人形傾向
伏潮朱遺
第1話 崩冬ホウトウ
1
その日家には誰もいなかった。視界に入れたくないほど憎らしい父親は終日研究所篭もり。徹底的に無関心な母親は中学校の教員として下らない会議に参加。存在自体が吐き気を催す姉は碌でもない男と不純異性交遊。真面目に手と足が生えたような妹は早朝から塾で全国模試。
暇だった。かといって外に出掛けるのは億劫だった。第一暇だから外に出掛けるというのはおかしいと思う。外に出ることが唯一絶対の正しい事柄なのだと押し付けられているような気がしてならない。
まともに学校に通っていないせいか友だちと呼べる人間はひとりもいない。そもそも友だちなんか欲しくない。友人は多いほうがいいとかいう標語を躍起になって掲げるわけの分からない人種がいるが、そういう奴はただ単に寂しさに耐えられないだけなのだ。ひとりでいることが敗者の証だなどと勝手に思い込み、一生を孤独に脅かされ世界の隅で打ち震えるしかない可哀想な人種だ。
てんぎは息を吐いた。呼吸の一環だったかもしれない。
静かな縁側で庭を眺める。手入れをする殊勝な人間がいないため荒れ放題。季節は完全に冬だが今日は風もなく暖かな陽気である。先日降った大雪がみるみるうちに溶けてしまった。雪だるまでも作ろうかと密かに狙っていたのになんとも悔しい。
どうでもいいか、とも思う。
いつだってどうでもいい。
腰を浮かせて居間に戻る。幾ら暖かいとはいえやはり冬なのだ。背中にゾクゾクする寒気を感じながら炬燵に入る。しばらくぼんやりしていたら欠伸が出た。少し横になる。座布団がひんやりしていたがあまり気にならない。むしろ炬燵との対比で気持ちがいい。
天井が見える。
眼を閉じる。音が消えていく。身体の感覚がなくなっていく。
無だ。
てんぎはこの消滅の感覚が好きだった。ひとりでいるときは大抵この感覚を味わうことにしている。
自分が無くなる甘美な感覚。消えてなくなった先に何かと同化するのではない。欠片も残さず固体にも液体にも、さらには気体にもならずそのままただ消える。敢えて言うならゼロと融合する。窮屈な肉体から解放されて自由な精神を求めるのではない。消滅なのだ。肉体も精神もすっかり無くなる。何も残らない。
眼を開けた。
脚が熱くなってきたのだ。場所が悪かったのだと諦める。もう少しでいつもの段階まで達せたのに。あと一歩だった。
仕切り直しをするために居間を出る。台所を抜けて梯子のような階段を上がる。廊下を突き当たった扉の先が自分の部屋。
ここなら。
音。
てんぎは振り向く。後方から、生物が動いたときに発せられるような音がしたのだ。いや、後ろではない。
階下だ。
ゆっくりと階段を下りる。これが梯子のようだと形容したのには二つ理由がある。一つは傾きが急で一段一段が独立しており見た目が梯子そっくりだから。もう一つは。
音。
てんぎは足を止める。耳を澄ませて場所を定位する。
やはりここだ。
玄関だけは吹き抜けになっており、二階の天井がそのまま玄関の天井になっている。靴を脱ぐスペースから一段上がったところの床は板の間で一年中ひんやりとした空気が漂う。ここは天然冷蔵庫と称するに相応しい。夏ならば一階の最奥に位置する客間に次ぎ、家の中で二番目に涼しい場所になる。
だがいまは冬。てんぎは靴下が嫌いなので夏だろうが冬だろうが履かない。足先の妙な感じにいまさら気づく。霜焼けの前兆とも言うべき、指が根こそぎなくなったかのような気味の悪い錯覚。
音。
どこだ。奥の壁に目を遣る。
蔵。
そこはずいぶん昔から封印されていると聞く。扉が開いた光景など生まれてこの方一度もお眼にかかったことなど無いし、そもそも扉が開くのかすら怪しい。てんぎは白塗りの大きな扉に耳を当てる。
音。
やはり。
扉の中ほどに厳重な金庫を思わせる取っ手があった。これを持って横にずらせば扉は開く筈だ。
てんぎは躊躇う。この中には何がいるのだろう。
最も可能性が高いのは鼠である。古い蔵にはお誂え向けの哺乳類といえる。鼠は実際に見たことはないがあまり視界に入れたくない生き物かもしれない。そもそも生き物は嫌いだ。犬も猫もハムスターもインコも兎もとにかく動物は大嫌いである。むしろ苦手なのかもしれない。
もう一度耳を当てて音がしなかったらやめよう。そう決めておそるおそる白塗りに近づく。さっきも思ったのだが扉は本当に冷たい。体温が根こそぎ奪われるかのような不気味な感触。
音。
どうしよう。しかもこれは音というより。
声。
テレビだろうか。ラジオそれともCDか。出来れば生身の人間の声で無いと思いたい。
音。
すぐそば。まさか。
扉を叩いている?
てんぎは呼吸を整えた。
「誰か、いるのか」
扉を内側から叩く音。微かに声も聞こえる。
「開けたほうがいいのか」
あたかも返事のように扉が叩かれた。
てんぎは取っ手に手を掛ける。手のサイズより一回り大きな直径の円状の窪み。そこを縦断する一本の金属。それを掴んで思いっきり横に。
重い。動かない。びくともしないというのはこういう状況をいうのだろう。再び力を込める。
ずずず。
ずず。
ず。
扉が唸っているのはわかるのだが如何せん重い。この状況を端的に表すなら膠着状態の綱引き。
運動会なら小学校六年時の怪我を思い出す。競技自体は嫌いではない。むしろ勝負事は異常に血が騒ぐ。その時初めてクラスの人間が必要だと思えた。彼らがいなければ戦えないからだ。所詮は団体競技。徒競走ならいざ知らず、他の種目は揃いも揃って協力が絶対条件である。楽しかったのかもしれない。
しかし最高学年の華ともいえる演目である組体操の練習中それは起こった。何の技だったか忘れたが足を滑らせて転落したのだ。クラス全員に息を呑ませ、遠くで見ていた担任を全力疾走させるほどの大音量だった。だが不思議なことに全然痛くなく、その後も平気な顔で練習を続けられた。音だけ煩いだけだったのだ。いま思えばハリセンと同じ原理だろうか。とにかくその日は平気だった。
問題は次の日だった。それは目覚めた瞬間からおかしかった。起き上がれないのだ。上半身は起きろという脳からの命令に従えているのに下半身は動かない。仕方がないので匍匐前進で廊下に出て、気に入らないが母親に事情を説明した。案の定母は冷めた目でこの妙な姿勢を一瞥し、大したことないから立てと言った。
もともと母親は身体上の訴えを本気で取り合ってくれない。気のせいだ詐病だと主張し、それでも気になるなら薬をあげるから耐えろと言う。学校を休むための口実だと思っているのだ。確かに学校は休みたかった。行きたいと思ったことなど只の一度も無い。だから当たらずとも遠からずで諦めて薬を受け取る毎日だった。
しかし今回ばかりは違う。本当に痛い。立てる立てないの次元をとっくに通り越して移動すらままならない。ふざけるにしてはあまりにも馬鹿馬鹿しいと思ったのであろう。母親は初めて容態を聞いてくれた。そしてすぐに接骨院へ行った。
足は骨折していた。そこで初めて知ったのだが骨がずれたのも骨折というらしい。どちらかの足だったかは忘れたが、松葉杖を突きながら授業中で静まり返った学校の階段をのろのろ上がったのを思い出す。已むを得ない事情で遅刻をしたのもその時が初めてだったと思う。
結局運動会には出れた。本番まで一ヶ月はあったため何とか歩行できるまでになったのだ。組体操にも出れたがほとんどおまけのような役回りだった。包帯で固定しなければいけないため本番も一人だけ靴を履いてやった。よって上には登れない。下でサポート。
つまらなかった。唯一の個人競技の徒競走にも出れない。運動会を外から支える役割は面白くなかった。面倒極まりない準備片付けなんて誰もやりたくない。
てんぎは思考を切り離す。
扉が動いたのだ。
開く。
十センチ。
二十センチ。
四十センチ。
そこまでが限度だった。疲れた。息を吐く。酸素が足りないという命令の下深呼吸を行う。冷気が肺の中に入って頭がすっきりした。
蔵の中を覗こうと思ったとき、何かが外に出てきた。
立ち去ろうという気は起きなかった。知りたかった。見てみたかった。この封印された蔵の中にいったい何が棲んでいるのか。
最初に視界に飛び込んできたのは、光を根本から吸収するかのような真っ黒の髪。その闇色が覆う顔は白塗りの扉よりもなお白い。黒との対比のせいではない。本当に白いのだ。それはアスファルトに積もって一瞬で消えてしまう雪のような冷たい白と、絵の具のチューブから出したばかりの人工の白を絶妙なバランスで混ぜ合わせたかの如く綺麗だった。
その白に埋め込まれた黒い瞳が無を表現する。
てんぎは動けなかった。しばらく放心していたと思う。視覚情報が飽和して脳が停止している。これ以外のものは網膜に焼き付いていない。黒と白。白と黒。そして黒。
人形かと思った。
「誰かな」
それが眼前の人形から発せられたとわかるまでにだいぶ時間がかかった。まさか言葉を話すとは思わなかったからだ。意味を取るのすらままならない。てんぎは声が出ない。出そうと思っているのに。会話をしようと思っているのに。
「君はもしかしてサクゼ先生の」
「あ」
やっとそれだけ言えた。しかし返答になっていない。その上声が掠れてとても自分の声だとは思えない。違う人格が発したのではないかとも思った。
「息子の」
「テンギだ」
人形が頷く。てんぎもつられて頷いた。
とにかく身体が震える。場所のせいだ。ここは家の中で二番目に寒い。
「はじめましてかな。僕はショウジ」
「ショウジ?」
ショウジという音で思い当たった。漢字はおそらく。
祥嗣。
「ちなみに漢字はとうかいりんと書く」
「は?」
「あれ? 違う字だと思った?」
「だって」
祥嗣というならてんぎの父の弟の姓。それ以外に思いつかない。
「あの字は嫌いなんだ」
「はあ?」
「あの字が気に入らないから変えたんだよ」
「名字って勝手に変えられるか?」
「自称なら問題ないね。僕は学校に行かないし」
人形は小柄だった。外見から判断して人間の年齢に置き換えるならおそらくてんぎより年下。
「学校って」
「行かないよ。発作があって無理なんだ」
「発作?」
人形がくしゃみをする。くしゃみは人形もするんだな、とてんぎは傍観してしまった。
「どうしてここにいるの、とか訊かないのかな」
「あ、ああ」
そういえば第一声はそれで然るべきだったのかもしれない。駄目だ。なんだか脳が正常に稼動しない。
狂う。壊れる。
「君が理由を尋ねないなら僕としても嬉しいけど」
「言いたくないのか」
「そうなのかなあ」
人形が小首を傾げる。そういう人形がいたかもしれない。
「言うのが面倒だというのもあるけど実は外に出たらいけなかったんだよ。だからつまり契約違反になってるわけだね僕は」
それはまずいのではないだろうか。この敷地内で出てはいけないという命令を下せる人物は一人しか考えられない。
父だ。
とすると人形をこんな酷い場所に閉じ込めていたのも父。
怒りが込み上げてきた。夏ならまだしもいまは冬だ。家の中で二番目に寒い空間のさらに奥。もしかするとこの蔵こそが最も寒い場所。ただ単に選択肢に入っていなかっただけだ。こんな場所にどうして。
人形がまたくしゃみをした。
てんぎはようやく人形の首から下に目を遣る。白く血の気の無い肌に纏う布はとても薄地で春先か秋口くらいの服装にしか見えない。寒いのだろう。当然だ。
「ちょっとこっち来い」
てんぎは人形の腕を掴む。冷たい。凍える。氷柱を素手で握っているような麻痺の感覚。
つい離してしまった。
「来いと言われても、ここから出たらいけないわけだから」
「何でだよ」
「そういう決まりになってる」
てんぎは無理矢理人形の腕を引っ張る。軽い。人形がよろけたためバランスを崩しそうになる。
一呼吸。
「バレなきゃいいだろ。いつ戻るんだ」
「それがわかるなら僕はここから出たね」
てんぎは溜息をついた。確かにその通りだろう。この蔵は鍵がかかっていなかった。相当の力が要るがその力さえあれば容易く抜け出すことが出来た筈だ。つまり人形にはその力が無かったことになる。
「じゃあちょっとならいいだろ」
「ちょっとかあ」
「何だよ。寒くてくしゃみしてたくせに」
「そうか。寒かったのかもしれないね」
人形は無表情で頷く。そういう人形がいたかもしれない。
「それでくしゃみが出たのか。へえ、ようやくわかったよ」
てんぎは力が抜けた。なんだろう、と思う。
「二階に行ってみたいなあ」
いつの間にか人形が階段の中ほどにいた。てんぎは急いでそこまで上る。
ぎいぎい。
ぎい。
「なんだか梯子みたいな音がするね」
てんぎは人形を見上げる。
無の眼。
音。
「そう思わないかな、テンギ君」
2
てんぎは人形を自分に部屋に連れて行った。散らかっていないといえば嘘になるが、足の踏み場くらいは確保できる。そもそも床が散らかるのは、部屋が狭い割に物がたくさんあるからだ。またはエントロピィの法則でもいい。
だがてんぎは自分の部屋に他人を入れたくない人種なので躊躇いがなかったわけではない。部屋には鍵をかけている。何もそこまでせずとも誰も入って来やしないのだが気持ちの問題である。要は安心できるのだ。自分以外は誰もいないという貴き空間を侵されたくは無い。
「これは何? ああ、これって確か」
てんぎは人形の手からそれを回収する。引きっ放しになっている布団の上にあった雑誌だ。
「見なくていい」
「見られたくないの?」
「こういうのは見なくていい」
いそいそと本棚に隠す。その様子をじろじろと人形に見られているので何だか落ち着かない。
部屋は二階の突き当たりにあるため窓が二方向にある。南と西に一組ずつ。そのお陰で夏は茹だるような西日が差し込み厭というほど温室効果が味わえる。反対に冬は、窓ガラスの隙間からぴゅうぴゅうと風が吹き込み天然冷房が効きすぎる。どちらにせよ過ごしにくい部屋なのだ。
つまるところここは寒い。石油ストーブに火を入れた。横目で人形を確認すると、血の気の引いたような顔で小刻みに震えている。これではあの蔵の中と大して差が無い。
「座っていいぞ」
人形がワンテンポ遅れてしゃがみ込む。そこに毛布を掛けてやった。炬燵のある部屋にすればよかったか、と一瞬思う。
「テンギ君て優しいね」
「そうか?」
「僕のこと訊かないから」
どうやら褒められた内容は、寒い蔵から出したことでも毛布を掛けたあげたことでもなかったらしい。
「訊いたほうがいいのか」
「答えないよ」
ストーブに火が広がる。ぼうぼう音がする。
祥嗣。
「ショウジ先生の」
「違うよ」
じりちり。炎が揺らめく。
「俺のいとこか」
「そうかもね」
ようやく炎が安定した。
咽喉が渇いてくる。乾燥したのかもしれない。
てんぎはストーブの火を弱めて廊下に出る。人形は毛布を頭から被ったまま付いてきた。
「やっぱり梯子だね」
てんぎは足を止める。階段を下りる寸前だった。
「危ないからゆっくり来いよ」
「音が梯子だ」
ぎいぎい。
ぎい。
台所に行って冷蔵庫を開ける。こういうときに限って何も無い。否、そもそも母親が家事をしたところを見たことが無い。その代わりなのか、現金は充分すぎるほど与えられている。欲しいものは自分で用意するしか無いのだ。
買いに行くか。
「何が飲みたい?」
「出掛けるの?」
「飲みたいものに依るな」
人形が瞬きをする。意味が伝わらなかったのかもしれない。
「好きなものとかねえの?」
「わからない」
てんぎは眉をひそめる。
「俺は茶でいいけど」
「僕もそれでいいよ」
てんぎは息を吐いてから薬缶を火にかける。どうも調子がおかしい。人形との会話は困難を極める。
「炬燵入って待ってろ」
人形は首を傾げるだけで動かない。
てんぎはその脇を通って居間の茶箪笥から急須と湯飲みを用意する。緑茶ならどこかにあった筈だ。この家で茶の葉を買ってくるような人間が思いつかないのでおそらく貰いものだろう。送り主は不明だが母親宛でよく荷物が届く。過去の生徒かもしれない。熱心なことだ、と思う。
人形が布団を持ち上げて首から上を中に入れている。
「何してんだよ」
「見たことないものがあった」
「は?」
人形が布団から顔を出す。多少頬が上気していた。
「ちょっと熱いね。遠赤外線かな。ここに入って暖を取るとかそういう趣向だろうか」
「炬燵っていうんだけど」
「こたつ? あ、そっか。さっきテンギ君が言ってたのはこれだったんだ」
それで炬燵入って待ってろ、が伝わらなかったのだろうか。
「知らないのか」
「初めて見たね。僕はほとんどベッドにいるから」
人形の呪言が浮かぶ。
「なあ発作って」
「言わないよ」
人形はそっぽを向いてしまった。
発作というのは何だろう。てんぎはどちらかというと健康で風邪も滅多に引かない。敢えて言うなら仮病くらいしかしたことが無いのでよくわからない。骨折なら体験したのだが。
「酷いのか」
「治らないね」
てんぎは手元の湯飲みを見る。しかし特にそれを見るつもりはなかった。
「ずっとあそこに?」
「偶々今日だけ」
それはそうだろう。あんな悪条件の場所で暮らせるのは鼠くらいしかいない。
蔵。
「あの耄碌か」
「サクゼ先生のこと?」
人形が炬燵に脚を入れる。白くて細い脚が一瞬だけ見える。
「ううん。どうだったかなあ。知らないうちにあそこに居たみたいで。気づいたら真っ暗だったよ」
てんぎは唇を噛んだ。父が何をしているのかなんて知るつもりもないし知りたくも無い。説明してくれるといっても即断るつもりである。だがこれは。
単なる興味なのだろうか。
「あったかい」
てんぎも真似して隣に座る。朝から点けっ放しだったため相当熱くなっている。耐えられないのですぐ外に出た。実は暑がりなのかもしれない。
音。
笛吹きケトルが鳴った。てんぎは火を止めて沸騰したお湯をポットに移す。
「あれはテレビ? 観ていい?」
てんぎは居間をのぞく。人形がリモコンを検分していた。
「面白いもんやってねえぞ」
「ちょっと点けてみるだけだから」
人形はリモコンをテレビに向けた。電源が入る。ザッピングが行われる。
てんぎは盆の上に湯飲みと急須と茶の葉をのせる。しかしポットの一緒に運ぶとなると少し厳しいかもしれない。まさか手伝ってもらうわけには行かないだろう。相手は毛布を被った人形だ。ポットは重いし、盆はひっくり返す恐れがある。
「僕も持つ?」
「いや、いい。テレビ消して先に部屋行ってろ」
「持てるよ」
人形の目線がポットと盆を行き来している。
「どっちがいい?」
「お前が持てるほうで」
「じゃあそっち」
人形が指したのは左手だった。仕方が無いのでてんぎはポットを託して階段を上がる。梯子階段の途中で振り返るのは至難の業だがそれをしないわけにはいかなかった。
よたよたしている。
一旦盆を上の階に置いてから梯子を降りる。
「ほら、それ寄越せ」
「ごめんね。ちょっと重いみたいで」
てんぎは息を吐く。
「少しは吸ったほうがいいよ」
お前のせいだよ、と思ったが言わなかった。きっと通じない。
結局二往復して部屋に戻った。人形はストーブの前で寛いでいる。毛布は肩に掛けたまま。高山地帯の民族衣装のようだ。
「あったかい」
てんぎはお茶を注いで人形に渡した。自分の分を持ってから腰掛ける。なんだかとても疲れた気がする。
「あっつい」
「そうか?」
人形は猫舌らしい。飲めなくて可哀想なので、空いた自分の湯飲みに人形の分を移してまた戻した。こうすると冷める。
「ありがとう」
てんぎは顔を背ける。特に意味はないと思いたい。
人形はちびちび飲んでいるせいでなかなか終わらない。その間に五杯も飲んでしまった。やはり乾燥していたのだろう。
ようやく部屋が暖まってきた。
「いつもはどこに居るんだ?」
「ベッドの上」
てんぎは人形を睨む。人形は湯飲みを見ている。
「そうじゃない」
「病院かなあ。実はよくわからないんだ」
「はあ?」
「サクゼ先生もいるよ」
研究所だ。父が寝泊りしている研究所。中に入ったことはないが割と大きな建物だったと記憶している。外から見たのだ。
「そこで暮らしてんのか」
「ううん。いろんな場所に行くからね」
たらい回しだろうか。
「その、発作のせいか」
「たぶん」
発作を理由に研究材料にされているのだ。絶対そうだ。父なら遣りかねない。あの非道な父ならば。
「逃げねえの?」
「どういうこと?」
「だから、耄碌にいろいろ」
そこから先は言えなかった。言うべきでない。この綺麗な人形の前で下賎な言葉を使いたくない。
「サクゼ先生にはあまり」
「じゃあ」
「逃げたら僕は」
最後まで聞けない。聞きたくない。途中までで区切ってしまう。
そこから先を想像したくない。
厭だ。
駄目だ。
「逃げろよ、俺が」
てんぎは。人形の。
手を。
「死んじゃうんだよ」
取れない。
3
ぼうぼうという音で気がついた。
炎。
白い布団の上に人形が仰向けで寝そべっている。
それが下に。
距離は肩から手首までの長さ。
近い。
どうしてこの体勢なのか。
わからない。
自分のしたことなのか。
人形がしたことなのか。
誰が。
誰がこの。
湯飲みが転がっている。
茶は零れていない。
黒い髪と白い布団の対比。
綺麗。
眩しい。
眼が眩む。
眩暈。
ぐらぐら。
白い頬。
吸い寄せられる。
引力。
強力な力。
逆らえない。
これは。
これはなんだろう。
「どうしたの?」
単調な音階。
そうか。
人形の調べ。
なんと穏やかな。
気持ちがいい。
心地よい。
「テンギ君?」
てんぎ?
誰だそれは。
自分の名?
まさか。
そんな名前ではなかった筈だ。
それは。
まやかしの名。
いつわりの名。
本当の名は。
ここには無い。
「テンギ君?」
「お前」
「ショウジって呼んでよ」
「名字じゃねえか」
「下の名前は嫌いなんだ」
「でも」
「知らないくていい」
「教えろよ」
「言わない」
人形の白い首元が見える。
人形の白い肌が見える。
人形の白い。
白い。
白って。
なんだろう。
「ショウジ先生の」
「違うよ」
「でもいとこなんだろ?」
「そういうことにしてよ」
祥嗣。
「妹?」
「違う」
「弟?」
「違う」
「いとこ?」
「そう。僕はテンギ君のいとこ」
腕の力が抜ける。
距離が。
ゼロに。
「ショウジ」
「そう。僕はショウジ」
匂いすらしない。
4
てんぎは顔を洗った。
タオルで水気を取って鏡で顔を見る。
誰の顔なのかわからなかった。
これは誰だ。
サクゼてんぎ?
違う。
それが誰なのかわからない。
タオルを投げ捨てて部屋に戻る。
温い空気が顔を撫でる。ストーブは消えていた。
東海林がこちらを捉える。
それは名前ではない。きっとまやかしだ。
布団に座る。
人形の隣。
白い首筋がのぞく。
毒のような色。
白は毒だ。猛毒。
致死量はほんの数ミリ。
「悪かった」
「何が?」
人形の無の眼を見る。
「あんなこと」
「何もしてないよ」
床は畳。
もうささくれ立っている。
古い畳。
「したじゃねえか」
「何を?」
布団が冷たい。
体温が吸い取られている。
「押し倒した」
「そうだっけ?」
「俺はお前を」
「ショウジって言って」
「ショウジを」
「テンギ君は僕が好きなの?」
てんぎは顔を上げた。
東海林が見える。横目で視る。
直視できない。
「違うの?」
「わからない」
「わからないの?」
「そうだ」
「ふうん」
転がった湯飲みを起こす。
盆に戻して急須に触る。
冷たい。とっくに冷めている。
冷えきった茶は不味い。
「ショウジはどこにいるんだ」
「ここにいるよ」
「そうじゃない。いつもどこにいるんだ」
「わからない」
「部屋の窓から何が見える」
「窓がないよ」
「誰が来る」
「知らない人」
「何喰ってるんだ」
「何も」
唇から血の味がする。
鉄。或いは。
「俺は」
「なに?」
「耄碌に好き勝手させたくない」
「サクゼ先生はあまり来ないよ」
「裏でこそこそ遣ってんだ」
「僕を生かすために」
「違う。お前を実験材料にしてやがるんだ」
「僕は実験材料だよ」
咽喉が苦しい。締め付けられる。
首を吊っている残虐な感覚。
死の気配。
「僕はたぶん生きてない」
「生きてる」
「いまはね。ぎりぎりだけど」
「違う」
「テンギ君より先に死ぬよ」
「駄目だ」
「一緒に死ぬ?」
白い手。
触る。凍える。
構わない。
凍ってしまえ。
「それも駄目だ」
「じゃあ仕方ないね」
「仕方なくない」
握る。
もう氷点下。
「悔しい」
「どうして?」
「ショウジが殺されるのが」
「殺されないよ。死ぬだけだ」
「同じだ」
「ちょっと違う」
「どう違う?」
寒くなってきた。
ストーブが消えたせいか。灯油がなくなったせいか。
「寿命だよ」
「ジジイみたいなこと言うな」
「じーさんかあ」
触れたい。
白い頬に。
白い肌に。
白い。
皮膚に。
「あの蔵、鼠いたろ」
「さあね。眠ってたから」
「昔、誰か閉じ込められたって聞いたぞ」
「お仕置きかな」
「悪いことしたんだろ」
「何したんだろうね」
もう。
あと。
ほんの。
「二人だったらしい」
「二人一緒に?」
「いや、片方だけ」
「もう一人は?」
「外で立ってた」
「どうして?」
「一緒に入れたら意味ないだろ」
「そうかな。二人で悪いことしたんなら」
「二人だから、悪いことしたんだろ」
「何をしたんだろう」
眼。
耳。
鼻。
口。
口は白くない。
色がわからない。
赤?
紅?
朱?
もっと。
「二人ですることだろうな」
「二人で?」
「そう。二人でする悪いこと」
「共犯だね」
「共犯だ」
近い。
誓い。
遠い。
「もしかしてさ」
黒。
「そのふたりって」
黒。
「いとこだったりしない?」
白。
白と白。
再び距離は。
ゼロ。
「いとこだ」
「やっぱりね。いとこは結婚できるから」
赤は無い。青も無い。緑も無い。
あるのは。
白だけ。
「どっちが閉じ込められたんだろう」
黒も。
「お兄さんかな」
無い。
「それとも」
見えるのは。
ただの。
「忘れたな」
5
激しい西日が差し込む。
やはりこの部屋は設計ミスだ。夏暑く冬寒いなんて絶対に住みづらい。誰が建てたのだろう。もしかすると建てた当時は西から日が昇って東に沈んでいたのかもしれない。太陽は南側からは見えなかったのだ。
ストーブに灯油を入れ直した。これでもう寒くない。炎もまた轟々と揺らめいている。
滅多に座らない椅子に腰掛ける。デスクは与えられてからまともに使った覚えがない。だいたい欲しいと申し出た覚えが無い。いつの間にか部屋にあった。こんなものを使い込んでいるのは妹くらいだろう。あれは病気なくらい勉強に勤しんでいる。そこまで使い込まれればデスクも本望だろうか。
妹の部屋はここから一番遠い。てんぎの部屋が夕日だとしたら妹の部屋は朝日。梯子階段を上がって左折した突き当りがてんぎの部屋、右折するとすぐ妹の部屋がある。妹は朝一番に起きる。誰よりも早い。僅差で母親が起きてくるが妹には敵わない。
模試は終わっただろうか。どうせまた全国一位だ。確かめるまでも無い。それは実施する前から決まっている。わざわざ時間と紙を無駄にせずとも揺るぎない。
白い布団の上に眼を遣る。
白い人形が眠っている。
寝息は聞こえない。きっと呼吸などしていないのだろう。人形に酸素は必要無い。勿論二酸化炭素だって要らない。何も食べないと言っていた。先刻は緑茶を飲ませてしまった。人間が口にするものはおよそ有害だ。どうにかして吐かせたいが無理だろうか。
薄い唇を指でなぞる。背筋が凍りつくような冷たい皮膚。正常な体温を保てていない。変温動物かもしれない。
ストーブを消して部屋の外に出る。顔が熱くなったので冷やしたかった。廊下を辿って梯子階段を見下ろす。
東海林はこれを上る音で梯子と言った。見た目や外見などまったく言及していない。
音だ。
ぎいぎいぎい。
ぎいぎい。
ぎい。
この音は梯子しかありえない。
どうしてわかったのだろう。いままで誰もそんなこと言わなかったのに。そう思っていたのは自分だけだと。
音。
人間は視覚に頼りすぎている。視覚優位の動物が人間だといってしまえばそれまでだが、それを差し引いても納得いかない。もっと音を聴くべきだ。聴こえないのか。単に聴く気がないのだろう。世は様々な音に満ちているのに。それを無視してのうのうと生きている。なんという高慢。
蔵の前に立つ。白塗りはやはり冷たい。
懐中電灯で内部を照らす。
何もない。
なんだ。封印してあったわけではない。使用用途が無かっただけだった。だから東海林が中にいた。鼠は最初からいない。
閉じ込められた人間はこれで二人目だろう。結局外には出れたのだと聞いているが真偽は定かではない。もしかしたらここで。
音。
中に入りたくない。
音。
躊躇する。
音。
後ろ?
この音は玄関。
まさか。
帰ってきた。
まずい。誰だ。
朔世かげと?
祥嗣りゅうし?
どちらであっても厭だ。
結果は同じだ。変わらない。
やめろ。
その人工的な音をやめろ。
それは気に入らない。
どうする。
戻ってもすぐに発見される。
蔵が開いている。一目瞭然。
とりあえず閉める。
今度は楽だった。一度慣れると簡単だった。
次は玄関。
もしくは部屋。
どちらがいい。どちらを。
音。
叩くな。
壊れる。
これは違う。こんなことはしない。
こんな乱暴な行動には出ない。
朔世かげとは違う。
祥嗣りゅうしはもっと違う。
では誰だ。
考えられるのは研究所の有象無象。
厭だ。絶対に。
渡すものか。
てんぎは玄関の扉を開けた。
そこには。
知らない顔がいた。
6
白衣だった。目つきは鋭く若い医師。
そんな感じがした。
「誰だ」
それはこっちのセリフだ、とてんぎは思う。なんという無礼。
「ああ、お前がサクゼ先生の」
「お前は」
「言葉遣いがなってねえな、ガキ」
てんぎはかなり腹が立った。すでに餓鬼といわれる年代は通り越している。それに眼前の男はどう見ても二十代後半。大して変わらないではないか。
「餓鬼じゃねえ。テンギだ」
「名前は訊いてない。連れを迎えに来た。入るぞ」
連れ?
何語だ。
「ちょっと待て」
男はてんぎを無視して吹き抜けの空間に上がる。迷わず蔵まで行き取っ手を握った。
「そこに」
「悪かったな。半日くらいだったからサクゼ先生に頼んで」
父だった。ここに東海林を閉じ込めていたのは紛れも無く父。
「な、なんで」
「それをお前に言う義理はないな」
男はいとも簡単に白塗りを動かしてしまった。てんぎは相当苦労したのに、扉はほんの数秒で開け放たれる。
「おーい、ショウジ。寝てんのか」
東海林。その名で呼ぶな。
男は勝手に懐中電灯を使い蔵の中にずかずか踏み込む。
「あれ、いねえのか」
てんぎはその扉を閉めてしまいたかった。そうすればこいつはあの時と。
「おかしいな。蔵っつったらここしか」
ずずず。
ずず。
「おい、テンギとか言ったな。お前」
ずず。
ず。
「おい、ちょっと待て。何して」
ず。
あと数ミリ。
封印。
中から扉を叩く音。
知らない。一生ここで暮らせ。
ざまあみろ。
この蔵は中からは開けられないということを思い出した。取っ手がないのだ。だから東海林は出れなかった。力の有無の問題ではない。そもそも不可能だった。
三人目。
てんぎは梯子階段を駆け上がる。廊下を走って部屋に辿り着く。
いた。人形は先刻とまったく同じ体勢で眠っている。その隣に腰を下ろす。息が上がるのは走ったせいか。それとも重い扉を閉めたせいか。どちらでも良かった。大差ない。
これで邪魔者は消えた。
「あれ?」
人形の唇が動く。てんぎは吃驚した。
「また寝ちゃった」
「寝てていいぞ」
人形が欠伸をする。目を擦る。
「眠いよお」
「眠ってろ」
人形は目を瞑った。無の瞳が隠される。
「ねえ、テンギ君」
「なんだ」
「なんか来た」
音。
誰だ。足音。
さっきの男は確実に閉じ込めた。
ならば他の?
「誰か」
「黙ってろ」
人形を布団の中に隠す。まるで意味がない。わざわざここにいるという看板を立てたようなものだ。
しかしもうノックが。
ノック?
ノックをするような人間がひとりしか浮かばない。まさか。
「テンギ君、いるのかな」
叔父。祥嗣りゅうし。
てんぎは呼吸を止めた。
「出てきてくれないかな。そこに匿ってる人間を返してほしいんだけど」
返す?
これは。人形は。東海林は。
お前らのものじゃない。
ドアノブを回す音。無駄だ。
「あれ、鍵だ。困ったな。開けられないや」
てんぎは人形を確認する。毛布の間から顔をのぞかせて首を振っている。そうか。そうだろう。
祥嗣りゅうしに会いたくないんだな。
荒々しい足音。
「すみません。ショウジ先生」
まずい。蔵から。
「結構面白いことをするね、テンギ君。お陰でカタクラ君は風邪を引きそうだ」
「おい、いるんだろ。出て来い」
扉を殴る音。破壊音。なんという粗暴。
「ちょっと待とうか、カタクラ君」
「そんな暢気なこと言ってる場合じゃ」
「まあまあ。天岩戸だって暴力じゃ解決しなかったんだよ。しかし最後はなんだか屈強な男がこじ開けたみたいだけど」
「しかしショウジは」
「だから、君がここで叫んだって意味がないと言ってるんだ。ここは下がっているといい。寒いだろう。下で炬燵にでも当たって」
「ですが」
破壊音が止んだ。音無し。
何があった。
何だ。祥嗣りゅうしはいったい何を。
「わかったね」
足音が遠ざかる。
どうしたというのだ。先ほどの覇気は。
「邪魔者は追い出したよ。僕となら話をしてくれるかな」
息が苦しい。この威圧感は扉越しでもわかる。
怖い。恐い。
やめろ。こっちを視るな。目線を他へ遣れ。
「その子はちょっと特殊な病気でね。すぐに眠くなるんだ。しかも起きているときは発作が出る。だから僕らがいないと生きられないんだよ。それはわかってもらえるかな」
てんぎは頷く。勝手に首が動く。
「そうだね。さすがカゲトの息子だ。物わかりがいい」
視ている。鍵付の扉など意味がない。祥嗣りゅうしにはこちらの様子が視えている。
「その子の名前を知りたくないかな」
てんぎは扉を見た。
視線が交わったような極寒の気配。
「きっと教えてもらえなかった筈だよ。気に入ってないとか嫌いだとか言って誤魔化されただろうにね。ショウジっていう漢字も勝手にとうかいりんとか変えちゃったみたいだし。困ったな」
名前。それは知りたい。東海林ではなく。
本当の名を。
「ヒントをあげよう」
人形がてんぎの腕にしがみ付いて震えている。
寒いのか。ストーブは消した。そのせいだ。もう一枚布団を被せてやる。まだ震えている。止まらない。
どうしたんだ。
「三文字だよ」
てんぎは人形の背中をさする。そんなことをしてもまるで意味がない。凍るような肌。体温はどんどん奪われていく。
どうしてこんな。
「さらにサービスをしよう。最初の字は」
人形が項垂れた。
「お、おい」
てんぎは人形を抱きかかえる。
軽い。動かない。息が無い。
否、妙な音がする。
この世の音ではない。彼岸の音。聞いてはならない音。これを聞いたら二度と戻って来られない。
音。
「ほおら、発作が起きちゃった。心配じゃないかな」
「ショウジ!」
「名前を呼んじゃいけないよ」
力が抜けている。だらんと垂れ下がった腕を取る。
体温がない。
「だから早くここを開けてくれないかな」
迷う。
どうすれば。どうすればいい。
「このまま放っておくとその子は死んでしまうよ」
それは。それだけは厭だ。
てんぎは部屋の鍵を開けた。
開。
そこには。
満面の笑みの祥嗣りゅうしが立っていた。
「いい子だね」
てんぎは振り返る。
東海林は。
本当に人形だった。
7
てんぎは居間で炬燵に当たった。上座で祥嗣が美味そうに緑茶を啜っている。勿論てんぎが用意した茶だ。てんぎの前にも湯飲みがあるが飲む気は起きなかった。冷めていく緑色の液体を只見つめることしか出来ない。
視線。
「大丈夫だよ。あの子はカタクラ君が看てるからね」
扉越しに聞いた名。
祥嗣が階下に向けてその名を呼んだ瞬間、男はもの凄い剣幕で梯子階段を駆け上がり人形を連れて行った。すぐに車の音がしたので研究所に戻ったのだろう。
「あの子の主治医でね。若いけどなかなか優秀なんだ。カタクラ君のお陰であの子が生きているようなものだよ」
そうなのか。それならばもっと早く。
「でもカタクラ君が蔵に閉じ込められるだなんてね。洒落じゃないんだから。しかもここの蔵、丑寅にあるね。まさにカタクラ君そのものじゃないか。実に象徴的だね、テンギ君」
てんぎは名前を呼ばれて背筋が凍る。この名を付けたのが父だからか。この名が本当の名ではないせいか。それとも人形と同じ呼び方をされているせいか。
「あれ? 意味わからなかった?」
てんぎはワンテンポ遅れて頷く。
怖い。
「丑寅ってわかるかな。北東のことなんだけど。よく鬼門とか呼ばれるの知らない? 陰陽道で忌み嫌われる方角でね。それを漢字一文字で書くと」
祥嗣は手帳を開きそこにボールペンで字を書いた。
艮。
「これでカタって読むんだよ。で、クラはあの蔵。君がカタクラ君を閉じ込めた古い蔵の蔵。ね、面白いでしょ」
本当だ。艮蔵でカタクラと読むらしい。
「あの子の名、知りたいかな」
てんぎは顔を上げた。それは言うまでも無い。
祥嗣が微笑む。氷のような微笑。
目を逸らす。
「エトリ」
「えとり?」
「そう。ショウジえとり。僕の子だ」
てんぎは唇を噛む。
やはり、いとこなのか。
「でも、エトリって呼ぶとさっきの二の舞だ。だからくれぐれも名前で呼ばないように。いいね」
てんぎは黙ったまま頷いた。
えとり。
祥嗣えとり。
その文字列が脳の大部分を占拠する。
「じゃあ僕もそろそろ」
祥嗣が立ち上がる。てんぎも玄関まで見送ることにした。ここは寒い。蔵の扉はきちんと閉められていた。
「また来てもいいかな」
「あ、はい」
祥嗣が玄関から外に出る。てんぎは小さく頭を下げた。
「それはどういう意味かな」
てんぎは祥嗣を視た。
またこの視線。
怖い。恐い。
「謝るならカタクラ君だね。でも僕に対して尊敬の念を抱いているとかそれはあまり考えられないからやっぱ前者かな」
てんぎは返答に困る。なんだか人形と話しているみたいだった。
祥嗣はメガネの縁に触る。
「今度研究所に来るかい。あの子もいるよ」
「え、本当ですか」
それは。
それは凄く。
「場所はわかるかな。来る際は僕に連絡を取ってから。つまりはアポだね。カゲトに言うと断られるのが落ちだからこっそりね」
「は、はい」
祥嗣は名刺を取り出した。
「メールは証拠が残るから電話がいい。もしかしたら留守電になっちゃうかもしれないけどメッセージは入れないでね」
「いつ頃なら」
「そうだね。休みの日じゃないほうがいいな。学校帰りとかそのくらいの時間かな。平日の夕方ならカゲトは忙しくて研究所にいない」
「わかりました。あ、あの、ありがとうございます」
嬉しい。やはり父とは違う。
祥嗣りゅうしは。
「テンギ君は」
てんぎは名刺から目を離した。
微笑。
逸らせない。釘で打ち付けられて。
「エトリが好き?」
停止。
生命活動は程なく停止。動くことを禁じられる。
禁忌。タブー。
てんぎはゆっくり。
首を振る。
氷の微笑。
「そうか。ならいいや」
ドア。
閉。
てんぎは震えが止まらなかった。
8
月曜がこんなにうきうきするなんて感じたことは無い。学校がこんなに楽しいと思ったことは無い。放課後がこんなに待ち遠しかったことは無い。皆無だ。ゼロだ。
研究所に行ける。
人形に。東海林に。
祥嗣えとりに会える。
初めて会った日曜から一週間経った。この一週間は本当に長かった。毎日毎日カレンダで確認した。生まれて初めて時間というものを気にした。腕時計までしてみた。
一七時。あと一時間もある。
しかし待てなかった。五時限目が終わるなり全速力で駆けた。学校からは電車で十分。降りた駅から徒歩五分。研究所はそこに勤めている人しか入れない。寒空の下、外で待つしかないというのに。
祥嗣りゅうしがエントランスから出てくるのをひたすら待った。
来たか。
違う。
もうこれを何十セットも繰り返している。
ポーチまで近づいたのは今日が初めてだが、何だか人の出入りが激しい。ばたばた慌ただしい白衣の集団が紙の束らしきものを抱えてこことどこかを行き来している。近くにある関連施設だろうか。仰々しい機械類を車に積載する者もいる。ワゴン車の荷台はダンボールと怪しい器具で満杯だ。
いったい何をしているのだろう。その車はどこに行くというのだろう。しかもその大荷物はなんだろう。
移動というよりこれは。
引越し?
まさか。
否、そんな筈は。それだけは考えたくない。しかしここにいるのは。
てんぎは眼を見開いた。白衣の男がエントランスをゆっくり歩いてくる。あれは。
てんぎは扉に密着した。
「ショウジ先生!」
おかしい。未だ時刻は。
自動ドアが内側から開く。
「ずいぶん早めに来たんだね。学校はどうしたの? サボったんじゃないよね」
「エトリは?」
「いるよ。でもね」
てんぎは祥嗣を見上げた。
「眠ってるんだ。例のビョーキでね」
「会わせてください」
そのために自分は。
「そうか。約束だったね。困ったな」
「お願いします」
「そう言われてもなあ。実はちょっと誤算でね。カゲトにバレちゃって」
そんなだって。
こっそり。
「電話、聞かれてたみたい」
嘘だ。
「どうして」
「如何してと言われてもなあ。誤魔化そうと思ったんだけど結構目敏いんだよねあの兄貴。勝手に僕のケータイの着信履歴までチェックして。最早やることが犯罪というか尋常じゃないよね」
そんな。
いやだ。
「お願いします。迷惑は」
「迷惑かあ。本当のこと言うとさ、他人と接触させちゃいけないんだよ。発作は他人によって引き起こされるから」
「でも」
「君といたときにあの子が発作起こしたよね。あれ、実は相当酷くてね。あの後ずっと眠ったままで。一週間もすれば安定するかなって楽天的に考えて君と約束をしたわけだったんだけど、目算というか見事に外れちゃったよ」
「じゃ、じゃあ」
あの荷物は、本当に。
「というわけで場所を変えることになった。ここじゃ都会の喧騒が煩くてね。研究施設としてはまあまあなんだけど療養施設としては不向きでね。だから」
「エトリは」
「引越しだね」
全身の力が抜けていく感覚。
弛緩。脱力。
もう。
えとりには。
「しばしのお別れかな」
別れ。
厭だ。
「そんな」
「残念だけどカゲトが決めたことだから。僕としては逆らえないし逆らうつもりも無い。僕の子を見殺しには出来ないよ」
「でも」
顔くらいは。顔だけでも。
「会いに行きたいの?」
「はい」
「そうか。そうしてあげたいのは山々なんだけどね。ちょっと無理なんだ。僕が蒔いた種だったのはわかってるんだけど」
「お願いします。一瞬で、一瞬でいいんです。エトリに」
会わせて欲しくてここに。
「あの子の部屋にカゲトが居据わってるとしても?」
てんぎは目を見開いた。
それは。
それは絶対に。
「ごめんね」
足音が遠ざかる。
追いかけることすら思いつかない。追いかけたとしてもきっと。いや、違う。それは言い訳。父なんか恐るるに足らず。怖くない。
怖いのは。厭なのは。
えとりに会えなくなること。
それ以外なら耐えられる。耐えてみせる。構わない。例え愚かなあいつのように。
蔵に閉じ込められたとしても。
てんぎは祥嗣の腕に掴み掛かった。
「テンギ君」
目線。
「そういうのはフェアじゃないな」
射るというよりは突き刺さる。心臓は真っ二つ。脳もばらばらに散らばる。破片すら残らない。
これがあの時の。艮蔵を黙らせたあの。
微笑。
「カゲトの子ならわかるよね。この状況下であの子に会うのはやめたほうがいい。ここでほんの一瞬だけ顔を見てカゲトにぐちぐち説教喰らうのと、ここは大人しく帰ってまたあの子が落ち着いてからこっそり言葉を交わしたり触れ合ったりするのと、君はどちらがいいかな」
迷う。
違う。これは。
選べというのだろうか。この最悪の二択から。
どう考えても後者のほうがいい。しかしそれが叶えられる保証はどこにも無い。もしまた今日のようなことになったら。
それなら例え刹那でも。
「構いません」
「そういうと思った。ずいぶん今日の約束反古が効いてるなあ。一度地に落ちた信用はなかなか戻らないね。まずったかな」
てんぎはもう一度祥嗣の腕にしがみ付いた。
「エトリに会わせてください」
見上げるは。
氷の。いや違う。
これは誰だ。
祥嗣りゅうしはもっと。
もっと。
「エトリが望んだと言ったら?」
それは。
どういう。
手はとっくに離してしまった。
「エトリは好きな人がいるんだよ。もちろん君じゃない。誰だと思う? 実は君は既に会っている。思い出してみるといい」
まさか。
それは。それだけは。
「僕じゃないね。それにカゲトでもない。ここまで言えばもう」
「嘘だ!」
ひとりしかいないじゃないか。
あいつだ。あの。
「嘘じゃない。それも喜ばしいことに両想いだよ」
艮蔵。あのまま蔵に閉じ込めておけばよかった。
鬼門だ。忌み嫌う方角。
「エトリは彼と一緒に暮らしたいと言ったよ。そうすれば僕と話をしてくれるとも言った。なんせ治療だからね。本人がずっと黙ったままじゃ治るものも治らない。僕らはお手上げだよ」
「厭だ。違う。エトリは」
「何? 君のものとでも言いたいのかな」
てんぎは首を振るのをやめざるを得ない。
祥嗣が。
微笑。
「まさかテンギ君。あの日」
てんぎは思い出せない。脳が思い出すことを拒否している。
「エトリに」
「違う。俺は」
何もしていない。
したのはただ。
「白かったね」
「ち、ちが」
幾ら首を振っても。幾ら掻き消しても。
それは浮かび上がってくる。
「どこまでやったのかな」
何かが崩れた。
がらがら。
音が消えて。
祥嗣の視線がてんぎの記憶を視ている。
あの日の。あの日曜の夕刻の。あの西日の差す中のてんぎの部屋の白い布団の上で白が黒が黒が白で白が黒で。
白と。
「駄目だよ。そういうのはもう少し大人になってからのほうがいいな。責任とか、そういうのは取れるの?」
「違う。ちが」
固定。
眼球が動かせない。
「違わないだろう。エトリの服を剥いだね。首筋に吸い付いてどんどん下に。それで? どこに触れたの?」
てんぎは耳を塞いだ。膝が廊下につく。冷たい床に。
寒い。
ここは極寒。
違う。
そんなことは。
して。
「エトリの」
その呪を聞き終わる前にてんぎは走った。
駆けて。
翔けて。
全速力でエントランスまで戻った。
自動ドアを飛び出し。
研究所を一度も視ずに駅に。
もう。
何も残ってなかった。
やはり。
いとこの兄は。
蔵に閉じ込められるべきだ。
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