた途端、腹というのは減ってくる。
「あの、トシキさん」
うきょうが申し訳なさそうな顔をして近づいてくる。
「もしよろしければお昼をご一緒にどうですか」
「いいのか」
「ええ、その」
うきょうが下を向く。
「伸びたラーメンでよければ」
「伸びちゃったんだ」
「お恥ずかしながら」
キッチンと思われる空間に入る。ダイニングとリビングが一続きの広い部屋だった。テーブルの上にそれらしき丼が三つ。
「あ、確かに」
麺がふにふにしている。出来た後すぐに食べるつもりでここに放置したのだろう。としきが訪ねてこなければ伸びなくて済んだかもしれない。
「ごめんなさい。やっぱり作り直しますね」
「これインスタント?」
「はい。これを」
生麺を鍋で茹でるタイプなので当然だろう。味噌味だった。
「野菜ってあるか」
「はい、でも」
失礼、と断って冷蔵庫を開ける。生鮮食品が程よく詰まっていた。そこから使えそうな野菜を取り出す。
「ここ、貸してもらっていい?」
「ええ、それはもちろん」
テーブルの上の丼を運んできて、中身をそのまま大きな鍋の中に入れる。
「え、あの、何を」
「作り直すんだよ」
うきょうが首を傾げている間にさっさと作ってしまった。あまりやらないのだが茹で加減を間違えて、もはやどうしようもなくなったときに使用する最終手段である。延びたままずるずると食べるよりは格段に美味いと思う。
また丼に戻す。
「出来た」
「美味しそうですね」
「こういう具がないタイプは何か入れたほうが美味いんだよ。味噌ならモヤシなんかがいいかもな」
うきょうが口に手を当てる。
眼が。潤んで。
「あ、えっと俺」
何かまずいことをしたのだろうか。泣かせて。
「ごめんなさいその、トシキさんがカタクラ先生にそっくりで」
そっくり。
この場所を教えてくれた人物にも言われたが。
「そんなに似てるのか」
「ええ、ですから」
それでか。さっき物干し竿の陰で会ったときは本当に吃驚した。今日初めて会った少女に自らの所属を言い当てられたことも充分衝撃的だったのだが。
まさか艮蔵が自分の名前を憶えているとは。
息子は父親の顔も名前も知らないというのに。
「ごめんなさい。もうひとりいますので先に食べていて下さい」
うきょうは足早に駆けていった。顔を見せないように下を向いていた。しかしいくら似ているからといって。
泣くほどのことだろうか。
そもそも艮蔵はここにいるのか。いないなら早々に出ないと明日も学校をサボらなければいけなくなってしまう。会えなかった場合研究所付近もウロウロしてから帰ろうと思ったので時間が。
とりあえずテーブルについてラーメンを啜る。
美味い。
といって自画自賛する。いや、自画自賛に留まっていない。他人にも認められているので自慢できるレベルにいるだろう。
話し声がする。もうひとりを連れてきたのだろう。
艮蔵か?
何となく身構える。殴らないという約束でここの道順を教えてもらったためそれは出来ない。謂わば体が勝手にというやつで。
「どうも、こんにちは」
背が高くガタイのよさそうな男が入ってくる。
「よく来たね。はじめまして、マデノだ。漢字は中国にあるあれ。万里の長城のばんりとかいてマデノと読む」
「はじめまして、としきです」
歳は四〇代に差し掛かった辺りか。もっと若くてもいけそうだが情けない印象が強い。組織の上のほうでばりばり命令を下すというよりは、下のほうでへーこらしている平社員のような気の小ささが伺える。
「だいぶ大きいんだね。高校生かな」
「はい、今年高二に」
おそらく漢字は万里。説明されなかったら漢字など浮かばなかった。無理矢理そう読むのだろう。艮蔵だってなかなか読めない。学年が変わる度に面倒な思いをしている。
先ほどの少女が席に着く。
年齢は幼稚園か保育園に行く位だろうか。あまりにも大人びていて小学生でもいけそうだが身長が低い。髪は長いとも短いとも言い難く、面影がこの建物を教えてくれた人物に似ているような気がした。超然としているところなんかそっくりである。
「へえ、これを君が。いただきます」
「いただきます」
ふたりが揃ってラーメンを口に入れる。
驚きの顔。
「え、これ、ホントに伸びた?」
「そのはずなんですが」
「美味いな」
「ええ、とても」
としきはほくそ笑む。
これで赤の他人にも完璧に認められたことになる。
あっという間に食べ終えた。三人分作ったようだが伸びて嵩が増えた上に野菜で増やしたのでもうひとり分くらい残った。うきょうがそれを器に移して盆にのせる。
「じゃあ俺が洗っとこうか」
「いえ、私が後で」
万里が更に情けない顔になる。
「一緒に行きましょう」
「そうだな」
なんだか勝手に話が進められている。
「どこいくんすか」
「会いに来たんだろ、カタクラ君に」
艮蔵君。
としきもそう呼ばれることがあるため少しどきりとした。でも万里はとしきを呼んだわけではない。
一度も会ったことがないであろう父。
万里はそう呼ぶのか。
「実はな、ちょっと具合が悪くて喋れないんだ」
「え?」
喋れなくなるほど具合が悪い。
訪問のタイミングが悪かったらしい。
「あ、じゃあ無理に」
万里がうきょうに目配せする。うきょうが微笑んだ。
「先に行っていますわ」
「頼む」
うきょうが盆を持って廊下に出る。
様子がおかしい。
「トシキ君。カタクラ君に会ったことは」
「ないです、一度も。だから顔も知らなくて」
万里はううん、と唸って頭を抱える。腕の間から苦悩の表情が見える。
「会ったことないとまずいんですか」
「そうじゃないんだが。その、何というかな」
はっきりしない男だ。躊躇っているのか言葉が見当たらないのかはわからないがとりあえず説明して欲しい。
「病気なんですか」
「だと思う」
「どっちなんですか」
「わからないよ」
わからない。
誰かを髣髴とさせる言葉。
「ちなみにどうしてここに?」
「カタクラに会おうと思って」
「カタクラ?」
「父親だと思ってませんので」
万里がそうか、と消え入りそうな声で言ってそっぽを向く。
沈黙。
「あの、隠してることがあるんなら」
「この施設自体が隠してることなんだがな」
それは重々承知。でも知りたい。
艮蔵のこと。
「誰に聞いた、この場所」
「言えません」
もしまだ住んでいる人がいたら情報源を内緒にして欲しい。
そう約束した上で教えてもらったのだ。
言わない。絶対言えるものか。
「もしかしてお腹が大きくなかったか」
まずい。
顔に出ている。
「そうか。やっぱりな」
バレた。
どうしよう。恩を仇で返す。いやいや裏切り者と。
「言わないさ」
「え?」
「内緒にしてくれって言われたんだろ。大方そんなことだろうと思ったよ。だから自分で訪ねてこないんだろうな」
なんだ。
知ってるのか。
「すんません」
「いいさ。悪いのは全部こっちなんだし」
何かとてつもなく。
深い事情があるように。
「どうして会いたくなったのか、訊いていいかな」
「ホントは殴りに来たんですけど、その」
殴らないで欲しい。
そう言われた。
「殴れないので、代わりに話そうかと思って来ました」
喋れない。
それでは無理に会っても単なる迷惑では。
万里が息を吐く。
「ここに来ること、誰かに言ったか」
「いや、ガッコ行くふりしてこっそり来たんで」
「行くふり? ああそうか。今日は平日だな」
「誰にも言いません。カタクラがどんな病気でも」
「母親は?」
言っていいだろうか。
いいか。
「実は俺のほかに息子がいます。父親が違って」
万里がテーブルに目線を落とす。
当然の反応。
「離婚したのか」
「わかりません。でも弟とは一緒に暮らしてます」
「そっちの父親は?」
「会ってません。特に会う必要もなさそうなので」
「じゃあきっと離婚はしてないんだろうな」
知ってるのはここまで。母親は説明しようとしないし敢えて訊くのも面倒なので黙っている。弟は何か他のことを知っている可能性もあるが何も言わない。そもそも人間関係に興味がなさそうだ。
「カタクラ君は知っているんだろうか」
「いや、俺に訊かれても」
万里が苦笑いする。
「それはそうなんだが」
「喋れないってのは」
「すごく簡単に言うと、精神的ショックかな」
確か。
そういう病気があったような。
「俺はそのカタクラ君のカウンセラみたいなものだよ」
「え、じゃあ心理学とか」
「まあそんなとこだな」
どうやら心理学に縁があるらしい。
知り合いの暇な大学生を思い出す。
「心理学詳しいの? あ、そうか聞いたんだったな。ここの場所」
黙る。
訂正したいが何も言わないという約束。
「口が堅いな、君も」
「俺が会うとまずいですか」
「どうだろうな。最近ようやく音に反応してくれるようになってきたし。また逆戻りってのも困る」
この万里という人間は。
白か黒か決められない性格らしい。
「カタクラ君は君のこと気にしてたよ」
「別に気を遣わなくていいです」
「そうじゃない。本当だ」
気にしていたという次元が微妙だが。
やはり憶えているのだろうか。
足音。ドアが勢いよく開いた。
「すみません、マデノ先生」
「どうした」
うきょうの顔が見えた瞬間万里が部屋を飛び出す。禁止されなかったのでこっそり後をつける。
もうひとつの建物。
駐車場に近かったほうだ。そちらは一階建てで、渡り廊下を抜けると正面と右に分かれ道がある。その右手のほう。
通路を挟んで左右に二つずつの扉。向かって右側の手前のドアが開いている。
中に。
いるのか。
まず見えたのは床に零れていたラーメン。丼がひっくり返っている。瀬戸物なのに割れていなかったので落としたというよりは転がったのだろう。
奥の壁に窓。そこを側面にしてベッドが設置されている。白いシーツと白い布団。その上に。
やつれた男。
あまりにも。
不健康な顔と体。
「何があった」
「ラーメンを作ったのが、と説明したら」
ひっくり返したというのか。
俄かにはよくわからない。
「カタクラ君、わかるか」
艮蔵。
やはりこれが。
「すまなかった。よく考えもせずに」
「いえ、すぐに片付けます」
うきょうと目が合った。
「ごめんなさい。せっかく」
「いや、俺も手伝いましょうか」
「いいえ。本当にごめんなさい」
確かに勿体ないな、とは思ったが。
そんなに哀しそうな顔をされると。
うきょうは走って部屋から出て行った。雑巾を取りに行ったのだろう。
「あ、来ちゃったのか」
万里が部屋の外に出てくる。
「なんだかまずいみたいなんだ。すまないけど」
「ガキ」
本当に小さい声だった。
周囲がしんと静まり返っていなければ。耳を澄ませていなければ絶対に聞こえないような掠れた音。
艮蔵が。
こちらを見ている。
「ガキ」
眼を見開いて。頬はきっと痙攣している。伸ばそうとして半端な場所で躊躇ったかのような手の位置。
不思議と。
これが父かな、と思った。
「入ってもいいですか」
万里は艮蔵をじいと見てから黙って頷いた。
「すんません」
ベッド。
そっと近づく。
弟と初めて会ったときのことを思い出す。
あの時と同じ感覚。
つい同じことを考えてしまった。
似てない。
なんだか自分は両親には似ていない。どちらかの隔世遺伝だろうか。
「ガキ」
また言われた。やはり名前を知らないのでは。
「としきだ」
あんたの息子だよ。
とは言えなかった。
「カタクラ君、トシキ君がわかるか」
艮蔵がゆっくりと肯く。
「そうか」
万里が微笑んでとしきを見る。
「話に来たんだろ。なんか言ってくれないか」
「え?」
「話しにくいなら外出るが」
「あ、じゃあ」
万里が扉の外に消える。
また。
静かになった。
「元気、じゃなさそうだな」
苦笑。
自己完結。
「実は殴りに来たんだけどそんなんじゃな。殴っても楽しかないし。やめとくわ」
艮蔵の目線は。
床のラーメン。
「せっかく俺が作ったのに」
「ガキ」
「そうだよ。ひっくり返しやがって」
艮蔵が丼に触ろうとする。
ベッドからじゃ届かない。
「また作るから」
「ガキ」
「としきだ」
「ガキ」
溜息。無理かもしれない。
ここにいると、うきょうが丼を片付けられない。
外に出よう。
「じゃあな」
「アヅサ」
振り返る。
艮蔵が小刻みに震えている。本当に小さな声で。
「悪かった。俺が、ぜんぶ俺がいけなかった。俺があんなことしなければ」
謝っているのか。
母に。
艮蔵が蹲る。顔は膝につけて。
「アヅサ」
「俺のことなら別にどうだっていいよ」
「ガキが、できて」
思い出しているのかもしれない。
困った。どうすればいいのだろう。
万里を呼んだほうが。
「行くな」
吃驚した。足を止めてしまう。
「アヅサ。俺は」
としきが呼ばれたのではないようだ。それなら急いで。
「ショウジが好きなんだ」
しょうじ?
誰だ。
「だから、お前は愛してない」
じゃあ、
しょうじというのは。
としきは転がった丼を拾う。中身は個体のものだけ掴む。
もう冷めている。
冷たい。
わかってしまった。
勘がよすぎるのだ。母のことも。弟のことも。父のことも。謎の情報源の正体も。
ぜんぶ。
つながった。
気づかないふりはできない。すぐ顔に出る。
もう、いおらに。
会いにいけない。
「ショウジ」
「会いたいか」
「あいたい」
できるものなら会わせてあげたい。
知っている。
その人物の居所を。
でも。
約束が縛る。出来ない。
どうして。
会いたくないのだろう。
「また来るわ」
「ショウジ」
外に出る。
万里と。うきょうの。
表情の意味がわかってしまう。
「喋れたか」
「はい」
うきょうが下を向いて黙っている。おそらく。
涙を堪えている。
泣いてもいいのに。
「これ、どうすれば」
「シンクにでも放り込んどいてくれ。あとはこっちでやるから」
「わかりました」
渡り廊下。後ろから。
すすり泣く声。
やはり部外者の前では泣けないだろう。強い少女だ。さっきも我慢していた。
キッチンに入る。手を洗う。
もう帰ろう。
さっきの場所へ戻る。
ドアが開いていた。
「あの、俺そろそろ」
「そうか。また来てくれないか」
「いいんすか」
万里が廊下に出てくる。
「実は何か言ったのはさっきが初めてでな」
「え?」
ガキ。
これが。
喋れないといっていたのをいま思い出した。
「君を、君の母親と勘違いしたのかもしれない」
「え、でも全然似てないんですよ」
「わかるんだろ、カタクラ君には」
そうだろうか。
確かにとしきもわかったが。
「カタクラ家はそういう家系かもな。興味深いよ」
「はあ」
うきょうが雑巾を片手に出てくる。すでに泣き顔ではなかった。
早い。
「もう、帰ってしまうんですね」
「また来るんで」
「それは是非。今度はラーメンを伸ばさないようにしますわ」
「じゃ、次は醤油にしてもらおっかな」
「わかりました」
手を振って別れる。
ふたりは駐車場まで送ってくれた。
さて、
知らないふりはできないから。
正直に言おう。
8
いおらに会ったのはその三回だけ。
古いのか新しいのかわからないアパートにも近づかなくなった。短気ないとこがどこの高校に通っているのかもわからない。いおらとその子どもがどうなったのかもわからない。
わからない。
そんなもの。
その言葉を思い出すとラーメンを食べたくなる。
よくできた弟が家庭科の教科書に載っているような栄養満点の料理を作ってくれるので間食でしか口にできなくなった。忙しい母親も少しずつ家にいる時間が長くなってきた。家事を弟に習っているのがなんともおかしい。
退屈しのぎに行っていた学校は少しだけ楽しくなった。
授業がわかるようになったから、ではなく。テストでいい点取れるようになったから、でもなく。
やることができたから。
ということにしておこう。
河川敷の掃除はしなくなった。わざわざ出向かなくとも静かになってきたようで喜ばしいことだと思う。ただひとり、暇な大学生だけがつまらない、と愚痴をこぼしている。ケンカ見物を目論でいた優秀な小学生も不満そうな顔をする。
揃いも揃って不謹慎な。
「そうなると神の配偶者の称号はどうなるんですか」
「知るかそんなもん。てゆうか何だそれは」
「先輩の二つ名。有名ですよ。これを出すといい具合に興味深いお話が聞けてですね」
としきは返す言葉をなくす。厭きれると同義。
「いまなら間に合いますって。早く取り戻さないと」
「最初から持ってない」
「え、じゃあどうするんですか。僕の卒研」
「はあ? なんだそれ」
「すでに予備調査してんですよ。どうしてくれるんですか。もう全部やり直しです」
「は、お前の都合なんか知るか。ざまあみろだな」
三仮崎が恨めしそうな顔で見てくる。
「別に僕は構わないんですよ。先輩が羅城入れなくたって。センタでぼろぼろになって泣こうが喚こうが知ったこちゃないんですけど」
まずい。
立場が。
「えっと、申し訳ないような、気もしなくもないような」
「じゃあ僕はこれで」
「おい、ちょっと待て。まだ」
「あのですね。僕は自分の時間最小限に削ってまで先輩の家庭教師してるんです。確かにお金もらってますけどね。脅されたというか暴力反対なので仕方なく」
「はいはい、わかってるって。悪かった。ここがわからないので教えてくれませんか」
三仮崎が席に戻ってくる。
「敬語使われると命の危険を感じるのでやめてください」
「そうか?」
「ところで、そろそろその心の入れ替えっぷりの原因をですね」
「さあて気合入れなおすか」
「駄目ですよ誤魔化したって。女の子ですね?」
「集中してると何も聞こえねえなあ」
三仮崎がわざとらしく溜息をつく。
「絶対女の子のためですよ」
「お前じゃない。てゆうかいま何十股だよ。こないだまた違う女引っ掛けてんの見たぞ」
「うわあ、先輩やらしい。僕のストーカまで始めたんですか」
「誰がそんなことするかよ。仕方ねえだろ。お前の大学と目と鼻の先にいんだよ、俺は」
「じゃあ僕も今度文化祭のぞきに行こうかな」
「悪いこといわないからやめとけ。高校生に手ェ出したら犯罪だぞ」
「やっぱり女の子ですね? 誰ですか。紹介して下さい」
「計算中」
ノック。
「あきとか」
「電話だよ」
「そっち行く」
「でも切れちゃった」
「は?」
廊下に出る。あきとが受話器を持って立っている。
「誰だった?」
「伝言。河川敷に来いって」
「ああそれ、たぶん」
ケンカ。
「ううん。確かいおらって人」
「マジで?」
「うん」
急いで靴を履く。三仮崎が部屋から顔を出す。
「あ、先輩。どちらに?」
「悪い。ちょっと野暮用」
「え?」
無視して走る。駆ける。全速力。
暑い。蒸す。とっくに夕刻なのにまだ明るい。
夏。夏休みまで。
もうすぐ。
静かな河川敷。
いた。
橋の下に人影。そこまで駆け下りる。
「いおらさん」
「やっと会えた」
違う。いおらはもっと。
低い声。それに。
もっと。
背が高い。
誰だ。この。
ガキは。
白い服だと思ったのは白衣。
黒い帽子だと思ったのは髪。
光る。双眸。
「としき」
「誰、お前」
いおら。
いないのか。
「いおらって人は子ども産んで逃げちゃった」
「は?」
「せっかく産ませてあげたのにね」
思い出す。
入院していたところから逃げた。
まさか。
「そう、いおらって人を捜してるのは俺」
「ウソだろ」
「どの点がウソなの、としき」
名前。
知られている。
「俺のこと」
「知ってるよ。何でも知ってる。としきがカタクラ先生の息子だってことも。いま高校二年生だってことも。以前よくここでケンカしてたってことも。それに」
嗤う。
ゾッとするほど。
「いおらと名を変えたショウジと会ってたことも」
迫力。
「は、ぜんぶ知ってんじゃん」
「俺に知らないことはないよ。だから本当はショウジの居場所も知ってるんだけど何だか面白いこと考えてるみたいだから邪魔しないであげようかなって思って」
「躍らせてんのか」
「そ、さすがとしき」
名前を呼ばれるたび。
背筋が凍る。
「で、何しに来たって?」
「俺のこと知らない? 超有名天才児なんだけど」
ああ。なんとなく。
「
「嬉しいなあ。としきに憶えてもらえてたんだ俺」
「いおらさんは無事なのか」
「フツー子どものほう訊かない?」
「親父がいる」
「よくわかったね。そうしたから」
「親父のとこに?」
「夏休みって約束だよね。だめだめ。守らないと」
施設。もう一度。
「医者になるんだって?」
「お陰で勉強三昧だよ」
「推薦してもらえば?」
「それ、元不良には使えないコマンド」
笑う。
「面白いね、としき。早く会いたかった」
「また来ればいい」
「それがね、一応有名人だから」
目線。橋の上。
ガードらしき。
「へえ、物騒なお付がいるんだな」
「大学の構内だって付いて来るんだよ。もう鬱陶しくて」
「そりゃお気の毒」
近くに。
「それホント?」
「え、あ、まあ」
「としきはそう思ってくれるの?」
「だって邪魔なんだろ。迷惑だよな」
黒い瞳が。
見上げる。
「やっぱり、としきだ」
「はあ?」
「絶対羅城に入ってね。俺待ってるから」
「んじゃあ面接頼むわ」
「大丈夫。ケンカ売ってね」
小さな背中。
「あ、お前の名前」
「知らないの? ユリウスようじ」
「憶えた」
笑って。手を振る。
そいつは紛れもなく、最強のガキだった。
転落己号 伏潮朱遺 @fushiwo41
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