第3話 黒き証はゴスィック
1
「ショウジあづまってだーれ?」
マイナだった。わたしの後ろに立って本を覗き込む。
「またヒトが死ぬやっつね。つまんなあい」
「しょう?なんだっけ」
「ショウジあづま。カナさんが血眼で捜してる」
「知らないな」ページを捲る。マイナと話してるよりかはずっと建設的。
「ほんとーに?」
「嘘ついてどうすんのさ。それよりまた。におい」
ビーフを使わないビーフシチュ。
「くさい。気が散る」
「おいしいもん。イコさんだっておいしーってゆってくれたじゃん」
「もう食べないよ」
「いいもん。先生にあげるもんね」
狂ってる。
「あたしはあれだけど、イコさんだって」
「あんたとは違う」
「殺してないってえ?どーだか。こーだか。ふふふん」マイナは飛び石伝いにぴょんぴょんと。
水面にスカートの中が映る。隠しもしない。気にも留めない。異様に膨らんでいる下着。
「イコさんてチ*コ見たことある?」
「それが?」
「あたしあるよ。あれね、変なんだよ。変ヘンへん。すっごーく変」
無視する。
いつものあれだ。ページを捲ろう。
「カケルくんってどーてーかなあ」
無視。
「イコさんきょーみないもんねえ。メガネかけてないもんねえ」
「襲ったわけだ」
「うんそー。初開通もらってきちゃった」
ページを捲る。
「カナさんはどーかなあ。ねえ、イコさん。メガネだよメガネ。どう?」
「ワカサゲンに搾られるんじゃない?」
「しっぽり搾り取られちゃうかなあ。どーかなあ。カナさんはイコさんに譲るとして」
要らないし。
確かにメガネっ
「りょうちゃんは?最近めっきしだねえ。びょーきとか?アタマの」
「あんたみたいなのに掘られないようにじゃない?」
「ショウジあづまってカタクラ先生の息子ってホント?ねえねえ」
「それが聞きたかったわけか」本を閉じる。
「お、お。本気もーど?やるよ。やっちゃえるよ。イコさんならいつでもおーけい」
「焦げ臭いんだけどさ。鍋」
「あ」マイナは階段を駆け上がっていく。
しばらくして、しょげた様子で戻ってきた。とぼとぼと飛び石を。下着も萎んでいた。
「焦げちゃったの。先生に食べてもらいたかったのに。あーん、て」
「人肉入りのね」
「入ってないよう。もーイコさんがそーゆーことゆうからみんな来なくなっちゃったんじゃんかあ。怨んでるんだからね。ムカついてるんだからね、あたし」
「次はわたし?」
シチュの材料。
「うーん、どーしよっかなあ、て感じ。いまんとこ。イコさんのこと嫌いじゃないし、かといってカケルくんは二〇枚作らせたげたいし。でもでもあたしだってえ」
「さっきわたしのこと怨んでるとか言ってなかった?」
「怨んでるのと嫌いなのは別だよお。憎らしいほど愛してるってゆうじゃない? イコさんに関してはまあおおむねそんな感じでね。あーあ、りょうちゃん啼かせたいなあ。こう、カナさんの前でね。やめてやめてって喚くの。カナさん動けなくって。りょうちゃんヤんなら僕が代わりにって。ふふふん。身代わりを申し出てくるんだけどお、ダメダメ。りょうちゃん痛がらないんだろうなあ。つーかくなさそうだし」
「やってこれば?もういっそ。先生誑かして連れてってもらってさ」
「あ」マイナがぽんと手を叩く。「そのほーほーがあったじゃん。すっごーい。さっすがイコさん天才。伊達にサッカさんじゃなーい」
静かにしてくれるんならどうでもよかった。
わたしはそう長くない。包丁持ったマイナに追い掛け回されてぶすぶす包丁突き立てられて血まみれ涙まみれ涎まみれ尿まみれで泣き叫ばされた挙句顔射されて果てるよりは自分で命を絶ったほうがマシ。
そんな惨めな死に方したくない。それじゃ先生に申し訳ない。
先生はなんにも知らない。まだ気づかない。
気づく前に死んでやろう。
先生に復讐させちゃいけない。先生の心残りがなくなって死んじゃうから。
先生には死んでほしくない。ちかおのためにも。
ちかおにできる唯一の罪滅ぼしは、先生を死なせないこと。ちかおの大好きなお兄ちゃんをあの世へ招待しないこと。
また見てる。厭きもせず。
先生は毎日私を確認しに来る。わたしが黙って死なないかどうか見張ってる。断ってから死ねと言っている。
許してくれないくせに。
「なんの本読んでるんだ?」
カナさんに忠告されたのだろう。わたしにしていい質問は現在のことだけだと。だから会うたびそればっか聞いてくる。ヒトが死ぬ本だってゆってるじゃん。
「見せよっか」
「いいのか」
「貸すよ」
「いいのか。その、借りてって読むのなくなったら」
「これだけじゃないし」
先生が心配してるのは、余計なことをしてカナさんに叱られることじゃない。余計なことをしてわたしの具合が悪くなることだ。
悪くなるわけないじゃん。
これ以上、どうやって悪くなると。
「どうぞ」
「すぐ返すから」
絶対に気分が悪くなったはずだ。書いた張本人のわたしだって何度も催してるくらい。ここで読んでるのはそういう意図もある。水のにおいでいくらか気分が和らぐ。あん中にいたもんなら、四六時中寝るまで起きてもマイナの人肉シチュのにおいを嗅いでなきゃなんない。地獄の拷問だ。
次の日、先生は本を返しに来た。もうそろそろ部屋に避難しようかってときだった。暗くなる前に戻るのは、手元が見えなくなるからじゃない。夜中に外なんか出てたくないだけだ。
格好の餌食。マイナは夜行性だ。夜になると日中なんか比べ物にならないくらい性欲が亢進する。
「悪い。俺には向かなかった」
だろうと思った。気を遣って一日持っててくれたのだ。その場で返さずに。
なんて優しい。残酷すぎ。
「作者なんだが」
「好きなのか」
「コンプだね」
わたしが書いたんだから。
「俺はその、彼女を知ってる」
「会ったんだ?」
いまも会ってるけど。
「これ、フィクションか。あ、そういう意味じゃなくてな。その、なんつーかやけにリアルっつーか」
そりゃそうだ。実際にあったことを書いたんだから。
「ホントのことみたいで」
「まさか嘘とは思えない。日口センセの虜になってるヒトはみんなそう言うよ。かくゆうわたしも。ファンクラブ入ってるんだ。会員ナンバ一桁だよ」
「好きなのか」
「うん。一番好きな作家だね」
好きなわけないだろ。あんな猟奇性犯罪者。
先生は根掘り葉掘り掘り起こしたい気持ちをぐっと堪えた。わたしを混乱させると思っているのだろう。
そんなわけないじゃん。カナさんが大法螺吹いてるだけで。
「んじゃそろそろ。戻るんだろ。悪かったな。部屋戻る前にって思って」
「先生さ、死んじゃ駄目だよ」
その翌日にわたしは死んだ。
血がどばどば出る、生理二日目だった。
2
18人目がイコだった。とすると、19人目が出る。近いうちに。
カケルか。
マイナか。
ないと思うが、それだけはあってほしくないが。りょうじか。
あいつはあの部屋から出ない限り大丈夫だろう。俺やさとしが殺しに行かなければ、の話だが。
何考えてるんだ。思考が乱される。大したアタマも持ってないってのに。
ようじなら、
あいつならこんなときどうするだろう。どうもしないか。なるように成り行きに任せて自分は高みの見物。ケラケラ嗤いながら。
駄目だ。俺にはそんなこと。俺はそんなことできない。
「彼らがやったことを知って尚、そんなことが言えるでしょうか」
「どういう意味だ」
エスカレータの上流からさとしが見下ろす。段に封筒が載せられて。吸い込まれずに突っかかった。
すごく見覚えのある、黄緑色の。
「彼らの過去です」
「どういうつもりだ」
「知っておいたほうがいいと思いまして。ご自分の身を守るためにも。どうして僕が殺されないで生き残っているとお思いです? 僕が数に入ってないからじゃないんですよ。僕が主治医だからなんてことはまったくない。彼らにとってニンゲンは、殺せるか殺せないかでしか判断できない。僕は殺せない側のニンゲンなんです」
「守ってやれよ」
大事な患者を。
3人のうちひとりだけの。
「ご安心ください。彼も、僕と同じ側です。あとはカケルとマイナが潰し合うだけです。単純な仕組みです」
「んで?生き残ったほうをお前が殺す、と」
「なにも惨殺しようだなんて思ってませんよ。苦しまずに送ってあげるつもりです」
「なんでこんな」とこで大事な患者を「大事なんだろ?」
「こんなところ、でしか置いておけないでしょう。よく考えてください。いくら外見が同じだからといって、中身まで同じとは限らない。標準や平凡を身に付けてほしくないんです。彼は特別であり逸脱であらねばならない。あらゆる意味合いで、ここはその要求を満たしている。彼らとの接触は僕の管理下にあります。殺せない僕の傍に」
殺せない。
本当にそうだろか。
「見る見ないは先輩の自由です。ただ、彼らには見せないでください。命が惜しいのなら。ああ、そうでした。それ、まとめたの」
博士。
「おい」
呼び止められなかった。黄緑を自動で手に取って中身を自動で開封していた。
マイナもカケルもどうでもいい。あいつらが誰をどんな風に殺したかなんか。
ようじ。
読めば会えるような気がした。
エレベータの到着音。
急いで封筒に中身を仕舞う。
カートに、湯飲みやら壷やら花瓶やらが、絶妙なバランスで積み上げられていた。息の吸い方を間違えれば崩壊する。
カケルは涼しい顔で。「納品いってくるでな」とだけ言って、再びエレベータのドアを閉めた。
わざわざ俺にそれを言うために、一旦2階で止まったらしかった。なんで俺がエレベータ付近にいることを知っていたのだろう。エレベータなんか使わないのに。
止まったらどうするんだ。
だよな?
エレベータは3階で止まる。なんとなく追いかけたかった。エスカレータを駆け上がって、無人の受付をスルーして。無人?
椅子にパンダの着ぐるみが座っていた。ように見えたがそれに構っている場合じゃない。カケルはトンネルの入り口に差し掛かったところだった。
「出れんのか、外」
「約束しとんで」
ぴんぽーん。
「受け取りに上がりました」トンネルの向こうから、営業っぽい胡麻摺りの裏声がした。
真っ暗で何も見えない。明るいところから暗いところは見えにくい。逆は丸見えだが。
「早速ですが、確認させてもらってもよろしいでしょうか」
「ええよ」カケルがゆっくり押すと、カートがトンネルに吸い込まれた。
「少々お待ちいただけますか。その間これでも」
トンネルからにゅう、と。出てきたのは。
饅頭。
まんじゅう?
「好きなのか」
「こしあんやないといかんじゃんね?」
わけがわからない。
「はい、確かに頂戴しました。今度とも宜しくお願い致します」
「こんだけ?」
「え、ああ、はい。いえいえ、そんなそんなまさか。おい。例の。あんだろ。車ん中だよ。トランクだ。すいませんねえ。こいつ先週入ったつるっつるのぺーぺーでして。物の道理ってものをまだよく。早く行けって」
もう一人いたのか?こっちからは見えないからなんとも。
振りかもしれない。
がらがらがらがら。
「少々お待ちください。本当にね、まさかこれっぽっちで済まそうだなんてそんな虫のいい。ええ、心得ておりますよわたくしどもは、カケル様の」
「早よしりん」
がらがらがらがら。
さっきのカートが戻ってきた。載ってるものが違う。
壷。壷と壷と壷と。
「こんだけ?」
「こん、だけを揃えるのにわたくしどもがどれだけ」
「都合は知らんけど、俺はこんだけやったら」
壷だった。
アレを容れるのによく似ている。あれだあれ。あの、あれだよ。
粉末状の白い粉を容れておく、あの。
「足りん」
「といわれましても、これがぎりぎり限界で。次は今回以上に、その誠に申し上げにくいのですが」
「作らんよ。大体そっちが持ってきたじゃんね?憶えとらんかもしらんが」
「はいはい憶えておりますとも、勿論です。提案させていただいたのはわたくしどもの勝手で。カケル様はただその我が儘にお付き合い戴いただけの」
「とにかくもう作らん。これも要らんで」カケルは勢いよくカートを蹴っ飛ばした。トンネルに吸い込まれて。
壷が粉々に壊れた音が反響する。
「はよ帰りん」
返答はなかった。カートが直撃して何か致命的な怪我を負ったのかもしれない。
「助けんでよ。手間増やさんで」
「でも」
「離れりん。閉めんで」
トンネルの出入り口が閉め切られる音がした。
「毒ガスなん、おそがいことはようせん。運よくカナさんが外出することあったら、助かるかもしれんね。ほいじゃ行こまい」
「んなとこ放っといたら」
「死にゃあせん。マイナが見つけんかったら」
俺には開けられるはずだ。さとしがやっていたように、トンネルの入り口に立って。
なにも起こらない。
冷たいものが手に当たる。叩いても手が痛くなるだけ。
「おい、しっかりしろ。生きてるか」
耳を当てても聞こえない。そんなにぶ厚いのか。
通信機器。
さとしを呼べば。
「ほかっときん。持ってこんのが悪い」
がらがらがらがら。
カートの上の壷は。
「墓ん下埋めとっても会えんだって。身近に置いとけるもんに」
だから、骨を使って。
「皿作ったってゆうのかよ」
「饅頭くれるゆうもんね? たんとくれんとかん」
おかしくなりそうだ。
俺がおかしいのか。カケルがおかしくないのか。
無人の受付カウンタの裏に隠しておいた。黄緑の封筒。それがなくなっていた。
まずい。
俺だってまだ途中なのに。問題は誰が持っていったのかということだが。
カケル?でも手ぶらだ。服の中に隠してないなら、だが。胸元が大きく開いているので隠すなら背中か。
やっぱマイナ?
レストランは本日閉店が吊るしてあった。駄目もとでノブを引いたら開いた。
照明は点いていない。入るのは気が引けたが、黄緑をなんとしても取り返さないと。
どうなる?
「いるか」
返答はない。どことなく焦げ臭いような。まずは照明のスイッチを。
知るわけがない。いつもここは点いている。カーテンは開いているが、そろそろ暗くなりかけの。一日のうちで一番世界が見えにくくなる時間。
「マイナ?いねえのか」
返事はない。
かたかたかたかた。
ちょっとビクったが、鍋が火にかかったまま。火を止めた。
のは俺じゃない。
俺はいまだにどこから厨房に入ったらいいのかわからないのだ。
「マイナか。いんなら」
「準備中だよ?」マイナの声だった。姿は見えないが。
「なあ、ちょっと訊くが、黄緑の封筒な?受付んとこに置いといたんだけど」
「ひっどいよね。あたしたちのこと、あることないこと」
マイナだったか。
「返してくれないか」
「煮っ転がしでよければね」
かたんと。カウンタに。
紙の煮っ転がし。
「先生だけにトクベツ。夕飯までこれで持たせて」
イコの遺言。
マイナのビーフシチュだけは。
「何作ってるんだ?」
「うーんとね、どーしよっかなあ、て思って。先生なんかリクエストある?」
「ビーフシチュ以外で」
「わかってるよう。そう毎日おんなじのじゃ厭きちゃうもんね。そーだなあ。今日はね」
鍋の中身は。
「それ」
「あ、気になる?これね、さっき仕入れてきた新鮮ほやほやの」
さっき?
仕入れてきた?
「どこで」
「どこって。えー教えるの?教えたくないなあ。でもでも、先生にだけヒントね。あたしの料理食べに来てくれるもんね。おいしーってゆってくれたし。だからちょっとだけ。あのね、カケルくんのね、とーきを奪ってく奴が」
レストランを飛び出して。エスカレータはなまじ階段より不便だ。足が縺れる。
3階。トンネルの入り口は開いていた。
開いてる?なんで。
フットランプも点く。一歩踏み入れたら一斉に出口まで。
眼どころか顔ごと逸らした。体ごと。
入ろうと思い立ったときに気づくべきだった。鉄の腐ったにおい。
ここで、解体したらしい。どす黒いペンキが飛び散って。
血なんか肉なんか見慣れてるが、切るのも縫い合わせるのも手馴れたもんだが。
こうゆう悪意のあるバラし方はどうも。
朝からいままで口にしたものを思い出す。何も思い出せなかった。
逆流。
「いーダシが出るよ。そだ。ラーメンとかどうかな。先生好きでしょ豚骨」
本当に豚骨ならな。
木と林と森の合間から、白い煙が立ち昇るのが見えた。
3
どうやってベッドに入ったのか憶えてない。長い一日だった。どっからどこまでが昨日だったのかぼんやりとして。とっくに今日だったのかもしれない。明日かもしれないし明後日かも。それより何日経った、ここ来て。
帰りたい。帰っていいものだろうか。
閉じ込められたわけじゃないからきっと帰れる。でも帰るには、あのとんでもないトンネルを通過しないといけない。黒いペンキで描かれたあれを見ながら。
思い出したらまた胃の辺りと食道がちりちり。
食欲を抑える方法を考えなくたって、しばらく何も口にしたくない。冷蔵庫のミネラルウォータをがぶ飲みする。もし万が一だが腹が減るようなことがあれば、即席ラーメンを作ればいい。得意料理じゃないか。
ラーメン。
それも思い出すべきでなかった。トイレまで間に合わない。水道。
脱水になってしまう。このままじゃ。
通信機器が光ってるのに気がつく。
「なんだ」さとしから。
「電話が入っています」
「誰だ」
「精神科医の」
「切っていい」
絶対に200%の確率で結佐(ユサ)だ。なんであいつはいっつもこうゆうときに。
「緊急の用だそうで。出てきてくれませんか」
「ちょい待てお前」
「ドアの前です。裸とか寝癖とか気にしませんので右手だけ出してもらえれば」
いま気づいた。
なんでマッパなんだ俺は。熱くて脱いだか?でも脱いだはずの服が見当たらない。
「なあ、俺昨日」
「早く」
「あいあい」
さとしが切らないなら俺が切ればいい。それだけのことだ。
ドアを衝立に手を伸ばすと、ケータイが載せられる。俺の。
「で、なんだって?」電話に出た。
「ああ、よかった」やっぱり結佐か。「そのね、あなたに掛けたはずが、ええ、知らない方が出られたものですから。危うく妙な勘違いをね、してしまうところでした、はい」
「てめ殺されてえのか」
「殺してもね、生き返らせていただけるならね、喜んで、ええ。ところであなたいまどちらに?辞表をそのね、あろうことか院長のお顔目掛けて叩きつけたと伺いまして。これは真相のほどをと。私にできることなら、その、知り合いの誼で弁護もね、やぶさかではないといいますか」
「なんでんな尾ひれ付いてんだよ。出すこた出したが」
「博士を複製してるっての本当でしょうかね」
ドアから離れる。さとしがそこにいないとも限らない。
「どこまで知ってる?」
「その博士から言伝を預かりまして」
いつもいっつも。
なんで俺に直接寄越さない?
「会いたくなるからでしょうね、はい。博士のお気持ちも汲んでいただくとして」
「こっから逃げろってか?人肉食わされる前に」
そうだ。服を捜さないと。
「あれまあ、それは珍しいものをお食べに?どうでしたかね?」
「食ってねえよ」
たぶん。
あのビーフシチュが無難にビーフで作られてれば。思い出したくないが。
「博士としてはやはり、あなたが見す見す殺されるのは耐え難いと、そう仰ってまして。責任感のすこぶるお強いあなたのことですからね、中途半端に放り出して逃げるだなんてそんなことも出来ないだろうと、そう見通してもおられるようで。ですから、どうせなら全員死ぬまで見届けてからでも遅くはないと。生き残れと、そう激励のですね」
「なんだそりゃ」
ようじらしいといえばようじらしいが。あまりに無責任な。
「もしかすっと何かの拍子で間違って死んじまうこともあるかもしんねえけど、そうゆう場合どうすんだって?生き返らしてくれんのか」
「ええ、はあ。生き返るだので思い出しました。息子さんは間違いなくね、お亡くなりになりましたよ。あなたまだお認めになられないようですが。それもよく言い聞かせてほしいと、ええ。託った次第で」
「死んでねえよ」
「死んだんです。お亡くなりになりました。もう何年経ちます?いい加減いつまでもね、ずるずるずるずると引きずるのはおやめに」
死んでねえんだよ。
「あづまは」
「どうしてそう頑なに、ううむ。受け容れ難い事実をですね、受け容れたくないのは重々わかりますが、あなたがそういつまでもそこから動けないでいるから、博士も」
「ようじも?なんだって?」
いつまでも葬式を挙げられない。
「どこに隠したんですあなた。息子さんのご遺体を」
「だから死んでねえっつてんだろ。てきとーなことべらべらくっちゃべると」
「あなただけですよ。そういつまでも拒絶しておられるのは。いいですか?息子さんは」
「息子じゃねえよ」
あづまは。
「ああはい、そうですか。そうですね、まあ確かにあなたの息子じゃない。ですが、博士がそう仰られるからついつい合わせていましたが、ええ、そうですね。そこは認めておいででしたか。あなたのお父様の子です。つまりあなたとは異母兄弟ですね。とにかくその息子さんは、何年前でしたっけ、俄かには思い出せませんがまあ、それでもだいぶ経ちます。ある日、飛び降りたんです。病室の窓から。後追いの時間差自殺、とそう呼んでましたよ博士は。あなたが第一発見者だったのでは?なにか違っていますか」
違う。
全然違う。なんでそうなる?
あのときは生きていた。俺が生き返らせた。あっちの岸から強引に引っ手繰って連れ帰った。問題はそのあとだ。そのあとの。
日口にうゆの姉が。
「いまどうしてる?」
「何を仰ってるのか、その、いまいち。大丈夫です?お疲れなのでは?」
「いまどうしてるかって聞いてんだよ。あづま突き落としたあと」
突き落としたのだ。しっかり摑まえてなかったから。
足を滑らせて。
自分で滑らせて。
「憶えているじゃないですか、なんだ。とっくにお認めに」
「どうしてる?」
「退院されたという話は聞きませんね」
「治るのか」
「以前のように職に復帰できるのかとそういうことでしょうかね。私が診ていないのでなんとも言えませんが、はあ、難しいかと。奇跡でも起きない限りはね」
奇跡。
あきとのことを言っている。奇跡が起こって以前のように復帰できた。
ようじの魔法。
「ただ、今回は奇跡を望む者が少なすぎますのでね。見込めないかと。勿論私は望んでいますよ、ええ。なんたって美人ですからね、ははは」
「日口にうゆが死んだ」
「いつ?え、あの方どちらに」
「ここにいた。たぶん、ようじが」
「そうですか。それは」
ツラかない。悲しくもない。
あきとは元に戻って、日口にうゆは死んだ。終わったじゃないか。ぜんぶ。
あづまは、
終わらせない。日口にうゆの姉もまだ生きている。
「話を蒸し返して恐縮ですが、弟さんのご遺体はその、いったい」
「あいつに言っとけ。てめえで訊いたら教えてやるってな」
切る。
さとしはやっぱりそこにいた。俺のケータイを回収しなきゃいけない。電話が終わるまで待っていた。
「お前早死にするぞ」
「でしょうね。もしそうなるようなことがあれば、彼をお願いしてもいいですか」
「なんだよ、急に。殺されないんじゃなかったか」
さとしはケータイを持って行こうとしなかった。
「いいのか。外部と接触し放題だが」
「お返ししようと思ったんです。そしたらちょうど着信があって。ですからいいんです。いろいろとすみませんでした。僕みたいな分際で先輩に」
「どうしたんだよ、だから。何があった?」
「怒らないで聞いてください。弁償しますから、いずれ必ず」
「だから、なにが」
弁償?
「車が」
見てこようと思ったが、さとしに呼び止められる。
まっぱ。
「せめて服を着る間だけでも僕の話を」
「そうだった。ねんだよ、服が。心当たりねえか。つーかなんで俺あ裸で」
「それもご説明しなきゃいけないことが。着替えはお持ちですか」
「いちおな。入れよ。見苦しいだろうが」
ない。着替えどころか荷物ごと。大したものは入ってないが、財布とか車のキーとか。家の鍵だって入ってたのに。
さとしは俺のほうを見ないように配慮しながら、紙袋を差し出す。シャツとズボンと下着が入ってた。半袖じゃないのがあれだが、この際文句も言ってられない。
「少々大きいでしょうが我慢してください。僕のです。車も含めて必ず弁償しますから、どうか」
「そうだそれ。どうなったって?ポンコツ?」
「なくなりました。僕のも一緒に」
「は?キー付いてねんだぞ。どうやったら」
「事情が違えてきたんです。彼らは至極個人主義です。自分さえ快なら他がどうなろうと無関心でした。いいえ、他者を痛めつけることで、死に至らしめることで心地のいいものを得ていたんです。だからこそ、彼らが協力するなんて万に一つもあり得なかったんです。僕はそこまで想定していなかった。長く共に暮らすことで何かが芽生えたんでしょうか。あの彼らがですよ? 信じられませんがいまはそれを信じるほか」
「要は、どうなんだ?協力って」
「カケルとマイナが手を組みました。彼らは共に協力し、僕らを、そしてもしかしたらりょうじを、排除しようとしています。先輩の服や荷物がなくなったのもおそらく」
逃がさないため。なるほど。
キーさえ盗めば車なんか簡単に動く。
「でもな、車がなくたって」
「ええ、そうです。僕らは彼らとは違いトンネルの通過権があります。が、彼らはそれをさせまいと人質をとったんです。少なくとも僕は逃げられません。ですから先輩だけでも」
「人質?おい、それって」
まさか。
さとしの顔色が悪かった理由。一つしかないじゃないか。
「交代でトンネルの入り口を見張っています。細いほうの」
参ったな。そりゃ。
腕まくりをする。暑くてしょうがない。
「僕のことは気にせずに」
「お前俺がそんな薄情な奴だと思ってやがったのか。ひっでえな」
「薄情でも何でも。先輩は僕と違って生き残るだけの価値があります。どうか医者を辞めないでください。辞めるだなんて、先輩のお蔭で一体どれだけの人が」
「辞めるだなんて言ったからかもな。もうちょい自分の立場考えろって。つーかな、お前が妙な手紙寄越さなきゃあ俺は。よりにもよって院長宛に送りさえしなきゃあ」
「え、院長に?誰がです?」
「誰がって、俺に直接寄越しゃあこんな」
絶対行かなかったのに。
「直接送りましたよ。それを見て来てくれたのでは」
「は、なにお前わざと院長宛に送って寄越したんじゃ」
どういうことだ?
「送ったことは確かなんだな?手紙、て。あーそうだ。荷物」
「僕が送ったのは届いてなかったってことでしょうか」
封筒だけすり替えて中身はそのままか。或いは中身ごとすり替えられたか。
「院長んとこにきたやつは、黄緑色の。ああ、昨日お前がくれたあれと似た感じの色の封筒で。こんくらいの」
A4を三つ折にしてちょうどいいくらいの。
「じゃあ封筒は僕の送ったものじゃありませんね。カルテが折らずに入るサイズでしたから」
「手紙とカルテのコピィが入ってたな。計二枚。絶対お前が書いたもんだと思ったがな」
「どんな内容か憶えてますか?」
「うーんと、バカ丁寧な挨拶と、俺が車で来るだろうからその案内と。カルテだって、ぜってえ俺の専門だと思ったから来てやったってのに」
なにもかも、さとしの文面じゃなかったてことか。
誰がそんな。院長?
「なあ、所長ってのは?ここにゃいねんだろ」
「人員のことをお尋ねになったの憶えてますか。僕以外に常勤と非常勤、それぞれ一名ずつだという。所長は数に含まれていません。機会が巡ってこなかったのでつい後回しにしていましたが、ご紹介します」さとしは聞き取れないカタカナを喋った。
それとほぼ同時かワンテンポ遅れて、エレベータの到着音が耳に入る。
2が光る。
「事務のワカサゲンです」
ドアが開いて、中から。
パンダの着ぐるみが。
いったんドアが閉まってもう一度開いた。閉めるボタンと開けるボタンを押し間違えただけのようだった。あれはどうもいけない。同じく〈もんがまえ〉だから視認性が悪い。
受付に座っていたような気がしたのは見間違えでもなんでもなかったのか。
ぺこんと頭を下げる。パンダ?なのか?
「いろいろ仰りたいでしょうが、どうか深くを聞かないであげてください。悪い子じゃないんです。仕事もしますし、ただちょっと極度の視線恐怖で」
「雇ったアホは誰だ」
4
テーマパークだの遊園地だのに常駐し、休日のショッピングモールだのに突如出没するアレだ。やや薄汚れている。眼の位置についている二つの黒いボタンから外の様子を見るのだろう。そこだけ歪な光り方をしている。
背丈は俺にもさとしにも足りない。子どもに威圧感を与えないためには、きっとこのくらいのほうが触れ合いやすい。背中のチャックを見たかったが、それをさせまいとしてるのか、絶妙な角度補正を持続的にかける。
『ワカサゲンと申します。よろしくお願いします』
その人工的な声にすごく聞き覚えがあった。りょうじのとこに繋がる細いトンネル内で俺にずけずけと無礼な質問投げつけた。
『台本があったのです』
ようじだ。
やっぱようじなんだろう。所長というのは。
電話口だとこうも聞き違える。実際に会ったって気づくかどうか。
もう何年会ってない?何十年?何百年か。
「こいつが非常勤で?」
「いいえ、常勤です。先輩に見られまいと必死で隠れていたので」
そんなに言うなら見てやりたいじゃないか。
顔を近づける。雰囲気を感じ取ったのか、器用に後方移動。するが案の定、テーブルと椅子に足を取られて。あ、と注意を促すも虚しく。尻餅を。
「だいじょーかよ。仕事になんのかこんなんで」手を貸したが取る気配もない。取れないのだ。
諦めて距離を与えてやる。と、すっくと立ち上がった。
「じゃあ非常勤は?」
「いずれご紹介できるものと」
「いねえのか」
「いまは」
それこそ、ようじ。じゃないだろうか。
期待はしないほうがいい。あとあと裏切られるからだ。
「ワカサゲン。知っていると思うけど、状況が変わった。辞めるなら早いほうがいい。止めないし、給与も心配しなくていい」パンダの?「ことがことだ。君が望むまで」
首を振る。横に。
『私にはここしかないのです。ここを出たってどうしていいのか』
男か?
なんとなくそう思った。
「それも心配しなくていいよ。僕にはその手の伝手がごまんとある」遊園地の?「話だってついてる」動物園の?「あとは君がどうしたいかだけど」
首を振る。再び。
「なにが心配?言ってごらん」さとしは腰を屈めて優しげな眼差しを向ける。
ああ、これだ。これがさとしの。
心配ってのは、笹が容易く手に入らないことだろう。
『カナさんの好意に甘えてきました。ここへ来てからずっと。期限切れだと思うのです。この格好でなければヒトとまともに話せない私が、どうやって外で生きていけと。死んでいるのです。私は、すでに死んだものと扱ってくだされば』
「死ぬことで罪滅ぼしをしようと考えている。そうだね?」
首を振る。縦に。
「そうやって死んだイコを模倣しようとしてる。その方法があったのか、と気づいちゃったわけだね」
『どうしてそんな簡単なことにいまのいままで気づけなかったのか不思議でなりません』
「でも君は生き残った。方法と過程はどうあれ、結果はそうなった。どうして僕が君を殺さなかったか。話したことがあったね。憶えてる?」
生き残り。さとしが殺す。
ああ、そうか。そうかもしれない。そうなのだ。
殺せないじゃないか。
なにが、僕が殺します。だ。どだい無理なのだ。さとしにそんなこと。
「生きることで償いなさい。それが僕が、君に与えたご褒美だ」
『私に出来ることはもう一つあります。許可を』
「駄目だ。生きることと正反対だ。許可できない」
『でも私がやらなきゃ。この中で死んでも差し障りないのは私だけです。私にはそれができる。それしかできないんです。カナさんへの恩返しは。やらせてください。どうか』
「できない」
身代わりになってりょうじを助け出そうとでも?
そんなにヤバイのか、こいつは。ただのパンダだぞ?極度の視線恐怖の。
「その視線恐怖故に、周囲の人間を視えなくさせたのです。自分を視ることができないように。自分の眼を塞ぐ場合もあるのですが、ワカサゲンは逆の方法を採りました。視られている限り、視させなくさせてきます。視るのをやめさせます、なんとしても」
「やらせんのか?」
『艮蔵先生からもお願いします。私にはもうそれしか』
「視野狭窄に陥っているのはわかってる?僕はそんなこと頼んでないし提案もしてないんだよ? 君が勝手に言って勝手に死のうとしてるだけなんだ。それはわかるかな?」
「おいおい、そりゃ言いすぎ。こいつだって精一杯」
「死んだからといって罪がリセットされるわけじゃありません。殺されたのなら仕方がないですが」
て、おい。それはつまり。
『ありがとうございます。一滴も血を流させないとお約束します』
憎悪を込めてさとしを睨んでやったが。
ニセモンだとわかったのだろう。怒ってるフリだと。
「止める権利は俺にない」
「博士が先輩を気に入っている理由がわかった気がします」
「どういう意味だよ」
パンダは俺に二回、さとしに五回頭を下げたあと、意気揚々とりょうじに繋がるトンネルに向かったわけだが。追いかける権利もない。なんの権利もないのだ。
「おそらく無駄死にでしょう」
「なんで行かせた。お前それわかって」
「言っていたでしょう。期限切れだと。同感です。あのとき僕は殺せなかった。その尻拭いをしてもらう機会ができました」
首根っこ摑んで三発くらいお見舞いしてやってもよかった。
そんなことで悔い改めてくれるんなら何発でも、半殺しくらいまでは手加減なしで。
なんでそういう考えしかできなくなった?
「せめてカケルあたりと刺し違えてくれればいいのですが」
止めないと。まだ間に合う。
「死にますよ?」さとしが言う。
「んなわけに、死なせるわけに」
「ワカサゲンが何人の人間を死に至らしめたと思います? 全世界が自分を視てると思い込んで。両親は勿論、兄弟姉妹、先生、友人」
「数じゃねえだろ。戦争じゃねんだ」
「先輩だって、弟さんの件は終わったでしょうけどまだ。まだ終わっていない復讐があるんじゃないですか。戻ったらまず、何をしようと思いましたか?
行かない。行けない。行ったら、
なにをするかわからない。
「無関係だからそう澄ましていられるんです。被害者や遺族は?どんな思いで。それこそやりきれない思いを抱えて」
「お前が代わってやることはない。何のつもりだ。何になったつもりだ」
「何にもなっていません。僕は医者ですらない。殺される価値もない」
首根っこと胸倉の間を摑んでいた。力が緩められない。こんなことしてる場合じゃないのに。このわからずやを放っておいてすべきことが。
「僕を殺しますか」
「死にてえだけだろ。てめえで死ね」
笑い声。
笑い声?
だれだ。誰がわらってる?だれが。
ケラケラケラ。
じゃなければいい。ケラケラ。じゃなければ。
聞きたくない。聞かなければ。
ケラケラかどうか。ケラケラだったら。
そうだったらどうすればいい?
パンダの中身は。
ガラス張りに張り付いても、光って見えない。外に出る。階段を二段抜かしで駆け上がる。
パンダの中身だけ。中身だけ無事なら。
中身は。
首が。首から上が。
パンダの頭だけ落ちて。
必死で胴体を探して視野を広げようと躍起になっているのがわかってさらに焦る。
トンネルの入り口に、パンダの首だけ落ちていた。
ワカサゲン。と言ったつもりが口から出てきたのは。
ほど遠い。
よとうとじ。
違う。そんなはず。トンネルと床の境界に。
黒が染み出てくる。
ペンキだろう。あの黒い部屋の塗料が何らかの理由で溶けて。熱かったとか。
あれだけ真っ黒に塗れば。
触らなくてもわかる。それは触るべきでない。わかってる。素手で触るなんて。
鉄が腐っている。
空気中の酸素を使い切る速度で。
何かが倒れた音。何かが笑った音。
トンネルに踏み込む。フットランプは機能していた。嫌味なくらい照らす。
仰向けで。
両眼から黒いペンキが垂れ流れている。
カケルだった。眼と脳がおかしくなっていなければ。
おかしくなっている。
蘇生を思いつかない。生きているか死んでいるかの確認をしようとも思わない。
見ればわかる。
そうじゃない。診る気が起こってこない。
俺の職業は何だ?
なんだろう。ただのニンゲン切り刻み機械?ニンゲン切り貼り職人?
同じじゃないか。どう違う?こいつらがやったことと。
なあ、
「ようじ」
パンダが振り返る。首から上が何もない。
真っ黒の。
5
「ようじなんだろ?」
パンダは動く意味を見失ったみたいに突っ立っている。
「全然気づかなかった。お前、そんなもん被ってさ。なんだよ。いんならさ」
パンダは動くことに意味を見出せないみたいに突っ立っている。
「笑えねえよ。お前代わりに笑えよ。いつもみてえにさ。莫迦にしたみてえに」
ケラケラ。
パンダは動かない。
「突っ立ってないでおいでよ」
黒い髪。短かったらよかった。
黒い眼。どんぐりじゃなきゃよかった。
初めて会ったのは。
「考えてること当ててあげよっか」
「お前で二人目だ」
ケンカ吹っ掛けてこなかったのは。
砂嵐。
そう聞こえただけだ。そう見えただけだ。
ようじじゃない。
ニセモノ。
パンダの中身は空っぽじゃないか。ロボット?
壁の切れ目。
いつの間にトンネルを抜けたのか。
砂嵐。
「このカッコだとみーんな油断すんだよねえ。スカート履いて髪長いってだけで。女の価値ってそれだけ?て逆に考えちゃったよ。あたしアタマすっからなんだよ。すっからでもわかっちゃうって。変なの。男って」
闇の中央に。中央よりやや奥の方向に6歩。
黒い椅子に腰掛ける。
黒髪の、スカート履いた。
「マイナちゃんでーっす。博士がせーてんかんしたらあたしになっちゃったあ」
座っている。
りょうじも。座面に直に座っているのは。
かちり。
聞き間違いだろう。見間違いだろう。
黒い筒が。
りょうじの口から出ているのは。
「正気じゃねえだろ」
「しょーきでせーてんかんなんかできる?あ、信じてないね、さては。人質ってこと、よおおおおおおおおおお、く、憶えといてね。あたしは博士なの。でも博士はあたしじゃない。りょうちゃんが博士になれないのとおんなじでね」
白い脚を投げ出す。丈が短すぎる。
眼が大きすぎる。長い髪を払う。
俺が知ってるようじとなにひとつ一致しない。
俺を動揺させようとしてるだけだ。大丈夫。そんなはったり。
信じるほうがどうかしてる。
距離を目算。しようにも闇が深くて。
状況を整理。しようにも黒が多くて。
椅子とマイナの間にりょうじが挟まれてて、マイナが持ってる黒い筒が、りょうじの口ん中突っ込まれてて。黒い筒を持ってないほうの手で首をロック。
俺がUターンするか。
りょうじが死ぬか。きっとどっちかしかない。考えろ。
他の結果を。
「何がしたい?」
「次の二〇人も殺したああああああいな。だからね困っちゃうの。りょうちゃんいなくなっちゃうとね。だってそーでしょ。りょうちゃん死んじゃったら研究はおじゃん。ここもなくなって、あたしも亡くならされる。あたしは男がだああああああああああああっいきらああああああああああいなの」
「いちお俺も男だが」
「そゆこといってんじゃない。としきならわかってくれると思ったのにね」
としきならわかってくれるとおもった。
なんで知ってる。ようじじゃないと知らない。ようじ以外は。
ようじが俺にケンカ売る代わりに置いてった呪いだ。
同情と共感。ひとりぼっちのようじが欲しかったのは。
「突っ立ってないで座ってよ。長くなるもん」
「ぱっぱと終わらせてくれるとありがたいが」
「としきの理解度次第。かな」
りょうじの顔が見えない。そこだけ闇が強くて。
怯えてんのか。怖いのか。嫌なのか。悲しいのか。
ただ受け容れてるようにも見える。
殺されたらそれまでだし、生きてたらまあそれはそれ。
どっちなんだ。死にたいのか生きたいのか。
「パンダの仕掛けはカンタンするほどカンタン。リモートコントロールとアテレコ。まさかあん中に博士が入ってるとか思っちゃったあ?ざーんねーんでした。でもね、ワカサゲンはいるよ。ワカサゲンは前回の生き残りだもん。最後にとっとかなきゃね。カケルくんもね、お皿作りたかっただけなのにね」
「カケルを殺ったのは」
「あたし?っかなあ。囮と盾を兼ねてもらっちゃった。ワカサゲン強いんだもん。前回チャンプだからパンダなんか作ってもらってさ。鎧ってことでしょ?そんならあたしも鎧を纏うまで」
「誘き出したいんだな?」パンダの中身を。
「どーかなあ。こーかなあ。けっこーどーでもよくなっちゃてるフシもあったりで。あ、豚骨ラーメン食べよっか。ラーメンにうるさいとしきにひょーかしてもらったら、あたしも鼻たーかだーかだよ」
時間稼ぎが得策なのか。先手必勝が最善なのか。
どうすればいいのかわからない。
りょうじを助けてやりたいのは、ちょっとだけあるのだが。
「俺はどうすりゃいい?」
「どーしたい?」
「わかんねえから訊いてんだよ。教えてくれないか」
「うーん。死んでほしくはないし、博士だったらとしきを死なせないだろうし。そだ。カナさん呼んできてよ。そっちに用があんの。これ、見せたらはっきょーする?」
首のロックを解除して、白い指がスカートをたくし上げる。
こうゆうときこそ闇が覆い隠してくれればいいものを。
根元まで銜え込んでいる。
「なーに?眼逸らした? おんなじことしちゃったの、どこのとしき?」
「換えたんじゃなかったのか」
「いまさらしきゅーとか要らないし。そーゆーせーしょくのーりょくあったって。違うんじゃない?かなあって。いまさら女なんか愛せる?」
「考えたことねえな。そういや」
なんだか昔っから男にばっか寄ってこられる。知り合いの心理学者も、種違いの弟も。俺なんかのどこがいい?俺が聞きたい。
女は。
俺を捨てたお袋と、俺を放棄した親父を誑かした患者と。
ああこれじゃあ、女を愛せってほうが無理だ。なるほど。ようやく納得がいった。
女が。
俺を眼の敵にするのは。
「シイタ先生がとしきを憎んだ理由がわかった?」
「その妹のほうがわからねえが」
「あきとに優しくしてあげなかったからだよ。ヒグチにうゆはあきとが好きだったから、幸せになってほしかった。でも肝心のとしきはあきとに冷たい。反感を買っちゃったってわけ」
「だったら俺を攻撃すりゃいいだろ。あきと幸せにしてえんだったら。なんであんなことできる?あきとが好きなんだったら」
「愛と破壊は紙一重なんだよ。愛したいは、殺したいと同義。だから博士はとしきを苦しめたくて堪らない。りょーおもい?」
「早くイかせてやれよ」
「キモチよすぎてついトリガ引いちゃうかもよ。どーだったあ?キモチかった?どっちががばがば?ユルすぎ?」
スカートを捲りあげてた白い指が、挿さってないほうの竿を弄る。
確かにさとしに見せたら一発であっち側に突き飛ばされる。来なきゃいいが。
「ねえ、ワカサゲン?あたしはずっと視てたよ。いまも視てる。じろじろ視てるよ。だから殺しにきてよ。視てるよ?あたし」
ぎいいい。油が切れたみたいな。
首から上がないパンダが。首から上を胸の辺りで抱えて。
本当に中身はからなのだろうか。からだと思い込んでるだけで?
カラダと思い込んでるだけで。
見てないのに。じろじろ見てはない。ぱっと見ただけで。
ぎい。
「そんな殻きょーみないの。血が出ないじゃん。なんにも出ない。早く出といでよ。あたしに殺されたくないの?あたしに視られててもへーきなの?ねえ」
『マイナさんは私を視ていません』
「視てるよ?いまだってじいいいいいいいいいいいいいいっと視てんだから」
『私なんかに興味がおありになるはずがない。あなたのような人が、この世界にまだいらっしゃったとは。それが私には奇跡であり、せめてマイナさんが負けるまでは、と一歩引いてしまっていた要因でもあります。私が滅多に姿を現さなかったのは、視線が怖かったからじゃありません。克服したわけでもありません。まだ怖いです。すぐにでも両眼を潰してやりたい。潰したくない眼球に出会ったのは初めてなのです』
「へ?は?げえ、なにそれ。なんでそーゆーことんなっちゃってんの?やだ。やめて。あたしは」
『不公平だとは思いましたが、前回の生き残りという特権で、今回の20人の過去と』
「聞いたの?ゆったってこと?教えてくんなかったってのに」
抜けそうだ。挿さってるもんが。マイナが前傾姿勢になることで。
それが狙いか?
「やめてよ。ナニ言っちゃってくれてんの?ヤなのあたしは。ヤなんだから」
『わかっています。あのような酷い目に遭えばマイナさんでなくとも』
「今度はどーじょー?サイアク。さいてーよ、あんたなんか。消えて。死んで。殺してなんかあげない。死ねよ。シね」
もうちょい。あと一押し。
先っぽが辛うじて引っ掛かってるだけだ。
「だいだいだいだいだいだいだいだいだああああああああああいっっきらい」
『そう仰ると思いましたから。私は何も言いません』
「そーゆーのがねえ、よけーに腹立つってんのよ。キモチワルイきっもちわるい。あたしはね、搾取してやんのよ。搾り取ってやるの。あんたたちがあたしから奪ったものをぜえええええええええええええんぶね。それまで死んでなんかやらない。死なせ続けてやんのよ。後悔して懇願して床に這い蹲ってね、涙と鼻水と涎と自分のせーえきに塗れて汚らしいしゅーたい曝してるクズどもを」
おし。よくやった。
接触部分が一つ減った。この一つは大きい。
首のロックも離れた。弄ってもない。人質から関心を遠ざける。
囮と盾。やるじゃないかパンダ。
言って気持ちを。じゃなかった、一滴も血を。
その覚悟は半端じゃなかったか。
「出てきなさいよ。出てきて」
ぱあん。
天井が餌食。
「次はりょうちゃんぶっ殺すよ」
あちゃあ。忘れてはなかったか。
筒の目標が固定される。椅子ごと床に倒して。脚で押さえつける。
そこまでほんの一瞬。
どういう殺人現場でそうゆうの覚えてくるんだ?
パンダが元あった場所に戻そうとした頭を。
マイナが撃ちぬく。
落ちる。
だからどういう殺人事件でそうゆうのを。
「出てきなさい」
『できません』
「出てこないと」
かちり。
俺も何か手を出したほうがいいのだろうか。
「あたしを生き残らせなさい」
『そのつもりです。すでにそうなっています』
「なんでよ。まだあんたが」
『私は生き残った時点で殺される予定でした。カナさんもそのつもりだったようです。カナさんは私に褒美という罰を与えました。生き残って償えと。すでに19人も、いいえここに来る前にもっとたくさんのニンゲンを。殺してしまったあとです。なにを償えというのでしょう。そうこうしている間に、次の20人、マイナさんたちが連れてこられました。私は誰にも視られまいとして』
「パンダに隠れたっての? いないじゃん。空っぽでしょ」
『いた時期もありました。気づいてなかったでしょうが。知らされた20人に、どうしても捨て置けない方がいまして。その方をひとめ、視たいと思い。視ていたうちにずるずると今日に至ってしまったというわけです』
「ふーん。それで?かわいそーだったってことなんでしょ。あたしが。ただのストーカじゃない。あんたがしてたことは。でしょ?違う?違わない。視られるのが怖いってのも、単におくびょーなだけじゃない。そんなりゆーで殺してちゃ世話ないわね」
『私の姿を視てしまえば、マイナさんを傷つけてしまう。そのことに気づいた私は、誰にも気づかれずに自らを処理しました。カナさんはなかなか承諾してくれませんでしたが、生き残って償え、にぎりぎりの意味で適合していましたので。私の姿を視ることはできません。マイナさんにも、カタクラ先生にも』
なにか、
気づいた?黒い筒の向いた先が徐々にズれる。
もしかしたら、もしかするか。囮と盾。
きっちり引き付けとけよ、ワカサゲンとやら。
『どうかお忘れください。取るに足らない視線恐怖のパンダなど』
「ねえ、なんでパンダなの?」
『たまたまです。全身を隠せて視線を感じなくなるならなんでも』
「でもパンダじゃない?なんかこだわりがあったんじゃ」
『こだわっているのは、私ではないようですよ』
いいぞ。その調子。あともうちょい。
もうちょいで、手が。
腕が。
「あんた、女?」
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