第4話 秋埋シュウマイ
1
これだけ嫌味なほどに秋晴れだともう何も言えない。
からっとした心地よい陽気。適度な涼風。空の色は見なくてもわかる。雲の量は微妙だがおおむね快晴か。
第一グラウンドの周囲は階段状になっており、いつもは砂利だらけのコンクリートも今日だけは人だらけ。声援。野次。拡声器のアナウンス。どれもこれも喧しい。
テニスコートのフェンスに寄りかかると上手い具合に戦況がよく見えることが判明。赤がやや劣勢か。
「出ないのか」
「頭痛がします」
「なら仕方ない」
ほとんどが半袖のTシャツに似たような色のジャージ。特に指定はないのに、わざわざ同じTシャツを着ているグループもいる。主に運動部。部活対抗ではないはずだが何らかの宣伝効果があると信じているのだろうか。それとも団結力を高められると勘違いしているのか。
「見学しなくても単位には関係ないぞ」
「見たいんです」
男子はエメラルドグリーンのワイシャツに紺のネクタイ。ボトムはネクタイよりやや濃い青。色の名前はよくわからない。
「生徒会長になるんだってな」
ここまで言って気づいた。それで頭痛なのにわざわざ見学をしているのだ。
「それならクラス委員でもやっとけば便利だったろうに。生徒会棟に出入りできるし」
「僕がなりたいのはクラス委員じゃありません」
なんとも彼らしい理論だ。
それにクラス委員という標榜を利用せずとも堂々と生徒会棟に入っていく。関係者以外みだりに立ち入らないように、と定められているにもかかわらず。裏工作は必要ないらしい。
「なんで生徒会長になりたいんだ」
「先生でちょうど百人目です。おめでとうございます」
「そりゃどうも。で、なにか賞品があるか」
「先生にだけ話してもいいですよ」
歓声が上がった。劣勢だった赤が逆転したらしい。白いはちまきを大量に持った男子が天に向かって拳を突き上げる。
「うるさいな」
「体育祭ですから」
「で、なんだ」
「つまらないからです」
「ほお、これまた高尚な暇潰しだな」
「これで十パーセントが説明できました」
「九割残ってるぞ」
「千人目になったらまた」
「これまた長いな」
「先生は参加しないんですか」
「参加したいさ。勝負事は嫌いじゃない。だが出る出ない以前の問題がある」
「生徒だけですからね」
「そうなんだよ。お前が生徒会長になったら教員の種目も入れてくれ」
「考えておきます」
淡々と喋る無味乾燥な口調。冷たくもなく温かくもない完璧な無表情。血の気のない不健康な肌。遙か彼方を眺めているようでいて実はどこも視界に入っていない漆黒の眼。
「先生はどうして先生になったんですか」
「なんでそんなこと訊く」
「先生って全然先生っぽくないから」
「それは褒め言葉か」
「どちらなりと」
「俺の高校のときの担任が割と好きだった。それだけだ」
「その先生も数学の?」
「変な先生だったよ。数学の得意なやつはえこひいきして授業中あてないんだ。せこいよな」
「じゃあ授業が進みませんね」
「単に進ませるのが面倒なんじゃないか。やりたいやつは自習だの塾だの勝手にしろって」
「先生みたい」
拡声器のアナウンス。怪我人が出たようだ。保健委員に招集がかかっている。
「騎馬戦はまずいな。ありゃある意味戦争だよ」
「何ならいいですか」
「そうだな。リレーとか」
「科目対抗リレーなんて面白そうですね。でもそうすると人数が合わないか」
「五教科はそのまんまでいいよ。他の音楽とか家庭科とか。そっちを合併させればいい」
「体育科は」
「卑怯だな。でも家庭科のなんつったか、あの中坊みたいな小さい先生じゃ可哀想か。そっちに入れれば平均でなんとか」
「数学科の勝算はどうですか」
「俺がいるからな。充分一位狙えるよ」
「ビリのところは罰ゲームを科しましょうか。そうですね。期末テストなしというのが最も盛り上がるかと」
「喜びそうな奴がいっぱいいるな。うちは負けないぞ」
「妨害工作とか加えましょうか。生徒側で結託して邪魔をするんです。嫌いな科目を集中的に」
「おい、そんなことしたらうちは」
「壊滅ですね」
怪我人ははちまきの奪い合いの最中に転落したらしい。脛の傷が痛々しい。遠くからでもわかる。
自動的に運動会の練習を思い出してしまう。骨折じゃなければいいが。
「要検討ですね」
「せめて妨害工作はやめてくれ。正々堂々とだな」
仄かに笑ったように見えた。
光の加減かもしれない。
「なんで大学やめたんだ。せっかく中学も飛び越えたってのに」
正しくは休学。高校を卒業したらまた戻るらしい。
「聞いてないんですか」
「父親には会ったよ。息子の意を尊重した、とか言われたからその息子の意ってやつを聞こうと思って」
「担任の特権ですね」
彼はメガネを外す。レンズが曇ったわけではなさそうだ。胸ポケットにかける。
同じ顔。
「伊達なんです。もちろん度入りもあるんですが何も見たくないときはこっちを」
「まさか俺の授業」
「ごめんなさい。でも話は聴いてます」
「いや、いい。つまんないだろ。テストも満点だしな」
「わざと間違えてもいいんですが飛び級の出戻りなのでなかなかそうもいかなくて」
「順位張り出すしな。そうか、苦労だな」
第二ラウンドは白が勝ったようだ。騎馬戦だけそんなに何度もやらなくてもいいのに、とも思う。男女別だから最低二回でいい。騎馬戦に出場したい人員が多すぎるのだ。
「表向きの理由なら話します」
「裏もあるのか」
「何かと理由がないとわかってもらえないみたいなのでわざと作りました。高校に行きたかったから、じゃ駄目みたいで」
「じゃあそれでいいや。俺も高校は楽しかった」
「いいんですか」
「いいもなにも、立派な理由だしな」
彼は目を細めてグラウンドを見つめる。近視の場合、こうすると多少は見えるようになる。
「どっち勝ってますか」
「点数だとどっこいどっこいだな。いつまで騎馬戦やってんだって突っ込みたくなるが」
「父さんに会ったんですか」
「担任だからな」
「僕のこと何か言ってましたか」
「自慢の息子だとか、そんな感じかな」
「そうじゃなくて、その」
「死にたいか」
彼の黒い瞳がのぞく。
死を求める眼は綺麗だ。氷のような熱さと炎のような冷たさを併せ持つ。穏やかで激しい。沸騰する融点。煌びやかな闇。
「死んでもいいぞ」
「どうして」
「死にたいなら死んだほうがいい。止める権利はないから代わりに勧めとく」
「フツー止めますよ」
「止められたのか」
「一般人が殊のほか多くて」
本日限定で賑やかな第一グラウンドの脇に裏門がある。そこから出ると森林公園という如何にもどうしようもない平和ぼけな遊歩道が延びている。運動部のマラソンコースにもなっている。
彼は、順路だといわんばかりの並木道を無視して、落ち葉でカムフラージュされた小径に逸れる。蝉はもういない。枯葉を踏む、乾いた音だけが聞こえる。
「先生が父さんだったらよかった」
「せめてお兄さんがいいな」
強引に切り開かれたらしき場所に建物がある。外見は封鎖された研究所だが実際もその通りだろう。蔦が這っていないだけマシ。
「迷ったかな。なんだここは」
「僕の自殺未遂現場です」
「飛び降りか」
「屋上です。入れるかな」
彼はポーチに近づく。以前は自動ドアだったのだろう。からからに乾燥した布がガムテープで張られていて内部がのぞけないようになっている。
「壊したら怒られるかな」
「死んだ後のことは気にするな。ガラスくらい」
適当な石がない。探していたら破壊音が聞こえた。
彼がコンクリートの欠片を投げつけた。
「ひどいな。ここの管理はお前の父親だろ」
「いまはそうです。昔は違った」
内部は不可思議な気配で充満している。カビとほこり。有害ではないが鼻につく薬品。不在なはずの人間の影。照明は点かない。
「お母さんはいますか」
「いないと生命として厄介なことになる」
「僕は父さんのクローンかもしれない」
「確かに顔がそっくりだな」
「僕が生まれてすぐ、僕だけ引き取って別れたらしいんですけど絶対におかしいんです。あの人は女なんか好きじゃないから」
エントランスの奥にエレベータらしき扉が二つあるがどう考えても動いてくれないだろう。左右に似通った通路が延びているが、右は突き当たりに扉があるだけ。左側の通路は突き当たってから右に折れている。道なりに行くと階段があった。薄っすらほこりの膜ができている。
「先生のお父さんはどんな人でしたか」
「いなかったかもしれない」
「どういう意味ですか」
「そのままの意味だよ。会った記憶がないんだ」
二階まで上がったら階段が消失してしまった。外から見る限り三階まであったはずなのでほかの階段があると考えたほうがいい。
「さて、どうするか」
「先生は何を知ってるんですか」
「何を?」
「だってフツーこんなところに」
「俺はフツーじゃない。それじゃ駄目か」
「でも」
「向こう行ってみるか」
通路は一階と同じ造りで途中で折れ曲がっている。エントランスと似たような空間に出た。やはりエレベータがある。鼻がむずむずするので窓を探す。鍵が固い。錆びているのかもしれない。金属が擦れる不気味な音と引き換えに何とか開いた。眼下にポーチが見える。
「ガラスを割ればよかったのに」
「どうしてそういうことを早く言わない」
「気づくかなって思って」
デジャヴュ。眩暈がする。
違う。彼は別人。
呼吸のやり直し。
「ノルトって人知りませんか」
「誰だそれは」
「父さんの好きな人みたいで」
「お前の父親の名前は」
「ホスガてんぎ」
「へえ」
「先生の名前も」
「父親とは寝ないほうがいい」
彼はいつの間にかメガネを掛けていた。意味のない偽のレンズ。外見がイメージを喚起するだけ。
それで充分。
それが目的。
「呪いなら解けるよ」
返事はなかった。
彼は窓と床を一回ずつ見た後、吸い込まれるように通路を進んでいった。突き当りにドアがあるほうの通路だ。鍵の開く音がして静寂が戻る。
2
ただっ広い空間だった。
何か役立つ家具があったようだがこの部屋に相応しい家具がなにひとつ思いつかない。奇怪という文字を具現化させたような抽象的な部屋。違和感がヘドロの如く咽喉に絡みつく。
壁以外の目的を髣髴とさせる壁は横にずれる。世に言う隠し扉というやつだろうか。階段を発見した。
ほこりの膜に足跡。
上だ。
三階ではない。足跡はまだ上に続いている。爪先だけの心許ない足跡。しかし意志だけは強固。劇場のように揺るぎない。
風が顔を撫でる。人工ではない光源。
「先生は誰なんですか」
泣きそうな声だった。
しかしそれは質問ではない。音声なら何でもよかった。注意をそちらに傾けさせるためのサイレンにすぎない。
黒髪の少年はフェンスに背を向けている。
「死んでいいよ」
「嘘だ。あなたも僕が眼の前で飛び降りたら迷惑なんだ。だから追いかけてきた。そうでしょう?」
距離は詰めない。
顔はよく見える。似ている。
誰に似ているかなんて言いたくない。
「僕の父さんは狂ってますか」
「どうして」
彼は後退してフェンスに背をつけた。軽くて重い音がする。柵はそれほど高くなく有刺鉄線も張り巡らされていないので容易く飛び降りることが出来る。
「僕を愛してるって言うんですよ」
「息子が好きじゃいけないか」
「そういう意味じゃありません。そういう意味じゃなくて」
切り取られた四角い空。四隅に白い雲。
死。
死が漂う。
死にたい魂が結集して形作られたのがこの建物なのだろう。死のにおいが立ち込めている。甘美だけど異臭。猛毒の麻薬。
「知り合いに似たようなのがいた。だから別に」
「知り合いって誰ですか。それがノルトって人なんでしょう。だから父さんは僕をそのノルトって人にしたくて」
「どうかな」
何となくポケットを探る。携帯電話と家の鍵。財布もある。のど飴が出てきた。ガムのほうがよかった。
「死なないのか」
「僕に死ねって言ってくれたのは二人目です」
「許してほしかったんだろ」
嗤った。
違う。
人形は笑わない。
「うれしい。けど駄目だ。先生が誰なのかわからない」
「担任だよ」
偽物のレンズ越しに相貌を検分されている。細胞の一つ一つが顕微鏡で拡大される。DNA鑑定をしているのかもしれない。
「先生は僕の父さんですか」
「違うとは言い切れない」
「どういう意味ですか」
「わからん。お前はどう思う?」
「先生の名前ってテンギでしたね」
「お前の父親もそうだったな。偶然とは思えない」
「どっちかがニセモノってことですね」
「だろうな。何か目印はないか」
彼は考えるふりをしている。思い出すふり。記憶を探るふり。
「三年前までここに天才博士が住んでいました。だけど突然誕生日の日にいなくなったんです。その前日の夜、父さんが出血多量で発見されました。場所はこの二つ下。僕が鍵を持ってる部屋です。そのときの傷痕があれば僕の父さんかもしれません。先生にはありますか」
「傷っていうのは」
彼は自らの腹部に触れる。上から下に撫でて斜め下を見遣る。そこがその部屋にあたるのだろう。
「見せてください」
「俺は今日初めてここに入ったがそれでも見たいか」
「目印と言ったのは先生ですよ」
視線というよりは洗脳。
自分の名がてんぎだということはわかっている。しかし本当の名はてんぎではないということもわかっている。
強烈に自分の顔が確認したくなる。周囲を見回しても鏡の代理になるようなものは何もない。誰に似ていると言われたのかを思い出す。
父。もう死んだ個体。
どうしても顔が思い出せない。記憶にないだけか。記憶の中にはあるが検索システムが故障しているだけか。どこに閉まったかを思い出せないだけか。鍵がない。引き出しを開けても何も入っていない。無い。無いのだ。そもそも何も無かった。
いない。すでに不在の個体。
「サクゼ先生」
「たぶん無いと思うが」
「無いという状態を見たいんです」
「参ったな」
「どうして躊躇うんですか。服をまくり上げてもらえればそれで満足なのに」
てんぎは自分の腹部を思い出す。
わからない。服の上から触っても何も無いような感触。まさか空洞ではあるまい。何も無いという状況を再認識するだけなのに。今更怖がる必要は無い。意味も無い。
万一傷跡があってもそれはここでつけたものではないと思いたい。怪我なら日常茶飯事。その時の名残だと思えばいい。厭だ。傷痕なんて無い。どうして腹を刺さなければ。
腹を刺す?
「出血多量って自分で?」
「わかりません。父さんは自分で刺したって言ってましたけど僕は違うと思います。僕が刺したかもしれない。あとは」
「失踪したっていう天才博士とやらか」
「ようじさんです」
「ヨージ?」
「僕の法律上の弟」
ヨージ。彼こそが朔世かげとの息子。
では自分は本当に朔世かげとの息子だったのか。姉も妹も全員が母親の子ではないとしたら。それを仮定するなら。
きょうだい。
脳髄を麻痺させる死のにおい。どこかで。そうだった。ここは朔世かげとの研究所。来たことがあるではないか。あの日だ。引越しの日。祥嗣りゅうしに呼ばれたのに祥嗣りゅうしに追い出されて。誰のせいで。誰の兄。
いとこ。
てんぎはTシャツを脱ぎ捨てる。ゆっくり下腹に触れる。
ヘビが這ったような痕。
手で触っただけでわかる。見るまでもない。
「あった」
「じゃあ先生が?」
「わからない」
「どうしてですか。そこですよ。その場所を刺して」
「ナイフか」
「やっぱり先生が僕の」
電子音。耳に当てる。
誰からなのかも、どういう用件なのかもわかっている。
この状況で伝達される意味のある事実は。
「テンギ君」
「死んだのか」
「さっきね」
「お前が殺したのか」
「そのつもりだったんだけど遅かった」
てんぎはそれを彼に渡す。
「え、なんで」
「いいから」
すぐに彼から表情が消える。
見なくてもわかる。
「うそでしょう。あなたは」
後ろ。
振り向くまでに決心が要る。
それが済めば簡単。
「ホスガてんぎは死んだよ」
彼もようやく気づく。
眼が合う。
人形と。
人形になり損ねた少年。
「死んだ」
彼は走る。
ドアは開けたまま。
「テンギ君は行かないの」
「いま行く」
二つ下。二階。
死んだ部屋。
死体は無い。あるはずは無い。
本体は此岸。
あるのは大量の血。
拡がって。広大な鮮血。
彼は声が出ない。声を出す必要がないから。
人形がてんぎの腹部を見る。
「何も無いよ」
「知ってる」
指先で触るとヘビの痕。
視覚では捉えられないだけだろう。
「あなたが殺したんですか」
「自殺だよ」
「嘘だ。あなたがノルトって人ですね」
「よくわかったね。伊達にエトリじゃない」
彼の表情が強張る。
「どうして僕の名前、とか思ったんならそれを解決するよ。僕もエトリだったから」
「父さんはあなたのことが」
「違う。僕の先にある違う人を見てた。僕じゃない」
「じゃあどうして僕がノルトって呼ばれなきゃいけないんですか。僕はそんな名前じゃない」
「それも僕の先にある人がいけないわけだから。怨むんならお門違いだね。僕は悪くない」
彼は血の海に浸かる。ずぶずぶと沈んでいく。
「テンギ君。ひとつだけ言わせて。サクゼ先生を殺したのは君じゃない。ようじだ」
痙攣する。湿原のような失言。
錆びた鉄のにおいが充満する。窓があったがそこまで行くには血の海を泳がなければいけない。脳がグラグラしてくる。茹ってしまったのかもしれない。そうでなければ腐蝕か。
これで三人。
三人?
サクゼかげと。
ホスガてんぎ。
二人だ。
数さえまともに数えられなくなっている。
頭の内側からハンマーで叩かれている。大打撃が脳を殺す。壊死するまでそう時間はかからないだろう。
いとこ。
そうか。
くりかえし。
「ねえ、父さん。厭だよ。僕をひとりにしないでよ」
彼は泣いているのかもしれない。声はそう言っているが眼は生きていない。人形になり損ねた個体。人間を演じることで生きながら死ぬしかない。選択肢はひとつ。
それももう消える。
「君には死体が見える?」
「あなたには見せない」
「ふうん。だから見えないのか」
「ひとりにしないで」
彼岸からの声が反響する。
3
三階はマンションの一室のようだった。
その空間だけ生きている。他を殺して代わりに生きる。
「ここに住んでたのか」
「そんな時期もあった。昔すぎて忘れたけど」
てんぎはフローリングの床に座る。人形は窓の外を眺めている。そう見せかけているだけかもしれない。
「何で死んだ」
「先生は死ぬしかなかった。もともと死んでたものをわざわざ蘇生させたようなものだから元に戻してあげただけ」
「テンギってのは」
「ショウジ先生がかけた呪いの一種。どういうつもりで巻き込んだのかはわからないけど君のほうが先にテンギだった」
「順序は関係ないよ」
彼が戻ってくる。血だらけだったのでシャワーを貸したのだ。服も貸した。全部人形の持ち物だったらしい。
その服は知らない。ここにいたとき着ていたものだろうか。
まるで病人。
「気分はどう?」
「本当のことでしょうか」
「君が本当だと思えばそうだし、嘘だと思えばそうじゃない。ただそれだけのこと」
彼の足元が覚束ない。よろけそうになったので体を支える。軽すぎる。腕も腰も物凄く細い。肉がついていない。骨の形がわかる。
肩が震えているが無理矢理床に座らせる。
「大学に行ってもみてもいいですか」
「無駄だよ。最初からいなかったことになってる」
「じゃあ僕もいないんですね」
「残念だけど君はホスガてんぎから産まれていない」
ここには時刻の概念は無い。
止まった場所。動かない空気。
血は消えただろうか。
「ショウジりゅうし先生って知ってるかな」
「名前だけ」
「会ったことは」
二秒の硬直。
ただでさえ無表情なのに更に表情が無くなる。
「わかりません」
「言いたくないならそれでもいい。あの人は」
「言わないで下さい」
「どうして」
「死んでるんでしょう。どうせ」
「そうだね。あの人はずっと死んでるよ。よくも何十年も耐えたと思うけどそういう人だから。よくわかったね」
「ひとりになったから」
「ひとりは厭かな」
「厭です」
埋め込まれた遺伝子のせいか。脳の混線から来る幻覚か。
内耳で叫び喚くのは誰だ。
「テンギ君、賭けをしよう。体育祭の結果。どっちが勝ったと思う?」
「見てきたのか」
「そんなことしたら反則だよ」
「俺が勝ったらどうするんだ。あいつと別れるか」
言わなければよかった。
確率ゼロ。
「お祭りごとだからそれに乗っかろうと思っただけだよ。どっちに賭ける?」
傍らの生徒を見る。
「生憎な、天才少年率いる一年二組は赤なんだよ」
「じゃあ僕は白だね。見に行こうか」
「その前に何を賭けたのか言えよ」
「僕の中の選択肢だからまだ言えない。もちろんテンギ君が勝った場合にすることと、僕が勝った場合にすることはそれぞれ定めてあるから」
「結果に応じて取っ替えるとかなしだぞ」
「しないよ」
彼が立ち上がろうとしたので手を貸す。
「歩けるか」
「たぶん」
制服が血だらけになったという特殊な状況の取り扱いについて一瞬だけ考える。面倒だ。とりあえず見つからなければいい。
ゆっくり階段を下りる。一階に着いたのにまだ下がある。
「地下もあるのか」
「みたいだね」
「そこにいたろ」
「忘れたよ」
不気味なにおいのする部屋がふたつ。どちらも空っぽだった。誰がいた部屋なのか容易く想像がつく。
父だ。
残留する意識が禍々しい。陰鬱な気分を催す。さもそこにいるような生々しい予感。変容する空気圧。
「前に蔵に閉じ込められたいとこの話したろ。あれさ」
「君からそう遠くない先祖だよね」
「さっき思い出したよ。ショウジ先生から聞いたんだった」
「あの人は甥である君に擬似状況下で同じことをさせたかったんだ。でもきっと当時はいとこじゃなかったと思う」
「きょうだいか」
ふと振り向く。
誰もいない。
「大丈夫。気持ちの整理をつけたいだけだから」
階段を観察する。地下に向かって足跡。
「何しに」
「僕の可愛い弟の残像に会いに行ったのかな。たらい回しされたみたいでここで寝起きしてたことがあるから」
「弟じゃねえだろ」
「弟だよ。とある先生にそっくり」
「弟でいいや」
何となく部屋から出られない。この不気味な感覚から早く逃れたいのに。囚われているのかもしれない。統べる死の期待に。
「いとこになりたかったってことか」
「いとこは結婚できるからね。あの人たちがいとこだったらこんなにこじれなかったんだよ。本当のいとこは書類上だけ。でもその書類は破棄できないんだ。そういう約束だから。君がサクゼてんぎのままなのは可哀想だけど」
「いい。お前と一緒だといとこじゃなくなる気がする」
「テンギ君の書類上の母親も入れて三人が共犯だよ。出産に反対された怨みもあっただろうし、取替えっこを成功させるためには血族は邪魔だから」
あんた私の子じゃないよ。
あれがすべてだった。
「俺に嫌がらせしてたのは」
「ショウジ先生だろうね。あの人の脳の九割以上は嫉妬でできてるから。あのきょうだいは死んだとか死なないとかそういう次元で存在してるんじゃないんだ。でも厄介なことにあの人たちに関わるとたちまち死にたくなる。感染力抜群の自殺プログラム。わざわざ手を下さなくとも勝手に死んでくれる。だけどもうそんな必要無いのにね。おかげで僕も死にたかったし、テンギ君の好きだった無の感覚もホスガ先生も。その息子が研究所の屋上から飛び降りたくなるのは当然だよ」
「ホスガ教授は死なせてよかったのか」
「死にたい部分だけ死なせてあげた。先生はショウジ先生が好きだったから。そこだけさよならした」
「それがあの血か」
「涙だよ。君たちには血に見えたみたいだけど」
ようやく廊下に出る。エントランスが見える。最初見た右側の通路だ。鼻に意識を集中させないように建物の外へ。
屋上は見えない。世界一可哀想な弟について考える。
「信じていいか」
「僕から眼を離すといなくなると思ってるね」
「もう厭なんだ」
「二人で暮らす?」
「その選択肢はないんだろ」
「わからないよ。どっちか勝ったか確かめないと」
小径を逆戻り。死んだ枯葉を踏みつける。時々振り返って墓標のような研究所を見上げる。何かがゆらゆらと天に上る錯覚。火葬の副産物としての寂しげな煙。
「これからどうするんだ」
「それをこれから決めるんだよ。賭けでね」
裏門に着く。第一グラウンドは閑散としていた。
いったい何時間経ったのだろう。
「片づけが済んじゃったかな」
「そんなとこにいないでこっち来いよ」
「一応部外者だから」
「よく言うよ」
手は再び冷たい。
こちらのほうが好き。
「あったかいね」
「たまには会いに行っていいか」
「まだどっちにするか決めてないよ」
言わないでほしい。選択肢だって最初からひとつ。
あの施設以外に帰る場所はない。
「あ、ちょうど外してる」
結果は。
「どうするんだ」
4
朝から大雨だった。
風が斜めに吹きつける。前方を歩いている人の傘がきのこの形になった。壊すのが忍びないので傘を畳んで走る。
耳に雨音。
心地よい。
頭部が濡れているせいか奇妙な感覚。浮遊感。風邪を引く前兆かもしれない。あり得ない。仮病しか罹ったこと無いのに。
駅から五分なのに門に着く頃にはびしょ濡れだった。風はいっこうに弱まる気配がない。雨も強くなってきた。
台風。
寝坊したので天気予報は見ていない。そもそもテレビ番組に興味がない。世の中のことは特にどうでもいい。
どうでもいいや。
雨がやんだな、と思ったら頭上に黒い傘。
「持ってるのに差さないんですか」
「今日のアンラッキーアイテムが傘だった」
「本当にフツーじゃない」
生徒会棟の前は傘だらけだった。掲示板の前に人が集まっているようだ。朝からご苦労なことだ。
校舎に入る。鞄が防水でよかった。タオルを出して髪を拭きながら階段を上がる。
「ついてきてるってことは説教志願者とみなすぞ」
「知らないんですか」
「なにが」
本当は知っている。
あの人だかりを見れば言葉は霧散する。
「投票の必要はあったのか。紙と時間無駄にして」
「会則ですから」
くしゃみが出た。
「着替えとかって」
「ねえな」
研究室に鞄を置く。幸か不幸かまだ誰も来ていないようだった。雨の日でなくとも数学科はエンジン始動が遅い。窓ガラスに天からの水が衝突する。暴風に煽られてカタカタ鳴動。
「一限て空いてますか」
「さあな」
「行きたいところがあるんです。ついてきてもらえませんか」
「何で俺が。だいたいお前一限」
「英語です」
「異国語話す連中は怖くてな。行くんなら一人で行ってくれ」
「今日、理事長が来ますよ」
「それがなんだ」
またくしゃみが出る。
「なんか寒いな」
「今日は休んだら如何ですか」
「駄目だね。口車に乗せようったって」
校内放送が入る。
近くの主要路線が暴風雨のため運転を見合わせているらしい。全寮制なので生徒には関係ないが教職員が来れない。始業三十分前に誰もいないのは数学科に限った現象ではなかったようだ。
「あれ、先生は電車ですよね」
「俺の線はそっちじゃない」
「休みになるのかなあ」
「聞いてくるよ」
「でもいまの放送委員長ですよ。誰もいないんじゃ」
数学研究室は四階にある。隣の棟の一階に事務室。そこは中央棟と呼ばれ職員はたいていそこにいる。しかし今日は蛻の殻だった。照明すら点いていない。
放送室をのぞく。
「おい、どうなってる」
「あ、先生。どうしたんですか。車でしたっけ」
どうやら生徒会が独自に善意で報せただけのようだった。そういえば電車が止まってるとしか放送されていない。
「連絡とか来てないのか」
「来たとしても私らが勝手に出るわけに行かないでしょう。先生が何とかしてください」
しぶしぶ事務室に入って電話をかける。中等部でいいや。
「ああ、よかった。何度かけても誰も出なくて」
「今日は」
「そう、それです。そっちは誰かいますか。もうこっち三人くらいしかいなくて」
「駐車場が無いから電車ってのはそっちも一緒でしょう。似たようなもんですよ」
運よく学校に辿り着けた教員が廊下に集まってきた。それでもぱっと見四人しかいない。
「今日はたぶん駄目ですね。そろそろ連絡が来てもいいと思うんですが」
「来てませんか」
「おそらくそっちも足止めでしょう。こんなことなら来るんじゃなかった」
「同感です。それでは」
廊下に出て電話の内容を伝える。概ね同じことを考えていたらしい。なんという協調。
電話の呼び出し音。
違う教員に出てもらった。電話を耳に当てるなり顔をしかめて首を振った。
目線を交わす気力すらない。
「休みですか」
「あっちの連中に頼んでくれ」
間もなく校内放送が入る。普段は感情を含ませないようにしている音声も心なしか弾んでいた。気持ちはわからないでもない。
運の悪い教員勢は愚痴を呑み込んで流れ解散になった。
「お前の仕業な気がしてならない」
「天災ですね」
研究室に鞄を取りにいく。階段で誰ともすれ違わなかった。生徒は校舎にすら入っていないらしい。
「祝い酒にしたってなあ、ちょっとばかし降りすぎだろ」
「それはうれしいなあ」
「理事長だって知ってたのか」
「僕は生徒ですよ。入学式のときに」
「気づかないと思ったんだがなあ。外見が全然」
「そんなの知りません」
彼はメガネに触る。
「なるほど、いい耳だ」
雨足は弱まるどころかまた強くなっている。びゅうびゅう風鳴りが鼓膜を震わせる。建物も軋んでいる気がする。
「行くんなら已んでからだな」
「今日中降ってますよ」
「じゃあ延期だ」
「どういう関係ですか」
「さあな」
「恋人?」
「つつくな。心の傷って知らないのか」
「先生こそ僕の学部知ってますか。馬鹿にしないで下さい」
「さっきのは嘘だな」
「二人だけで話をしたかったんです。おかげで叶いました」
「父親元気か」
「死んでますよ。あの人がそう言ったじゃないですか」
「こないだ大学で見たんだがあれは幽霊か」
「それはきっと父さんじゃありません。ニセモノですね」
「俺はお前の父親でもなんでもない」
「知ってます。でも血は繋がってますね」
「どうかな」
背筋がゾクゾクする。これが風邪かもしれない。
「僕は理事長の息子に会ったことがあります」
「そりゃ間違いだ。弟だよ」
「年齢から言うと再来年入学ですよね」
「ムリムリ。小学校にも中学校にも行ってない奴が突然」
そうか。
一人目。
「なるほど」
「生徒会長は理事長よりも目立つ。ただそれだけです」
「二年連続は前例がない。そもそも一年で生徒会長になった奴もいない。さすが天才少年だ」
「先生はお兄さんな気がします」
「ひとまわり以上も違うのに?」
「年齢はあまり関係ないかと」
電話の呼び出し音。
誰なのかすぐにわかる。
「ラヴコールですか」
「からかうな。もういいだろ。さっさと帰れ」
学年首席を追い出してから電話を耳に当てる。
「休みなら早く言ってくれ」
「僕が降らせたんだよ」
「だろうな。もうひとり天才つながりの容疑者がいたがそっちはいま釈放した」
「僕には見えないお腹の傷も君が先だよ」
体育祭。赤が僅差で勝利。
「なあ、お前が勝ってたらどうしてたんだ」
「聞かないほうがいいよ。テンギ君はショックで寝込む」
「充分ショックで寝込みそうだ。寒気がする」
くしゃみを出す。
わざと大きく。
「あれ、風邪?」
「だから早く看病に来い。どうせその辺にいるんだろ。いとこのお兄様の命令だ」
「先生に許可取らないと」
「だからそういうことをしないってことになったろ。言っとくが賭けなんかするとか言い出したのはお前だからな。きちんと守ってもらうぞ」
「いまどこ?」
「当ててみろ」
「外れたら帰っていい?」
「駄目だ。三分以内に着くだろ」
「バレた」
窓ガラスを覆っている水蒸気を手で拭う。
数学研究室は角にあるため、窓の正面にそびえ立つ中央棟に遮られることなく、その隣の建物の屋根が見下ろせる。
「理事長館なんて無駄なもん作らせたのもお前だろ」
「なんのこと?」
「数研は二階がよかった」
「気が散るかと思って」
「無駄な配慮だ。来期から変えろよ。そのための権限だからな」
「賭けなんてやめればよかった」
「今更遅い。来ないならこっちから行く」
「電話切らずに来れば?」
「久し振りに名案だ。つーか本当にそこにいるんだろうな」
「来てみればわかるよ」
階段を駆け下りる。水滴や結露でで滑りそうになる。転んだって構わない。むしろ転ぶか。
怪我なら慣れている。
階段から落ちたこともある。しかしあれは階段ではない。
梯子だ。
「カタクラは元気か」
「敵に塩を送るなんて余裕だね」
「どうも諦めが悪くてな。第一あれはもう老いてるだろ。死んだら俺にもチャンスがあるな」
「殺したら僕も後追いしようっと」
「じゃあ俺も後追うか」
「連鎖自殺再び、だね」
「やめるわ」
傘について一瞬だけ考える。無駄な時間だった。
要らない。
徹底的に風邪引いてやる。
「下がやけに賑やかだけど」
「知ってることはわざわざ訊くな」
「違うよ。見られないようにってこと。なんせ羅城学園理事長と高等部数学科教員の密会だから」
「やめやめ。なんか生々しいな」
生徒会棟の真向かいが理事長館。そこの扉に手を掛ける。
重い。
あの蔵みたいだ。
最初に視界に飛び込んできたのは。
白い顔。
人形よりも。
綺麗な眼。
「僕に会いたくて暴風雨の中歩いてきたでしょ」
「さあな」
「電車止まってるってよ」
「俺と一緒にいる口実作りのために台風呼んだやつに言われたくない」
人形傾向 伏潮朱遺 @fushiwo41
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