第10話 勲章の証
欧州のこの戦争、僕はその悲惨さを伝える事は出来ない。この欧州に住む人たち自身が身を持って感じている事を、僕は代弁出来無いからだ。
戦争は一旦始まってしまえば、自分達の大切なものを守る為に戦いを続ける。戦争を始める事よりも終わらせる方が難しいのだろう。
では何故戦争を始めてしまったのか、多くの国民の意思が働かなければ戦争は始まらない筈なのに……。
米国が参戦してから間もなく、独逸には敵が攻めてくる事も無かったが戦争は終わった。この世界戦争で七〇〇〇万人の兵士が動員され、亡くなった兵士の数九〇〇万人、負傷者の数一八〇〇万人、亡くなった市民の数七〇〇万人……この数字たちは何を語りたいのか。
一九一八年十一月十一日休戦協定が締結された。
「ゲルンハルトお婆ちゃん、独逸は降伏するのかな」
「このまま戦争が続いたら皆飢え死にしてしまうよ、もう誰も戦争を支持していないんだから仕方ないわね」
「僕の友達のホルストは無事かな、帰って来たら一緒にフランクフルトの動物園に行くんだ。僕が三年掛かりで作っていた電気録音機も出来たし、彼のバイオリン演奏を動物園の前で録音する約束なんだ」
「動物園はやってないわよ、マコト」
「え、何で?」
「動物たちは殆んど食べられちゃったのよ、とっくの昔に」
「そんな……酷い、酷過ぎる」
◇ ◇ ◇ ◇
一九二〇年の春、僕はゲルンハルトお婆ちゃんの家で日本へ帰る準備をしていた。明後日にはここを発つのだ。
独逸はヴァイマル共和政となり、
「ゲルンハルトお婆ちゃん、これ預かってくれないかな」僕はホルストのバイオリンをお婆ちゃんに託そうと思った。
「このバイオリン、ホルスト君のでしょ、自分で返さないの?」
「父からの手紙に早く日本へ帰って来いと書いてあったんだ、ホルストが何時戻ってくるか分からないし、お願いします」
「仕方ないわね」
その時。玄関の呼鈴が鳴った。
「あら、誰かしら」ゲルンハルトお婆ちゃんが玄関の扉を開けると、そこに軍服を着たホルストが立っていた。
「ゲルンハルトお婆ちゃん、今日は」
「あらホルスト君じゃない、お帰りなさい。今丁度、あなたの話をしていたのよ」
「おお、ホルストじゃないか、よく無事に帰って来たね」
「マコト、久しぶりだな、変わりはないかい」
「僕は全然変わってないけど、君は立派になったな。その胸に着けているのは鉄十字勲章だろ、戦場で活躍したんだな」
「立ち話も何だから、中へお入りよホルスト。私は紅茶の用意をするわ」
僕たちとホルストは応接間へ移動した。直ぐにゲルンハルトお婆ちゃんは紅茶を持って来てホルストの隣に座る。
「良く見せて、その勲章」ゲルンハルトお婆ちゃんは、ホルストが付けている鉄十字勲章の黒いリボンに手を添え、目を細めて嬉しそうに眺めていた。
「立派な勲章ね」
「この勲章を貰ったのは仏蘭西軍との塹壕戦の最前線に電話線を敷設しようと移動していた時、偶然敵の偵察機が飛んでいるのを見つけて走って塹壕に連絡しに行ったんだ。最前線では爆撃機よりも偵察機の方が恐れられていたんだよ、後から大量の爆弾が飛んで来るから。その連絡で大勢の兵士が避難出来たんだ」
「やっぱり最前線に送り込まれていたのか、どういう戦いだったの」
「後は余り話したく無い……でも俺、軍人になる事に決めたんだ」
「そうか、とにかく無事に帰って来て本当に良かった」
「ところでホルスト、カミラに会った?」
「会ったよ今日一番先に、今日の夜も会うんだ、彼女にプロポーズする為に」
「それは目出たい話だ!」
「あらまあ、ホルスト君やるじゃない」
「戦場に送られて来たカミラの手紙で、元気づけられたから生き延びたんだ。マコト、相談なんだが何か良いプロポーズの方法があったら教えてくれないか」
「いい方法があるよ、僕は電気録音機を作ったんだ。それを使ってみたら」
「え、電気録音機?」
「マイクロフォンと真空管の電気回路と電磁石を使って針を駆動させる機械を作ったんだ。レコードの原版に録音するんだよ、完成するまで三年も掛かったけど」
「凄いじゃないかマコト」
「この録音機を使って君のバイオリン演奏とカミラへのメッセージを吹き込んで、蓄音機が置いてあるレストランで再生すると言うのはどう?」
「それはいい演出だ、カミラもびっくりする」
「若者は常に未来を作るのが上手ね」
僕は自分の部屋から電気録音機を持って来る、ゲルンハルトお婆ちゃんはバイオリンケースをホルストに渡した。ホルストはケースからバイオリンを取り出して指で弦を弾きながら音を確かめる。僕はマイクロフォンを応接机の上に置き、レコード原版を電気録音機の回転円盤の上に載せる。針の付いた機械腕を動かして原版の上に載せ、電気録音機を駆動する準備をした。
「何の曲を弾こうかな」
「クライスラーの愛の喜びに決まってるわよ、この曲知ってる?」
「はい、知ってますよ」
「録音時間は五分くらいだよ」
「良し分かった! じゃあ弾くぞ」僕は録音機を始動させた。
タンターララン、タッタタラタララン、タララッタララッタララ、タララッタララッタララ~ ~タ。
「カミラ、俺と結婚してくれ、幸せにするぞ」
パチパチパチパチ。
「ホルスト、凄く良かったよ」
「ホルスト君上手なのね、バイオリン弾くの」
「ありがとう、カミラがこれ聞いたら喜ぶかな」
「きっと感激するよ、ところで婚約指輪は用意してあるの?」
「ああ、手に入れたよ……」
「死んだ戦友が『俺は恋人に渡せなくなったから、君が使ってくれ』って」
ホルストは目に涙を一杯ためた後、零れても零れてもバイオリンを持ったままその場で立ち竦んでいた。
別れ際、僕はホルストに明後日には日本へ帰る事を伝えなければならなかった。
「ホルスト、僕は明後日の朝、日本へ帰るんだ」
「え、やっと再会出来たのに」
「父から手紙が来て、父の会社が忙しいから早く帰って来いと書いてあったんだ」
「そうか、仕方ないな。カミラと二人で見送りに行くよ。何時の列車だ」
「九時五〇分のフランクフルト行き」
「分かった、必ず行くから」
「今日の夜のプロ―ポーズの話、その時教えてね」
ホルストはバイオリンケースを左手に持ちながら、右手で親指を立てた。
◇ ◇ ◇ ◇
日本へ帰る朝、ダルムシュタット中央駅の停車場にホルストとカミラは腕を組んで待っていた。
「マコト、待ってたよ」
「ごめん、ゲルンハルトお婆ちゃんが長々と僕を引き留めてたんだ、僕の腕を引っ張りながら『日本へ帰ったら戦争が起こらない様に皆に話してね』って何度も何度も説教されたんだよ」
「それは大変だったな」
「ところでプロポーズは上手くいった?」
「スカパンさんありがとう、あのレコードで感激しちゃって大声で泣いちゃったの」
「二人共お幸せに」
「マコトも元気でな、日本に着いたら手紙くれよ」
「必ず書くよ、じゃあもう時間だから」
僕はホルストとカミラを抱いてホルストの背中を手で叩く、彼らも僕の背中を叩き返してくれた。僕は重い革の鞄を持ちながら列車に乗り二人に手を振った。
ホルストとカミラは列車が動き出しても手を振り続けてくれた。
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