第2話 膿夏ドーナツ
1
場所がわかればこっちのものだと思っていたのに。いざ知れるとここまで躊躇うのか。なんという贅沢。
とりあえず電車に乗った。途中で何度も乗り換えがあったり接続が上手く行かなかったりで思いの外遠かった。一度も来たことのない場所だったからかもしれない。着いた駅からがまた長かった。人に尋ねるのにも施設に名前がない。頼りになるのは落書きのような紙切れ。あらかじめネットで目的地周辺の地図を拾ってあったがあまり役に立っていない。それとつき合わせても尚わからない。秘密の施設なので一般の地図にほいそれと載っていないのだ。
アスファルトから離れて久しい。地面は土。
季節は夏真っ盛り。学業に専念することを強いられた集団は夏休みという長期休業に入ったところ。半袖でも過ごしにくい。延々と歩いて来れば自ずと汗だらけになる。
ふと考えてしまう。ここまで来る意味はあったのか。だいたい会ったところで何を言う。話題もない。謝りたいだけか。それにしたって何ヶ月前の話だ。半年以上経過している。
今更。
そう今更だ。それに施設にいるのは一人だけではないはず。他にも。そうだ。あの気に食わない医師。絶対にいる。それと真っ向勝負でも。なんだそれは。わけがわからない。
勝ち目なんてないのに。
いま気づく。
タイヤの跡。何本も。目新しい。
当たり、なのか。
気が急いて走ってしまう。汗まみれなのに。もうすでに気にならない領域に入った。だからどうでもいい。わざとらしい植林。これで隠しているつもりなのかもしれないが近づいてみればすぐにわかる。きっと誰もこんなところまで近づかないから問題ないのだろうが。
あった。周囲から明らかに浮いた近代建造物。手前は一階建て。駐車場は半ば無理矢理開拓されている。奥は二階建て。手前のものより小さめ。駐車場の奥に庭のような空間が見える。物干し竿に洗濯物。
ここに、いるのか。
駐車場は完全な空車。もしかしたらひとり。それは嬉しい。誰もいないなら本当に。手前の建物の脇を通って奥に。渡り廊下。これは手紙にあった通り。とするならば。二階。鍵はかかっていない。盗られて困るようなものが人間しかないのだ。
階段を上がって突き当たりの扉。ノック。してもいいだろうか。緊張してきた。あの時のようだ。蔵の扉を開けたとき。いまでも鮮明。忘れるわけがない。
中に。
人形が。
「あれ?」
後ろ。急いで振り返る。
「えっと確か」
「テンギ」
「テンギ君。どうしたの?」
「僕に会いに来たのかな」
「ああ」
「へえ、遠かっただろうに」
「もっと早く来たかった」
「僕に会いに?」
そんなに直球で言われると。
何も。
「嬉しいなあ。ちょうど誰もいなくて暇してたんだ。こっち入ってよ。それとも他の部屋にしようか」
「いや、部屋見たい」
「何もないよ」
「何もなくていい」
「変なの」
とにかく閑散とした部屋だった。中央に大きなベッド。壁際のデスクには高々と本が積まれている。ほとんどタワーだ。ベッドの周りも本だらけ。サイドテーブルの上には。
「ミルクパズル?」
「知ってるの?」
「いや、そんなでもないが」
実際にやったことはないしお目にかかったのも初めて。
「結構出来てるな」
「一昨日買ってきてもらってるからね。ある程度は進むよ」
そういえば、外見がなんだか。
「メガネ」
「いま気づいたの?」
東海林がフレームを触る。
「何か変?」
「いや、別に」
上手く言えないのだが纏っている雰囲気が変質している。少しだけ人間に歩み寄ったが意思疎通が思いの外上手くいかず、已む無くこんな僻地で隠居を余儀なくされた哀れな人形のようだった。
それに前よりも、もっと格段に細く白い。
「なんか痩せてないか」
「そう?」
東海林はベッドに腰掛ける。
「何も食べてないからね」
やはり人形だ。エネルギィは人間のそれとは違う。
「テンギ君は僕のこと好きだっけ」
「へ?」
「違ったかな」
てんぎは漆黒の眼差しに屈服して頷く。
「そっか」
「なんだよ」
「ううん。なんでも」
「だから、それがなんだ」
「訊いてみたかっただけ」
「なんだそりゃ」
「淋しいだけかもね」
それは。
どういう。
「まさかここに一人ぼっちで」
「それはないよ。友だちがいるけど」
わかった。留守だからだ。
「カタクラっていう医者だろ」
「あれ、知ってるんだ」
そういう言い方をされると悔しくなってくる。
「あいつ、結婚してるんだってな」
「そうみたいだね」
「息子もいるって聞いたぞ。俺と同じくらいの」
「らしいね」
駄目だ。人間の価値観では、人形には通用しない。
「俺じゃ」
そこで無理矢理口を閉じる。物の弾みにしたって積極的過ぎる。長時間電車に揺られて世界のはずれに辿り着いたせいにしておく。
汗が冷えて寒くなってきた。三方向の窓が全開なので風が通過する。
「悪いけどシャワー貸してくれないか」
「いいよ。案内するね」
廊下に出る。階段を下りて、通路の奥から二番目の扉。洗濯機の向こうが脱衣所だった。
「僕はどうすればいい?」
「誰もいないのか」
「いないよ」
繰り返し。
同じ状況。
「一緒に入ってもいい?」
何となく近づいて。
触れる。
「カタクラとこういうことすんのか」
「してないよ」
湿った服を脱ぐ。人形の纏った布を剥ぐ。白い肌に触れる。冷たい。温度はすでに氷点下。
浴室に入る。
「メガネ外してこい」
「何も見えないよ」
「見なくていい」
人形には見せたくない。こんな穢い下界は。
東海林が外にメガネを置いて戻ってくる。
あの時の顔だ。
あの時の。夕刻の。
顔。
「ショウジ」
「ノルトって呼んでよ」
「ノルト?」
「僕の新しい名前。ショウジのると」
「お前が考えたのか」
「僕がつけた」
「ノルト」
「そっちがいいよ」
唇に。
「この間の続きをしよう」
思わず離れる。
それは。あのときは。
コックを捻る。
水。
「冷たい」
「あ、悪い」
顔にかかってしまったらしい。
水滴。
落ちる。垂れる。
「カタクラが」
「なに?」
温度調節。
「好きなのか」
「たぶんね」
「ここに移ったのも?」
「一緒に住むため」
微温湯。被る。
「じゃあ俺とはしないほうが」
「どうして」
湯気。天井を埋め尽くす。
「好きなやついるんなら俺は」
「出来ない?」
「そういうのは」
「卑怯?」
人形が浴槽の縁に腰掛ける。石膏のように白く。
「フツーは」
「厭だって言う?」
「ノルトは」
「テンギ君だったらいいよ」
ノズルを元の位置に戻す。
「僕も洗ってよ」
「どういう意味かわかって言ってるのか」
「セックスしたいんだよね」
泡で頭を掻き混ぜる。
人形が視ている。
「僕に会いたかったってのはそういう意味じゃないのかな」
視線。
「誰に遠慮しているの?」
シャワー。流す。
「ライバルに遠慮するのかな」
「するだろ」
「僕は構わないけど」
「構えよ」
「変なの」
スポンジ。泡立てる。
「僕も洗ってよ」
「止められなくなる」
「止めなくていい」
「無理だよ」
「何が怖いの?」
体を擦る。
「僕は?」
「自分でやってくれ」
「面倒だよ」
「誰かにやってもらうのか」
「誰もやってくれない」
見る。
観る。
視る。
「こっち来て」
「カタクラが好きなんだろ」
「そうだよ。でもテンギ君ならいい」
逸らす。
「誰でもいいってことか」
「テンギ君だけ」
スポンジ。潰す。
泡が染み出る。
「誰にでも言うのか」
「言ったことないよ」
眼。
「テンギ君ならいいんだよ」
「じゃあどうしてそんなこと」
「いとこだから」
「いとことか関係ないだろ」
「怖いのは何?」
シャワー。流れる。
排水溝。
「僕の番?」
「いいのか」
「最初からそう言ったよ」
「カタクラとしたこと」
「ないよ」
「風呂じゃない。そうじゃなくて」
「セックス?」
白。
「してないよ」
「嘘だ」
「ホント」
「別にそういうのは」
「処女ってこと?」
白。
水。
「テンギ君だけだよ」
「お、俺は」
「してないね」
冷たい。
温度のない白。
「テンギ君は僕の裸を見ただけ」
「あれは」
「触っただけ」
苦しい。
狂おしい。
「キスしただけ」
「ごめん」
「何に謝ってるの」
「あんなこと」
「今更だね」
「今更だけど」
「気にしてないのに」
いない。
どこに。
「テンギ君だけずるいよ」
縁から降りて。
下に。
「僕には見せてくれなかった。それを謝ったのかと思った」
舌が。
「実はね」
指。
「ひとつ嘘ついた」
「カタクラと?」
「そう。これだけはやった」
口。
「何ていうんだっけ」
「やめろ」
「カタクラ先生みたい」
壁に。
背中。
「気持ちいいんだよね」
「やめてくれ」
「服脱いだときからずっと見てた。僕で興奮するのかなって」
眼。
無の。
「してきたね」
「どうして」
「こういうことするのかって?」
液体。
「セックスしたいんだよね、テンギ君」
「しなくていい」
「さっきと違うよ」
「気が変わった」
「じゃあ僕が勝手にやってもいいね」
震える。寒気。
「この間の逆で」
湯冷め。氷が触れている。
「僕も舐めていい?」
「やってから言うな」
力が入らない。吸い取られる。そうか。
人形のエネルギィは。
人間から。
「立ってられないなら座ってもいいよ」
命令。
隷属。
「まだ?」
「視ればわかるだろ」
「出したい?」
「出せない」
「僕が飲もうとしてるから?」
額が熱い。
息が。
「飲んじゃ駄目なの?」
「訊くな」
熱が。
もう。
「出そう?」
吐息。
「見て」
人形の舌。
眼を瞑る。
「初めて視た。白いね」
「吐き出せ」
「遅いよ」
咽喉。
「飲んじゃった」
「退いてくれ」
「続きは?」
「俺もここまでしかしてない」
「じゃあリセット」
間。
「また触って」
「カタクラが来るだろ」
「来ないよ」
「そろそろ帰ってくるだろ」
「来なくなった」
止まる。
水滴。
「ここに住まなくなった」
「嘘だ。だってここに」
「僕の片想いかもね」
「そんな」
肩。
冷たい。
「できてたわけじゃ」
「好きだって言ってくれたんだけど」
「それなら」
駄目。
離れる。
「最近診察しかしない」
「診察?」
「ただのお医者さんみたい」
「医者じゃないか」
「主治医なんか要らないのに」
治らない。
発作。
「どうせ」
「ノルト」
「なに?」
これを言ったら。本当に。
引き返せない。
「思ったことが聞きたい」
「俺にしろ」
「テンギ君に?」
「俺ならお前ほっといて外に出てったりしない。俺なら」
細い肩。
摑んで。
「お前とずっと一緒に居る」
「告白?」
「当たり前だ」
抱き締める。
折れそう。
「好きなんだ」
「知ってるよ」
「ノルト」
「そう呼んでくれるのもテンギ君だけ」
顔。
「キスしてよ」
近づく。触れる。
長く。
長く。
「眼閉じろ」
「それは決まり?」
「常識だ」
「変なの」
瞼。また閉じる。
絡めて。
離れる。
「他のやつらはいつ帰ってくるんだ」
「夕方かな。ウキョウが心配だけど」
「そいつ、どんなやつだ」
「いろいろあってね。性行為に多少抵抗があるから見つかると発狂するかもしれない」
「女?」
「女の子」
「他は」
「カタクラ先生の代わりに来た先生とその息子」
「そいつらは夕方か」
「夕食すれすれまで遊んでるんだ。ずるいよね」
「それだけか」
「うん。だから早く」
視る。
「躊躇ってる?」
睨む。
「童貞?」
「うっさい」
「やり方がわからないのかな」
「そうじゃない」
「来ちゃうよ?」
浴槽。外壁。
「冷たいか」
「大丈夫」
首。
白。
「時間がないんだけどなあ」
「雰囲気だ」
手。取られて。
「こっち」
「溜まってるのか」
「カタクラ先生がむっつりだから」
「あいつの名前出すな」
「嫉妬だね」
下。
舌。
「テンギ君は僕でマスターベーションする?」
「は?」
「カタクラ先生はしてたんだけど」
止める。
「視たのか」
「気持ちよさそうだったよ」
再開。
「妬いてるね」
「俺もした」
「どういうこと思い浮かべるの?」
「あのなあ」
「教えてよ。知りたい」
「知らなくていい」
「言えないような凄いこと?」
溜息。
「止まってるけど」
唇。
「もう黙れ」
「口封じ?」
2
渡り廊下を進んで分かれ道で右折。両側に扉がふたつずつ。左側の手前のほうの扉を少しだけ開ける。水滴落下。ここに逃げ込んだと思わせる。
向かいの部屋に入る。何もない。蛍光灯があるだけ。窓を少しだけ開ける。ここから逃げたと思わせる。
てんぎは浴室に戻る。
「あんなんでいいのか」
「時間稼ぎ程度だけどね」
「そんなことしてる間に逃げろよ」
「まだやることが残ってる」
やること。
重い言葉。
「あいつだろ」
「決戦は明日の早朝だね。今日一日は安全だよ」
一日だけなんて。
物音。
脱衣場に誰か。
「ショウジ、あのな」
来た。艮蔵ではない声。
「一緒に入りたい?」
「いや、そうじゃなくて」
人形から視線。
てんぎは呼吸を潜める。
「まさか、とは思うがそこにもうひとりいるか」
「いないよ」
「だよな」
苦笑している。
たかがあんな仕掛けに騙されたのか。
「実はここに誰か侵入したみたいなんだが」
「そうなの?」
さも知らなそうな口調。
もしかしたら人形は本当に知らないのかもしれない。
「で、俺の部屋の入り口に水が垂れてたんだよ。どういうことだと思う?」
「先生の部屋に誰か隠れてる」
「それはない。確認したんだから」
「本当に?」
「嘘じゃない。しっかり見た」
「じゃあ他の部屋かな。もしくはすでに逃げてる」
「どうだと思う?」
「水ってのが引っ掛かるね。びしょびしょだった?」
「いや、ぽたぽた程度だな。急いで水気とってその残りが落ちたって感じだ。髪の毛だろうか」
「ふうん、そうなるとその妙な侵入者はここでお風呂借りてその帰りにマデノ先生の部屋物色したってことになるね。なんだかふてぶてしいなあ」
「そうなんだよ。全然わからない」
「僕もわからない。何か盗られてなかった?」
「そこまではまだ確認してないが大きなものは無事だった」
「ということはデータが怪しいね。僕のデータが詰まってるんだよね。あの機材」
「いや、パスワードがないと開けられないんだが」
「パスワードくらい簡単に突破できるよ。早めに確認したほうがいいんじゃない?」
「そうか。じゃあそうする」
「何もないことを祈ってるよ」
ドアが開いて閉まる音。
それを聞いてからてんぎは口を開く。
「誰だいまの」
「さっき言ったマデノ先生。結構面白い人だよ」
脱衣場に出る。タオルを人形に渡す。
「たぶんいるね」
「え、じゃあ」
意味なし。
そうか最初から。
「観念しろ」
勢いよくドアが開く。しかし勢いがよかったのは言葉の内容だけで口調はそうでもなかった。こういう場合の常套句だからつい言ってみたくなっただけだろう。男はどことなく情けなさそうな雰囲気だが身体は大きい。ここに住んでいるくらいだから白衣を予想していたが大いに外れる。日曜のお父さん、な服装だった。
「ありゃ、見つかった」
男はほとんど裸の人形を見てすぐに眼を逸らす。しかしすぐにてんぎを見つけて怪訝そうな顔をした。てんぎの頭髪が湿っていた理由が浮かばなかったせいではないと思う。
「誰なんだ、それ」
「どうしよう、テンギ君」
「て、テンギ?」
「あれ、知ってる?」
男は一歩ほど後退。おそらくてんぎの父や叔父の権力に圧倒されたのだろう。なんという卑屈。
「ちょ、ちょっと待て。どういう関係なんだお前ら」
「なんだろう。恋人だっけ?」
またそういうことを極平然と言う。
てんぎは居た堪れない。人形がてんぎを見据える。
「何か言おうよ。言い訳とかしたほうが罪が重くなるから」
「軽くする方法はないのか」
「じゃあすっぱり謝ろう。ごめんなさい、マデノ先生」
てんぎも少しだけ頭を下げる。人形につられた、とも言う。
「えっと、何をしてたんだろう」
「かくれんぼ」
「ホントか?」
「そう。見つかっちゃったけど」
「そうじゃなくてだな。どうしてテンギ君とやらがここにいるのかってことなんだが」
「ショウジ先生に聞いて僕に会いに来たんだって」
「へえ」
男は大いに困惑している。外見年齢はあの目つきの鋭い医師とさほど変わらない。しかし強引で乱暴な彼と違い気が弱そうだ。
「一緒に風呂入ってたのか」
それが訊きたかったといわんばかりの口調。いとこだから気にしないでほしい。
東海林がくしゃみした。
わざとだ。
「あ、じゃあ服着てからでいいから」
「ありがと」
「悪いがテンギ君。外出てくれるか」
予想通り。
てんぎはしぶしぶ廊下に出る。タオルで髪の湿り気を取りながら前髪の合間から男を見る。てんぎの父や叔父の権力が恐ろしく気が進まないが立場上形式だけ質問しておこう、という趣旨だろう。言いにくそうに床を睨んでいる。もしくは何か勘付いたか。
「帰るんなら送るが」
「いや、自分で帰れるんで」
「髪乾かしたいか」
「あいつ出てからでいいんで」
きっとここまでが前置き。
男は顔を上げる。
「僕はマデノという。君の父親の研究所で働いてる下っ端中の下っ端だから、そんな奴にどんなこと言われても気を悪くしないでくれよ。しつけがなってないってことにしといてくれると有り難い」
てんぎは壁に寄りかかる。人形が気になるのでドアを確認する。そうすると研究所の有象無象に属する男を見なくて済む。
遅い。
「ショウジと寝たか」
てんぎは男に目線を移動させる。
こういう場合は反応しておいたほうがいい。
「なんで」
「いや、だから下っ端の言うことだ」
「一緒に風呂は入ったらいけないんすか」
「そうは言ってない。いとこだからまああり得るとは思うが」
「じゃあいいんじゃないすか」
「跡はつけないほうがいいな」
てんぎは男を睨む。
見かけによらず目敏かった。どう転んでも脅威にならなさそうな外見で相手を油断させるタイプだったらしい。
「カタクラ君ていう優秀な主治医が毎日それこそ念入りにショウジを診察してる。すぐに気づかれるぞ」
艮蔵。念入りに診察。
どこまでも本当に気に入らない。だがこの男はどうだろう。人形の話を丸呑みするなら信用してもいい領域にいるのかもしれないが。
「マデノ先生とか言いましたね」
人は嫌いだ。
「あいつとカタクラはできてるんですか」
「さあな。人のことはわからないな」
てんぎは湿った髪を掻きあげる。どうしてこう邪魔な人間が多い。どうせなら正直に答えてほしかった。知らないという可能性は限りなく低いのだから。
「先生はあいつとどういう関係で」
「息子の友人」
「それだけですか」
「それだけだ。もしくは君の叔父の下僕だった時期もある」
叔父の下僕?
「主治医とかじゃなくて?」
「僕は心理学者。ショウジ先生が地主の畠の隅っこでこそこそしている小作人だ。水飲み百姓だよ」
「ふうん」
本当だ。人形の言った通り結構面白い。
「じゃあ信用してもいいすか」
「君が信用できない人間を挙げてくれ」
「耄碌」
「それはサクゼ先生のことだろうか」
「他にいないんだけど」
あの男と同じ氏を名乗らなければいけないのが本当に厭だ。母親だって絶対に仮面夫婦。早く離婚すればいいのに。
離婚、と思う。
「ショウジ先生には言わないでくれるんなら」
「言わないさ。実は苦手でな」
てんぎは一度だけ脇のドアを見る。
たったいま判明した。いまのこの状況が、あの意味がない上に趣旨不明な裏工作に繋がる。時間稼ぎは首謀者が逃げるために行うのではない。それを追及する側に冷静になって考えるだけの時間を与えるために行うのだ。最初からこちら側の意図を仄めかし、この男をこちら側に引き入れる必要があった。
本気だ、と訴えることによって。
「してた」
「好きなのか」
「好きじゃなきゃこんなとこ来ない」
「そうか」
ドアが開く。
「話終わり?」
人間たちは完全に人形の手のひらの上で踊っている。
「僕にお仕置きがあるかな」
「俺には権限がない」
「じゃあテンギ君も許してね」
「許すも何も、悪いことしてないしな」
「ありがと」
てんぎは脱衣場に入る。
話を聞きたい。聞きたくない。
それがぐるぐる回る。
「カタクラ先生に言う?」
「え?」
「カタクラ先生ってショウジ先生と付き合ってるのかな」
いま。
なんて。
てんぎは扉から離れられない。
手が滑る。汗か水滴の名残か。
嘘だ。
叔父と?
主治医のくせして。
そんな。
「僕も浮気」
「おい、じゃあ」
「残念だけどテンギ君は二番目」
「わざと?」
てんぎがここに来た理由は人形に会いたかったからで。この場所の位置を教えてもらったのだって単に機嫌がよかったところに居合わせただけで。気紛れ以外のものは何も含まれていないはずで。
祥嗣りゅうしの。人形は。艮蔵が。
わからない。
なにがどうなって。
浮気。二番目。
やはりあの男は。
「明日が楽しみだね」
蔵に閉じ込めておくべきだった。
3
車が発進した。
寒気。湯冷めしたのかもしれない。
てんぎは窓に背を向ける。
「研究所か」
「安く済ませるならそれがいいね。行ったことある?」
「一度な」
「僕の引越しの日だね」
人形は寝そべって本を読んでいる。翻訳ものの分厚い文庫本。ベッド脇に新たに本が増えた。あの心理学者に買いに行かせたものらしい。絶妙なバランス。鼻息だけで崩れそう。
てんぎは出来もしないミルクパズルをいじる。
「ねえ、テンギ君」
「なんだ」
「カタクラ先生は殺さないでね」
頭の中が読まれている。
昔読んだミステリィ小説を必死になって思い出していたのに。
「死ぬよりもっと酷いことしたいんだ。協力して」
「好きなんじゃないのか」
浮気。二番目。
嫌味な言葉がちらつく。
「ごめんね。マデノ先生を追い出すための方便だったんだけど」
「俺を利用するため、の間違いじゃねえの」
「怒ってる?」
てんぎはベッドに腰掛ける。寝心地の悪そうな硬さだった。
人形は顔を上げない。
「俺じゃなくてもいいだろ」
「テンギ君しかいないよ」
「共犯か」
「共犯だよ」
「お前はそれでいいのか」
「どういう意味?」
てんぎは文庫本を取り上げる。
そんなもの。
見ないで欲しい。
「カタクラは殺さないんだろ。そういうことだ」
4
夜は眠れなかった。隣に人形がいたせいだ。違う部屋を借りればよかったが深夜に車のエンジン音が聞こえたため諦めた。
だが徹夜の甲斐も虚しく部屋を訪れることはなかった。こんなことなら人形の言うとおり眠っておけばよかった。
「そろそろくるよ」
「なあ、本当にやるのか」
廊下で乱暴な物音と乱暴な呼び声。二階にはほかにもうふたつドアがあった。そこを覗いているのだろう。蛻の殻だというのに。
「テンギ君は僕と暮らしたくない?」
そんな上等な餌を与えないでほしい。
目の前のことしか考えられなくなる。
「血が出たらごめんね」
「は?」
「ショウジ」
来た。聞くだけではらわたが煮えくり返る音階。
「開いてるよ」
という人形の返答を聞く前にドアが開け放たれる。てんぎは布団の中に隠れる。
ひんやりする。無と同化しよう。
深い溜息が聞こえた。おそらく艮蔵のために用意されたこの非常事態に人形が平然と読書に耽っていたためだろう。わざと作り出された演出だとも知らずに。
「いつもより五分遅いね。寝坊したのかな」
「そうじゃない。ウキョウたちは? マデノ先生まで」
「キッチンじゃないの?」
「いないんだ。いま部屋を見てきたんだが蛻の殻で」
「蛻の殻だと思うよ。キッチンにいるんだから」
床を蹴る音が遠ざかる。
「あいつ馬鹿じゃねえのか」
「そうだよね。夜のうちに気づいてもよさそうなのに」
艮蔵はすぐ戻ってきた。てんぎはまた隠れる。
「ショウジ」
「開けっ放しで行かないでよ」
床を踏み抜きそうなほどの乱暴な靴音。
「誰もいない」
「そうなの?」
「お前は何か知らないか」
「知らないよ。僕はずっとここにいたんだから」
「そうじゃなくて昨日だ。俺が向こう行ってる間何か」
「さあね。僕に黙ってみんなで旅行かな。ずるいよね」
「そんなはずない。だって」
「連絡は」
「取れない。先生は起きてないんだ、こんな時間に」
人形が数字を呟く。
「は?」
「今言った番号に掛けて。ウキョウの電話なんだ」
「ウキョウが?」
「早く」
人形が携帯電話を横取りした。
「あーあ留守電だ」
「そんな」
「ショウジだけど、どこにいるか連絡欲しい。じゃあね」
伝言を残したらしい。艮蔵に電話が返される。
「おかしいね。ウキョウが起きてないはずないのに」
「どうしよう」
「どうしようとか言ってる間に研究所に行けばどうかな。それともショウジ先生とのデートの時間にはまだ早い?」
また。
いった。
「昨日も深夜まで何してたの? まったく絶倫だよね」
それで帰りが遅かった。
やはり本当に叔父と。
「知ってるよ、ぜんぶ。カタクラ先生がここにいる人間にとって如何にヒーローなのかってことはさ。自己犠牲って言うのかな」
艮蔵は声も出ない。
ざまあみろ。
「実はマデノ先生もヨージもウキョウもサメウも研究所だよ。ウキョウについては僕が知らないうちに立てられた綿密な計画だったらしいけど、先生たちは僕が頼んだ。ちょっと邪魔だったから」
「じゃま?」
人形がベッドから這い出る。
まずい。絶対に。
見えて。
「テンギ君、昨日は楽しかったね」
艮蔵は止まっている。
そうか。これも一環。
血が出るのは。
「なにし、て」
「見ればわかるよね。二人仲良くベッドですることといったらかくれんぼと」
人形じゃない。
「カタクラ先生が帰ってきたのが十二時過ぎだからちょうど僕らが切り上げたのもそのくらいだっけ、テンギ君」
「憶えてない」
「ふうん、盛り上がりすぎちゃったかな」
「つーかまだ眠いんだが」
「それはごめんね」
艮蔵の顔が。
「何か言おうよ、カタクラ先生」
艮蔵の眼が。
てんぎから離れない。
「おれのだ」
「なに? 聞こえなかったけど」
という心地よい音を聞き終わる前に意識が黒塗りになった。
強烈な熱。
天と地が一緒。
反撃の隙すらない。
反撃は出来ない。
きっと哀しがるから。
出来ない。
「テンギ君」
断続的に聞こえる。
とても遠くから。
呼んでもらっている。
戻ってこようと手を伸ばすと。
また聞こえなくなる。
無音。無の世界。
強制移行だから。
ちっとも甘美ではない。
「テンギ君」
冷たい感触。
そうか。人形が。
「しっかりして」
やれやれ。しっかりしてるよ。
声が出ないだけで。
「手当てしてよ」
「どうして」
「理由が要るかな」
「こいつはお前を」
「今はそんな状況じゃないよ。助けてあげないと」
「こんな奴どうなったっていい」
「僕はどうなったってよくない」
白い。
枕元のタオルだ。
いいよ。そんな綺麗な布を使わなくても。
消えた。
「返してよ」
「どうして助けようとするんだ」
「手遅れになるから」
「死んだっていいだろ、こんな下衆」
冷たいもの。
顔の表皮が気持ちいい。
撫でてもらっている。
うれしい。
「テンギ君、ごめんね」
謝らなくていい。
知ってた。ぜんぶ知ってるから。
「やめろよ」
「生きてる?」
「あ、あ」
出た。我ながら人外の発声だ。
咽喉が熱い。
鉄は不味い。
「よかった。血が出てるのはどこ」
ひんやりする。
殴られれば血は流れるんだから。
そんなに心配しなくていいのに。
「ショウジ!」
濁った音。
「こっち来い。そんなやつなんか」
「テンギ君だよ。僕のいとこだ」
「名前なんかどうだって」
「カタクラ先生は僕のこと好き?」
耳を。
無に。
「僕もカタクラ先生のことが好き。だけど」
その先だけ聞きたい。
「テンギ君も好きだから」
も、なんてまるで追加事項じゃないか。
それを取ってほしい。
「そいつのほうがいいんだろ。俺がお前捨てたから」
「そうじゃないよ。僕はカタクラ先生が一番だよ。ショウジ先生の秘書をしてたのだってマデノ先生やヨージのためだったってのはわかってる。でもさ」
また聞きたくない。
聞かない。
「僕は面白くないよ。僕も犠牲になった」
無音。
「僕は主治医なんか要らない。保護者代わりの大人も要らない。ショウジ先生の秘書なんかもっと要らない。僕が欲しかったのは」
消える。
「ショウジ先生に逆らってくれるカタクラ先生」
感覚が消える。
視覚も聴覚も。
「曲解だね。二ヶ月も無駄になった」
なにもかも。
「嬉しいけどテンギ君を手当てしてくれるともっと嬉しい」
「おい、死んでるか」
咳き込んでやる。
睨んでやる。
「死んで堪るかよ」
これからが地獄だ。
5
手当てなんか自分で出来るのに。怪我くらい慣れている。自分がボールになってバスケットやサッカーに使われたような気がする。何本か骨が危ないかもしれない。だが艮蔵に容態を離すのが苦痛なので黙っていた。腕や体を触られるほうが苦痛だった。それに外部に流れたものはほとんど鼻血。
ガーゼの隙間から人形が見える。
「動ける?」
「平気だこのくらい」
艮蔵はなかなか立ち去らない。いますぐにでも人形を連れていきたそうな面持ちでてんぎのいないほうを凝視している。蚊でもいたのかもしれない。
「カタクラ先生、今日は無断欠勤?」
「どっかのガキがいて集中できない」
また餓鬼。
「じゃあ僕と話をしよう。部屋に来て」
てんぎはそっぽを向く。
これも演技の一環。
「すぐ終わるから」
「勝手にしろ」
三マイナス二。
残りは自明。
何をするつもりなのか知っているからここで待つ。絶対に戻ってきてくれる。そういう逃亡作戦。
暇だからあれをやろう。眼を瞑る。体中がズキズキするが上手くいくか。脈の鼓動がうるさい。外に出たいなら流れ出ればいい。どうせ汚い拳でつけられた傷だ。血だって穢れる。
いいさ。また造る。
ずきん。
ずき。
ずき。
離婚。今度はそれだ。絶対に成功する。
ふたりだけで暮らせる。
あの耄碌もとっととくたばればいい。生命として活動している様子が思い出せない。会話をした記憶すらない。叔父が気になる。どういうつもりなのかさっぱりわからない。艮蔵とできてるならそれでもいい。艮蔵ならくれてやる。バナナの叩き売りだ。一房一円でもまだ高い。
そういえば結婚してたか?
父と名字が違うのだからきっとそうなのだろう。何も知らない。どうでもいいだけか。
いつだって。
どうだっていい。
「テンギ君」
人形が戻ってきた。
てんぎは椅子から腰を浮かす。
「済んだか」
「早く行こう」
建物の外に出る。
永遠にさよならだ。
6
渦を見つめる。
黒の中に白。
白の中に黒。
風が通る。扇風機は無駄に回転する。
涼しい夕暮れ。
「あの男とどこで出会ったんですか」
「答える意味はないね」
「もう何年会ってませんか」
「数えたことがない」
黒い髪。絶対に染めている。年齢は思い出せない。耄碌とどっこいどっこいだろう。いつも正装をしている。例え学校帰りでないとしても。
「あんたが私と一緒に来るわけだね」
「そうです」
「いくとこないよ」
「実家はどこですか」
「まあ伝はなくないか」
母はテーブルの上にのせていた手を開く。
左手の指輪を外す。
「高校からでいい?」
「一人暮らしさせてください」
「私もそのほうがいい」
てんぎはグラス内の黒い液体を一気に飲み干す。氷まで齧る。冷たくて美味い。
「どうやって出会ったかだけど」
「別にいいです。興味ないんで」
「そう。思い出せないんだ、どうしても」
扇風機を止めて台所へ。グラスを洗って片付ける。
母はまだそこにいる。背筋を伸ばして正座。後姿がどことなく誰かに似ている。
妹だ。
「あんた私の子じゃないよ」
「知ってます」
「ならよかった」
「誰があなたの子ですか」
「顔で判断すればどう?」
「ジトウとあの女」
「全部違うかもしれないな」
「ディンクス」
「最初からひとりだよ」
てんぎは台所の戸を開ける。一階には廊下がない。吹き抜けの玄関に梯子階段。
下から二段目に妹が座っていた。
「なにしてんだ。塾は」
「今日はないです」
「そこどいてくれ」
「いなくなるんですね」
妹と背丈はあまり変わらない。追い越されたら少し苦痛だ。レンズから無感動の眼がのぞく。
眩暈がするほどの既視感。
「怪我は大丈夫ですか」
「単なるあざだよ。気になるなら見るな」
妹が立ち上がり道を譲る。
「塾サボるなよ」
「ごめんなさい」
てんぎは梯子階段を駆け上がる。実は一度だけ転落したことがある。一番上の段から転がった。同じく屋根から落ちた哀れな布団が階段の元に救出されていなかったらまた怪我だったかもしれない。つくづく怪我に縁がある人生だ。
廊下の突き当りの部屋に入る。
「やった」
「脆いね」
人形は布団の上でごろごろしていた。見られたくない雑誌をごっそり処分したのでもうやきもきしなくて済む。
「ノックされたけど無視したよ」
「やっぱ気づかれてるな」
妹。頭が国内最高峰なのだ。
「テンギ君に朗報があるよ」
「カタクラが死んだとか」
「それは訃報だね。こっちも訃報かな」
よぎる。
母の顔。
「まさか」
「死んじゃった」
笑えない。嬉しいはずなのに。
死んでほしいと思っていたのに。
「でも公式には生きてる」
「は?」
「研究が滞るからね。資金とかいろいろ」
「え、だってバレるだろ。そんなん」
「ショウジ先生がいるからね」
入れ替わりをするのだろうか。だがいくら兄弟とはいえそんなことは出来ないと思う。それに顔は見紛うほど似ていただろうか。父の顔が思い出せないのだから比較もできない。
「あの人たちには常識が通用しない」
「葬式はしないってことか」
「墓もなし。可哀想に」
白い手はいつも冷たい。
黒い眼はいつも動かない。
「ショック?」
「わからない」
「僕もわからない。でもどっちかというとショック」
「なんで」
「ショウジ先生が生きてるからね。あの人たち、いっそ心中すればよかったのに」
レーザ光線のような西日が眩しい。部屋が暑くなる前兆だ。
「殺すか」
「たぶん殺さなくても勝手に死ぬよ。地下でひっそり」
「知ってるみたいだな」
「僕が呪いをかけた。仕返しに」
「カタクラの?」
「僕を産んだことに対して」
「そういやお前の母親」
「いないよ」
反応が著しく早かった。これ以上訊かないほうがいいだろう。
代わりに頬に触れる。
「僕はテンギ君のいとこだよ」
「知ってる」
茹だるような西日に曝されながら寝転がる。
死んだのか。
なんだ。死ぬんだあいつ。
死なないと思ってたのに。
「あの耄碌、どんな面してたっけ」
「テンギ君には似てないよ」
「誰に似てる?」
「ヨージ」
「誰そいつ」
「僕の弟。マデノ先生の息子」
「は?」
「そうじゃない。父親は後付。オプションだよ」
「お前と同じ仕組みか」
「ヨージもテンギ君のいとこだね」
「いとこはお前だけでいい」
「じゃあそうする」
人形の頭を撫でる。
「ごほうび?」
「そんなとこだ」
灼熱というに相応しい。いっそサウナとして使ったほうがいい。窓を開けても無意味。回避方法は。
「外行くか」
「僕は留守番だよ」
「なんか喰いたいものとか」
「ないね」
そうだった。人形は活字がエネルギィ。
「今日はこれね」
「げ、だから売ってねえって。こんなん」
「じゃあ図書館でいいよ。羅城大学わかる?」
「行きたくない」
「顔パスじゃん。使ったほうがいいよ」
「やっぱ似てんじゃねえか」
「相対評価なら似てない。絶対評価なら似てる」
「五段階で?」
「四かな」
力が抜ける。
「まあ様子見なら」
「いってらっしゃい」
羅城大学は父の研究所のすぐ傍。敷地が無駄に広すぎるので迷いそうだ。夏休みなせいか学生はあまりいない。それにしても暑い。早くクーラの恩恵に与りたい。汗が流れてくる。
祥嗣りゅうしはここで教授をしている。
心理学の教授。
謎の施設にいた気の弱そうな男は相当苦労しているように見受けられる。毒をこつこつと地道に摂取していた脳だ。寿命も短いだろう。
寿命、とは思えない。
自殺?
想像できない。
他殺?
こちらのほうがあり得る。
ならば誰が殺したんだろう。研究所の有象無象。大学関係者か。病院関係か。ひとりで名刺フォルダをいっぱいに出来るほど肩書きを持っていたはずだ。地球の反対側でこっそり憎まれても怨まれてもある意味自然現象で通用するほどに顔が広い。どこの誰だか尋ねているうちに心臓をぶすりと刺されて終わりだ。
予想通り図書館は涼しかった。何らかの証明書がないとゲートを通過できない仕組みだったが、カウンタで顔を見せたら本当に顔パスだった。ちっとも嬉しくない。
探すのが面倒なので人形から受け取ったメモを渡す。カウンタの奥でうだうだと寛いでいた司書が一斉に飛び出してきた。そういうプログラムが組み込まれているのかもしれない。なんだか非人道的だ。それが採用条件だったりしないだろうか。
怪我の心配をされたが適当にあしらっておく。ガーゼは取ってあざを見せておいたほうが面倒でなくて済むような気がする。ケンカか何か争いごとの結果だと思われそうなのは不服だが。
きっと大学側も知らないだろう。
誰も知らない。
ひっそりと死ぬという呪いはあの男にもかかっていた。
「テンギ君?」
その呼び名を使用する無表情人形がここにいるはずはない。とするならひとり。しかも限りなく会いたくない。
てんぎはしぶしぶ振り返る。
「やっぱり。どうしたんだい?」
知らない顔だった。背が高く白衣を着ているが、羅城大学は医学部もあるので学生かもしれない。目つきの悪い医師や気の弱い心理学者よりも尚若い。向こうで勝手に知人にされているだけだ。
だから来たくなかったのに。
「あの、俺」
「会うのは初めてかな。私はホスガという。ショウジ先生の弟子だ。どうぞよろしく」
握手なんかしたくない。
向こうもすぐに引っ込めた。
「何か用事でも」
「声を掛けてはいけないだろうか」
「親父のことですか」
「サクゼ先生がどうかしたのかな」
そうだった。これは秘密。
「じゃあショウジ先生ですか」
「叔父さんといわないんだね」
「叔父じゃないんで」
「どういう意味だろうか」
「ガキの頃、家庭教師してもらったことあってその名残です」
白衣の男は頷く。
「弟子って」
「ここで教授をすることになった。具合の芳しくないショウジ先生の代理だよ」
「具合? 風邪とか」
「いや、もっと重篤だ。早く回復されればいいのだが」
「病気ってことですか」
「そうだね。実は教授も引退されてね。実に残念だ。私なんかが代わったって穴は塞がらないよ」
「え、ショウジ先生が?」
「そうだよ。サクゼ先生から聞いてないかな」
おかしい。人形が嘘を言うはずはない。
だとするならこの男が。
「あの、それって確かですか」
「確かも何も大学中知ってるよ。講義はまるごと私が受け持ったが先生のように素晴らしい講義は出来そうにない。学生に申し訳がない」
どういうことだ。
どっちが虚構。
どっちも虚構。
「あの、ちょっといいですか」
司書連盟は続々と本を捜索してくれていたが、てんぎは喉が渇いたと嘘をついて建物の外に出る。図書館内に飲食できる空間があるらしいが何となく外で話したかった。例え脳が熔けそうなくらい灼熱でも。
「先生は親父とどういう」
「雇用主だね。研究所に呼んでもらったのはショウジ先生のおかげだけど最終決定権はサクゼ先生だ。君が訊きたいのはもしかしてあのことかな」
「知ってるんですね」
「部下だからね」
白衣の男は木陰に移動する。蝉の声がうるさい。聴覚が一時的に麻痺する。男の低い声が聞こえづらい。
こう見ると本当に若い。二十代にしか見えない。そんな若いのに教授になれるのか。祥嗣りゅうしの弟子というブランド名のおかげにしてもお釣りが来る。なんにせよ相当の頭脳だ。
まるで妹のよう。雰囲気もどことなく似ている。他者を寄せ付けない完全な個体。孤立というよりは。
「ノルト君を匿っているね」
てんぎは呼吸ができなかった。
拘束は二重。首と肺。
「ノルトという名は私がつけたようなものだ。驚かすつもりはなかった。謝るよ」
違う。
そんなことは訊いていない。
「元気かな」
「連れ戻すんですか」
「しないさ。生憎そういう命令はきてないよ」
無表情。
誰かに似て。
「何か食べさせたほうがいい。栄養がいかないと」
「なんで」
「何に対する疑問かな」
そんなの。
いいたくない。
「私にも息子がいるんだ。今度会ってくれないか。毎日暇そうにしていてね。遊び相手になって欲しい」
「誰の子ですか」
「私の子だよ。そう言ったじゃないか」
「違います。その」
「母親ならとっくに別れたよ。そもそも結婚はしていない。子どもは喜んで貰いうけた」
厭な感覚。全身に纏わりつく不快感。ゼリィみたいなどろどろの物質に呑み込まれる。琥珀の中の虫のよう。樹液が口腔内に侵入する。気持ちが悪い。
吐き気。眩暈。
「熱射病になってしまうよ。こちらに」
「あなたは誰ですか」
朔世かげとのはずがない。
祥嗣りゅうしであるはずがない。
共通項は不在の母親。
駄目だ。
アスファルトがとても近い。
蜃気楼に浮かび上がったのは、死んだはずの父親の影。
「ホスガてんぎだよ」
聞こえない。なにも。
消滅。
無駄。
無だ。
「君の名だ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます