第4話 塩き底はベイシック

      1


 ようじのしてる研究がなんなのか。一度だけ訊いたことがある。一度訊いて二度と訊くまいと思わされたから、それ以来訊いていない。

 知らないのだ。なにも。

「じゃあとしきは誰を切り貼りしてるの?」

 そう切り返されたら、なにも。

 いつだったか。

 あづまを連れてきたとき、ようじは俺にこう言った。

「としきと俺の子だよ」

 何を莫迦なことを言っているのかと思った。でも否定したってどうにもならないし、その一億倍の屁理屈が返ってくるわけで。毎日ニンゲンを切り貼りして疲れきっていたせいもあって、ついつい乗ってしまったのだ。それがいけなかった。

 ようじは何の研究をしていたのだろう。

 生殖能力がないことがあらゆる面での行動原理になってるとしたら。

 ようじは、昔っから天才だったわけじゃない。かといって必死で努力したからそうなったというわけでもない。努力して勝ち得たものは、天才とは馴染まない。天才とは天賦のものでなければならない。

 文字通り、降ってきたらしいのだ。あるきっかけで。

 そのきっかけについては、ようじ本人も長いこと口を閉ざしていた。親父は知ってた。ようじは、親父のいた研究所の所長の息子だったからだ。子守をさせられることも多々あったようだ。本当の息子の俺を捨てて逃げ込んだ先で、上司の息子のお守りさせられてちゃ堪ったもんじゃない。とんでもない皮肉だ。

 俺が勤めることになった私立病院の眼と鼻の先に、ようじは研究所を構えた。もともとそこは、親父たちが使っていた研究所だったが、そこを奪う形で。所長の息子が欲しいといえば、それは明け渡さなければならない。というより、すでに親父はその研究所と形式上は決別しており、別の場所に移っていたのだが。

 親父のいた研究所のメンバに、いまの院長がいた。院長は親父より若かったが、ほぼ同時にスカウトされ、彼らは同期だった。院長の祖父が当時の院長であり、所長は少なからず当時の院長に借りがあったのだろうと、院長は笑って言っていた。自分が引き抜かれたのは何かの間違いだったと。その点艮蔵カタクラ君(親父だ)は優秀だったと。どこぞの公立病院で燻ってるような器じゃない、とも。

「とにかく艮蔵君はすごかった。でも医者には向いてなかった。根っからの研究者だったんだ。だから所長も引き抜いてきたんだと思うんだけど。知ってた?君の養育費、所長が肩代わりしてくれてたんだ。艮蔵君が出した条件がそれだったからね。めでたく艮蔵君はご両親にお金を返し、君のお母さんに充分すぎるお金を仕送りできたってわけだ」

「でも何もしなかったのには変わりないです」

「そう言わないでよ。艮蔵君だって、それをずっと悩んでた。結果ああなっちゃったから全部言い訳に聞こえるかもしんないけど、本当に艮蔵君はいっつも君のことを悔やんでた。こっちが見ててつらくなるくらいにね」

「産ませんじゃなかった、て?そういうことなんすよね。別にこの期に及んで」

「このときだからできることもあるんじゃないかな。仲直りとはいかないかもだけど、僕はね、君よりも君のお母さんよりもずっと深く、艮蔵君を見てきたと思ってる。自惚れだけどね。だからついついお節介も焼きたくなるんだよ」

「俺に謝罪したって」

 どうにも。そんなのはお袋に。

「それについて僕は何も言えないし何もするつもりもない。艮蔵君がそれを望んでないからね。もう重々わかってるだろうから言うけど、艮蔵君は」

「知ってます。別れないのは、別れるために都合つけて会うことが面倒だからすよね。親父は親父のほうでけっこう仲良くやってるみたいじゃないすか。いいです。俺はそれで」

 院長が俺を雇った本当の理由。はねっかえりで権力にはあまねく歯向かう。他職種がひしめき合う病院とは馴染まない、ただの問題児でしかない俺を。

「親父?なんすよね?」

「まあそれもあったけど。艮蔵君はね、知ってるんだ。一番最初に知られたのが艮蔵君だから。恩返しっていうよりただの罪滅ぼしだよ。あ、弱み握られてるとかじゃないからね? 研究所にいた人たちはみんな知ってるし、所長にも。クビにされたんだ。それがあって。当然だよね、あんなことしたんじゃ」

 すぐにようじの根城に走った。手が滑ってロックが解除できない。頭が真っ白と真っ黒の混濁。失敗ブザー3回で、そのコードは破棄されてしまう。

 あと2回。

 あと1回。

 駄目だ。失敗しない自信がない。ドアの前で力が抜ける。

 破棄されたってどうってことはない。ようじに言って新しいコードを発行してもらえばいい。たったそれだけのことだ。遠慮するような間柄でもない。悪い、頼む。でことは済む。そうだろ。そうじゃないのか。

 そうじゃないのだ。このままじゃ新しいコードだろうがすぐに再発行が必要になる。手元は永遠に狂い続ける。最後まで間違えずに入力する平常心は戻ってこない。

 なんで。

 なんでそんな。聞きたくなかった。黙ってろよ。いまのいままで言わずにいられたんだろ。そのままでよかったじゃないか。そのままふつーに、唯一俺を買ってくれてる変わりもんの院長のままで。

 俺に言ってそれですっきりしたのかもしれない。解放されたと。贖罪は済んだと。言ったほうはそうかもしれないが、言われたほうは。俺はどうすればいい?

 いまさら院長を憎むこともできない。なじることもできない。最低だ。お前はニンゲンのクズだと。罵ることもできない。

 何も言えなかった。そうだったんですか、とも言えなかった。

 そうだったんですか。じゃねえだろ。そうもこうもあるか。

 てめえがやったことは。

 研究所クビにされたところで解決されるようなもんなのかよ。

 親父も親父だ。俺が親父なら半殺しじゃ済まない。殺してた。だいたい親父はどうしたのだろう。聞かなかった。とても訊けるような状況じゃなかった。俺の精神状態が。平常を保つのに必死で。院長を殺したところでどうにもならない。もう終わったことなんだ。何年経ってる?年月じゃない。

 それは実際にあったことなのだ。過去は消えない。いくら時間が過ぎようとも。

 でもここで院長を殺してどうなる?どうにもならない。耐えろ。違う。お前がすべきことは。

 研究所は開かない。

 それは本当に?本当の本当にあったことなのか。院長の冗談。にしたって冗談の域をぶち超えている。言っていい冗談と言ってはいけない冗談がある。その分別くらい、いくら院長だって。じゃあ、なんでそんなこといまさら。

 ようじだってなにも。言えるわけがない。

 あったことなのだ。

 だから何も言わなかった。

 ケータイを置いてきたことに気づく。持ってるのはあれ。病院とつながれる。ようじとはつながれない。ようじは、いまどこにいるのだろう。

「なにやってんの?」ようじだった。

 たぶん。

 顔がよく見えない。

 逆光。になるほど陽は出てない。いつの間にやら光源はどこかへ消えていた。光源に照らされて初めて光るあれが出ている。なんだっけ。あれの名前は。

 手を。

 伸ばしていた。ようじに向かって。

 いつも、絶妙な不自然さで回避する理由は。

「こんなとこでサボってちゃ駄目だよ。としきは切り貼りが仕事なんだから」

 またかわされる。

 さわれない。触らせてもらえない。

「なーに?ここいちお外だよ」

「怖いか」

「寝ぼけてる?そんな熟睡してたの?」

 手を。

 無理矢理引っ手繰る。

 引く。逃げる。

 顔を俺とは反対側へ。

「俺が怖いんだろ。俺が」

 男だから。

「重なって見えるから」

 手を。

 離さないと嫌われそうだった。でもそんな余裕もなかった。

「思い出すのか」

「聞いたの?」

「忘れろなんて言わない。俺が、俺は」

 何を言おうとしたのか全部消し飛んだ。

 そうゆう顔で、

 ようじは嗤った。嗤ったのだ。

「泣くとでも思った? 男にレイプされたのがトラウマで、それを思いがけず恋人にバラされて、身体接触を避けてきた理由がぜんぶ納得いってつながって。そんで改めて俺を抱こうとでも思った?慰めてやろうとか善人面してさ。ばっかじゃないの、としき。俺はね、あんなことどうでもいいんだ。とっくに終わったことなんだよ。そりゃたまに思い出すことあるけど、悪夢じゃないね。むしろ感謝してる。俺はね、ゆってなかったけど、としきには言いたくなかったんだけど、あれのせいで、ううん違う、あれのお蔭で」

 天才になったきっかけは、きっと別のところにある。


      2


 マイナはどこからともなく包丁を取り出して、パンダをばらばらに解体し始めた。

 背中のファスナをむしり取って(やっぱりファスナはあったのだ)、両腕を肩から解放する。腹を裂いて、股を裂く。関節という関節を外し、爪という爪を剥ぐ(もしパンダに爪があればだが)。

 切っても切っても何も流れ出ないのが不満らしく、人語とは思えない発音で合いの手を入れる。血液も唾液も腸液も精液も(マイナには殊のほかそれが堪えたようだった)出ない。パンダの交尾の仕方が思い当たらなかったので誰も何も言わなかった。

 首から下に解体の意味を見出せなくなると、残るは首から上。最初に眼球を一突き。ぶすぶすぶすぶす(マイナが自分で効果音係も兼ねてたので、もしかすると不細工の意味のブスだったのかもしれない)。耳をさくっと切り落とし、鼻をすっと削ぐ。最後の仕上げに口に包丁を丸呑みさせて(確実に誤嚥だ)、どこに仕舞ってあったのか黒い筒を噛ませて(パンダに歯があるのかいまいち不明だが)、

 ぱあん。

 パンダはパンダの原形を留めなくなった。もうただの残骸だ。マイナは肩で息をして、胸の辺りをまさぐる。苦しそうだった。呼吸を整えるために、ありとあらゆる方法を試したかったが、肝心のありとあらゆる方法がまったく思い浮かばずに悶えているようにも見えた。玉の汗が闇に吸い込まれる。がちがちと歯が震え、指先が痙攣していた。包丁と黒い筒をパンダだったものから回収しようにも、末端がいうことを聞かない。中枢はおそらくひどく冷静で、その温度差がさらに齟齬を起こしている。

「ねえ、死んだなら返事して」マイナの声とは思えない。

 レストランのフロアでだけはバイトしないほうがいい。悪いことは言わないから、厨房に引っ込んで黙って料理に専念してほしい。そうゆうおどろおどろしい声だった。憎悪と怨念と嫌悪と憔悴と。

『気は済みましたか』

 マイナはぎょろりと眼球を抉じ開けて、闇の壁と天井に黒い筒を向ける。

「どこ?どっから」

『撃ってみてはいかがです?』

「ちょーはつしてるつもり?ばーかばーか。下手なテッポじゃないんだよ。無駄弾なんてないんだからねーっだ」マイナは、いーっと歯を剥き出しにして闇の壁を威嚇する。発射されるゴールを見もしないでトリガを弾きまくった。

 ぱあん。

 ぱあん。音だけ無意味に響いて、なにも破壊されない。それでもマイナは撃ちまくる。弾切れの心配はなさそうだった。

『やはり傷つけてしまったようですね』

「遅い遅いおそいの。なにそれ。女とかいって」

『マイナさんが女だと思うのなら、私は女であるべきでしょう。その反対に、マイナさんが男だと思うのなら、私は男であらねばならない』

「なにわけわかんないことべっちゃべちゃ。あんたがすべきことはね、わかってないようだからおしえたげる。シんで」

 マイナとワカサゲンには勝手にやってもらうとして。

 りょうじを背負って逃げる経路を確保することに思考の大半を割いていた。弾は当たらない。避ける必要もない。マイナはワカサゲンを殺そうとしている。だから俺にもりょうじにも中らない。

 りょうじは気を失っている。外から見る分に特に異常はなさそうだった。呼吸も心臓も。正常に停止している。このことが何を指し示すのか考えるのは後回しにしたほうがよさそうだった。考えたってわかるはずもない。いま俺に出来ることは、いますぐ腹掻っ捌いて中身を改めることじゃない。いじらないほうがいい。素人が生半可に手を出すと取り返しの付かないことになりかねない。

 素人なのだ。毎日人間をひたすらに切り貼りしてきただけの俺なんかにどうこうできるもんじゃない。呼吸と心臓が正常に停止してる奴にいったいどんな切り貼りが通用するのか。考える余地もない。だったら考えない。できることだけやろう。

 できること。りょうじをこっから無事に(無事に?)助け出すこと。

 助け出す?

 呼吸と心臓が正常に停止してる奴を?

 考えるな。いま一番邪魔なのはマイナじゃない。無駄な思考だ。

 出口まではそう距離はない。何が心配かって、出口を抜けたあとだ。マイナが猛追してきた場合に、りょうじを背負っての応戦は確実に回避したい。戦うならりょうじを降ろさなきゃならないし、戦わなければ逃げられない。逃げ切ることも不可能だ。りょうじを背負っている限り。りょうじと俺の両方が無事に(無事に?)トンネルを抜ける方法を考えなきゃならない。

 俺だけ助かるか? 逃げ切った先で、さとしに眼の前で自害されかねない。

 りょうじだけ。助けられない。りょうじは気を失っている。

「死んでよ」

『眼の前からいなくなれ、という意味でしたら叶えることができません』

「じゃあ死んで」

『二度死ぬことはできないのです。マイナさん、先生を帰してあげてくれませんか』

 余計なことを。

 気づかれたじゃないか。でも見つからないはずがないのだ。

 マイナは蒼白い顔を、折れそうな細い首で支える。それがどうした、と太字で書いてあった。

「としきはここにいないほーがいーよ」

「いいのか」思わず訊いてしまった。

 でもそこで発言を覆されたら、せっかくの助け舟も自分で底に穴を空けて水没させたようなものだ。

 背中のりょうじがずり落ちる。背負い直す。もうちょい協力してくれ。気は失ってようが、しがみつくくらいの力は。心停止してようがいまいが。

「なんであたしがこんなとこいるか知ってる?」

「なんとなくは」

「こんなとこいたらあたしみたいになっちゃうよ。イコさんもカケルくんも死んじゃったし、ワカサゲンは死ねないとかゆーし。あたしは次の20人を待つから。ここで。だから帰っていーよ。りょうちゃんだって」

 誘うつもりはなかったが。

 誘ってほしいのかそうでないのか。でもできたら誘いたくない。これ以上背負えない。重いんだ。ニンゲン2人も。

「出れねんだろ。出たいのか」

「出ちゃったらね、20人じゃ抑えられないと思う。あたしね、男がだあああああああああああああああああああああああああああああああああい嫌いなんだあ。イコさんは死んでほしくなかったの。イコさん好きだったのに。好きな人はいっつもあたしに黙って死んじゃう。でもね、嫌いな人はいつまで経ってもいなくなんない。あたしがいなくさせなきゃ。あたしが殺さなきゃ」あたしはオトコをゼンメツさせたい。

「俺も男なんだがな。いちお」

「としきはオトコじゃないもん」

「どうゆう意味だよ」

「見せなくていーからね。見飽きてるの、チ*コなんか。チ*コがあるってだけで踏ん反り返って男だと思い込んでる奴のをね、いざ発射ってときにぶった切ってやんの。あたしが女って思い込んでるから、思いも寄らない。似合うでしょ。けっこー自信あるんだあ。男ってつくづくどーしよーもない。イコさんは純粋だからさ、割と男に対してげんそー抱いてるとこあったんだ。あの歳で処女だってゆーし。20人もいるとね、しかも男がその半分もいるとね、いるんだよね、あたしのだあああああああああああああああああああああああああああああああああああああっいきらいなオトコが。カナさんきっとわざとそーしたんじゃないかなあ。あたしに殺させるために。クズの中のクズを選り集めてきて。イコさん、池で本読んでるだけだから、狙われるんだよね。オトコなんか、ヤるためだったらなんでもすんの。手組んじゃったりすんのよ。しゅーだんでぼーこー働くために。もうホント脳神経ぶち切れる」だからおかしーのかもしんないね、あたし。

「イコを守ったのか」

「守ったよ。イコさんのてーそーはあたしが守った。イコさんに囮になってもらっちゃった形だってのがすっごく嫌だった。でもイコさん気づいてないふりしてくれるんだもん。また誰か死んだ?知ってる?とかってね。カッコいーでしょ? スタイルいーし。せーかくいーし。あんなにかわいーヒトが、なんで死んじゃったんだろ」としきのせい?

『先生のせいではありません。イコさんは』

 銃声。

「うっるさいなあ。ナニ自分がぜんぶ知ってますーみたいな。あたしだって知ってるよ。イコさんにきーたもん。教えてくれたもん。あんたなんかと違うの。あんたなんかどーせカナさんにカンニングしたんじゃない?あたしが数減らすのを、おもいどーりって視てたんでしょ。視られるのヤなくせに。じろじろじろじろ視ちゃってさ」

 一歩。二歩。闇から遠ざかる。

 切れ目が、できればそっから。

「としき」

 しゅじゅちゅしちゅしゅじゅつちゅ。

「言えてねーよ」

「駄目だよ。もう」

 手遅れ。

「りょうちゃん■んじゃってる」

 よく聞こえなかったが、呼び止めてなさそうだったので走る。呼び止められても行くつもりだったが。

 背中からずり落ちそうになるたび持ち上げた。ずりずりずりずり。力抜けてる。骨が溶けてなくなったみたいだ。そのくせ関節は硬い。イカだのタコだの。いや、あいつらに骨あったんだっけか。ぐにゃぐにゃしてる振りをして。

 トンネルは思いのほか長い。てことをようやく思い出す。重すぎて忘れてた。どんどん重くなってないか。ますます力が抜けてないか。固まってくる。

 正常な呼吸停止と心停止。

 急に足が重くなる。何か忘れてる。なんだっけ。なんだろう。思い出せないとここから抜け出せない気がする。永遠にトンネルの出口が見えてこない気がする。思い出そうとすればするほど指先から離れる。視界からも消える。

 どこだ。前。

 どこだ。後。

 運よくマイナは追ってこない。ワカサゲンの声もしない。でもどっちかは欲しかった。どっちでもいいから、俺を出口まで連れてってほしい。そんで、できたら忘れ物だと、追いかけてきてくれたり、わざわざ教えてくれるとうれしい。

 何を忘れてる? 呼吸と心臓のほかに。もっと大事、てよりもう一つ。三つ合わせて大事な。

 出口にさとしが立っていた。立っていたのだ。二本の足で。

 絶対立ってないと思ったのに。

 そこまで弱くもないか。強がりで立っている。泣きもしない。泣きそうですらない。

 俺の背中を睨みつける。俺の前に立って。

「悪い。三つ目」

 瞳孔の。

「診たことなかったんでしょう」

「診せてもらえなかった。なにせゴッドハンドだしさ。俺が切り貼りした奴はなにがなんでも生き返らなきゃなんない。生き返らねえ奴は」

 主治医の交代。

「いいです。人質にとられた段階で予想はしていましたから」

 床に降ろそうとしたら、さとしが背負うそうで。

「だいじょうかよ。こいつ結構」

「主治医は僕です」

 そりゃそーだ。そーだ村の村長さん。

 ソーダ飲んで。

 死んだそーだ。

「どーすんだ?そいつあ」

 さとしは何も言わなかった。こっからじゃ煙も見えない。

 そーしきまんじゅー美味い。

『そーだ』

 喰ったことあんのかよ。

「これから食べれんじゃない?」ようじが茶化す。

 どーだか。


      3


 切って貼っても何も変わらなかった。のは初めてだった。繋いでも流れない。縫っても止まらない。いっそ取り換えたかった。中身そっくり全部。でもそしたら、あづまじゃなくなるかもしれない。心臓やその他の臓器はいいとしても、脳は。取り換えたら別人になるんじゃないだろうか。全然知らない奴になるんじゃないだろうか。

 そしたらあづまは?

 どこに行った?ここにいるのは?ここに仰向けで寝てるのは。そうだ。

 眠っているだけなのだ。そーだ村の村長さん。

 ソーダ飲んで死ぬ奴なんか聞いたことない。毒が盛られてたのだ。村長ともなると村のあちこちから憎まれるのかもしれない。村の内外を問わず、いわれのない恨みを向けられて、挙句毒入りソーダを飲まされて死んだ。そーだ。

「変わらなかったの初めてですね」主治医のことを言っている。

 ようじの弟。

「俺じゃねえよ最初っから。俺じゃあ」

「息子だからですか」

「父親が拒否した。もう一人のな。お前明日休めよ」

「父親みたいなこと言うんですね」

「父親が父親みてえなことしねえからだろ。いいな?休めよ。俺が許す」

 顔色が最悪だった。俺の。鏡見なくたってわかる。

 ようじの弟は、眠くなるまでここにいたい、と言い張ったが無理矢理帰らせた。正真正銘の主治医が迎えに来た。俺が世界で一番嫌いな精神科医。二番目が親父。

 両者に共通するのは、無能ということ。

「そのね、私に任せていただければ、ええ。万事心配ないと」

 ただの一人も、患者を救えていない。

「きちんと家送ってけよ。間違ってもてめえの家じゃねえからな」

「おや、まあなにやら勘違いとひどい思い違いをされている。はあ、弱りましたね。私は彼の主治医ですよ?そのようなことしようだなんて、はい、心外ですよ、まったくねえ」

「そのようなこと、ってのはなんだ。誰もんなこと言ってねえだろうが」

「どうやらそのね、失言だったようです、ううむ。疲れと眠気で殊のほか口がね、つるっつると滑りやすいようです。はあ、歳というのは困りものですね。手が滑る前にお暇させていただきますよ、それではね」

 ようじの弟は、主治医に手渡された薬の中身をチェックするのに夢中で。聞かれてたってどうということはない。

 彼は、俺が、彼と主治医との関係を知っていることを、知っている。知っていて、わざと話題に取り上げないのだ。知っていることをわざわざ話題にする必要がないから。聞かれれば答えてくれるのかもしれない。治療なんかしてないと。

 渡される薬だって、ただの頭痛薬。と称したただのプラセボ。彼は、自分が中毒的に頼っている頭痛薬がただのラムネだということを知っている。知っている上で依存していると見せかけている。

 彼に付いた診断は、ようじが提唱した概念だ。いまのところ、世界で唯一の症例。

 治らない。

 治す気がないのだから。治さない。

 治したら研究にならないから。

 ようじからの電話を待っていることにいまさら気がつく。ケータイを握り締めて、内線を睨みつけている。どちらが鳴っても、1コール以内に出ることができる。でもどっちも一向に鳴る気配がない。

 顔面を覆っていた白い布がなくなっている。ようじの弟が持ち去ったのだろう。彼は認めることができたのだろうか。認めたくないから布を持っていったのかもしれない。顔の上に布が載っていたら苦しい。それとも単に顔が見たかっただけか。

 ようじの弟は、

 あづまの、瞑っている眼を見つめて、頬に触った。手を握って、胸に耳を当てた。口に手を翳して、唇を吸った。俺が気を遣って眼を逸らしたり、わざと席を外してやる必要もなかった。彼は観衆を気にしない。眼中に入れない。自分が見ているものだけが存在している。と考えている。その通りだろう。ようじの弟は、あづまのことを(俺が判断する限りは)多少なりとも意識している。た、と言い換えるべきなのかわからない。わかりたくない。

 認めていないのはきっと俺だけなのだ。

 その場にいなかった。俺だけが。

 ようじの弟も、日口にうゆも。その姉も、知り合いの心理学者も、世界一嫌いな精神科医も、果ては親父までが観衆だった。ようじは、その場にいようがいまいが知っている。見なくたってわかる。そのくらいの想像はできる。

 知ってたなら止めてほしかった。そのくらい簡単だろ。ちょっと時間を止めて、踏み外した足を安全な位置に戻してやればいい。なんでやらなかった?なんで。俺がその場にいれば。いたら。いたら何ができただろうか。いても何もできないだろう。受け止める?下敷きになって?

 ああ、そうか。それをやればよかった。そうしてれば、あづまは。

 ようじからの電話は来ない。わかっている。俺が待ってることを知っててわざと寄越さないのだ。つくづく性格の捻じ曲がった。わかってる。わかってるんだ。それをやるのを渋ってるだけだ。

 やるよ。わーってる。やりゃいんだろ。

 背負うのも抱えるのも目立つ。棺じゃお誂え向きだがあまりにモロで返って怪しい。分解すれば運びやすいが修復が二度手間だ。とすれば、どうする? 俺だけじゃ。いや、俺がやらなきゃ。誰にも任せられない。ようじも、俺ひとりで内密に処理することを求めている。だからこそ、電話をくれないのだ。証拠が残るから。

 非常口までの最短最速アクセス。外来はすでに閉まってるからいいとして、問題は、非常口を出たあと研究所までの経路でもし誰かに鉢合わせるようなことがあれば。見なかったことにしてくれるだろうか。

 研究所は表向き封鎖されている。警備はいない。誰も寄り付かない。禁止されているというよりは、気味が悪いので誰も近寄らない。何人もヒトが死にかけている。そのたびに俺が駆り出されて切って貼った。

 解除コードは死んでいる。死んでいるというのは、侵入できないと同義ではない。死んでいるから入れるのだ。主の謎の失踪云々という噂ひとつで、ここまで人を寄せ付けなくできるのか。死んだ、とも云われている。あくまで噂の話だが。

 かつての自動ドアは、自動であることを拒否。床はカビやホコリやニンゲン以外の死体で絨毯が敷かれている。ものと思い込んでいたが、思いの外綺麗で。ここを去る際に時間を止めていったのかもしれない。自動ドアと照明にだけ呪いをかけ損ねて。

 エレベータに用はない。ゆっくりと階段を上がる。踏み外さないように気をつけて。目指すは3階。2階まで来て気づく。そうだった。この階段じゃ2階までしか行けない。3階まで行くには、突き当りの部屋にある隠し階段か、或いは。

 上昇する箱の前に立つ。もしかしたら。ここに呪いが効いているのなら。↑のボタンを恐る恐る押すと、ランプが点いた。

 ランプが点いた?

 箱に命令が届いたあのじーという。重力に逆らおうとする躊躇いとしての揺れ。

 到着音。

 脳をちりちり障る。

 上に参ります。ようじが行き先ボタンを押してくれたように幻覚した。

「上?屋上?」

 決まってんだろ。

「いちお、聞いとこうと思って」ようじの視線が、俺以外を捉える。「眠ってるね」

 そうゆうビョーキだろ。

「そうだね。かわいそうに。俺が」

 治す気もねえくせに。

「俺はお父さんにはなれないのかな」

 こいつがどう思うかだろ。お前が決めることじゃあない。

「嫌われてるんだよ。発作だって俺のせいだし。きっと恨んでる」

 聞いてみたのか。

「そうやってかるーくゆうけどね、そう簡単に」

 聞いてみたのかよ。恨んでるかって。

「としきはいいよね。素直でしょーじき。俺と正反対だ」

 俺以外の頭を撫でる。髪を掻き混ぜる。

 ぴくりともしない。

「死んでるみたいだね」

 死んでねえよ。

 死なせない。俺がいる限り。

 到着音。

 ■階です。ようじがドアを押さえていてくれる幻覚。

「こんじょーの別れになっちゃうけど」

 またな。

「だからこんじょーなんだって。会えないの、二度と」

 触っていくべきだろうか。

 どこに? どこなら相応しい。

 俺以外を陰険な箱から降ろす。

 俺以外の寝息が聞こえる。寝息だその喘鳴は。

「止まったら」

 どうすんだ。いっそ止まってほしかった。肝心なときに止まってくれない。

 だから、エレベータは嫌いなんだ。

「止まったらどうしてた?」

 お前が助手だな。

「やだよ。なんでだいじな息子を切り貼りしなきゃなんないの」

 降りたほうがよさそうだった。

 降りて、振り返る。ドアが閉まったあとだった。エレベータのランプが消える。

 ほら、肝心なときに止まってくれない。

 俺以外を持ち上げて、俺以外を台に載せる。

 いち、にーの。

 さん。

 これより、天才博士のユリウスようじが息子ショウジあづまの蘇生手術を行ないます。よろしくお願いします。

 礼。

 メス。

      4


 雌だけなのだ。生き返らせることができるのは。

 俺は切るしか。

 からからのはらわたに水分を含ませる。しわしわののうみそに糖分を注ぎ込む。

 あとは元通りに縫い合わせるだけ。

 痕も残らない。

 ソーダが飲みたくなる。村長さんに頼んでみようか。

 そーだそーだ。

 呼吸。

 鼓動。

 瞳孔。

 いずれも異常なし。順調に回復している。

 もう一般に移してもいいだろう。

 天才博士の息子につき特別待遇。なんと出入り口に施錠をする。中からは決して開けられないという人格の全否定っぷり。おまけに常時モニタで一挙一動を父親に垂れ流している。本人に告知をしたがすやすや眠っていて。

 案の定、ようじの弟が面会を求めてやってきた。ソーダの手土産に思わず通してやりそうになったが。しかもラベルにジェノだとか。

 ジェノ・サイダ。酷いネーミング。

「どうしてですか」

「んなの一人しかいねえだろうが。悪いが」

 とか言いつつちゃっかりソーダは腹の中。

 そーだそーだ。

 消化器官が根絶やしになる。

「会うまで帰りません」

「家帰って休んでろ。昨日ちゃんと寝れたか。充血してっぞ」

「寝ましたよ。お望みどおり」

 そういう意味じゃない。

「寝たんですよ。先生が帰れってゆったから。迎えなんか呼んだから僕は」

 望んでしたことじゃないのか。

「僕なんか誰とでも寝るとか思ってるんでしょう? 生きてるか死んでるかわかんないような奴ですもんね。そりゃ生きてたって仕方ないし、死のうと思ったことだってありましたよ。いまだってそう思ってます。一刻も早く死にたい。死ねばもっと、もっと早くに死んでいればよかったんです僕なんて。僕は」えとりはそこで唇を噛む。「僕は死のうと思ってた。死ぬために屋上に行きました。手すりによじ登ってそこに立ちました。夜でしたから、下は見えませんでした。高いところは好きなんです。だから平気でした。飛び降りるのなんて。でも、飛び降りようと、いま足を手すりから離そうとしたときに、彼が、彼が来たんです。僕の邪魔をしに来たんです。絶好の最高の気分を損ねに。彼は僕にこう言いました」

 明日にしねえ?

「明日に?莫迦でしょう?天才博士の息子なのに。ようじさんの息子が、あんなこと言ったんですよ。もう興醒めです。こっちはまさにいま絶好の最高の気分で飛び降りようとしてるってのに、明日。明日ですよ? もう下らなくなって。僕は死に損ねました」

 投影だ。

 ただの。単なる。彼が思いをぶつけたい相手はすぐにわかる。

 ぶつけたって何も返ってこない。底なしの井戸みたいな父親。

「もう一度言います。会わせてください」

「会ってどうする?昨日のを祓いてえだけだろ。見られてんだよ、ここは」

 そう言ってから、そんなのはなんの抑止にもならないことに気づく。彼は観衆を気に留めない。しかも見ているのが他でもない、この世で最も憎い兄なら。

「見せてやればいいんですよ。見たければ見ればいい。見られて困るものは何もないんです。僕は間違ったことはしていない。知ってるんですよ。本当は、違うんでしょう?ようじさんに子どもはできません。況してや先生との子どもだなんて、滑稽にもほどがある。莫迦にしてるんでしょう?僕を。僕たち愚かなニンゲンを。どうやったら産まれるのか教えてくださいよ。試験官?ビーカー? それともレトルトですか。だったら精液いっぱい溜めなきゃいけませんよね」

 彼は父親同様無表情だった。あの人を思い出す。俺の親父を誑かした。

 いや、誑かしてはいない。親父が勝手に引っ掛かったのだ。

「よければ協力しましょうか」

「莫迦いってんのは」

「僕は冗談が嫌いです。それであづま君が生き返るならなんだってします。僕の下らない命をあげたっていい。いるんでしょう?生き返って。ようじさんならそのくらいのこと造作もない」

「あづまだから好きなのか」

「言ってる意味がわかりませんが」

 それは訊くべきでない。わかってる。どんな答えが返ってくるか。

 逃げ場を失いたいだけ。

「あづまが好きなのか。お前は、あづまがあづまだから好きなのか。あづまがようじの」

「息子のわけないでしょう。いい加減にしてください。僕を狂わせたいんでしょう、先生はようじさんと共謀して。僕を狂わせて、ありもしない病名付けて、そうやって実験とか研究とか振りかざして。僕が死にたいのは、おわかりになりませんか。先生ならわかってくれると思ったのに。嫌なんです。もう、あのヒトに振り回されるのは。あのヒトの手の上で踊るのは。そこから解放されるためには」飛び降りるしか。研究所の屋上から。

「んなことしたって」

「わかってます。余計に思う壺だって言いたいんでしょう? でも僕は死ぬしかない。生まれてからずっと死にたかった。生まれてからずっとですよ。憶えてるんです。僕が生まれた理由は、ようじさんのモルモットになるためです。父さんの気が狂いそうな歪んだ精液を余さず飲み干すためです。その程度の存在なんです。僕は」

「あづまだから好きなんじゃないんだな?」

 彼は無表情をむしり取る。下に何もないとわかっていながら。

「あいつがようじの」

「あづま君だから好きに決まってるじゃないですか。なんでそうなるんですか。なんで、違います。違うに決まってます。違う。違います。なんで、なんで僕が好きになると」

「ようじのもんを奪い取りたかっただけじゃねえのか」

 それはお前だ。

「先生もそうなんじゃないんですか。ようじさんの息子だなんて」

「確かに嫉妬はしたが」

 としきと俺の子だよ。とか言われたら。

「親父の子だよ」

 俺の腹違いの。

「似てると思った。よかった。ようじさんのじゃないんですね?」

「これでもう未練はねえだろ」

 帰れ。

 お前に会わせたら。お前に会わせないために、こんなとこ閉じ込めてるんだ。

 あづまは、

 お前と会うべきじゃなかった。

「僕のせいだって言いたいんですか。なんで僕が」

「お前のせいじゃなきゃ誰のせいだって?お前がんなこと言わなきゃなあ」

 だれきみ。

「そんな簡単にヒトがいなくなったり、いなくなったかと思ったらひょっこり戻ってきてあのときの延長戦とか。そんなのってやってられないと思いませんか。いなくなられたこっちの気持ちなんか全然お構いなしで」

「それはようじが」あづまを生き返らせるために。

「ようじさんは天才です。千里眼で地獄耳の。タイムスリップもできるし、時間と空間を飛び越えられる。テレポーテーションも、テレパシィだって操れる。僕に刺激を与えてその反応を見てるだけなんでしょう? そうやってケラケラ笑ってるんだ。あづま君は、僕の脳をいじくって植えつけた幻覚です。そう考えるしかないんです。凡人の僕には」

 あづまはいる。

 何も言わずにいなくなったことに耐えられなくて、そう思い込むしかなかった。ようじの弟は、あづまをこの世に留まる未練にしたかった。死にたい。

 でも本当は死にたくなくて、その理由をやっと見つけた。それはよくわかる。でも、あづまは確かに実際に現実にいる。いるのだ。いるのに、眼の前に。それなのにお前は。

 だれきみ。

「そっちがニセモンなんだよ。お前のアタマん中にいる奴が。お前がお前を建て直すために作り出した」

「だったら会わせてください。いるんですよね?そうしたら信じます。ここにいるのが幻だってこと」

 そう来るか。

 弁論大会でこいつに勝てない。なにせようじの弟だ。嫌でも身につく。

「会わせてください。今日はそのために休みました。先生の言いつけどおり」

「駄目だ」

「死にます。会わせてくれないならいますぐに」

「どうやって?」

「決まってるじゃないですか」

 飛び降り。研究所の屋上から。

 兄への当てつけでそこから未遂を起こすのが彼の趣味。

「あそこは入れない」

「入れないことになってるだけです」

 しまったな。見られたかな。一番見られちゃ行けない奴に。

「先生が切ると生き返るんです」

「てことにされてるだけだな」

 死にそうになると主治医を代わらされる。

「嘘っぱちなんだよ。ぜんぶな」

 ゴッドハンドも。天才博士も。

「お前を狂わせるための算段だ。わかったろ。会ったって」

「もう狂ってるんです。これ以上おかしくなんてならない。これ以上おかしくなるとすれば、ここで無理矢理帰らされてもう本当に二度と会えなくなることです。はったりは自分で潰しました。だからもう。お願いです。一瞬でいいんです。一瞬だけ。あづま君が生きてるってことだけ」

「死んだよ」

「死んでません」

「お前が殺した」言いたくなかった。これだけは。

 言わずに済むなら他にどんなデタラメでも並べた。でも生憎、俺には弁論大会で優勝できるような立派な口はない。思ったことは即言っちまうし、思ってもないことは言えない。

「お前が殺したんだよ。お前があんなこと言わなきゃな」

 だれきみ。

「足滑らさずに済んでた。違うか」

 悲しい顔をすればいいのに。泣く前兆を見せればいいのに。そしたらここで切り上げたが。

「いもしなかったのに。どうせようじさんから適当なこと聞いて」

「あの場にいた全員に聞いたよ。お前以外の全員に」

「それじゃあ全員が口裏を合わせてるだけです。ようじさんのご機嫌取りに。みんな信者じゃないですか。そうでしょう? なんで真っ先に僕に聞いてくれなかったんですか。そしたら」

 これも言いたくない。

 でも、やっぱ弁論大会に勝つには。

「僕が言うことが真実です」

「お前は作話をする」もうこれで、

 俺が嫌いになっただろう。

「お前の言うことは信用できない。嘘が多すぎる。自分の都合のいいように真実を捻じ曲げる傾向が強い」

 ああこれで、

 彼は死を選べなくなってしまう。

「いいか。あづまは死んだ。お前の不用意な一言が引き金でうっかり足を滑らせた。死のうと思ったのかもしれない。さすがにそこまではわからないが、あづまだって好きでいなくなってたわけじゃない。お前は自分だけ被害者だったみたいに思ってるかもしれねえがあづまだって。あづまが、どんな思いでお前と離れ離れになってたと思うか? 親父に聞いたよ。あづまは親父と一緒に住んでた。自分が本当の父親だと言わない代わりに、一緒に住むことを許してもらってた。いや、そいつはどうでもいいんだ。親父のことはいまはどうでも。とにかく、あづまもつらかったんだ。お前に会えなくて。ずっとお前のこと想ってたんだ。お前に会うためにどうしたらいいか。ようじに交渉し続けて。ようじだって大事な息子に言われたら叶えてやりたいと思うさ。まさかそこまで想ってるなんて思ってなかったんだと。だからようじは、会わせてやることにした。息子の幸せのために。そのときのあづまがどんなに嬉しかったか、喜んだか想像つくだろ。大嫌いな勉強もこつこつやって、お前に会ったときに少しでもお前に近づいてるように。お前、アタマよすぎるからな。あづまも気にしてた。犬とカバンの区別がついてないって。必死で勉強してた。お前に会ったときに、前と違うってことを見せてやるために。だが、いざ会えたと思ったら当のお前はどうだ? あづまのことニセモンだとか言いやがって。ニセモンもホンモンもねえだろうが。あづまはあづまなんだよ。てめえのアタマん中に作ったその都合のいいあづまがニセモンだろうがよ。違うか。なんか間違ったこと言ったか俺あ」

 彼からぼろぼろ表情の欠片みたいなのが削げ落ちるのが見えた。無表情ですらない。表情に属するすべての概念が残らず消滅した。

 俺は、弟と義理の叔父を殺した。のだろう。

 その日を境に、

 ようじの弟は俺のところに顔を見せなくなった。


      5


 カケルは、巨大ホールの隅っこで丸くなって眠っていた。ドアを開ける音と足音で眼を覚まさせてしまったらしい。寝てるってわかってたらもっと配慮したってのに。

「いかんね。カナさんに叱られるかや」

「黙っててやるよ」

「知っとるよ。居眠り癖んことは」

 居眠り癖。

 カケルは大口で欠伸をして、ほどけかけた手ぬぐいを頭に巻き直す。傍らに粘土が転がっていた。枕代わりに使っていたのか、髪に粘土が付着している。

「いかんや。落ちんで」

「そんなに眠いのか」

「知らんうちに眠っとるん。憶えとらんで。びょーきかむしらん」

 異様に眠くなる病気。

「さとしは?」

「わからん、て。知っとる?」

「いつからだ。あるってわかったの」

「昔喘息でな。もうあらへんけど。眠いんは」

 喘息の発作。

「ここいる奴はみんな本名か」

「よう知らん。ヒトんこと興味ないじゃんね。名前も知らんうちに死んでまったのもおるし。話さへんよ」

 ひとりぼっち。

 コンクリートの床でひたすら眠り続ける。

「お前は?」

「なに?知っとるやつに似とる?」

「カケルが本名じゃねえんだろ」

 そんなわけはない。

 全然違う。こんなにガタイがよくないし、訛ってもいない。陶芸家?

 手先は器用そうだが。必死に共通点を探そうとしてる。

 別人だ。んなわけがあるか。

 死んだんだ。

 あづまは。

「なんてゆうんだ。ホントの」

「誰やったらええんかや」

「いいから。言ってみろ。大体お前の武勇伝を聞いてない」

「武勇伝て。ゆうほどのもんでも」

「なにやってここ」

「なんも」

「なんもって。なんかしたんだろ。ヒト殺したり、なんやら犯罪を」

「してへん。冤罪じゃんね? 晴れんで。聴いてくれんもん。俺んこと」

「さとしは?知ってんだろ」

「知らんかむしれん。20にひとり足りんかったじゃんね」

「言えよ。いまからでも」

「言ったって。聴いてくれんもん、だあれも」

「俺が言ってやる。だからさとしに」

 なんでそんなどうでもよさそうなツラして。

 あづまだったらどうすればいい。ようじが生き返らせたあづまがカケルだったら。

 カケルは積んであった陶器の皿を、床に叩きつける。一枚。二枚。三枚。

 四枚。

 それで終わり。おしまい。

「失敗作じゃんね」

「なにも壊すこた」

「壊さんと。次ができん」

 壊さないと次ができない。

 壊す。

 あづまを壊して、次にできたのがカケルだったら。

「誰と重ねとるんか知らんけど、出てってくれんか。お得意さんの作らな」

「なんの冤罪だったんだ」

 庇ったんじゃないだろうか。誰かを。

 誰か大切な人を。

「カナさんにでも訊いてくれん?」

「お前の口から聞きたい」

「忘れた」

「カケル」

「邪魔だで」

 あづまなら、そんなこと言わないのに。

「お得意って誰だ」

「知らん人」

「えとり、て。憶えてないか」

 つい、口から。

 破片を踏みつける。裸足で。

「おい、何して」

「いろいろゆわんで。集中できん」

 白い破片が赤く染まる。時間差で黒く変色。素手で拾い上げて。さっき枕に敷いてた粘土に練りこむ。痛くないのだろうか。手も指も切れている。台が褐色にくすんでいるのはそうゆう制作方法のせいかもしれない。

「はよ帰りん」

「見てていいか」

「見とってもようゆわん」

「えとりに会いたくないか」

 カケルはそれきり黙ってしまった。ただ黙々と粘土を捏ねる。

 形らしきものが出来上がるまでそこにいさせてもらった。無断だが。それでも何も言ってくれなかった。

 知らなかったら知らないと言えばいい。人違いなら人違いと言えばいい。否定しないから、そうかもしれないと期待する。そうであったらどうしようと、捕らぬ狸の皮算用をする破目になる。

 両の眼球を潰されたカケルをトンネルから運び出す。血の気の引いた蒼白い肌。体温がすっかり抜け落ちてる。心臓と呼吸は最初から止まっているとして、あとは。できることなら見たくないのだが、見ないことには。

 闇色の空洞。

 元々嵌っていたものが弾け飛んだ痕。

 どうすれば。

 どうすればこの闇は収まる?

 エスカレータは止まっていた。なんてことはない。階段になっただけだ。これがもしエレベータだったらどうなる? 

 どうにもならない。

 ただの箱じゃ、上にも下にも行けない。

 重い扉を押し開ける。しんとした高い天井。皿が並んだままだった。

 ひいふうみいよ。

 いつむうななや。

 ここのとお。それが二セット。

 ぜんぶで20枚。

 20枚?

 2枚増えている。いつの間に。

 というより、20枚。

 完成している。

 19枚目は、パンダ。やけにリアルな。

 20枚目は、

 R

 ようじに付けるとりょうじになる。魔法のアルファベット。

 最悪の皮肉。

 ようじを創り直した成れの果ては■んだ。

 一八枚目の裏に、

 ≒

 ニアリイコル。ほぼ同じ。

 イコと、

 日口にうゆとの関係。

 別人だ。

 一九枚目の裏に、

 和加差減 積乗商徐

「ようじ!」

 俺以外の声は響かない。

「いんだろ。なんだよこれ。いい加減」

『色の違う柱の中をご覧下さい』

「こそこそ隠れてんじゃねえぞ。全部、わかったからな」

『色の違う柱を』

 中央の柱だけ、真っ黒。残りは真っ白。

 中に、陳列されてたのは、

 綺麗に並んでいる。

 眼球と眼球と眼球と。上下左右。ぐるりと眼球が詰まっている。

 その全部がこちらを捉える。

 手を伸ばし損ねた。

『生きたまま眼球を抉り奪られるという凄惨な事件をご存知ですか』

「知りたくもねえな」

『私の模倣犯です』

「両方てめえの自作自演だろうが」

『そうですね。潰すべきものと抉るべきものとがありましたので』

「で、潰したわけか」カケルの眼も。

 ガラス玉のようにも見える。

 白い不透明の球に、黒い円。の中央にまた、黒。赤い枝が走っていない。

「なんでハメた?冤罪らしいじゃねえか」

『先生はそちらを信じるわけですね』

「どっちだ」

『誰だって捕まりたくはないでしょう? よくて死刑です』

「悪りぃと?」触りたくはなかったが、あまりに生々しいので。

 つい、

 指先で。弾けそうなほどに繊細な。

「本物なのか」

『死ぬまで病院で生殺しです』いまの状況を言っているらしかった。『人体実験の材料にされます』どこかで聞いたフレーズだった。

 どこだっけか。

「つーかこいつじゃ駄目なのか」

『どれです?』

 俺には見えないが。俺が見ようとすると鏡、もしくは鏡に類するものが必要になるが。見えなくても、見えているのだから。ここにある。

 ことはわかる。なければ見えない。見えているということが、あるという唯一絶対の証拠。

「こいつをやりたい」

『それをあげて、どうやって。見えないじゃありませんか』

「これじゃなきゃ見えない気がするんだ。こんな紛いもんじゃ」

『カケルは先生の大切な弟ではありませんよ』

「だろうな。息子だ」

「やっと認めてくれた」マイナの格好をしたようじが立っている幻覚。「それがいいならそうすれば?」

 瞼を抉じ開けて、人差し指と中指を。

 簡単だ。

 思い切りと勢いだけが重要で。痛くない。痛みはない。

「受け止めてあげるから」

 ようじの手の平に落下する。ようじの顔が見たくて焦点を。

 どう見てもマイナにしか見えなかったがそれでもようじだと思い込もうとした。

「嵌めてきてあげるね」

 カケルがあづまでもあづまじゃなくてもどうでもいい。カケルが何も見えないというなら見えるようにするまでだ。なにせ生存率100%一人も死なない。

 死なせない。

 俺の眼の前ではひとりも。

 白い煙が立ち昇る映像が侵入してくる。焼却炉の扉の前に、靴が揃えて置いて合った。そこから読み取れることは、単に靴を燃やし損ねたってだけの。

 俺の車を勝手に運転している奴がいる。カタツムリみたいな速度で。

 どこに行く。

 どこへも行けない。そんな鈍さじゃ。

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