第6話 珈琲の香

 煉瓦レンガ大の石々が、まるで扇型に並べた杜美濃ドミノが倒れて行く様に光に包まれながら広がって敷き詰められた石畳がある。ここは街の中心部、市場マルクト広場だ。その中央に、高さ十メートル程の黄銅色方尖柱オベリスクを中心に据えた大きな土盆があり、その中に水を溜めた水汲み場がある。その奥には鏡餅を縦に切った断面のような形をした大きな灰色瓦の屋根裏部屋を左右に二つ備える五階建ての市庁舎が、訪れる人々を見守っていた。


 珈琲店カフェ市場マルクト広場の一番左端にある。店の前に大きな洋傘を広げた席にホルストと僕は座った。ドリラー教授のお蔭で、学校生活の初日から友達を作る事が出来た……感謝しています。


 洋傘の下の日影で僕はホルストに話しかけた。

「九月になると、涼しくなるんだね、上着を着てくれば良かったかな」

「独逸は六月と七月が夏で、八月九月はもう秋だよ」

「ここは乾燥していて唇が渇いてカサカサになっちゃうよ」

「日本の気候はどうなの?」

「六月は梅雨と言って毎日雨ばっかり、九月も残暑で暑いしジメジメしてる」

「こっちの今はいい気候だけど、冬は晴れる日が少なくて気温がマイナス三十度以下になる事もあるんだ。お、お気に入りの娘がやって来たぞ」


 その娘は銅色短髪ショートブロンズヘアーの端正な顔立ちで、白い襯衣シャツと灰色の洋袴スカートに腰から黒い長めの前掛けを巻くその姿は凛々しい。


「あら、ホルストいらっしゃい。こちらの方は?」

「やあ、カミラ、この男は日本からやって来たんだ」

「初めましてマコトです」

「何処かでお会いしたかしら?」カミラは首を横に傾げた。

「分かったわ! あなた六月の終わり頃ベルリンの巴里広場に居なかった?」


 ここで諸君らに少し相談したい事がある。

 もし僕がベルリンに到着した直後、ポツダム広場へ行く時に擦れ違っていたとすれば問題無いのだが、帰りのあのゴム風船事件を見られていたら恥ずかしいでしょ、どっちがいいかな?


 其の一、白ばっくれる。

 其の二、五割の確率に掛けて正直に答える。


「其の二だろ、男なら。しかし、こんな偶然あんのか?」

 やっぱりそう言うと思いましたよ、聞かなきゃ良かった。


「ああ、行きましたよ、丁度独逸に着いたばかりの時」

「あははははぁ、見ましたよ恰好いい下着」

「恰好いい下着って何だよ?」

「この人、引っ掛かったゴム風船を取ろうとして瓦斯灯に上ったらズボンが脱げたの、その下着は白いスカーフみたいな物を捻じって巻いてたのよ、ふふふっ」

「見てみたいな」

「止めて下さい、恥ずかしかったんだから」


 僕とホルストは同じ珈琲を注文し、暫らくしてから娘は笑いを堪えながら珈琲を持って来て机の上に珈琲を並べた。

「ありがとうカミラさん」

「どういたしまして、スカーフパンツさん!」


 僕とホルストは珈琲の香りを嗅いでからそれを飲み、話を始めた。


「昔独逸に『珈琲禁止令』があったって知ってる?」

「知らないなぁ」

「十八世紀末フレデリック大王が、自国の通貨流出を防ぐために発令したんだ。独逸は植民地を持っていなかったから、大量に珈琲豆を輸入すると外貨不足に陥った為だ」

「珈琲ってそんなに人気があったの?」

「当時、独逸人は珈琲の虜になっていて、買えなくなった珈琲の代用に雑草のチコリや大麦を使ったんだ。これを独逸珈琲って呼んでたんだよ」

「独逸人って代用品が好きだね、確か林檎ワインも葡萄ワインの代わりだよね」


「日本って、今でもあの浮世絵みたいな風景なのか」

「田舎の方はね、都会では路面電車だって走ってるよ」

「ところで日本は戦争で露西亜に勝ったんだってな」

「そうだよ、戦利品として満州の権益を得たけど米国の介入で揉めてるんだ」

「こっちも同じさ、第二次産業革命の後、独逸は英国を追い越して最強の工業国になったから生産過剰品をさばく為、各国に植民地の割譲を求めたりしてるんだ」

「何処の国も領土や市場の奪い合いが起こってるのかな」

「そうなんだ、いつ戦争が始まってもおかしくない状況が続いてるし、各国の国民もそれを望んでるふしがあるね」


 諸君、ここで少し解説させてくれたまえ。ホルストの様に独逸の若者達は戦争を知らないんだけど、自国が急激に発展しているから独逸精神の勝利とかゲルマン魂とか言って扇動する人がいるのかな? 社会主義的な考えを持つ人達も文学をやっている人も、周りの国との戦争やむ無しと考えているらしいよ……日本も同じ道を辿ってる気がする。


「ところでマコト、蓄音機に興味ある?」

「僕は好きだよ、最初に発明したエジソンは僕の憧れの人なんだ」

「米国に渡った独逸出身のベルリーナが考案した円盤式の方が売れてるよね」

「円盤式はエジソンの円筒式と違って原版を作り易いからね」

「今は機械式の振動を角笛ホーンで拡大して音を出してるけど、そのうち針の動きを電気信号に変換してその信号を増幅する電気式蓄音機が開発されると思うよ」

「今の機械式の録音方法だと、角笛ホーンに口を近づけて大きな声で叫ばないと音が録音できないのが難点だよね」

「俺は趣味でバイオリンを弾いてるんだけど、その音を早く録音したいんだ」

「その時は僕が録音してあげるよ」

「今度の土曜日の午後にフランクフルトの動物園の前の広場でバイオリン演奏するんだ、聴きに来てくれる?」

「うん、必ず行くよ」


 ホルストと別れた後、僕は下宿先まで歩いて帰る。

 僕の下宿先は大学に紹介された一人暮らしのゲルンハルトお婆ちゃんの家だ、そこは屋根裏部屋のある三階建ての一軒家なんだ。僕は一階の部屋を借りてお婆ちゃんと一緒に暮らしている。二階から上は若い夫婦が部屋を借りて住んでいるんだ。


 だけど諸君、このゲルンハルトお婆ちゃん凄く厳しい人なんですよ。


「ただいま、お婆ちゃん」

「マコト! ちょっと来なさいここに」

 僕はお婆ちゃんの家の玄関を開けた途端に怒鳴られて、居間の窓辺に連れてこられた。窓の外には毎日お婆ちゃんが手入れをする花壇が置いてある。お婆ちゃんはチジれた銀髪に四角い眼鏡を掛けている、その眼鏡の奥の目は尖って見えた。


「あんたちょっとここを見てみなさいよ」

 お婆ちゃんは白枠窓の右隅の硝子を指差した。

「今日の朝も、ちゃんと窓拭きしましたよ」

「ここよ、ここ、あんたの指の指紋が付いてるわよ!」

 その硝子には微かな跡が残っているだけなのだが……。

「大事なお花が霞むでしょうが、ほうきでお仕置きするのと、一階の窓硝子全部を拭き直すのとどっちにする?」

「……、窓拭きをやり直します」


 僕は仕方なく窓拭きを始めました、毎日部屋掃除と窓拭きをする約束で下宿させて貰ってるんだ。ゲルンハルトお婆ちゃんはとにかく綺麗好きで、少しでも気に入らない所があるとお仕置きするんですよ。独逸人は綺麗好きが多いんです、どう思いますこの状況。諸君、僕は下宿先を替えた方が良いと思いますか?

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