第9話 欧州の戦

 一九一四年六月二九日、僕とホルストは大学の実験室で真空管を使った実験をしていた。最新型の三極真空管をドリラー教授から借りたんだ。この真空管は一昨年、増幅作用がある事が判り電気工学の研究者がこぞって新しい電気部品の使い方を調べているんだ。


「なあマコト、この三極真空管を使ってマイクロフォンの音を大きく出来ないか実験するぞ」

「このマイクロフォンに直流電源回路と真空管を接続して送話器に繋いでみるよ」

「マコト、何か小さい声で喋ってくれ」

(ワトソン君、何処に居るんだ)……。 「バドゾングン、ドゴニイルンダ」

「なんだこの声は! ダミ声になってるぞ」

「これじゃあ、使い物にならないね」


 そこへドリラー教授が実験室にやって来た。

「マコトとホルスト、君たちは熱心に勉強してるな、感心感心」

「ドリラー教授、この三極真空管は雑音が凄いんですよ、マコトが何を喋ったのか全然解らなかった」

「そうじゃな、真空管を作る過程で硝子を被せる時、中に瓦斯が出てくるんだ。その残留瓦斯の影響で雑音が出るのかも知れないのお」


「ところで今日の新聞に不吉な記事が出ていたぞ、マコト」

「何かあったんですか?」

「ああ、俺も読みました。墺太利オーストリア洪牙利ハンガリー帝国のサラエボでフランツ・フェルディナント皇太子と妻のゾフィーさんが暗殺されたんだ」

「それが不吉な事件って?」

「サラエボの町は元々ボスニア・ヘルツェゴビナ領で墺太利が併合して以来、ボスニアのセルビア人住民は反発してたんじゃ。今回暗殺を企てたのはセルビアの民族主義者『黒手組』と言う組織らしいぞ、これから墺太利とセルビアの間で戦争が起こるかも知れん」

「黒手組? 嫌な名前ですね、暗殺者ってテロリストですか?」

「墺太利人にとってはテロリストで、セルビア人は英雄と称えるじゃろうな」

「民族間の対立って長い年月が経っている分、根深い問題ですね」


 諸君、このサラエボ事件以降、欧州は大変な事になるんだ。暗殺犯の一人が武器はセルビア政府から支給されたと自白したら、墺太利オーストラリア洪牙利ハンガリー帝国政府がセルビア政府に最後通牒を出した。セルビア政府は主権を侵害されると思って拒否したから墺太利は国交断絶に踏み切ったんだ。


 周辺各国政府は戦争を止め様としてたけど、もう導火線に火が着いたら誰も止められない。


 初めセルビアの後ろ盾である露西亜帝国が動員(兵士の準備)を命じて恫喝したが、墺太利オーストラリア洪牙利ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告してしまった。すると露西亜は総動員を命じたんだ。独逸は露西亜に最後通牒を突き付けて動員を解除するよう要求したが拒否され、露西亜に宣戦布告。今度は露西亜が同盟関係にある仏蘭西に参戦を要求する。仏蘭西はアルザス地方を取られた事の復讐心に燃えていて総動員を命じると、独逸は露仏の二正面戦争解決計画に基づいて仏蘭西に宣戦布告。仏蘭西に進軍する時ベルギーとルクセンブルグを進攻したら、今度は英国が独逸に宣戦布告した。そして英国と同盟を結んでいた日本までも宣戦布告したんだ。


 たった一人の暗殺者のせいで欧州全体の戦争に発展してしまったんだ。


 この年の十月、僕はホルストに呼び出されて市場広場の珈琲店に行った。ホルストは店の中で珈琲を飲んで待っていた。

「お待たせ、今日は何の用?」

「マコト、大事な話があるんだ、まあ座ってくれ」

「大事な話って?」そこへカミラがやって来た。

「スカパンさん、いらっしゃい。今日は何にします?」

「カミラさん久しぶり、今日はエスプレッソ・ラテ・マキアートにするよ」

「随分洒落た物頼むのね、こっちの暮らしに慣れて来たのかしら」

「えへへ、独逸暮らしも長いからね、というか今は日本に帰れないんだ」

「どうして?」

「戦争で露西亜のシベリア鉄道に乗れないから」

「独逸にずっと居れば良いじゃない」

「日本も参戦したから余り居心地が良くないんだ、戦争が終わったら帰るよ。ところでホルスト、大事な話は」

「ああ、俺、軍隊に志願しようと思ってるんだ」

「えええ!」カミラは両手をいっぱいに伸ばして立ちすくんだ。

「独逸は墺太利と協力すれば露西亜に勝てると思って宣戦布告したんだが、仏蘭西が参戦して来てしまった。そこで独逸は仏蘭西の戦闘態勢が整う前に先に進軍したんだ。しかし独仏国境は塹壕がいっぱい出来上がっていて、迂回する計画だったからベルギーとルクセンブルクを侵略すると今度は英国も参戦して来た。だから俺は、独逸が優勢な内にこの戦争を終わらせる為に志願するんだ」

「戦争で命を落とす危険は感じないのかい?」

「通信兵を希望してるから、最前線の後ろで後方支援すると思う」

「それでも敵の弾が飛んで来たらどうするのよ」カミラの目は泣きそうになっている。胸の前で両手を握り締め口を尖らせた。


「ホルストが決めた事に僕は反対する理由が無い、無事に帰って来る事を祈るよ」

「ありがとうマコト、それからこれ預かってて欲しいんだ」ホルストはバイオリンケースを僕に差し出した。

「これ、君の大事な物じゃないか」

「バイオリンで演奏するところを録音する約束だろう、俺が帰って来たらまた皆でフランクフルトの動物園に行こうぜ」

「解ったわホルスト、早く帰ってきてね」カミラはホルストの手を取ってきつく握りしめる。二人は暫くの間、お互いの目を瞬きもせずに見つめ合っていた。



 朝起きて、新聞を読むのが嫌になる毎日が続く。

 諸君、僕はもうこの日記に面白い事が書ける気がしません。


 一九一四年 オスマン帝国参戦

 一九一五年 伊太利、ブルガリア参戦

 一九一六年 ルーマニア王国参戦


 戦争は終わらないどころか拡大している。アフリカや亜細亜でも戦争が起こっているのだ。これはもう世界戦争だ。


 僕とゲルンハルトお婆ちゃんの生活は困難を極めた。ホルストが戦場へ行った頃からパン、バター、ポテトなどの食料品の値段が上がり、自治体が価格上限を決めた。しかし、農家の人達は正規に販売せず、闇市を使い始めたのだ。


 僕は殆んど毎日ゲルンハルトお婆ちゃんの家に籠り、電気工学の本を翻訳する作業をしていた。その合間にマイクロフォンと真空管を使った電気回路を作り電磁石を駆動させ、回転する円盤に載せた原版を電磁石に装着した針で削る仕掛けの電気録音機の製作に没頭していた。


 そして一九一六年の冬がやって来た。


「ゲルンハルトお婆ちゃん、今年の冬はパンもじゃが芋も無いね」

「今年は不作だったからのお、この西洋カブが主食とはねえ」

「今日、町でカラスと雀を焼いたものを売ってたよ」

「そんな物食べられやしないよ不味くて。お前が遠くの農家へ行って買ってきてくれたこの豆が無かったら飢え死にしてしまうところだったねえ」

「この豆を買う時、大変だったんだよ。何度も何度も頭を下げて地面に頭を擦りつけたらやっと譲ってくれたんだ。でも毎日この西洋蕪と豆のスープしか食べてないね」

「贅沢言うんじゃありません、兵隊さんはもっと大変なんだから」


「何時になったらこの戦争が終わるのかな」

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