第5話 尊き伝はミスィック

      1


 主治医が結佐ユサじゃなかったのが善かったような悪かったような。結佐じゃないから回復を見込めるが、結佐だったら面会させてもらえた。

 まっとうな医者としては当然の判断だ。俺が原因みたいなもんだから。

 あまり使いたくなかったが、ようじの名前をちらつかせてみる。

「どなたですか」

 これだから若造は。世代間ギャップを感じる。

「知らないのか」

「お帰りください」

「せめて様子を」

「先生の患者じゃない。違いますか」

 そう言われたら反論のしようも。

 結佐に訴えようにもこうゆうときに限って休み。看護にそれとなく尋ねたらデートだとかで。ケータイ番号知ってるが、これは邪魔したら一ヶ月はねちねち言われるな。

 なんで結佐じゃないんだ。こうゆう厄介なケースは十八番だろ。

「先生のような人を会わせないためでしょう」

 言うじゃないか。結佐の短所ばっか学びやがって。

 電話が鳴る。若造のポケットの。内線らしかった。敬語じゃなかった。

「出直すよ」

「許可します」

「は?」

「僕も立ち会います。それでよろしければ」

「結佐か」

「主治医は僕です」

 どっかで聞いたような。

 若いのはみんな熱くていいな。そんな時分に戻る気もないが。

 てっきり隔離閉鎖を想像していたが、一般開放だそうで。個室でもなくて四人部屋の窓際。他の三人とはクリーム色のカーテンで仕切られている。

 椎多シイタ先生はそこにはいなかった。食事を採る共有スペースで読書をしていた。テレビが嫌味なくらい轟音で騒いでいる中で。

「お部屋に」若造が言う。

「外に出ても?」先生は本を閉じる。

「天気もいいですからね。構いませんよ」

「付いてくるんですか」

「万一のことがありますから」

「お忙しいのに」椎多先生は、看護かその他のスタッフに替えろと言っている。ラポール取れてないんじゃ。「先生の言う万一のことというのは?私が逃走すること?往来に飛び出すこと?この人を殺すこと?」そこで初めて俺を見る。眼は合わなかった。

 俺が逸らした。

「お元気そうで」

 なんと返せばいいかわからなかったので黙っていた。

「この人を殺しても何も変わりません」椎多先生が食い下がる。「至極個人的な話をしたいんです。そのために面会を求めました。先生に聞きかれたくないんです。薬を増やされるから」

「増やすかどうかは一概に言えませんね。ただでさえ回復傾向にあるのに」

「死にませんよ。死んだら妹に会えなくなります」

 そうか。俺は、

 その話をしに。

 先生も薄々わかっていたのかもしれない。俺なんかがどのツラ下げて来たって時点で。つくづく厄病神やら死神あたりだ。

「面会室で手を打てませんか」若造が食い下がる。

「外なら尾行する。部屋なら監視する。違いがありません」

「許可できなくなります」

「主治医を替えてください」

 いったん詰所に。若造が体勢を立て直すために。看護がだらだら駄弁っていたが、俺の顔を見つけてわらわらと散った。

 この若造では抑止力にならない。責任者があの結佐じゃ仕方ないといえば仕方ないのかもしれないが。

「万一のこととやらを起こさなきゃいんだろ」

「起こらないとも限りません」若造が突っぱねる。

「責任取らされてクビんなるのが怖えだけだな」

「僕は患者のことを第一に考えています。ここは先生のところと違う。勝手が違うんです。本人がああなった原因が先生でなければもっと緩やかに考えられますが。そもそも面会自体を許可したくなかったんですよ。そこを無理に通そうと思ったら慎重になるのが当たり前じゃないですか」

「お前の医者だが俺もいちお医者の端くれなんでな。なんかあったらどうすりゃいいのかくらいわかってるつもりだ」

「あってからじゃ遅いんです。ないように、起こらないよう未然に防ぐことが」

「なんで結佐が担当らなかったか考えてみろ」

 言いすぎたか。

 ケンカしに来たわけでも説教しに来たわけでもないってのに。

 詰所はガラス張りで、患者が中をのぞくことができる。椎多先生が立っている。看護がちろちろと若造を見遣る。あんたの患者でしょうと言わんばかりに。

「そこならどうだ。見えるだろ」

「会話内容をあとで聴取します」若造はばつの悪い顔で言う。

 俺だけ詰所の外に出る。椎多先生は角度の甘い会釈をした。

 痩せた。顔色もあまりよくない。大学できびきび動き回っていたあの神経質さはどこに置いてきたのだろう。

 ああ、そうだった。

 研究所の屋上。ようじの根城。みんなあそこで死んでしまう。

 えとりの父親。

 えとり。

 あづま。

 ようじの両親。ようじが殺したとか言ってたが、いつものはったりだろう。あいつは嘘が多すぎる。その嘘に振り回される俺を見てケラケラ笑いたいだけ。

「先生が薬を増やさなければ、来月退院です」椎多先生が言う。

「そうですか。よかった」

 本当に?

 またあづまを殺されるかもしれなくても?違う。殺していない。

 あの場にいた全員が全員違うものを見てたらしく、全員が全員違うことを言う。なにが本当なのか。ぜんぶが本当なのか。結果だけ見ればあづまが屋上から足を滑らせて。

 ゆったりとしたTシャツの袖から、枯れ枝みたいな手首がのぞく。赤い線がなくてホッとした。ここに来るとそんなんばっか見せつけられるから。

「妹の容態は?その話ですね」

「悪いんすが会わせてあげられない」

「会ったのですね?」

 しまった。顔に出てる。

 椎多先生はメガネのブリッジを触る。その妹が言うには、焦っているときの行動らしいが。

 焦っているのは俺のほうだろう。どう見ても。

「やっと追加眠剤なしで眠れるようになったのに」

「俺が」殺した。

 から、会わせてあげられない。

「先生じゃありません。嘘のほうがつらいです」

 わかってる。ぜんぶ。

 言うべきか。

 若造が睨んでいる。

「いつですか」

 いつだろう。死んだのは。

 死んだ?

 だれが?俺が。

「すみません」

「なんで謝るんですか。謝らなきゃいけないのは私の」

「先生がやったことじゃない。もうあの件は」

 元通りになったのだ。あきとは。

 あづまだって。

 先生が突き飛ばしたわけでもないし。

 そんなことを言いに来たんじゃなくて。

「そんなこと言いにきたんじゃないんです。もういいんです。だから先生も」

 早く、

 立ち直って。

「私より先生のほうがつらそう」

「俺が好きでしたっけ」

「違います。もう、どうしてそうなるんです?」

 笑った。

 つられ笑い。

「部屋ってまだあるのかなあ」研究室のことだ。大学の。

「圧力かけてやりましょうか」ようじの名前がここで効く。

 あの大学はようじの実験場の一部だから。

「お辞めになるんでしょう?いいです。また論文書きます。ここにいると暇で。研究したくてしたくて」

 椎多先生の持っていた本に見覚えがあった。

 ヒトが死ぬ話。

「おんなじのを読んでましたよ」

「よくわかりますね」見えないのに。椎多先生が本を差し出す。「読みます?超売れっ子作家 日口ヒグチにうゆの絶筆です。先生と弟さんをモデルに書かれた」


      2


 悪夢しか見なくなった。

 現実の世界で何も見えないから、見えない分を夢の中で補おうとしている。現実以上にリアルな視界で。

 天才的な外科医を辞める正当な理由ができた。

 あのゴッドハンドが惜しむらくとか。あのゴッドハンドがとかの同情とか。周囲の眼も気にならない。なにせ、

 何も見えないんだから。

 相当の不便を想定していたが、案外記憶で何とかなっている。

 記憶で何とかならないことはしない。

 視覚以外のほかの感覚は現役だから。

 俺だけ引退しただけの。視覚を道連れにして。

「ほんとにやっちゃったんですか?」ようじの弟が俺の瞼の上をなぞる。氷のように冷たい指。「それあんまり言わないほうがいいですよ?僕も黙っておきますから」

 俺が自分で潰したんじゃないかという専らの噂。医者を辞めたいばっかりに。

 流してる奴に心当たりがありすぎて無視する。

 どこぞのおしゃべり精神科医。

 ようじの弟はわかっているようだった。直接本人から聞いたのかもしれない。主治医との診察の折に世間話として。いい加減プライヴァシィ垂れ流しにもほどが。

 大学の構内で一番高い建物の最上階。そこにようじの弟、

 北廉ホスガえとりの研究室がある。

 そもそもは彼の父親のものだった。父親は体調不良というウソかホントかわからない公式発表を最後に消息不明。それをそのまま受け継いだ。

 教授としては若すぎるが、この業界の頂点にいた北廉教授の息子であり、なにより、天才博士ユリウスようじの弟という最強の印籠を持っている。逆らえる奴がいたらそいつはこの世に存在できない。あの世にいる。

「することなくなって暇なんでしょう」えとりが麦茶を手渡してくれる。冷たい。「僕のところに顔出すなんて」

 会いたくないのに、と言いたかったんだろう。

 あの日以来、

 会ってなかった。彼を一方的に殺した俺は。

 どの面で会える?

 でも見えなくなったらそんなこと気にならなくなって、つい。

 会いに来てしまった。元気でいるのかと。

 違う。

 本当の目的は。

「会ったよ」ようじの幻影に。

 えとりは頭がよすぎる。一を言えば十まで予想がつく。

「元気でしたか」彼が気遣っているのは兄の安否じゃない。「いいなあ。羨ましい。ああ、そうか。それで」俺の眼が見えなくなった理由も即座に理解できる。「眼球二つで済めば安いのかなあ」

「残念だが」嘘を言わなければならない。

 俺が嘘が下手で。

 彼が嘘を見抜くことが上手くても。

「残念?なにがです?」彼の顔が詰め寄る。冷たい呼気がかかる。「もうそうゆうのはやめてください。ようじさんと共謀して僕を実験台にするのは」

 彼の両手が俺の肩に食い込む。

 冷たい。

「本当だ。会ってない」

 カケルは、あづまじゃない。

 ニセモノですらない。まったくの別個体。

 ようじが俺を騙すためにどこかから連れてきたそれっぽい贋作。

「どこですか?そこに行ってきたんでしょう?この一ケ月。知ってるんですよ」

 おしゃべりでインチキな主治医に吹き込まれている。ようじと共謀してお前を実験台にしてるのは俺じゃないんだ。

 言っても信じてもらえないから言わないが。

「行きたいか?」

「当然です。僕はあづま君に会えるためならなんだって」

「じゃあ俺と寝れるか」

「え」

「なんだってするんだろ?」

 冗談に決まってる。何も見えないからこうゆう性質の悪い冗談が平気で吐ける。

「ほら、会いたいんじゃねえのか?早くしねえと」

 えとりは、本気で躊躇っているようだった。そう振舞っているだけか。

「俺あ、あいつは死んじまったと思ってたがな。お前が」

 殺した。

「なんでそんなこと」言うんですか、が掠れてた。なんつー演技力。

 こりゃ騙されるわな。

 あづま。

 箱入り息子のお前にゃ、取扱注意の毒物劇物でしかない。

「お前に突き飛ばされて真っ逆さまに落ちてきたあいつを担いでさ。意味ねえってわかってたんだが、どうもな。いちお天才外科医だったから、もしかしたらって思ってさ。もしかしたら俺が切ると死んだ奴でも生き返るもかもしんねえって。現にそうだろ?俺が切った奴らは100%生き返ってる。百パだ。こりゃ勘違いしちまってもおかしかねえだろ?」

「その数字は信用できません」

「だったな。カラクリはバラしちまったんだったかな」もしものことが起こりそうになると俺が執刀医じゃなくなる。「悪い。ぜんぶ忘れてくれ。お前に八つ当たりしたとこでどうにもならねえよな」

「あ、え。あの」

「悪かった。やんなくていい。つーか俺がやれねえよ」

 ようじの弟とか。

 ふつーに考えて。無理。

「あ、なんだ。ああ」えとりが息を吐く。冷たい。「そうですか。ですね」

 えとりの秘書が恭しくノックして、お先に失礼しますと挨拶しにきた。もうそんな時間らしい。えとりが秘書を使って俺に暗に帰れと言ったのかもしれない。

「長居したな」麦茶を一気飲みしてテーブルに置く。

 冷たい。

「あの、艮蔵カタクラ先生さえよければその」

「なんだ」

「言いたくないのはわかってます。ようじさんとのことですから、僕がずけずけ突っ込むのも慎むべきなのかもしれません。でも、あの、誰にも言いません。結佐先生にも。あの人は違うルートで知ってるのかもしれませんけど」本人経由のことか。「話してくれませんか。一ケ月間、先生がどこで何をしてたのか。眼のことも」

 そうか。

 俺がえとりに会いに行ったのは。

「駄目ですか?」

「聞いてくれるのか」お前にしか話せそうにないから。「ようじ」

 ようじなんだろ?

 えとりじゃない。

 えとりは、俺に触らない。俺が、

 ようじの所有物だから。

「俺はまだお前の研究所だか実験場だかから帰れてない。だってそうだろ?だいじな車どっかやられて、眼だって」

 見えない。

 見えないのをいいことに、

 好き勝手。

「見えなきゃいいんじゃねえの?ほら、ほかになんか反論があるんなら」

「帰りたいの?」ようじの声だった。

 俺が聞き間違えるわけがない。

「送らせようか」

「パンダにか」

「パンダじゃなくたっていいよ。パンダが不満ならパンダ以外にするし。でも帰る前に一つ、聞いといていい?」ようじが後ろを向く。声が俺に向かわない。「なんで見えないことになってるの?」

「眼球やっちまっただろ?」

 あづまに。あづまの贋作に。

「落ち着いてよとしき。どこから記憶が曖昧?どこまで憶えてる?」

「どこまでって」

 カケルに眼球やっちまって。そんで見えなくなって。

 嵌めた眼球は、

 どこに嵌まってる?

「あづまは?お前と一緒にいたろ?」

 会いたい。

 会わせろ。

「んじゃ眼開けて」

「開けたって」見えないってのに。「あづまは」

「開けてよ。そうすればわかる」ようじの手が、

 俺の。

 眼を覆う。

「手退けたら一緒に眼開けるんだよ?いい?できる?」

「できるできねえじゃなくて、俺の眼は」

「はい。開けて」

 光が突き刺さる。同量の、

 闇が流れ込んでくる。

 ずきずきと。

 痛む。悼む。

 だれだ。

 なんだ、それは。そこに、

 横たわっているのは。

 ヒト。

 モノ。の境界は、

 生きているか死んでいるか。死んでいるならヒト。

 生きているのは、

 生きていないモノ。死んでいる。

 死んで、

 いるのは。見えない。

 見たくない。

 なんにも見たくなくて。眼は、

 見えているけど。脳が、

 見ていない。

 見ないことになった。見たくないことは。

 切っても切っても生き返らないヒト。

 切っても切っても生き返らないなら、それは。

 モノ。

「あづまどこやったの?」ようじがこちらを向く。

 眼が合う。前に、

 逸らす。

 見えない。

 黒い眼。白い風。

 ようじはサイズの合わない白衣を羽織っている。俺の真似をして。「としきが運んでったのを見てるんだ。あづまは?切ったあとどうしたの?」

 ようじの研究所。■階。

 存在しないフロア。存在しないことになっている。

 手術台に黒い、

 蛍光灯が白い。

 金属が滴り落ちる。見られている。

 でもあのときお前は。

「止めなかっただろ?むしろ」

 導いてくれた。自分の研究所へ。

 俺が何をやろうとしてるのか、

 わかんなかったわけじゃねえだろうが。

「いまさらゆってくんなよ。あづまはどこだ?そっくりまんま打ち返してやるよ」

 ようじが視線を寄越す。

 冷たい。

「あづまは生き返ったのかよ?あ?天才博士さんよ」

「ちょっと興奮してるね。久しぶりに俺と会ったから?」

 なんでそんな眼で見る。

「むやみに会いたくなかったのはこうなるのがわかってたからなんだ。俺がいじわるでとしきを避けてたと思ってた?だとしたら誤解だよ。ねえ、としき。よーく思い出して?思い出したくなくて眼が見えないだとか眼球あげちゃっただとか変なこと言い出したんだと思うんだけど。としきはなんにも間違ったことしてないよ。それだけは俺が言っとく。誰も言ってくれないだろうから」ようじが歩いて、

 手術台のわきに。

 見ろという。この期に及んで。

 なにを。

 あづまは、そこで眠ってるだけで。

 死んでなんかない。

 血も止まったし、心臓も止まった。

 喘鳴もしないし、呼吸もしない。

 生きてるのとどう違う?

 死んでるのと、

 なにが同じ。なにも、

「違わなくなくないよ。としきは間違ってない」ようじがペンライトを点して、

 あづまの目蓋をこじ開ける。

 眼球が眩しい。

「ちゃんと眼開いてよ」あづまに言ってるんじゃないことはよくわかった。「眼開けてしっかり見て。どうなってる?生きてるの?死んでるの?確認してよ。そうじゃないと」

 そうじゃないと、どうなるっていうんだ。

 やりたくない。

 なんで俺がそれ。

「やだ」

「としきがやってよ。としき、お医者さんでしょ? としきが診なきゃ誰が」

 見るの?

「俺じゃなくたっていいだろ?医者なら」

 さとしだって。結佐だって。

 院長だって。

 親父だって。

 俺以外の奴に診せろよ。俺が医者だって?

「辞めたんだ。俺は」

 医者なんか。

 ヒトの生き死にを決めなきゃなんない。

 俺が切れば生き返る。生存。

 俺が切らなかった奴は生き返らない。死亡。

 そうゆう単純な話だろ?

「とにかく俺は」

「としきがお医者さん辞めたくなった理由はそれだね」ようじがペンライトをこっちへ向ける。

 眩しい。眼球が、

 嵌まってないってのに。

「なんで眼閉じるの?」

「眩しいからだろ?」

「なんで眩しいの?」

「そりゃ眼が」あるらしい穴に手をやる。

 あるのだろうか。触ればわかるのか。

 触ろうとした指に力を入れて勢いよく。

 としき、と呼ぶようじの声がやけに耳に残る。

 ああ、これで。今度こそ。

 なにも、

 診なくてすむ。

「ようじ」どこにいる?


      3


 悪夢でだって構わない。あいつに会えるんなら。

 ようじのニセモノを創ってた研究所だかなんだかから自力で帰ってきた覚えがないので、まだ。いるのだと思う。見えないからはっきりと確信が持てない。

 手探りで歩く。歩いているのだという証拠もない。

 眼球は本当にない。

 見えないんだから。

 なんかに躓く。なんか蹴とばした。

 賑やかな破壊音。

 皿だ。人骨使用の。カケルの遺作。

 20枚すべてを壊した。

 破壊音が20回聞こえた。

 そんなもの作らせた奴らが、カケルをおかしくしたのだ。

 眼球の詰まった柱もどうにかしたかったが、あれが。本物だった場合に元の持ち主に申し訳ないので、やめた。

 押すと開く壁。扉だ。

 上下する階段が稼働している音のほうへ。問題は下りているのか上っているのか。いま何階だ?

 さっきのがあの馬鹿に天井が高いホールだとするなら。

 わからない。でも辿り着かなきゃなんない。

 ようじは、

 ここにいる。捜さないと。

 ようじのニセモノの声がする。りょうじじゃなくて。

 性転換がどうだとかのほう。

「ワカサゲンも殺ってきたよ」声に先ほどの気迫は感じられなかった。事務的な公的報告。「次の20人もあたしが殺す。巻き込まれたくなかったら帰ったほうがいいよ」

「ようじを捜してる」誰でもよかった。藁以外なら。「知らねえかな」

「知らない」

「教えてくれねえかな」

「知らない」

 ここでマイナが嘘をつく理由は、

 俺に諦めさせて元いた世界へ逃げ帰らせること。

「お前じゃねえよな?」

「あたしだったらよかったね」捜さなくていいから。

 エスカレータは上昇している。手すりが連れてってくれる。

 マイナのところへ。

「会いたかった」

 たぶん脚。

「あたしじゃないんだって」俺の脳天を手の平で押す。「離れてよ」

「誰かいんのか」俺とお前以外に。

「いないよ。みんなあたしが」殺しちゃった。俺の前髪を掻き上げる。

「だったらいいだろ」周りの眼とか。

 常識とか。

 世論とか。

「つまんねえことは気にするな」

「だから、違うんだって。あたしは」俺のこめかみを両側から押さえる。

「お前がようじじゃねえってゆう証拠見せてみろよ」

「無理だよ」俺の瞼を覆う。

 小さい手。

 だって。としき、

「見えないんじゃないの?」

「そうだったな」拒絶されるまでそうしてようと思った。

 ようじだ。

 ようじでしかあり得ない。

 俺がようじを見間違えるか。

「なんでこんなカッコしてるのか聞かないの?」ようじの声。

「変装だろ?お前の頭脳は全世界が欲しがる」

「バレちゃったみたいだけどね」俺の頬を撫でる。「またどこか行かないと」

「連れてけよ」

「眼の見えないお医者さんは必要ないよ」使えないという意味だ。「眼が見えないことになってる天才外科医なんか特に」

「開けてもいいのかよ」見られたくないくせに。

 誰が、

 好き好んで見えないふりなんかしてるのか。

「見たら泣いちゃうくせに」俺の顎を支える。「大丈夫?」

「てめえこそ」

「としきがここで眼を開けると、この先としきが切って生き返ることになってるたくさんの患者さんを見殺しにすることになる」天秤にかけるものが間違ってる。

「お前のほうがだいじだ」

「それ、前も言ってたね」

 天才博士が全人類を見捨てて違う世界へ旅立つ前夜。

 えとりの父親の肉体が死にそうで。

 えとりも精神的に死にそうで。

 あづまの存在が死にかけた夜。

 どうでもよかった。ようじ以外は。ようじを助けられない両手なら要らない。

 天才外科医は、ゴッドハンドだから。

 神を助けるためだけに存在する。神を助けたくているのに、神は。

 いなくなってしまうという。だったら、

 誰を助ければいい。ヒトなんか、

 死に絶えればいい。

「開けてもいいけど連れてかないよ」俺の首を触る。

 絞めてもよかった。

 どうでも。好きに。

 すればいい。実験も研究も、

 俺ですればいい。俺以外の全人類を使って。やってるのは、

 俺でやりたくないから。俺じゃ、

 駄目らしい。

 ようじを殺す夢を見た。眼球もないくせに。

 あいつに連れてく気がないなら、こっちが、

 俺があいつを連れていけばいい。

「帰るぞ」


      4


 ようじの研究所の正式名称は、万里マデノ医科研究所という。名付けはもちろんようじだ。万里というのは、ようじの育ての親。ということになっている心理学者。

 俺は、一度会ったことがある。

「電気は生きてます」えとりはそう言ってカードキーを取り出す。入口の電子盤に通した。

「暗証番号じゃないのか?」

「あれは先生が入ってこれるようにようじさんが設定したんですよ。これ」カードキー。「2つしかないので」

「2つなら」

「元々の管理は父さんです」

 いや、その前の、一番最初の管理者を知っていたが、あえて話題に出す必要もないだろう。

 ようじが殺したとかいう、ようじの親。

 所内はそれなりにホコリやカビくさかった。えとりが照明のスイッチをオンにする。

 残像が。

 見えて。

「大丈夫ですか?」えとりが駆け寄って来る。

「幽霊とか、お前信じるか」

「会えるのなら幽霊でもいいですよ」

 懐かしいというより気味が悪かった。夜に来るんじゃなった。でも夜のほうが覚悟ができるような気がした。

 あの日も、

 夜だった。

 白い床と白い壁と白い天井。

 何階だろう。

 何階に。

 置いてきたんだっけか。

「どこですか?」

 地下だ。

 階段を下りる。

「先生が」後ろからついてくるえとりが言う。「ここで僕に言ったの覚えていますか? あづま君だから好きなのか、ってやつです」

「悪かったな。あんときは、俺も気が立ってた」

 お前が殺したんだよ。お前があんなこと言わなきゃな。お前の言うことは信用できない。嘘が多すぎる。自分の都合のいいように真実を捻じ曲げる傾向が強い。てめえのアタマん中に作ったその都合のいいあづまがニセモンだろうがよ。違うか。なんか間違ったこと言ったか俺あ。

 思い出しても虫唾が走るほどにひどい。

「先生に言われたあと、ずっと考えていたんです。僕は本当に彼のことが好きなんだろうかって」

 ドアの前に立つ。

 開けるしかないが、この先には。

「いるんですね?」えとりが隣に来た。

「話が途中だ」それを聞いてからのほうがいいような気がした。「本当はどうだったんだ?」

「たぶん、僕はあづま君のことが」

 振り返った。

 振り返って聞いたほうがよさそうだった。

「いたのか」

 えとりも気づいた。

 振り返って、

 動けない。

 黒髪。

 白衣。

 地下だけ薄暗いのが、よかったような。

 そうでもないような。

「あのなぁ、帰って来てんなら」

「はじめまして」ようじの声はそう言った。「君が」

 記憶をどっかの時空に忘れてきてるんならぶん殴って思い出させてやろうかと思ったが。

「とりあえず、入ろう。俺もそのほうがいい」

 違和感があった。

 えとりはまだ眼の前が現実として受け入れられないようで、口を押さえて眼を凝らしている。

 なんだ、この。

 喉の奥に、どろどろしたものが貼りついたような。

「あづまに会いに来てくれたの?」ようじにしか見えないそいつはそう言った。

 いや、ようじだろう。薄暗くたってわかる。

 だって、

 俺が、

 ようじを見間違えるわけが。

「ようじ、さんですか?」えとりがやっと声を発した。絞り出したような掠れた声だったが。「いまさら、何しに」

 地下はたった一部屋だけ。

 コンクリートに囲まれた正方形の空間。

 ここに、あづまがいた。

 いまは、

 大きな金属の箱だけ。

「どうしよう。先にこっちを開けるか。それとも」ようじらしきそいつが俺とえとりを見て苦笑いする。「そうじゃないほうがいいかな」

「ようじだろ?」なんでそんな。

 他人行儀極まりない。さっきも、はじめましてとか。

 はじめまして??

「てめぇ、ゆうに事欠いて」

 ようじにしか見えないそいつは、金属の箱の頑丈な扉に手を付ける。その中に何が入っているか、知っているのは。

 俺と、

 ようじは。知ってたかな、どうか。

 記憶の端がちりちりする。

「厳密には俺は君らの知ってる天才博士ユリウスようじじゃない。ここまで言えば、天才博士の弟君おとうとぎみは想像がついたんじゃないかと思うけど。どうかな」

「ようじさんは死んだんですか?」

 それは、

 言ってほしくなかった。

「あなたは」えとりがようじと思しきそいつを凝視する。「誰ですか?」

 嫌な間だった。

 何て答えが来ても、その分厚い扉を開けるよりキツかった。

「死んでたのはむしろ俺の方だね」ようじってことにしておきたいそいつが言う。「俺には双子の姉がいたんだ。どうしてもその姉さんを救いたかった。そのために犠牲になったって言えばカッコいいけど、実はそんな英雄譚でもなくってさ。なんていうかな、誰かが犠牲にならなくちゃいけないなら、まぁ、俺しかいなかったよね、ていう消去法的な」

「わけわかんねぇよ」

 全然わからない。ことが余計に。

 こいつが、

 俺の知ってるようじじゃないってことに王手をかける。

 ようじが知っていることは、俺にはわからない。だから尚更、ようじが俺に何かを説明するときは、俺にだけはわかるように細心の注意を払う。それがなされていない。なされようともしていない。

「ようじさんが死んで、あなたが代わりに生き返ったということですか?」えとりが言う。言いながらそんな単純明快な話ではないこともわかっている。「あなたは一時的に出てきただけってことですか? ようじさんは戻って来るんですよね?」

「最後のは希望かな。思いのほか好かれてるじゃん」ようじじゃないかもしれないそいつは、他人事のように言う。「少なくとも弟の君には相当にひどいことをしてたと思うんだけど、あんなひどい兄貴でもやっぱ戻ってきてほしい?」

「僕じゃありません。僕が戻ってきてほしいのはたった一人しかいない。僕じゃなくて」えとりが言いたいことがわかった。

 ようじに戻ってきてほしい人間。

 ここに一人いる。

「死んでないですよね?」

「何とも言えない、て言ったら失望する?」ようじじゃない可能性が高いそいつが言う。「俺が言えるのは、死んだ人間は絶対生き返らないっていう当たり前すぎる事実と、何かを得るには犠牲が付きものっていう使い古されたつまんない世界の常識くらいかな」

「わかるように言え。まず、お前は誰だ」

 そいつは白衣の襟を直してこっちに向き直る。

 外見はようじでしかなかった。俺が見る限りは。

 でも、

 中身が全然違う。思考体系も穴だらけ。

 こいつは、

 天才博士じゃない。

「ヨージ。万里マデノヨージっていったらわかる?」

「わかんねえ」

「弱ったな。関係者に言えば一発なんだけど」万里ヨージとやらが頭をかく。「ユリウス博士がユリウス博士になる前の人格っていうのが一番理解しやすいかな」

「記憶はどうなんですか」えとりが言う。「僕らの知るようじさんになってからのことは、あなたには」

「あなたっていうの呼びづらいでしょ? 兄さんとかどうかな」

「僕はまだあなたを信用していない。こんなこと言うのもアレですけど、あなたのいうユリウス博士のことだってそこまで信頼を置いていなかったので」

「言うねえ。さすが」万里ヨージが笑う。

 この笑顔が、一番違う。

 俺の知ってるようじは、こんな顔で笑わない。

 こいつのはフツーの笑顔だった。誰が見ても笑顔ってわかる。

 あいつの笑顔は、

 俺にもわからない。むしろ笑ったことが、あっただろうか。

 ああ、もしかすると、

 ようじに足りなかった、欠けているものを、

 こいつがぜんぶ持ってたんじゃないかっていう。

 奪ったとかじゃなくて。置いてきた。預けてたっていう。

 おおむね、合点がいった気がした。

 後磑ユリウスようじと、万里ヨージの関係が。

「俺は別に呼び分けしねえぞ。めんどくせぇ」

「としきならそう言うと思ったよ」ヨージが言う。「すごいなぁ。相当の信頼関係にないとそんな台詞は出ないよ。羨ましい」

「俺らに何かしてもらいたいんじゃねえのか。お前はそのために戻ってきた。ようじの代わりに。いや、ようじを助けるために」

「敵わないよ、としきには」ヨージが金属の箱から離れて、自分の脚で立つ。「ほとんど正解。俺を助けてほしい。いや、君らがよく知ってるようじを助けるには俺だけじゃ無理なんだ。そのお返しと言ってはなんだけど、俺が知ってることは全部話すよ。えとり君の本当の親は誰なのか、とかね」

「いま聞いたほうがいいんですか?」えとりが俺の顔を見る。

「いねぇほうがよけりゃ、あとにしてくれ」

北廉ホスガ先生は入院中?」ヨージが俺に訊く。「最後に先生に会ったのはいつ?」

「俺に言われてもな」

 生きているとは思うが、業務に復帰できるような状態じゃないから息子のえとりがそのまま研究室を引き継いだはず。

「僕も実はよく知らなくて」えとりが眉を寄せる。

「なんか関係あんのか?」

「としき、俺というかユリウスの偽物に会ったでしょ? あの血迷った計画の発端に先生がいる」

「マジかよ」何が知らない方です、だ。「なんでそんなことんなってんだって?」

「先生はユリウスが“死ぬ”のがわかってたからね。代わりが欲しかったんでしょ」

「おい、やっぱ」死んでんのか。口にはしたくなかった。

「ごめん、物の例え」ヨージが首を振る。「例えが悪かったね。いまここにいない、ていう意味で使った。以後気をつける」

「行方不明って意味でもないんだな? 俺らが協力しさえすれば」

 後磑ようじは戻って来る。

「ちょっと待ってください。ようじさんのニセモノ? 何のことですか?」

「えとり君は知らないか。財団あかいにしんて知ってる? ユリウス博士を本尊と崇める頭のおかしい連中が募った如何わしい寄付金でできてる悪の巣窟てとこかな。これの一番業が深いところは、肝心のユリウスの許可を一切取ってないってところなんだよね。勝手にやってるわけだ。クローンならまだSFチックでよかったんだけど」

 さとしによるなら、りょうじはクローンじゃない。

 それが意味するところは。

「すみません、全然わからない」えとりが降参の合図を出す。「また僕を言いくるめて僕をおかしくさせようとしているんなら」

「えとり君を狂わせて俺に利点がある?」

 えとりが黙った。理解したのだろう。

 自分のさらに外側で起こっていた、かつ起こりつつあるとてつもない妄執について。

 正直言えば、俺だって知りたくない。知らずに終えられるものならそれに越したことはない。

「来月だっけ? 学会だなんて鼻で嗤える。そんな学問への侮辱とも言える単なるシンパの総会がある」ヨージはそこで金属の箱を撫でた。「としき、ユリウスならあづまを生き返らせることができる」

「わーった。読めた」距離を詰める。「俺に選ばせんのか? お前か、あづまか。どっちかしか生かせられないんだろ?」

 ヨージは顔を背けなかった。肩に触れても直立不動のまま。

「変だと思ってる?」

「そうだな」

 ようじなら、この距離と接触は耐えられない。

「おかしいよね、直接の被害者は俺のはずなんだけど。なんかそうゆう負の記憶みたいなのは全部ユリウスが持ってっちゃったから、別になんともない。話を戻そう。選ぶっていう段階にはない。もうユリウスが選んだ。だから俺がいる。さぁて、ご対面といこうか?」

 えとりが声を発するよりも前に、俺が手を貸すよりも前に、

 金属の扉が開けられた。

 室温が一気に低下したような感覚。

 冷気と水蒸気が充満する。

 そいつは棺なんかじゃない。俺がだいじな弟を棺になんか入れると思うか。死んだとしても棺になんか入れてやらない。だとするならそれは、棺だけではあってはならない。

 言うならば、それは。

「コールドスリープなんてそんな洒落たもんじゃないよ」白い湯気でヨージの顔が見えない。「どっちかというと、魔術か錬金術の類だよ。俺にはできない。誰にも出来ない。天才博士ユリウスようじだからできた」

 最初に見えたのは脚。

 次に、下腹部。

 腕と頭部。

 こうゆう装置にお決まりの、素っ裸だった。

「鋳造にちょっと時間がかかりすぎたから、中身は保証できないって嘆いてたよ。えとり君、しっかり眼を開けて」

 えとりは床に膝をつけていた。立っていられなかったのだろう。

 そのくらいの衝撃があった。

 そいつは、

 あづまだった。


     5


 現状から言えることは、東海林ショウジあづまが生き返ったことと。その犠牲で後磑ようじが死んだことと。

 万里医科研究所の2階。ようじの居住空間。

 ソファにあづまが座っている。その正面でえとりが睨めっこをしている。

 かれこれ数十分はそうしている。

「なんか言ってやれよ」見兼ねて助け船を出す。「それとも警戒してんのか?」

 えとりが俺を睨む。

 さすがに素っ裸は可哀相だったので、ようじの私服を貸したがサイズが合わなかった。ようじのほうが年上のはずだが。

「本当にあづま君なんでしょうか?」えとりはかれこれ数十回は繰り返している。

「俺があづまじゃなかったら誰だよ。あ?」

「君には聞いてない」

「だーかーら」あづまが痺れを切られて立ち上がる。「いい加減認めろっての。てめぇ頭硬すぎ」

「おかしいよ」えとりが頭を抱える。「ようじさんは天才じゃなかったの?」

 外見はあづまに違いなかったが、最後に会ったときより成長している。

 歴年齢的には誤差範囲内ではないかと思うが。

 身長が、えとりを超えている。

「縮んでるよかいいんじゃねえの?」前向きに考えれば。

「あづま君、いまいくつだっけ?」えとりが顔を伏せたまま言う。

「知ってるか?」

「さあ」あづまが首を傾げる。

 夜も遅いのでえとりを帰宅させようと思ったが、睨みあいの膠着状態から動こうとしない。動けないほうが正しいか。

 冷蔵庫の稼働音がする。

 なんも入ってないだろうに。何を冷やしてんだろう。

「あづま、そろそろ寝ろ」仕方ない。お膳立てしてやるか。「隣のベッド使っていいから」

「おやすみ」あづまは素直に隣の部屋に消えた。

 単に眠かったのか、こっちの意図を汲んでくれたのかはわからない。俺と違って察しのいい奴だから、案外わかっていたのかもしれない。

「お前もほら、行って来い」えとりに言った。

「どういう意味ですか?」えとりが顔を上げる。

「本当のあづまかどうか気になってんだろ?」顎でしゃくる。「確かめてこいって」

「さすが親父さんですね」棒読みだった。

「お前が天の邪鬼なのも知ってる。だからあんま野暮なことは言わずに行くわ」振り返らずに手を振った。「おやすみ」

 えとりは特に呼び止めなかった。気持ちの折り合いがついていないだけだと思う。

 そいつがようじの遺したあづまだってんなら、俺はそれでいい。

 でも、一個だけ気に入らないことがある。

「あとは若い者同士で、て?」ヨージが研究所のエントランスで待っていた。

「こっちは作戦会議だろ?」

 駐車場で車に乗る。ようじを乗せたことはあったかどうだったか。

 月は出ていない。

「どこ行くの?」ヨージは助手席で眼を瞑る。

「お前免許持ってたか」

「何の話?」

 夜の運転は嫌いじゃない。歩行者と車の絶対量が減る。ハイウェイなんか走りたくなる。両側のライトがアクセルを鼓舞する。

「どこ行くの?」ヨージが眼を開けた。「俺が行きたくない所だったらこのまま寝るよ」

「お前ホントはようじだろ?」

「なんでそう思う?」

 静かだ。

 昼間もこのくらい静かならいいのに。

「なんで?」ヨージが言う。「としきの願望?」

「そういくつも人格があったら敵わん。そんだけだ」

 ヨージが笑った音がした。

「としきにだけ、本当のことを言おうか」ヨージがカーナビをいじくる。「次のパーキングに止めて」

 観覧車のライトアップが眩しい。さすがに営業時間は終わっただろう。

 車を降りるのか思ったが、ヨージはシートを倒した。

「何のつもりだ?」

「ちょっと酔ったんだ。深い意味はないよ」ヨージが手をひらひらさせる。「逃げないからオレンジジュース買ってきて」

「信用ならん」

「まぁ確かに。じゃあ一緒に行く? 酔ったのは本当。きもちわるい」

 車を降りて自販機エリアに向かう。店もとっくに閉店だがそこそこ車がある。温泉もあるので宿代を浮かせるために使われるのだろうか。長距離トラックもそれなりに多い。

「スピード狂だよね」オレンジジュースを手に取ってヨージが言う。

「乗るの初めてだったか」

「としきのお父さんの艮蔵先生も似たような運転でさ」

 昼間は汗ばむ陽気だったが、夜は風もあるのでそこまで不快ではなかった。妙に眩しい観覧車を見上げながらベンチに腰掛ける。噴水もぎらぎらとライトアップしていた。

「俺はあいつよか速い」

「はいはい」ヨージがジュースを口に含む。「りょうじを強姦したらしいじゃん」

 俺がジュースを飲んでいたら噴いていた。飲んでなかったから噴かなくて済んだ。

「なんか弁明は?」

「ありません」なんで同じ顔の奴に言われなきゃならないのか。

「俺ならできるよ」

「そんな気分じゃねえな」

 ジュースを飲み終わったので車に戻った。

「手元が狂うと思うから発進は待って」ヨージはリクライニングを戻さない。「財団はユリウスがいないと寄付金が集まらないから不都合。北廉先生はユリウスがいないと精神的に不安定になるから不都合。ほら、見事に両者の利益が一致した」

「つーかな、ニセモン創ったところで」

 ホンモノがいる限りそいつはニセモンの贋作でしかない。

 それに、俺の記憶が幻じゃなければの話だが。

「りょうじの奴は」

「財団がそんな危ない橋渡ると思う? クローンじゃないとは言え、曲りなりも天才博士を複製しようってんだから、それなりにリスクは考慮しないと」

 嫌な、

 予感がして首すじを拭う。

「まさか、おい」

「とても正気の沙汰じゃないけど、としきが命からがら担いで逃げてくれたアレは、沢山あるうちの一体にすぎない」ヨージは息を吐く。「サンプルなのか、プロトタイプなのか、はたまた」

 吐き気がしてきた。ようじを量産しているという事実というより、なんでそこまでできるのかという。正常な神経はもう残っていないのだろう。

 いや、正常な神経なり精神が残っていないから、そんなことができる。養子といえども、息子を大量に複製する親が。いたらそれはもう彼岸の存在だろう。

「大丈夫? 顔青いけど」

「北廉先生がラスボスってことか」

「そうとも言えるし、そうとも言い切れない」ヨージが言う。「ちょっとここらへんは入り組んでて俺も解きほぐし切れてない。としきには直接関わらないから、こっちは俺に任せて」

 瞼と視神経がちりちりする。ステアリングが汗で滑る。

 ヨージの言うとおりだ。

 これじゃあ手元が狂っても仕方がない。

「結論、お前がやろうとしてることはなんだ」

「ユリウスの復活だよ。としきもそれを望んでる」

「そうじゃねえ。そっちじゃなくて」ヨージの顔を見る。「両親殺したってのはお前か」

 無音。

 瞬き。

 ゆっくり。

「よく、わかったね」

 ぞっとするような表情が物語っていた。おそらく、万里ヨージがしたことは、後磑ようじにはできない。できないからこそ、人格を交代する必要があった。

「やっぱお前ようじじゃねえか」

 ヨージが唇に指を一本当てる。口は笑ったまま。

 イコやマイナやカケルやりょうじがいたあの施設。

 ―――ここは、到底正常の範囲には収まらない犯罪行為を犯した、かつ矯正見込みのない異常者を収容する施設です。

 さとしの言った通りだ。

 確かにお前の実験場だよ、ようじ。





 Following three chapters are filled in the blank

 from the fist episode

“HINGASHI HIGAHIGASHI”.

 You will see “Including BiOlity” with fear.

 She is their MOTHER of the cursed family.






     E


「そこに俺が行かなきゃいけないのか」

「変な子なんだ。見たほうがいいよ」

「あのなあ、俺は」

「明日のほうがいい」

 溜息をついてみる。

「これから行くとこあるから」

「未来?」

 寒気がした。

 彼女は笑う。

「今日は駄目。仏滅だから」

 案内されたのは3階建てのアパートだった。建物自体は決して古めかしくないのだが、周囲を高層マンションに挟まれているせいでまったく日が当たらない。

 2階は6つ部屋が並んでいる。206と書かれたドア。影だらけでよく見えないがひとつも表札が出ていない。誰も住んでいないのかもしれない。

 彼女はチャイムすら押さずに鍵を開けた。

「お、おい」

「寝てるんだ。こんな音じゃ起きないよ」

 真っ直ぐに延びた廊下の突き当たりにドア。その脇にもうひとつあったがトイレか浴室。ふたつのドアに挟まれる形で小さめの冷蔵庫があり、その上に電子レンジ。廊下の途中に簡易キッチンも。

 簡素な部屋だった。真っ白の壁にフローリング。天井からボールのようなオレンジ色の照明がぶら下がっている。奥に大きな窓があり外に出られる。他に目立つ家具は大きな液晶テレビのみ。床に置いてある。

「いねえじゃねえか」

「こっち」

 振り返ると梯子があった。ロフトはいまさっき通過した廊下の真上に当たる。

 彼女はひょいひょい上っていく。真下で見上げると不都合な格好をしているのでそっぽうを向いた。

「やっぱ寝てる」

「誰なんだよ」

「友だち。ずっと寝てるんだ」

「ふうん」

「なんでとか訊かないの?」

「眠いんだろ。寝りゃいいじゃねえか」

 彼女はひょいひょい梯子を下りてくる。

「見る?」

「だから誰なんだよ」

「知らない」

「は? 友だちだろ?」

「友だちだよ。名前はわかんない」

「お前の名前は」

「さめう」

「は?」

「君はあづま君だね。東海林あづま」

 思わず一歩後ずさる。

「なんで」

「私がさめうだから」

「さめうは」

「君の知り合いのさめうはもういない。だから君の知り合いのさめうの代わりに私がさめうになった。そういうこと」

「たまたま同じ名前ってことか」

「ううん。私がさめう。君の知り合いのさめうは私」

 意味不明。足が竦む。

「上見ておいでよ」

「誰がいるんだ」

「君の知り合いかもね」

 ゆっくりと梯子に手を掛ける。汗で滑る。本当は行くべきでないのかもしれない。だって誰がいるかなんて。想像するまでもなくて。

「4年前から寝てるんだよ。彼が決めたんだって」

 ぎし。

「起きたくないんだろ」

 ぎし。

「起きると死にたくなるからね。もう眠るしか道はない」

 ぎし。

「死なないためにか」

 ぎし。

「まだ死ねないんだって。逢いたい人がいるからね」

 ぎし。ぎし。

 白い布団の中に黒い髪。

 頭がこっち側。足は向こう側。

 枕に頬をつけて。

「知ってる?」

「えとり」

 蒼白い顔。眠っているというよりは。

「死んでんじゃ」

「生きてるよ」

 僅かに胸が上下している。

 鼻と口に手を当てたら息がかかった。顔の横にあった手首に触れる。

「眼醒めさせないと学校に行っても意味がないよ」

「どうやったら醒める」

「今更無理だよ。4年も経ったから」

「遅いのか」

「うん。ちょっと遅かった。天才だったらよかったのにね」

 掛け布団を取り払う。ワイシャツの首元から白い首筋がのぞく。人間とは思えない色。単にオレンジ色の照明のせいではないと思う。

 電磁波。テレビの電源が入っている。

 砂嵐。彼女はそれを熱心に観ている。

「それでも学校に行く?」

「父さんか」

「ヨージはいない。彼の父親を殺しに行ってる」

「えとりの親父か」

「てんぎ先生は死にたかったんだ。だからヨージが殺してあげたのに。どうして生きてるんだろうね」

「お前の力か」

「私はI・Bだから。誰の味方でもないよ」

「俺は何をすればいい」

「今日は駄目だよ。仏滅だから」

「明日ならいいんだな」

「いいよ。血はあったかいから」

 梯子を下りてキッチンへ向かう。シンクの下の戸棚から包丁を出す。

「君は死なないでね」

「誰なら死んでいいんだ」

「死にたい人なら死んでいい」

 包丁を持って梯子を上がる。

 ぎし。

 ぎし。

 身体を起こそうとするから。

「起きなくていい」

「僕を殺すの?」

「死にたいか」

「君が犯してくれるなら」

 包丁を振り下ろす。布が裂ける音。羽毛が飛び出す。液体が染み込む。赤とは程遠い。どちらかというと黒。

 流れ出る。

 じわじわじわ。

 ああまただ。またこの夢。

 夢だってわかっているのにまったく同じ内容をくりかえし、くりかえす。面白くもない物語。つまらない。下らない。感想すら出ない。

 決まって汗だくで眼が醒める。じっとりと気持ちの悪い液体。穢れた粘液。自分が製造したことが許せない。

 現実と幻覚の違いを答えなければ、この夢から逃れられない。


   N


 夜だろうか。風が涼しい。

 高いフェンスに影がかかる。何か光った。星じゃなくて刃物だろう。包丁かと思ったけど違う。もっと形が。

「僕が父さんを殺したのかなあ」

「証拠がない」

「じゃあなんでこんなの持ってるんだろう」

 ナイフ。血まみれの。

「拾っただけだ」

「拾った? 拾ったって時点で僕が殺したってことにならない?」

「見てただけなんじゃないか? お前の父さんが自殺するとこ」

「思い出せないんだ、何も。さっきまで僕がどこで何をしてたのか。でも気づいたら手にこんなのがあって、床に父さんが倒れてる。もう決定だよ」

 ナイフが地面に落ちる。

「お前の父さんは死んでない。タイムスリップしただけだ」

「死体があるよ下に。見てないの?」

「俺には見えない」

「見てないだけだよ。二階の部屋。嘘だと思うんなら行ってきてよ」

「行きたくない」

 えとりはフェンスによじ登る。あっという間に天空。

「ばいばい」

「一緒に行ってやろうか?」

「いいよ。君が死んだら僕は生きてかれない」

 手を取る。冷たい手。温度がない。

「やめてよ」

「お前がやめるなら俺もやめる」

「信じられないな。タイムスリップなんてゆってる人なんか」

「死にたいのか?」

 止まった。動きとか呼吸とか。

 えとりはゆっくり下を見る。眼が合う。

「死にたいよ。僕はうまれたときからずっと死にたかった。うまれたときからだよ? もう耐えられないんだ。いいじゃん。父さんだっていなくなったんだし、君がこっちにいてくれれば僕は」

「俺だけ置いてかれても困る」

「なんだよ自分のことだけ棚に上げてさ。僕は絶望したんだ。そもそも君がいなくならなければ良かったんだよ。そこから僕はおかしくなった。入院もしたし自殺未遂もした。みんな僕が死ぬと困るとか言ってあの手この手で僕をこっちの世界に留めようとする。いい加減にしてくれ。厭なんだ。放せ」

 放すわけない。

「放してよ。放さないと巻き添えに」

「すりゃいい。どうせ父さんも殺したんだろ? 一人も二人も同じだ」

「や、だ」

「やだじゃねえだろ。ほら」

 眼が泳いだところで思いっきり引っ張る。フェンスから転げ落ちる。もちろん地面じゃない方に。

 泣いてる。泣いてる声。

「ごめん」

「なんで謝るの?」

「俺が悪いから」

「タイムスリップなんか出来るわけないよ」

「どうだか」

 これも夢かもしれない。いつも見るあの夢の一種かもしれない。わからない。わかるにはもう少しかかる。●に何が入るのかわかるようになるまで待たないといけない。

「ね、直ってたでしょ?」

「どうだか」

 えとりと同じ顔をしたその人は、無表情のまま首をかしげた。

 父さんの車の音がする。外に出たことを察知したに違いない。千里眼と地獄耳にはマジで苦労する。



「俺はその人にすごく悪いことをしたんだ。ううん、悪いなんてもんじゃない。土下座して腹斬っても許されない。その人がかけた呪いが、俺じゃなくてあづまにかかってると思った。そうゆうのってわが身に降りかかるよりつらいんだよ」



     E´


 あの部屋だった。夢で出てくるあの。

 急いで梯子を上る。ロフトの上。誰もいない。

 おかしい。いつもならここにえとりが。

 ●●●?

 だれだ? 誰のこと? ●●●てだれ?

 砂嵐が聞こえない。テレビがない。

 さめうもえとりもいない。だれもいない。

 この部屋にいるのは俺だけ。

 俺ひとり。

「えとり!」

 名前を呼んでも意味がない。だって名前がわからないのだから。

 ●●●じゃ届かない。なんなんだ、●●●て。

 部屋の外に出ようと思ったけどドアが開かない。外から鍵がかかってる。外から? わけがわからない。窓も同じだった。ガラスを割っても意味がない。頑丈なシャッタがあって。

 閉じ込められた?

 でも夢なら醒める。待ってればそのうち。でもいつまで待てばいいのかわからない。一生待ってなきゃいけなかったらどうしよう。

 そんなのイヤだ。

「えとり! おい、いないのか?」

 あんまり騒いじゃいけないこともわかってる。発作。

 だけどよく考えたらここは夢の中なんだから発作なんか出ないかもしれない。発作が治ってるかもしれない。そう思って何度も何度もえとりを呼んだ。

 ちっとも苦しくない。ほら、思った通り。そのせいで疲れてるのかどうかわからない。声が枯れてるのもわからない。自分の声が聞こえなくなってくる。

 耳が故障した? それとも口? 眼は何とか見えてるけどそのうち真っ暗になるような気がする。タイムマシンの前兆みたいに。

 タイムマシン?

 しまった。騙された。父さんに毒された親父のやりそうなことだ。二人で共謀して俺を夢の世界に押し込めてタイムマシンでどこかに飛ばそうとしている。

 信じられない。発作も魔法か何かで無理矢理止めてる。だからきっとタイムマシンでどこかに到着したらどっと襲ってくる。溜めてたツケみたいに。

「父さん!」

 かちかちちくたく。うるさいうるさいだまれだまれだまれ。俺はこんなところで父さんの実験材料にされてる場合じゃない。俺はやらなきゃいけないことがある。だからひとりで電車に乗って病院まで来た。先生に心配電話とか尾行とかされながら。

 それなのに。ムカつく。腹が立つ。外に出たい。俺は探しに行かなきゃいけない。ベッドの中にいるはずのえとりを。見つけて包丁で殺さなきゃいけない。それは決まってる。そうしないと夢の筋が変わってしまう。筋が変わったら。

 どうなるのだろう。

 考えてなかった。筋は変わるのだろうか。俺が変えてもいいのだろうか。いいに決まってる。だってこれは俺の夢だ。父さんがずかずか入ってきて踏みにじっていいようなものじゃない。夢は自分で解釈する。そう言ってたじゃないか。ウソつき。

 まずキッチンに行って包丁を捨てる。これを使わないとどうなるのだろう。血は流れない。血が流れなければそこから先に続くかもしれない。

 続きが見れる。

 ゆっくりロフトに上がる。ぎいぎいぎい。天井に近くなる。息がしづらい。きっと上のほうが空気が薄い。白い布団。中身は空っぽ。だけどあったかい。

 透明人間が横になってるみたいに何かある。

 俺にはわかる。

「●●●?」

 違う。●●●じゃない。●●●じゃなくて。

「えとり?」

 あづま君?

 聞こえないけどわかる。直接頭の中に入ってくる。

「どこにいる?」

 わかんない。

「じゃあ何か見えない?」

 見えないよ。真っ暗。夜みたい。

「寒いか?」

 うん、すごく寒い。

「風吹いてないか?」

 うん。でもどうしてわかるの?

「いまからいく」

 かちかちちくたく。タイムマシン。

 屋上だ。父さんの研究所の。

 夜だろうか。

 風が涼しい。高いフェンスに影がかかる。何も光らない。

 ほら、違う。包丁を捨てたから内容が変わった。えとりだってフェンスに背中をつけてない。

「ホントに来てくれたんだ」

「何してんだ?」

「何って、憶えてないの?」

「何を?」

 えとりは俺がいないほうを向いた。表情は見えない。夜だから。

「やっぱ憶えてないんだ」

「だから何を?」

「一緒に死んでくれるって言ったじゃん」

 違う。確かに違う内容になったけど。

「忘れちゃったの?」

 これは、こんな内容は。

「忘れちゃったんだね、その顔」

「帰ろう」

「やだよ。そのつもりで今日まで頑張って生きてきたのに」

 望んでない。

「なあ、俺にいつそれ」

「昨日だよ? 昨日の夜、ここで」

 違う。ここにいるえとりには違う過去があった。

「僕が一緒に死んでくれって言ったら君は、明日にしようって」

 言ってない。ここにいる俺はそんなこと。

「来てくれたと思ったのに」

 腕をつかむ。細い腕。

「帰るぞ」

「君が帰りたいなら帰ればいいよ。君がいなくなったら僕はそこから」

 飛び降りる。フェンスを指して。

「ばいば」

「いじゃない。いいか、えとり。ここは夢の中なんだ。しかもお前の夢じゃなくて俺の夢の中なんだ。だからお前は死なない。飛び降りもできない。帰ろう」

 かちかちちくたく。大丈夫。戻れる。ここは俺の夢の中なんだから。無理矢理にでも連れ帰る。イヤなやつだと思われてもいい。約束も守らない最低のやつだと思えばいい。それでいい。どうせ夢の中だ。眼が醒めればぜんぶ忘れる。

「●はわかった?」声がする。

「わからない」

「わからないと帰れないよ」

「帰る」手に力を入れる。

 声の主はさめうだ。チャーハンを食べてカネをもらったり、家出したり、俺をアパートに連れてったり、砂嵐を見てたさめう。

 声だけ。姿はない。えとりにも聞こえていない。

「それは君の好きなえとりじゃないかもしれないよ?」

「えとりだ」

「どうかな。だって君が知らない約束をしてたんだよね? そこの時点で」

「うるせえ消えろ」

「おー怖い。せっかく会わせてあげたってのに、そうゆうのってヒドイな」

 無視する。

 早く醒めろ。

 これは夢なんだ。夢なんだから。

「夢じゃないよ」

「夢だ」

「証拠がない」

「俺が夢だと思えば夢だ」

「どうかな。いま君が連れてる人をよく見てみなよ」

 細い。細すぎて放してしまった。

 いない。

 そこには誰も。

 また、ひとり。

「てめえ、えとりどこやった」

「知らないよ。だってさっきまで君がつかんでたのはえとりじゃないもん」

「じゃあだれだよ」

「えとりじゃないヒト。あ、ヒトじゃないかも」

 呼んでも無駄だ。ここにはひとりしかいない。わかる。そのくらいは。

 ここは俺の夢の中。現状把握くらい。

「ねえ、なんで犯したの?」

「犯してない」

「知ってるよ。そのせいでようじに怒られた。としきは優しいからそうゆうの甘いけど。私もようじと同様に賛成しかねるなあ。えとりはそんなの望んでなかったのにさ」

 望んでない?

「あんなのね、単に君が犯したかっただけ。ヒドイ」

「うるさい。なんでお前にそんなこと」

「私はI・Bだから、何でもわかるの。悔しかったら眼を醒ませばいいよ。確か夢だって言ってたよね? まーそーゆーこと」

 望んでなかったはずない。

 だってあの時は。寒くて。冷たくて。体温のないえとりがちょっとだけあったかくなったんだから。

「いつもの好奇心だよ。知りたかったんでしょ。艮蔵先生と正親先生が夜中ふたりでなにしてたのか。せっかくようじが丁寧に説明してくれたんだから試してみたくなるよね。ホントにキモチイイのか。どーだった? えとり慣れてたんじゃない?」

 慣れて?

「ありゃりゃあ意外そーな感じ? 教えてあげよーか。えとりがどんな子なのか」

 どんな、て。

「いい。いらない」

 知りたくない。知りたくないけど。えとりのこと。俺はなんにも。

 知ろうとしてなかったわけじゃない。話したくなさそうだったから。

 興味がなかったわけじゃない。言いたくないなら無理に。

「嫌われたくなかったから訊かなかったんじゃーないよ。君はね、えとりが出してた助けてのサインを見ないふりして、したいことをゆーせんしたんだ。ヒドイ。えとりがどんな想いでサイコロに泊めてくれってゆったのが気づきもしないでさ」

 どんな、て。

 どんな想い。

「なんでえとりが血まみれのナイフを持ってたのか。誰を殺したってゆってた? 嫌いだったにしてはやりすぎだよね。つまりはてんぎが憎かった。いなくなればいいと思った。いなくなりさえすれば楽になれると思ったんじゃない? よっぽど追い詰められてたんだね。でもえとりはてんぎのこと好きだったんだよ。こんなに好きなのにてんぎは関心を寄せてくれない。名前も呼んでもらえない。息子なのにね」

 えとりの父親。それはタイムスリップした未来のえとりじゃ。

「ちがうちがう。あれはえとりじゃない。えとりに死にたい病を感染させたかわいそーなヒト。手元に置いときたいくせに見てやらない。監禁しときたいほど所有欲が強いくせに言葉をかけてやらない。隷属? ちがうちがう。おかしたくなるくらい好きなだけ」

「デタラメゆうな」

「サイコロに泊めて欲しいってゆった理由。そろそろわかったよね。えとりはあのヒトと物理的に離れたかった。離れてないと」

「だまれ」

 考えない。考えたくない。こいつのゆうことなんか信じない。

 えとりは。俺のこと。

「ゆってないよ。ぜんぶ君の想像。えとりは君のこと、自分の頭のなかに棲んでる都合のいい友だちくらいにしか思ってないよ。ともだち。入院しても薬なんか飲みたくない。なんで飲まないと思う? 飲んだら治っちゃうからだよ。飲んだら妄想も幻覚も消える。つまりは君が消えちゃう。かわいそーに。訂正しなきゃ。俺は」

 うるさいうるさいうるさいうるさいうっさい。

 この髪がいけない。さらさらの栗色。ひらひらするスカートも。うっとうしい。

 いなくなれ。

 なんで邪魔する。なんで。俺を苦しめて愉しいのは。

「起きていーよ。起きれるんなら」

 ひとり。

 しか。

「父さん?」

 父さんのつながり。父さんとつながってる。おんな。父さんは騙されてる。父さんだけじゃない。先生も親父も騙して。俺と。えとりの。邪魔をする。えとりを苦しめてるのもこいつだ。

 そうだ。そうに決まって。

「なんで私が君の父さんなの? 私はI・B。もう、話聞いてよ」

「何の研究か知らねえけど、ちっとも人類のためになってねえよ。さっさとやめろ。こんな下らねえことしてるくらいなら」

 俺に会いに来い。





 The next story is “How to DIrEct Dr.Julius.”

 It means the final episode for Hyma-Series.






     R

 

「君は」

「えとり?」

「あづま君か。どうしたんだ、こんな夜に」

 ユリウスの息子だった。

 よく、

 似ている。

「どこいくの?」

「どこだろうな。わからないよ」

「一緒に行っていい?」

「構わないよ」

 ユリウスの研究所。そこから抜け出してきたのか。

「入りたい?」

 見ていたのがわかったのだろう。ユリウスの息子が訊く。

「誰もいないだろう。いないならいいよ」

 ユリウスがだいじに箱に入れている息子が外気に触れている。

 そうか、

 完成したのか。

 だから、だいじな息子を放ってある。

 ユリウスの息子は眠そうな顔をしている。

「久しぶりだね」

「うん」

 私を覚えているのだろうか。

 いや、そんなはずはない。なにせ私が君に会ったのは、君が生まれたその瞬間。

 泣いていた君をユリウスに抱かせた。それだけだ。

 もしそれを克明に記憶しているというのなら、ユリウスの息子としては申し分ない。

 才能と、頭脳と。

 彼は、存命だろうか。

「私は随分と悪いことをしてしまった。息子にもその周りの人にも。一生かけても償えないほどの罪だ。勿論君にも迷惑をかけている。君が閉じ込められていたあれは以前は私のものだった。今更だと思っている。謝らせてくれないか」

「別にお前のせいじゃない。悪いのはもっと」

「もっと?」

「もっと悪いやつ。ラスボス」

「もしかしてゲームのことかな」

「知らねえの? ゲームやったこと」

「ないな。存在は知っているつもりだが」

 薄暗い外灯の下。ベンチにユリウスの息子が座る。私にはあまり時間がないのだが、仕方ない。腰掛けることにする。

 ユリウスの息子は携帯ゲーム機に電源を入れた。

「これがゲームなのか?」

「まだスタート画面。こうやってボタンを操作して中にいる奴と一緒に旅する」

「旅をするのか?」

「旅しながらいろいろなごたごたに巻き込まれて、敵を倒して経験値もらってレベル上げて、ボスを倒す。主人公は世界を救わなきゃいけない」

「ずいぶん壮大なストーリィだね。世界を救ったらどうなるんだ?」

「終わり。平和になったらそれでいいから」暗いせいなのか、眠いせいなのか、ユリウスの息子の出力速度が低下している。

「眠いだろう。もう」

「別にこんなの。いい、どこ?」

 行くのか。

 問うということは不明ということだ。

 不明。わからない。

 理解できていない。

「やはり君は付いてこないほうがいい。私ひとりが悪いだけだから」

「そんなわけ」

 私は首をふる。ゆっくりと。

「私が行こうとしているところに、まだ君は相応しくない。もう少しこっちにいたほうがいい。こっちには楽しいことがある。私に付いてきたらゲームができないよ」

 ユリウスの息子が眉を寄せる。

 ゲームができなければ困るだろう。

「何しようとしてんの?」

「旅を終わりにするんだ。ありがとう。久しぶりに君に会えてよかった。元気そうで」

「ダメだ。そっちに行っちゃ!」

 どこに、

 言っては駄目だというのだろう。

 ユリウスの息子が呼び止めたが無視をした。

 座り込んでいるのわかる。発作が起きたのだろう。

 喘息の。

「えとり」

 そこまで求めるのか。名前を呼ぶほどに。

 アレは、

 本当の名前ではないのに。

 大学の研究室から抜け出したことが発覚する前に、ユリウスの研究所に向かう。

 1階。

 2階。

 3階。いた。

「完成したのなら教えてくれてもいいだろう」

 ユリウスは振り返る。

 私に、

 最後の命令を下す。

「先生、死んで?」

 理解可能。

 実行。



 未来のえとりはどこか行ってしまった。他の世界かもしれない。過去なのか未来なのかも。せめてどっちなのか言ってくれれば会いに行けるのに。

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うしろとらやまいだれ 伏潮朱遺 @fushiwo41

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