1-2.だからこそ届かなかった

「おまえ…結婚するのか?」


 子供らしい素直な問いに、ウィリアムは眉を顰めた。


 結婚する予定はないが、勝手に吹聴しそうな連中なら心当たりがある。ミシャ侯爵家やラングレー伯爵家あたりだろう。


 もし彼らが噂の発生源だとして、その噂がエリヤを傷つけるなら……物騒な表情で、ぺろりと唇を舐めた。決して許しはしない。


「結婚? しないよ。オレはずっとエリヤの物、だからな」


「そうか……」


 良かったと思っているのが伝わってくる。


 子供特有の体温が高い肌は、外で日焼けしない所為か、白くて柔らかい。エリヤの黒髪に頬擦りして、ウィリアムは少年の顎に手を掛けて振り向かせた。


 少し苦しい姿勢なのに、抗議せずに目を瞑る。


「オレが抱きしめるのは、エリヤだけさ」


 頬に接吻けて囁いた。家族より近い距離で、しかし欲望が伴う愛情とは違う。ただひたすらに与えて甘やかしたいのだ。


 閉じていた目を開いたエリヤの蒼に苦しくなり、ぎゅっと抱き締めた。


 誰より美しい存在だった。


 初めて目にした瞬間から、心も魂も縛られて魅了されて、逃げ出そうとすら思えない。強烈な引力でウィリアムのすべてを束縛しているくせに、自覚がないのだ。


 エリヤの口から「死ね」と「不要だ」と言われたなら…いや、蔑む眼差しを向けられるだけでも、心臓を止めるだろう。すぐさまこの命を絶っても、惜しくないほど……囚われているのに……。



「仕事…片付けなくては…」


 ぽつりと呟いたエリヤの頬が赤くなっていた。照れているのは気づいているが、ウィリアムはさらりと柔らかい黒髪を梳いただけで、愛しい人から手を離す。


「オレはどうする?」


 ちょっとした意地悪だ。


 執務中に一緒にいるのは普段からだけど、当然ウィリアムにも仕事はある。執政が目を通し決裁する書類は、エリヤの量をはるかに凌ぐのだから…。


 帰ろうかな? そんなニュアンスの声に、エリヤは反射的に振り向いた。


「帰るな、ここにいろ」


「それって、お願い? それとも主としての命令?」


 唇を噛んだエリヤのキツい眼差しを正面から受け止めて、真剣に問いかける。ぎゅっと拳を握った少年王は、青紫の瞳を持つ側近へ手を差し伸べた。


「命じる、お前は俺の物だ。隣にいろ」


 誰も見るな、誰にも触れるな。


 子供の独占欲は真っ直ぐで強くて、支配することに罪の意識なんて感じやしないのだろう。だが、それ故に逆らう気すら消えてしまう。


 差し伸べられた手の前に膝をつき、そっと接吻を贈る。王に対する最敬礼で応じたウィリアムの唇が、誓いを紡いだ。


「御意、常にお側に」


「よい、許す。顔をあげろ」


 抱き締めてキスした甘い雰囲気は、もう2人の間に存在しなかった。顔を上げたウィリアムの三つ編みを掴むと、エリヤは静かに目を伏せる。


 泣き出しそうだと、そう思った。



「陛下、決裁を」


 執政の言葉で彼の意識を掬い上げる。頷いたエリヤが取り掛かった書類を次々に説明しながら、頷いて署名する少年の横顔を見つめた。


 書類の署名を確認しながら、すべての書類を纏める。エリヤの今日の執務は半分以上終わっていた。


 ぐったりと椅子に沈み込む少年の細い体に、この国のすべてが覆いかぶさっているのだ。


「ウィル、頼みがある」


 先ほど命じた時と違う甘えた声に、ウィリアムも首を傾げて振り返った。執務中は決して見せない、優しい笑みでエリヤの前に屈み込む。


「言ってみろ。叶えてやるから」


 こうして甘やかしてくれる存在はいなかった。王子としての言動を押し付けられ、誰もが大人として扱ったから……王子じゃないエリヤを認め受け入れてくれたのは、ウィリアムだけ。


「……眠いから、一緒に……」


 添い寝して欲しいのだと強請られ、可愛い言葉を紡いだ紅い唇を指先で閉じる。ご褒美のキスを額に落とし、首に回された手をそのまま椅子から抱き上げた。


「このまま外へ出たら、きっと親衛隊がびっくりするだろうな」


「……バカ」


 頬を膨らませたエリヤに、くすくす笑うウィリアムは続き部屋のドアを開いた。


 細い少年の体は、見た目よりさらに軽く感じられる。


 天蓋付きの豪華なベッドにエリヤの体を横たえ、上着を脱がしてやる。大人しくされるままに見上げてくるエリヤが笑みを浮かべた。


 同じように上着を放り出したウィリアムが隣に滑り込むと、いつものように三つ編みを引き寄せる。自分の瞳と同じ蒼いリボンを見つめ、解き始めた。サテンの滑らかなリボンは、シュルルと音を立てて解ける。


 普段は解いたりしないエリヤの行動に目を瞠ったウィリアムは、髪を完全に解かれてしまい苦笑した。


 先ほどの悪戯の返礼だろうか。


「このままにしていろ、今日は編むな」


 命じるほど強くない、可愛い少年の我が侭を笑顔で受け止めたウィリアムは、腕の中に彼の体を閉じ込めた。


「ああ、エリヤが望むなら……」


 互いの体温を分け合いながら、ゆっくりと意識を手放す。


 この城の誰が知るだろう。毅然と国の采配をこなす少年王エリヤが、1人では眠れないことを――。


 シーツに散らばったブラウンの長い髪を弄りながら、エリヤはやがて訪れた眠りの腕に意識を預けた。


 眠ってしまった愛しい存在の額に、触れるだけのキスを贈る。自分を助けてくれたからじゃなく、ただウィリアム個人を必要としてくれる存在だから愛した。


 能力でもなく、外見でもなく、ウィリアムという個性と存在そのものを全身で求められ、誰が逃げられるだろう。


 こんなに魅惑的な眼差しと引力の持ち主が、自分を求めてくれた奇跡を知っているから――守りたいと思った。この命のすべてを賭けても、幼い主を支えてやりたい。


 窓の外の風がカーテンを揺らした。


 腕の中で安らぐエリヤを抱き締めたまま、ウィリアムも紫の瞳を閉じた。



   ……Next

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