第2章 悪魔の手で踊れ

2-1.薔薇の下の秘密

 豪奢な宮殿の中庭で、執政たる青年は目を細めた。


 幼い国王を補佐する立場にいる彼は、静かに頷いて書類にサインを施す。サラサラと慣れた名前を記して、最後に印を押した。


「では、お預かりいたします」


「頼む」


 鷹揚に応じたウィリアムに頭を下げ、役人が下がった。それを待っていたように、薔薇を愛でていた少年が振り返る。


 甘えた仕草で両手を伸ばすのを確認すると、先ほどまでの厳しい表情が嘘のように顔を綻ばせ、三つ編みを揺らすウィリアムが歩み寄った。


「ウィリアム」


 強請る声に促されるまま、そっと細い体を抱き上げる。


 年齢より小柄なエリヤは、艶やかな黒髪をウィリアムの首筋に埋めて腕を回した。


 しっかりと抱き着く存在を愛しいと思いながら、ウィリアムは東屋に設えられた長椅子に少年を横たえた。


 三つ編みの先を握って離さない幼い仕草に苦笑しつつ、長椅子の足元に膝をつく。



 ウィリアムの身を包む上質な服は、特権階級であることを示していた。本来国王の側近として、唯一国政に口出しを許された執政は、政治の面から言うなら『国王の代理たる権限』まで有する。


 その身分を与えた少年の前に跪き、青紫の瞳で主を仰ぎ見た。


 陽に焼けない為、白くて柔らかい肌の手が伸ばされる。ふわりと触れる指先が、前髪を浚い、頬を滑り、唇で止まった。


 意味ありげな笑みを向けられ、ウィリアムは静かに目を伏せる。


「このような場で……」


「俺の願いを無視するのか?」


 宮殿の中庭は、四方をぐるりと囲まれた形から誰が見ているかわからない。そう告げて自制を促す執政に、我が侭な国王は不遜な物言いをした。


 困らせるのは先刻承知、それでも欲しいと手を伸ばす。その為の方法を教えてくれたのは、戸籍上は存在しない年上の従兄弟である彼なのだから……。


「願い、ですか?」


 その程度? 


 意地悪げに問われ、いつの間にか逆転した立場に気づかされた。


 その外交手腕がウィリアムの有能さの証なのだと知っていても、何となく気に入らない。


 だから子供なのだ。自覚していても、エリヤは直そうと思わなかった。


 直す必要がない、己の立場は誰より理解している。


 こう言えばいい。


「ならば命じる」


「御意」


 お気に入りの青紫の瞳が優しく感情に溶け、整った顔が近づいた。


 反射的に目を瞑ったエリヤの手を捧げ持ち、軽く唇を押し当てる。続いて、頬に触れるだけのキスを落とし、最後に掠めるように唇を奪った。


 子供騙しの接吻けにむっとした顔のエリヤに、くつくつと喉の奥で笑う。三つ編みを引いて不快さを示す子供に、こっそり耳打ちした。


「ランクレー伯爵家のご令嬢が、待ってるぜ?」


 言外に『覗かれてるぞ』と告げたウィリアムが、そっと指で示した先の窓に視線を投げる。


 自然さを装ったエリヤの所作は、すぐに視線を薔薇の上に戻すことで相手に気づかせなかった。


「どうすんの……」


「帰る!」


 ランクレー伯爵家のご令嬢に対し、特にエリヤ個人が思うところはない。


 一緒にお茶を飲むくらいは相手をしてやってもいいのだが、その親が大変だった。


 すぐにエリヤの元へ嫁がせようとする伯爵の態度は、両親である国王夫妻が亡くなってから増長する一方だ。それを嫌っているのだろう。



「連れて行け」


 当然とばかり、三つ編みを引き寄せて首に手を回される。


 すでに体も心も捧げた恋人からの行為は嬉しいのだが、幼いながらも国王という彼の立場を思うと……逡巡してしまう。


「じゃ、オレに合わせてくれよ」


 一応断りを入れれば、ぎゅっと抱き着くことで返答が返された。


 キレイに磨かれた東屋のタイルについた膝に力を込め、小柄な少年を抱き上げて歩き出す。離れていた侍従が駆け寄るのを、視線で制した。


「国王陛下はお加減が悪いようだ。私がお運びする」


「すぐに医者を…」


「寝室の準備をしなくては」


 わたわたと慌てる侍従に、ウィリアムは静かに首を横に振った。


「いや、医者は要らぬとの仰せだ。最近忙しかったので、お疲れなのだろう」


 気遣わしげに眼差しを伏せて見せる男の演技に、侍従たちはすっかり懐柔されていた。


 普段から人当たりがよく、丁寧な口調を心がけている成果が、こんな場所でも遺憾なく発揮される。



 侍従に先触れを頼み、抱き上げた恋人を腕に歩き出した。堂々とした態度で宮殿内を横切り、用意された寝室へ運ぶと横たえる。


 見事な演技で乗り切ったウィリアム同様、エリヤも目を伏せたままで眠っているように見えた。


「しばらく、この部屋には近づかないように……」


「はい」


 言いつけに頷いて下がった侍従を見送り、振り返れば、くすくす笑うエリヤが小悪魔のように手を伸ばす。誘われるままにベッドに膝をつけば、両手で引き寄せられた。


 覆い被さる形になったウィリアムが首筋に顔を埋めれば、子供の手がその頭を抱き抱える。


「……ウィリアム」


 促されて顔を上げ、両頬を幼い手に包まれた状態で接吻ける。誘うように薄く開く唇の奥まで、舌を絡めて意識ごと奪う接吻けが、エリヤから甘い吐息を引き出した。


「…はぁ………っ」


「このまま眠る?」


 臣下に相応しくない言葉遣いに、エリヤは素直に頷いた。当然とばかり腕を引き寄せ、再びウィリアムの頭を抱き寄せる。


 王家特有の蒼く印象的な瞳を伏せる子供が、ただひたすらに愛しくて――。


 1人では眠れない少年が眠るまで、耳に近く響く鼓動を数えながら待った。

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