第3話 春醒ハルサメ

      1


 散り行くだけの桜が妬ましい。

 花が咲いて散っても若葉が出ている。緑の葉が青々と生い茂った後は紅や黄色に染まりはらはらと落ちる。裸のまま寒さに耐えればまた蕾をつける。円環。ループ。終わりなき繰り返し。決して迷うことなく季節に応じて桜としての局面を表現すればいいだけ。

 春なんか来なければいいのに。春で止まれば夏も来ない。秋も冬も訪れない。永遠に春のまま止まればいい。何も不老不死を求めているわけではない。そのまま現状維持でいい。進化も退化もしなくていい。永劫不変でつまらない日常を過ごしたい。

 一番近くにいるはずなのに。同じ空気を吸って同じものを食べているはずなのに。接近を図れば図るほど手応えがなくなって、やっと摑まえたと思って手を開くと何も無い。来る日も来る日も思い描いた最上の喜びはここにあるのに。幸せに期限があるとすればそれは絶対に幸せではない。

 悪夢だ。

 引っ越してからずっとそのことだけを考えている。昼夜逆転とは言わないが夜はちっとも眠れない。代わりに授業中に寝ているのだからやはり昼夜逆転に片足を突っ込んでいるのだろうか。

 父は死んだらしい。

 叔父は療養中だという話。

 母はおそらく近隣で存命。

 姉は別に死んでいても構わない。

 妹は元気で生きていてほしい。

 いとこの東海林ショウジは、てんぎが中学を卒業してから一緒に暮らすことになった。念願の二人だけ。実家に匿っていたときも部屋に二人っきりだったが、他の部屋に余計な人間がいたのだから厳密には二人っきりとは言えない。言うつもりもない。訂正。

 駅から遠いという一見不利な立地条件おかげか家賃はそれほど高額ではない。通う高校が駅から遠いのでそちらに合わせてアパートを探しただけのこと。その職種が活躍しようが暗躍しようが特に社会的に影響がなさそうなところでバイトもしている。あまりにもルーティンワークなのですぐに憶えてしまった。基本的には母親に仕送りをしてもらっている。返さなくてもいいと言われたが母親が生きている間に全額返したい。借りを作るとかそういう話ではなく、東海林を生かすための生活費は自らで捻出したいだけだ。

 東海林のるとは、人形からかけ離れてしまって久しい。

 漆黒の髪は日に日に伸びる。呪われた日本人形も湿気で髪が伸びただの縮んだだのという怪談を聞いたことがあるがそれとは違う。本当に伸びている。短いほうが似合っていると思うので美容院に連れて行こうとしたら首を振られた。気になるなら切ればいいよ、と素っ気なく言われたが、瑕ひとつない透き通ったガラス玉にわざわざ瑕をつけて汚してしまうような気がしてただの一度も出来ずにいる。髪の毛を切るための鋏を買ってきてあるのにもかかわらず、いざ切ろうと思うとその鋏を窓から投げ捨てたくなる。実際に捨てたこともある。すぐに拾いに行ったが犬に吠えられた。お前が悪いといわんばかりにばうわう吠えていた。悔しいので二度と放り投げないことに決めた。

 短くすればきっと時間も元に戻る。そうだ。きっとそう。最初に蔵で会ったときや施設を訪れた時だって髪は短かった。単に変化が怖いだけなのか。こつこつと積み重ねた半年をリセットしてしまうことを恐れているのか。でもそうだとしたら喜んで鋏を使用する。じょきじょきと切り落としてしまいたい。

 二十四時間一緒にいたいけど、同じ空間で同じ時を過ごした場合に何を話せばいいのかわからない。実家にいたときは楽しくて仕方なかったのに。その時のことがあたかも幻のように思える。もしかすると一緒にいた気がしているだけかもしれない。心の安定のために脳が勝手に創り出した偽物の記憶のような気がしてならない。おそらくそうなのだろう。

 逃げても逃げても同じ速度で追ってくる。ぴったりくっついてすぐ後ろに控えている。振り向いたときが終焉。世界の終わり。立ち向かえない。勝てない勝負はしたくない。最初から負けている。そもそも勝ち目はなかった。主治医の艮蔵から奪って東海林を連れ出せたのだって、自分が勝利した結果ではないのだから。

 走れ。

 走れ。

 夕食の買い物を済ます。食にこだわりはないが一人で住んでいるわけではないため栄養が偏らないように気を配る。両手に荷物を持ったとき初めて頼まれていた文庫本が未購入なのを思い出した。近くの書店に入り大急ぎでレジへ。

 平坦な道が多くて大いに結構だがアパートの前の道の源流ともいえる大通りがなだらかな坂なのだ。ここがきつい。ここさえ何とかなれば後はすぐ。脇の並木も春爛漫。花は厭だ。早く散ってしまえばいい。桜だって残らず散ってしまえ。

 曲り道が見えたとき目の前に何かが飛び出した。どこぞで見覚えのあるような紙袋が差し出される。

「落としましたよ」

 てんぎはどうも、と一応お礼を言う。

 拾ってもらったことは感謝するのだがどことなく勝ち誇ったような顔が腹立たしい。競争でもしていたのだろう。そういえば尾行されていたような気配の残留を感じる。

 相手の背丈は同じくらいで黒い学ラン。近くの公立高校だ。目つきが黙示録的に鋭く、袖に薄っすら染みがついている。泥か血か定かではないが明らかに不良の類。河川敷にいそうなタイプ。どういう気の迷いだ。裏があるとしか。

「おかえり」

 東海林だった。部屋は二階だから階段を下りてここまで何十メートルだろう。一瞬で体温が下がる。外に出ないようにしているはずなのに。

「おい、なんで」

「あまりにも遅いから」

「でも」

 いつもと変わらないと思う。帰り道の桜を睨んだ時間が無駄だったか。

「買ってきてくれた?」

「あ、それは」

 まだ受け取っていなかった。てんぎは不良の手元を見遣る。

「うっかり者のテンギ君がこの近辺で落として、それを親切な君が拾ってくれたのかな」

「どうぞ」

「ありがと」

 ただの通りすがりの不良のくせに馴れ馴れしく会話なんか。しかも不良は東海林をじろじろ見ている。それがまた気に入らない。

「テンギ君。完璧に君が悪い」

「礼はさっき言ったから」

「テンギ君が感謝の意を表さないなら僕が表そう。狭いアパートだけど寄っていかない?」

「は? お前何言って」

「じゃあ謝罪できる?」

 何で謝る必要が。しかし言うしか。

「悪かった」

「じゃあ改めてアパート寄ってかない?」

「おい、なんでそうなる?」

「いいじゃん。そろそろ話し相手が欲しかったんだ」

「俺がいるだろ」

「飽きたよ」

「飽きたあ?」

「マンネリって言うんだと思う」

 俄かに哀しくなる。腹も立ってきた。

「勿論君が厭じゃなければ、の話だけど」

 帰れ。

 てんぎはとにかく不良を睨む。

「それが夕食?」

 東海林は不良の買い物袋に目を遣る。

「奇遇だね。僕の夕食もラーメンだよ」

「そうだったか?」

「今決めたよ。というわけでもう一回行ってきて」

「はあ? お前、俺がいまどれだけ苦労して」

「ラーメンが食べたい」

 追い出す気だ。

 てんぎは買い物袋をその場に落として全速力で駆ける。一番近くのコンビニでラーメンを買って走る。悔しい。一刻も早く戻らなければあの出所不明の不良が何をするかわからない。そんなことは考えたくもない。下劣すぎる。

 階段を駆け上がる。ドアを開けて不良を睨み付ける。不良は東海林の近くに座っていた。それがまたイライラを加速させる。

「てめえ性懲りもなく」

「荷物を運んでもらったんだ」

「さっさと帰せよこんなガキ」

「そうだね」

「ほら、二度と来んなよ」

 ドアを閉めて鍵をかける。のぞき穴をのぞくのも厭だ。

 てんぎは人形の傍に座る。

「なんで呼んだ」

「気紛れかな」

「それに外にも」

「言ったよね。あまりにも遅いからって」

 息を吐く。

「怒ってる?」

「怒りたくもなる」

「嫉妬深いだけだよ」

 人形はソファに寝そべってさっき買ってきた本を読んでいる。バイト代はほとんど書物に消える。他に買うものもないので特に不満はないが棚の収容量を慮ってほしい。

「そんなに暇か」

「学校って楽しい?」

「つまらねえな」

「休んじゃ駄目だよ」

「わかってる」

 とは言ったものの集中とは程遠い次元に立たされている。不登校でもして部屋にいたい。入学したその月から進路のことを考えさせるなんてどうかしている。来週までに進路希望調査なるものを提出しなければならないのだがどうだっていい。

 もっと大事なことがある。

「なあ」

「なあに」

「一生ここにいるわけじゃないんだろ」

「そうだね。物理的に不可能だ」

 そんなことを訊きたいわけじゃない。

 では何が訊きたい?

 言いたくない。言ったら認めたようなもの。

「二ヶ月かな」

 数えたくもない。

 カレンダーは来週ゴミに出そう。時計も電池を抜きたい。地球の自転や公転も止められたらいい。一日が二十四時間しかないのが怨めしい。もっと長く。

「お腹空いたよ」

「ああ」

 しか言えない。

 空腹を訴えるようになったのだって人形から遠ざかっている証拠だろう。大量に食べるわけではないが人並みに口に物を運ぶ。平日の昼はどうしても留守になってしまうので朝のうちに作っておく。それでも大抵全部食べてある。残っているときは具合が悪かったときだ。

 無表情はそのまま。これが唯一の救いかもしれない。

 だが顔を合わせるたびに眼を逸らしてしまう。話をしたいのに。何か言ったら崩壊してしまう。ただでさえ足場が不安定なつり橋を自らで揺らしているようなものだ。鉈で床板を叩き割って。萎びたロープを引き千切る。錆びついた金具に亀裂が入る。落ちた先は濁流の渦。滝から真っ逆さま。

 なにも。

 無くなる。

 夕飯は自分で作ったくせに何を食べたのか思い出せない。ラーメンだったような気もする。誰が食器を片付けたかも自明なのにまったく憶えていない。

 苦痛。

 違う。

 慟哭。

 遠い。

「元気ないね。学校でいじめられた?」

「まさか」

「じゃあ担任とそりが合わない」

「名前なんだったか」

「友だち出来た?」

「要らない」

「部活は面白そう?」

「興味ない」

「中間だっけ? いつ?」

「来月」

「それだけ見れるね」

 咽喉が苦しい。

 言わないでほしいのに。黙っていてほしいのに。

「ノルト」

「なあに」

「ホスガって知ってるか」

「うん、先生のおかげでノルトになった」

 その話はもう済んでいる。

 今更何をしたい?

 わからない。わかりたくない。

「明日休む」

「駄目だよ」

「なんで」

 理由なんか知っている。

 白い顔。黒い髪。記憶で視るだけ。最近まともに見ていない。

 イメージだけ。

「悪い」

「謝らなくていいよ。僕は謝罪は求めていない」

「終わったらどうするんだ」

「一年は猶予もらってるけど、ようじの性格を考えるとね。そのまま監禁されるのも不服だし逃亡かな」

「俺も一緒に行きたい」

「それは駄目だって言ったよね。テンギ君は高校を卒業してもらわないといけない」

「大学なんか行きたくない」

「僕の代わりだと思って行って」

 厭だ。

 厭なんだ。

「学校なんか厭だ」

「お願い」

 わかっている。そんなことはすでに承認済み。変更はきかない。変更する気もないのだからそもそも意味のない話。楽しい話が浮かばない。することは嫌味なカウントダウンのみ。

 背中が温かい。

 人形はいつの間にか体温を手に入れたらしい。

「僕はテンギ君が好きだよ」

「知ってる」

「知らないかと思って」

「知らないわけないだろ」

 てんぎはポケットから。

「要らないなら捨てていい」

「使わないよ」

「じゃあ俺がいないときに窓から投げろ」

 東海林はそれをじろじろと検分する。見たのは初めてだったかもしれない。

 バイトやめよう。


     2


 うとうとしていたらいつの間にか授業が終わっていた。

 次の時間は面倒な体育。サボりたいが高校の体育というのは中学のそれと比べて自由度が高くジャージに着替えて出席さえしていれば特に何も言われない。種目も選択性なので消去法でサッカーを取った。他は卓球とバドミントンだった。

 ボールを追いかけたふりをして走るだけ。目の前に来たボールをゴールに近づけるだけ。単調だから余計なことを考えてしまう。

 今頃何をしているだろうか。

 読書か昼寝か。

 同じチームらしき男子がひっきりなしに眼を擦っている。花粉症だ。午後の体育は気温が高くなるのですぐに汗が流れる。監視も見張りもいないが忘れた頃に教員がのぞきに来る。木陰で駄弁っていた数人をひやかして帰っていった。なんという適当。

 終わりのチャイム。

 出席は授業の最初にとったので流れ解散。ボールを片付ける人間がいなさそうだ。仕方ない。

 体育研究室をノックする。

「おお、それこっち。悪かったな」

 どことなくボール臭い。しかし他にボールはは見当たらない。人間から発されているのかもしれない。体型がそんな感じだ。

「ああお前、進路調査なんだが」

「なんで」

「担任が気にしてたぞ。未提出はお前だけだってさ」

「別に先生に言われる筋合いは」

「俺だって言いたかないさ。ものの序でってやつだ。気に障ったなら謝るよ」

 女子は何故かサッカーを取らない。それについて不平不満を言っていたのがこの男だ。そもそも男女別なのだからサッカーをするにしても女子は一緒に試合が出来ないと思うのだが。

「会いに行ってやれや」

「誰が」

「お前だよ。他にいない」

「問題児ってことっすか」

「そうは言ってないな。まあ悪く言って予備軍だ」

「失礼します」

 更衣室は誰もいなかった。部活か掃除当番だろう。てんぎは着替えて数学研究室に向かう。

 ドアを開けた瞬間にコーヒーのにおいがした。デスクは四つあり壁を向いて左右にふたつずつ。それぞれ質の違うカオスを形成している。椅子はひとつだけ使用されていた。

「出したくないのか、はたまた出せなかったのか」

「大学名書くだけで進路ですか」

 担任はたぶん三十代後半から四十代前半。頭は寂しくないし口の周りは賑やか。授業中欠伸ばかりしている。本人にまったくやる気が無いが、やる気の無い人間を見分けるのが得意らしく無駄に声掛けをする。単にその一環かもしれない。

「進学希望者なら大学名がほしい」

「調べるのが面倒なんですけど」

「そんなこと言ったってな、俺が事細かに手取り足取り調べてやるわけに行かないだろ。ううん、どうするかなあ」

「じゃあそこの大学でいいです」

 確か近くにあったはず。レベルは知らないが、そこなら電車に乗ることなくいまいるアパートから通える。

「学部をきいとく」

「教育学部」

「そりゃ意外賞だ」

 担任はデスクの上をごそごそと探って紙とボールペンを取り出す。先週配られた進路希望調査なるタイトルのついたB5サイズの上質紙だった。四隅が折れ曲がっている。

「んじゃあ心が決まってるうちに書いとけ」

 てんぎはそれに大学名と学部を書いて返す。

「第二希望は未定、と」

「そこ入れば問題ないんじゃないすか」

「中間楽しみにしとく」

 てんぎは部屋を出て教室に鞄を取りに行く。掃除当番がモップをかけていた。

「ちょっといい?」

 帰ろうと廊下に出たところを呼び止められた。

 クラスの女子だった。席が隣だった気がする。何か貸したか。思い出せない。

「部活って入ってる?」

「いや特に」

「家どこ?」

「すぐそこ」

 返事が素っ気なさ過ぎたのかもしれない。女子は哀しそうな顔をした。或いは錯覚。

「つーか俺、急いでるから」

「下まで一緒に行っていい?」

 ゴミ捨ての序でにしては意味がわからない。むしろ遠回りにならないか。そんなことを考えながら階段を下りる。

「すぐそこってどこら辺?」

「言わなきゃいけないか」

「ううん、そうじゃなくて」

 昇降口に着いた。

「じゃあ帰るから」

 女子はてんぎが靴を履くまでそこにいた。そんな自慢できるような靴を履いていた憶えはない。それともどんな靴か見てやろうという趣旨だったかもしれない。靴箱に蓋があるから見えないのだ。

「おい」

 転びそうになった。

 今日は声掛け習慣の被害者になっている。

「ノート借りたの忘れてて」

 後ろに座っている男子だ。そういえば三日くらい前に。

「別に明日でいいのに」

「いや、思い立ったがなんとやらで。どうも気になって」

 てんぎはそれを鞄に入れる。

「じゃあ」

「ああ、えっとだから」

「なに?」

「今日、暇? これからさ」

「悪いけど用事あるから」

 てんぎは時計を見るふりをして走る。男子の名前が思い出せない。

 駅まで繋がるメインストリートを逸れて、なだらかだが長い坂を全速力で駆ける。生ぬるい風が眼に入る。一緒にゴミが入ったらしい。腹が立つ。虫かもしれない。小さな虫が飛び込んだ。眼から液体が出てくる。擦るのが面倒なのでそのままにする。

 友だちは要らない。ひとりがいい。クラスで浮いていることも知っている。一緒に昼食を食べる相手がいなくても気にならない。放っといてほしい。迷惑だ。いまは何も考えられない。

 階段を駆け上がってすぐのドアを開け放つ。

「今日は早いね」

「お前の顔見たかった」

 東海林はソファという定位置で読書に耽っている。いつもの無表情に、いつもの黒縁メガネを掛けて寝転んでいる。レンズの度なんか合っていない。調節するためにメガネ屋に連れて行こうとしたら首を振られた。美容院のときとは多少事情が違うように思える。

 どうしてそんなものを大事そうに掛けているのか。問わないでほしい。だって答えはひとつしかない。訊かずともわかる。

 艮蔵のプレゼントだから。

「顔色悪くないか」

「こんな顔だよ。でも二回くらい吐いた」

「寝てろ」

「寝てたよ。でも飽きた」

 飽きる。マンネリ。

 思い出す。

「俺も飽きたか」

「こないだの気にしてる?」

「いや、いい。五限サッカーで疲れただけだ」

 手が冷たくない。

 微々たる変化。

「鶏の唐揚げって作れる?」

「なんだ急に」

「食べたい」

「わかった」

 鶏肉は昨日買ったのがある。唐揚げ粉も残っていたはず。東海林が料理をリクエストするなんて珍しい。向かいの家の犬と対峙して吠えられなかったことよりもレアだ。ちょっとうれしい。

「でも吐き気するんなら」

「もう平気」

「こないだの奴か」

 東海林は文庫本にしおりを挟んでから顔を上げる。無表情がほんの少しだけ揺らいだ気がする。

 口に出さずにいようと思ったのに。脳が麻痺しているせいで口が滑る。あの時の親切を装った不良だ。東海林が別れ際に何かを手渡していたのだって黙殺したというのに。今更蒸し返す必要は皆無。

「知ってた?」

「俺の家だからな。キッチンいじられればまあわかる」

「ごめんね」

「誰だあいつ」

「誰だと思う?」

「考えたくないな」

「全然似てないよね」

 てんぎは床に座る。脚の力が抜けただけかもしれない。

 この状況で考え得る最悪の人物はひとり。年が同じくらいというのがヒント。これ以上は何も言いたくない。

「二度と呼ぶなよ」

「もう一回くらい来る」

「何しに」

「居場所訊きに」

 息を吐く代わりに吸った。結局は吐くことに変わりない。

「何しに行くんだって?」

「顔が見たいらしいよ。一度も会ったことないから。本当は殴りたいって言ってたんだけど」

「駄目だって言ったのか」

「うん。それとね、この近くに住んでるらしいよ。テンギ君の高校と近いかな」

 あり得ない。確率にしたって低くて然るべき。何のために県外に引っ越したのかわからない。どこまで逃げても意味がないように思えて仕方がない。母のせいか。

「あいつの妻とやらも一緒か」

「なんだか棘のある言い方だね。残念だけどはずれ。お母さんに見捨てられて一人暮らしだって」

「はあ?」

「不倫だってさ。ふたり揃って似てるよね」

 結婚して息子がいて。

「離婚はしてないみたい。どういうことかな」

「それ、マジ?」

「息子が言うんだからそうじゃない?」

 あの黙示録的に鋭い目つきは面影がないわけではない。どうして本なんか落としてしまったのだろう。本さえ落とさなければ出会わなかったはず。向こうだってどうしてわざわざ拾ったりなんか。

「最悪だよ」

「話さなければよかったのに」

「後悔してる」

 どうやら自分は永久にあの男に苦しめられる宿命にあるらしい。復讐にしては運命を捻じ曲げている。新手の呪いだろうか。

 呪い、と思う。

 夕食の準備をしつつ風呂の用意をする。東海林に先に入ってもらう。トイレとバスは別だが脱衣場がない。

 視界の隅に白い脚が通過する。見ても気にならなくなった。慣れたわけではない。以前のような人工的な白が消えてしまって、むしろいまのほうが人間に近いから眼のやり場に困ってもいいのに。

 人形ではない。

 いとこだから。

「一緒に入る?」

「これ見ろ。眼を離すと火事になる」

「裸で逃げなきゃいけないね」

 唐揚げは好評だった。艮蔵の息子は出来合いだったらしい。その点では勝ったかもしれない。

 また夜になる。

 ちっとも眠れない。照明を消してカーテンも引いて真っ暗なのに眼が冴える。いまのほうが頭が働くような気がしてくる。東海林はベッドに入って眼を瞑っている。寝息すら立てない。

 枕を覆う黒髪に触れる。まるで呪いの日本人形そのもの。いまの内に切ったら後始末が面倒だろうか。掃除機で吸えばいいか。引き出しから鋏を取り出す。

 じょきん。

 じょきん。

 上手に切らないと可哀想だ。寝転がっているから微調整がきかない。明日の朝やり直そう。短いほうがいい。髪も付き合いも。執着が凝り固まる前にさっさととどめを刺してほしい。

 無になりたい。


     3


 中間試験が終わった。

 結果は割と上々。格別気合いを入れたわけではないが数学だけは得意なのでそれが総合点にきいたらしい。担任は髭を触ってふむ、と言っただけだった。まったくもってやる気が無い。

 勉学に励んでいる証拠として試験結果だけは報告しろと母親にいわれているのでそれをコピーして封書で送る。向こうも忙しいので電話やら何やらをされるのも迷惑だろう。どこぞの中学にいるらしい。数学教師として。

「ただいま」

「おかえり」

 これをあと何回続けられるだろう。

 てんぎはその思考を一瞬で破棄する。どことなく異物の名残。この妙な感覚が正しければおそらくさっきまで。

「来たのか」

「会ったって」

 てんぎは鞄を下ろして床に座る。

 東海林の顔は雨曝しに遭って数ヶ月間放置された彫刻を思わせた。色褪せ光沢は消え、外見こそ味わいが出てきたように思えるだけで中身は確実に蝕まれている。

 原因はひとつだけ。

「壊れて干上がってたってさ。当たり前か」

「一昨日も来たろ。で、昨日行って今日報告か」

「勘がいいね。彼もとても勘がいい」

「泣いたろ」

「誰が」

「ノルト」

「泣いてないよ。一度も泣いたことない」

「産声もなしか」

「たぶんね。黙って産まれてきたと思う」

「泣いてもいいぞ」

「泣いてないよ」

 てんぎは東海林の目尻に触れる。その指を舐める。

「しょっぱい」

「汗じゃない?」

「汗はもっと不味い。嘘吐かなくていい。今日だけは怒らないから思ったこと言っていい」

 耳を塞げ。眼を瞑れ。感覚を遮断しろ。

「会いたいよ」

「他は」

「大好き」

「主語は」

「カタクラ先生」

「他は」

「許して」

 てんぎは無と同化しようとする。

「ごめんね。そうするしかなかった。僕のせいなのに。僕なんか嫌いになっていいのに。好きだなんて言わないでよ」

 好き。

「言ってたのか」

「奥さんは愛してないんだって。そういうことさ、フツー言わないよね。実の息子の前だよ。非常識だよ」

「そういうとこがいいんだろ」

「うん」

 てんぎは冷たくない指に触れる。

「会いに行けよ」

「出来ない」

「なんで」

「やることがある」

「これ以上大事なことなんてないだろ」

「あるよ。これが最後。これだけやらないと。僕のせいだから。僕が後始末つける」

「誰のためだ」

「僕の弟。僕の身代わりになってエトリなんて名が付いてる世界一可哀想な弟を助けなきゃ」

 床に散らばっている本を片付ける。大きさごとに本棚に詰める。もう完全に容量オーバだ。

 東海林はソファに突っ伏している。

「あと何日?」

「二週間」

「聞くんじゃなかった」

「失言だね」

「期末はもっといい点取るよ。だから結果聞きにこい」

「うん」

 返事なんかしないでほしかった。叶わない。

 カレンダは破り捨てた。携帯電話のカレンダも消滅させたい。日付という決まりごとが絶滅すればいいのに。時間という概念が廃止されればいいのに。

 止まって。頼むから。

 夢でなんて会いたくもない。

 また夜になる。

 夢の正体は願望充足であるわけがない。見るのは決まって悪夢。口に出したくもない。東海林がいないことなんかに耐えられるわけがない。悔しい。どうして自分では駄目なのか。順番がいけないのか。自分が先に東海林に会っていれば。いとこなのに。血が繋がっていない他人のほうが先に会うなんてあり得ない。ずるい。

 てんぎは靴を履く。

「どこ行くの?」

「行かないよ。どこへも行かない」

 起こしてしまったらしい。静かにこっそり行おうと思っていたのに。東海林がこちらをじっと見ている気がする。背を向けていてもわかる。

「寝てろ。人間は寝たほうがい」

「どうして僕を殺さないの?」

 換気扇の音がする。

「いま僕が死ねばもうひとりおまけで死ぬよ。勿論もうひとりだけ殺すこともできる」

「出来ないのわかって言ってるだろ。やめてくれ」

「単にショウジ先生を妊娠させたカタクラ先生に対する復讐だとしても?」

 空間が歪んだ気がする。耳鳴りがする。

「産んだのか」

「たぶん流れた。サクゼ先生が死んだショックで」

 朔世サクゼかげと。

 祥嗣ショウジりゅうし。

「そういう関係だったのか」

「愛し合ってるよ。あの人たちは」

 てんぎは外に出る。扉を閉めて背をつける。深夜だというのにやけに明るい。煌々と照明がついているせいだ。階段を下りて少し歩く。走るだけのエネルギィは残っていない。

 わかっていた。そう考えるしか符合は繋がらなかった。

 いとこ。

 きょうだい。

 十五分ほど散歩してから部屋に戻る。水を飲んでからベッドの脇に座る。それでも咽喉がからからに乾いていたのでもう一度水を取りにいく。顔を洗う。眼にも鼻にも口にも水が入る。

「僕らはいとこだよ」

「知ってる」

「結婚できなくてごめんね」

「俺のじゃないのか」

「テンギ君のもほしい?」

「要らない」

「僕も要らない。本当は要らなかった。でも」

「今日は感傷的で調子狂うな。もう寝ろ」

 布団の合間から黒い眼がのぞく。

「さっきこっそり死のうとしたね。僕にはお見通しだよ」

「出来ないんだ。あれが」

 無と同化できない。


     4


 学校を休んでから二週間経った。

 世間的には不登校と認定されるのだと思う。担任は何も言ってこない。忘れているのだろう。クラスからひとりくらい消えたってなんら影響はないことが身をもって立証された。

 東海林は珍しく本を読んでいなかった。ベッドに寝たまま天井を眺めている。染みを数えているのかもしれない。

「学校行きなよ」

「お前それ何千回言った?」

「わかんない」

「顔色悪いな」

「ちょっとまずい」

 てんぎはベッドに駆け寄る。

 手を握る。

 やはり熱を獲得している。東海林以外から発される熱量。

「テンギ君」

「言わなくていい」

「ありがと」

「だから」

 チャイム。

「出て」

「厭だ」

「お願い」

「どうして」

「僕が呼んだ」

「え?」

「くれたよね。それ使った」

 そういうふうに。

 使ってほしかったわけではなかったのに。

 てんぎは首を振る。

 チャイム。

「早く」

「厭だ」

「僕のこと好きならお願い聞いて」

 どうしてそういう。

 逃げ場のない言い方で縛る。

「わかった」

「テンギ君」

「なんだ」

「キスして」

「いいのか」

「いいよ」

 チャイム。

 前髪を掻き分けて。

 蒼白い顔。

 色の違う部位に触れる。

 チャイム。

 チャイム。

「眠り姫みたいだね」

「眠り姫だろ」

 チャイム。

「眼、覚めたか」

「うん」

 チャイム。

「大好き」

「俺も好きだよ」

 てんぎは玄関のドアを開ける。

 知った顔。

「こんにちは」

「さっさと連れてけよ」

 白衣の教授は靴を脱いでベッドに近づく。

「お久しぶりです。大丈夫ですか」

「教授になったんだって?」

「はい。ショウジ先生不在の穴はとても私には塞げませんが」

 人形がベッドから這い出る。

 手を貸したい。手伝いたい。

 駄目だ。

 そんなことをしたら。

 手が離せなくなる。ついていきたくなる。

「靴は?」

「そこの棚」

「ありました。どうぞ」

 人形は靴を履く。

 不釣合い。あり得ない。

 そんなものは必要ないのに。

「テンギ君」

「行けよ」

「こっち見て」

「行けって」

 手に。

 何か。

「僕がいなくなったら見て」

「そういうことは口で言えよ」

「形に残したかったから」

「ケータイ失くすなよ」

「電話していい?」

「いくらでもしろ」

「ばいばい」

「さよならじゃない」

「またね」

「そっちのほうがいい」

 ドアが閉まる。

 てんぎは人形の携帯電話にかける。

 音がする。

 ベッドの中から。

 追いかける。

 気力もない。

 無い。

 無いのは慣れている。

 どうでもいい。

 いつだって。

 どうでもいい。


     5


 ひっくり返りそうな坂を上る。

 両脇は石の塀。身長の二倍はある。その内側に大木が生い茂っている。日陰になっているのはそのせいだったらしい。

 足が重い。早くも筋肉痛かもしれない。単なる運動不足か。足元に転がってきた小石を蹴る。それを蹴りながら走ってみる。ドリブルというやつだろうか。すぐに息が上がってしまう。風は強い上に生ぬるい。前髪が後ろに流れて額が完全に露出しているだろう。道の脇のミラーにぼさぼさ髪の男が映る。

 雑草は伸び放題。転ばないよう注意しながら石柱の合間を進む。電線にカラスがとまっている。もしかしたら狙われているのかもしれない。人肉は美味くないぞ、と眼で伝えたら飛び立ってくれた。鳥語は会得済みらしい。

 何やかやごそごそしている人間を視界に入れないように足元の石を見る。彫られた文字列を数える。

「ちょっとなに? 線香も持ってないの?」

「あのにおい嫌いなんだよ。なんか死にたくなる」

「じゃあ死ねば」

「お前の死に顔見たら具合悪くなってぽっくり逝くかもな」

 数は一瞬で忘れる。彫られた文字だってまるで異国語。違う世界に行くための新しい名前。

 改名、と思う。

「ジトウは」

「残念でした。来ないわよ。まあ、真面目なあの子に塾がサボれればの話だけど」

「性格矯正ギブス発明してやろうか」

「あら、楽しみにしてるわね。特許は差し上げるわ」

 煙が空に吸い込まれる。

 てんぎは名も無き死者に手を合わせる。

「あんた引っ越す前、部屋に大きなネズミ飼ってたでしょ。うるさくって眠れなかったわ」

「そりゃ別の猥雑な理由じゃねえの? 第一お前家にいたかよ」

「あの子の勉強の邪魔になるじゃない。気を遣ってたの。登校拒否のあんたと違ってね」

「お前の存在自体があいつの気散らせてるんじゃねえの? その控えめな胸に手ェ当ててよく考えてみろ」

 姉は顔を歪ませる。

 体型のことに触れると即機嫌を悪くする。

「気にすんな。何食ってもそれ以上でかくならねえから」

「誰だったのあの子」

「さあな」

「お父様は教えてくださらないの。お母様だって。叔父様はご病気だとか聞くし。もう、何が起こってるのよ」

「あの耄碌生きてたか」

「当たり前じゃない。勝手に殺さないで」

 電線上のカラスがこちらを睨んでいる。狙うならこっちの不味そうな女にしろ、と眼で伝えても飛び立ってくれない。さっきと違う個体かもしれない。

「お祖父様もお祖母様もずいぶん早くに亡くなられたのね。ご病気だったのかしら」

「お前、会ったことは」

「ないわ。うちって親戚とか全然いないみたい。ひとりっこだったのかもしれないわね」

 数は思い出せない。

 すでに忘却。

「自殺じゃねえ?」

「なんでよ」

「そういう遺伝子だろ。帰るわ」

 雑草の群れ地帯から外れてアスファルトに戻ったときに妹が走ってくるのが見えた。

「おい、サボるなって言ったろ」

「さっき終わったんです。全国模試で」

「どうせ一位だよ」

 妹は全身で呼吸している。駅から走ってきたのかもしれない。あの凄まじい坂を。

「兄さんはもう」

「いま帰るとこだ。よかったお前に会えて」

「大学のことなんですけど」

「高校受験が楽すぎて先読みか。大丈夫だ。お前ならより取り見取りだよ」

「こっちのほうが近いので」

「別にいいんじゃねえ? 好きなとこ受けろ」

 姉の靴音。ヒールが地球に猛攻撃している。

「ジトウはね、あの家に一人なの。私が今年から下宿だから」

「そんなこと言ったって俺は戻らねえぞ。両親別居だしな」

「離婚でしょ。でもお母様まだサクゼ姓よね。どうしてかしら」

「兄さんは?」

「どうだか」

 梅雨になればいい。


     6


 何度飛び降りようと思ったかわからない。

 南向きの窓を全開にして身を乗り出す。簡易ベランダがあるが手すりがすっかり錆びてしまっており、片手を乗せただけで気味の悪い音を立てる。

 風は来ない。

 アスファルトに止まれの文字が書かれている。そこまで何メートルか目算する。異常に近く感じる。手を伸ばせば指の先が容易く触れる距離にあるように感じる。この部屋に便宜上つけられている番号の百の位が2で始まっていることを思い出す。

 怪我、とも思う。

 以前よくやった無の感覚が出来なくなってしまった。調子がおかしいのは引越しをする前からなのでホームシックではない。ゼロと同化するということがどういう感覚だったのか思い出せない。とても甘美だったはずなのに。中毒になるほど常習者だったのに。

 意識を集中させてみる。眼を閉じる。耳を塞ぐ。感覚を遮断して外からの刺激を受け入れないようにする。皮膚を蝋でコーティングする。液体も、気体すら透過させないようにする。

 心臓の音がいやにうるさい。まるで生きているみたいな音が気にらない。こめかみ辺りがどくどく脈打つ。生命はうるさい。もっと静かに生存できないのか。

 壁に寄りかかる。背中がひんやりする。うなじにかかる髪を持ち上げて首に触れる。両手で円周を測る。法律のように締め付ける。面接のように圧迫する。鼻腔に真綿が詰まったような感覚。目頭が糸で引っ張られている。口の中に乾燥剤が投げ込まれる。天井と床が同じ高さになる。空間と時間が消滅する前兆。

 後頭部に発生した熱で世界を取り戻す。

 床に仰向けに倒れたらしい。

 利き手を限界まで伸ばす。何かが中指の先に触れる。手繰り寄せなくともその物体が何かわかっている。眼を瞑ったままそれを鼻の上に置く。何かのにおい。料理のような気もするし古いインクのような気もする。

 いろんな場所が空っぽになってしまった。食欲も睡眠欲もない。もちろん性欲は一番最初に消えた。キッチンに立つのが億劫。床で寝転がったまま一日が終わる。掃除をしてみたが、意図せずに東海林が使っていた物品を集めていることに気がついて厭になってしまった。それでも段ボール箱をいっぱいにすることも出来ない。

 一週間着回すことも困難なほどの服の数。メモ帳とノート。ボールペンと鉛筆と消しゴム。タオルと歯ブラシ。櫛と小さな鏡。あとは大量の本。一冊くらい読んでみようかと思ったがタイトルだけでうんざりしてしまった。読書に耽る様子が瞼に焼き付いているせいだろうか。

 足の指に何かが当たった。体を起こす力は残っていない。手すりに断続的に何かが衝突している音。石だ。それも砂利レベルの大きさではない。

「おーい、サクゼ」

 担任だった。止まれ、という白い字のれ、の続きに立っていた。漫画のタイトルにありそうだ。止まれ○○とか。しかし名前が思い出せないので空欄が埋まらない。

「ちょいと五月病が長引きやしないか」

 返事をするのが面倒なのでまた床に背をつける。間髪入れず石が飛んできた。顔のすぐ横に落ちる。

 てんぎは寝そべったまま石を投げ捨てる。

「家に入れる気がないんならそうだな、糸電話でも投げろや」

 普通に電話をかければいいのに。もしかしたら留守電に伝言が入っているかもしれない。電話線を引っこ抜きたくなる。

 てんぎは寝返りを打つ。

「期末までに来るんなら俺の顔めがけて投げ返せ。もう少し時間ほしいんならその怠けた顔見せてくれ」

 窓を閉めたいがそれをするのすら厭になってくる。鼻の上にのせた紙が床に落ちて頬に触れる。見たいけれど見たくない。見たら終わってしまう気がする。なにもかも、欠片も残らず消えてしまう。

 幻想が恋しいわけでもないし、思い出に浸っていたいわけでもない。手放したくないのだ。手の届かないところに欲しいものがあるのが許せない。わざと崖の中腹に咲いている万能の薬草のよう。天高くそびえ立つ崖はもう崩壊待つばかり。手のひらを翳しただけでぼろぼろと形を失う。一瞬で砂になる。肝心の薬草は砂に埋もれて使用不可。

「何回かは、まあ忘れたがドアの前まで行ったこともある。で、問題だ。どうしてチャイムを鳴らさなかったか。これが解けたら俺は即行で帰る。おまけに特賞でもう二度とこんな下らんことはしない。番号言うぞ。よおく聞け」

 数字列が二回繰り返される。

 てんぎは何となく呟いてみる。うっかり番号を押してしまう。手元に電話があったせいにする。

「恥ずかしくないんすか。大声出して」

「そうなんだ。やたら恥ずかしい。犬にも吠えられる。てっとり早くこの方法を採りたかった」

「その犬うるさいすよね」

「迷惑だよな。おちおち眠れないだろうにな」

 てんぎは壁を蹴る。反作用で床を滑る。脳天に何か当たった。中身がみっしり詰まった本棚だった。

「見たんすか」

「何をだ」

「同居人」

「いたのか。ひとり暮らしだって聞いたがなあ」

 口調がわざとらしい。

「で、答えはわかったのか」

「押すのが面倒だったから」

「五点」

「居留守使われた場合にショックだから」

「十五点」

「近所迷惑だから」

「二十点」

「鳴らされるほうがうるさいから」

「十点」

 てんぎは勢いに任せて上体を起こす。耳鳴りと一緒にくらくらする。血流が重力に屈する。額が妙に熱い。

「部分点すか」

「いや、答えはひとつだ。まだ正解が出てない」

「学校は気が向いたら行くんで」

「行きたくないならそれでもいいさ。俺だって行きたかない」

「教師のくせに」

「俺がセンコーになる心得を教えてやる。厭な奴になれ」

「いやなやつ?」

「いい加減、野暮ったい、怠けて、やる気なし、つまらん授業。その頭文字とって、いやなやつ」

「最悪ですね」

「そうなんだ。俺の教典だ」

 教典?

 てんぎは思わず手すりの隙間から地上を見下ろす。担任は同じ場所に立っていた。しきりに顎の髭をいじっている。

「部屋がわからなかったから」

「百点」

 唐突に電話が切れた。担任は躊躇うことなくきびすを返す。てんぎは担任の姿が見えなくなるまで待ってリダイヤルする。

「明日から行きます」

「いちいち言わんでいいぞ。別に待ってないしな」

 電話を切る。

 宛名はない。ノートの端を千切っただけの紙切れ。折り方もすこぶる適当。上手なのか下手なのか判別がつかない文字の羅列が透けて見える。

 てんぎは手紙を開封する。


      7


 大好きなテンギ君へ


 ありがとう。

 上手く行ったのはぜんぶテンギ君のおかげ。発作はもうなんともないから心配しないで。テンギ君の好きなあの無の儀式は甘美だけどほどほどに。でももう出来ないんだったね。


 沢山買ってもらった本は処分するなり好きにして。部屋中本だらけにしてごめん。テンギ君は本なんか好きじゃなかったのに。服とか数少ない僕の私物はテンギ君のことだから取っておくと思うけどどうかな。ベッドの下辺りが怪しい。


 艮蔵カタクラ先生にはしばらく会いに行かない。僕の代わりにもっと素直で可愛い子を預けたからそれで我慢してくれると思う。ごめんね。先生の話すると怒るかな。でもそれだけ。


 絶対に高校の先生になってね。テンギ君が先生なら僕も生徒になりたい。朔世先生の息子とか祥嗣先生の甥とか、そういう七光りを使わなくても採用試験は突破できるよ。顔が似てるから。じゃなかった。先生っぽくないから。いまはそういう先生がほしいと思う。確信。


 またね。


 テンギ君のいとこの東海林のると

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