第8話 聖夜の頃

 十二月初め、僕は何時もの様にドリラー教授の講義を聞いていた。


 ドリラー教授は電話機を持参して、机の上に置いた。

「今日は電話機の話だぞ。君たち、一番最初に電話機を発明した人は誰だか知っているかい?」すかさず僕は手をあげて、答えた。

「はい、米国のグラハム・ベルです」

「違うよマコト! ここは独逸のヘッセン大公国だぞ。フランクフルト物理学会員のヨハン・フィリップ・レイスに決まってるじゃないか。グラハム・ベルは米国の電話の特許を持ってるだけの人物じゃよ」


「ヨハン・フィリップ・レイスが最初に『テレフォン』と命名したんだぞ、彼が作った電話の送話器は木を耳の形に削ってそこに豚の腸詰肉ヴルストに使われている薄い膜を張って、膜に伝わる音声振動を入り切りする接点を設けたんじゃ。受話器はバイオリンの上に、縫い針をコイルで巻き付けた物を乗っけただけだった。唯、聞こえて来るのは音声というより吠えているような音だったようだ。しかし欧州では、彼が世界初の電話の発明者という事になっているんじゃ」

「グラハム・ベルの発明した電話機は余り実用的ではなかったんだ、電磁石を利用した送話器は大きい音が出なかった為だ。これを解決したのがトーマス・エジソンじゃ、彼は音声によって炭素粒子の電気抵抗が変化する炭素マイクロフォンを発明したんじゃよ」


 その後もドリラー教授はグラハム・ベルは電気工学を知らないけど助手のワトソンに助けられたとか、最初に成功した実験はもう一人の発明者エリシャ・グレイの送話器の原理を盗んだからだとか言いながら、今日の講義の半分以上は彼の悪口を言っていたんですよ……疲れました。


「マコト、今日の講義面白かった?」ホルストが僕に話しかけて来た。

「それ程でも無いけど、マイクロフォンの話は興味があるね」

「俺もそう思った、あれを蓄音機に付ければ電気蓄音機が出来るんじゃないか」

「重さの軽いマイクロフォンが出来れば実用化するだろうね」

「でも、マイクロフォンは小さい音を拾えるかな? ところでマコト、今日の午後空いてる?」

「ああ、空いてるよ。ゲルンハルトお婆ちゃんが先月手作りのアドベントカレンダーを僕にくれたんだ、二十五日までの日付を書いた小さい箱が四角い升に収められていて、昨日まではお菓子が入ってたんだけど今日は小さい紙が入ってたんだ」

「何だその紙って?」

「その紙を捲ったら、『今日はお掃除休み』って書いてあったんだよ」

「それじゃあ今から一緒に、フランクフルトのクリスマス市場マルクトへ行こうぜ」


 二人は学校を出てダルムシュタット中央駅へ向かった。


 フランクフルトのクリスマス市場はレーマー広場で開かれている。広場には緑色の尖がり屋根の鐘楼しゅうろうを持つニコライ教会と三角屋根の中世の家々が密集する円形広場で昔は『土曜日の山』と言われていた。

 ニコライ教会の前には大きなもみの木に星々が飾られている。教会の左向かいにある市庁舎はギザギザの三角屋根が特徴的な建物だ。この広場の直ぐ近くにはマイン川と大聖堂ドームがある。毎年十一月の半ば過ぎから天幕商店が立ち並び、大勢の人たちで賑わいを見せていた。


 この日は曇り空で気温は氷点下を少し下回り、小粒の雪がキラキラと舞っていた。


「今日は寒いのにここの市場は凄い賑わいだね、沢山お店が出てるけど何処から見るの?」僕は寒くて震えながらホルストに聞いた。

「マコト、ここに来たらまずこれを買わなくちゃ」

 ホルストは大きな寸胴鍋が置いてある店の前で、買う順番を待つ数人の列の後ろに並んだ。その店先は甘酸っぱい匂いが立ち込めていた。


 暫くして、ホルストは二つの陶器茶碗を両手に持って来た。

「これだよ、これ温葡萄酒グリューワインだよ。これを飲まなくちゃクリスマスを迎えられないよ、さあ飲んでみな」ホルストは陶器茶碗を僕に手渡した。

「あちちっ、これ随分熱いね。けど、いい香りがする」

 僕は温葡萄酒を啜る、甘いのにスッキリした味わいだよ。

「この陶器茶碗は落としたりしないでくれ、後で返すんだから。さあ、これを飲みながら体を温めて他の店を見て回るんだ」


 僕たちは木工細工と胡桃割り人形の店や手袋と帽子を売る店、お菓子を売る店などを見て回った。


「あれを食べようぜ」

 ホルストは平べったい草履の様な形のパンを揚げている店の前で立ち止まった。

「この揚げパンの上に細かく切ったチーズを載せて食べるんだ、美味しいぞ」

 ホルストが揚げパンを二個注文すると、店員は熱々の揚げパンの上にチーズを振り掛けて紙の上に載せた。僕はそれを取って一口食べる。

「あちちっ、でも滅茶苦茶旨いねこの揚げパン。チーズの香ばしさと揚げパンのカリカリした触感が堪らないね」

「そうだろ、美味しいだろこの揚げパン」


 ガチャ―ン、バリバリ、ガチャ―ン。


 突然、何かが割れる音がして、誰かが怒鳴っていたんだ。

「こんな物食えるか! ここは独逸だ、とっとと自分の国に帰れ!」


 何やら蕎麦粉で焼いたガレットを売る店の前で酔っ払いが騒いでいる。


「何で小麦粉で作らねえんだよ、不味くて食えねえ。だいたい俺は仏蘭西人が大嫌いなんだ、お前たちの言葉はミミズが這っている様で気持ち悪いぞ。お前の国はアフリカに沢山の植民地を作りやがって、しかも原住民に仏蘭西語を押し付けた上に奴らをこき使ってんだろ。俺たち独逸人は自分たちで腕を磨いて良い物を作る文化があるんだ、お前たちみたいに人にやらせて自分たちは遊んでる人間とは精神が違うんだこの野郎」

「何だと! 俺は仏蘭西人じゃないぞ。お前、割れた皿の弁償しろよ」


 そこへ中年男性が仲裁に入った。

「おいおい、何言ってるんだ酔っ払い、警察官が来る前に金払って失せろ」

 酔っ払いはブツブツ言いながら金を置いてその場からいなくなった。


「ホルスト、折角皆、楽しく過ごしてるのにぶち壊しだね、あの男」

「この頃、変な酔っ払いが多くて困るよ」

「独逸人って、仏蘭西人が嫌いなの?」

「元々は、仏蘭西人が独逸人の事が嫌いなんだよ、アルザス地方を取られたから怒ってるんじゃないかな。最近は独逸が墺太利オーストリア洪牙利ハンガリーと仲良くしてるもんだから、仏蘭西が露西亜を巻き込むように同盟関係を結んで、独逸を挟み撃ちにしようとしてるんだぞ。だから俺たちは仏蘭西を警戒してるんだ。しかし何で蕎麦粉のガレットなんか売ってるんだ、あの店。小麦粉のクレープの方が人気があるのに」

「露西亜と独逸も仲が悪いのかい?」

「今独逸が同盟を結んでる国は墺太利オーストリア洪牙利ハンガリー伊太利イタリア、で、それ以外の国とは距離を置いてるね」

「欧州はどうしてこんな状況になったんだい?」

「やっぱり第二次産業革命で列強国の国力が上がって、勢力争いが起こってるからだね。軍備の拡張も凄まじい勢いで進んでるみたいだよ。あと、墺太利オーストリア洪牙利ハンガリーとセルビアも険悪な状態が続いてるみたいだ」


 さて諸君、だんだん欧州がきな臭くなって来ましたよ……嫌な予感がします。

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