第10話 ― 4

 飯塚の案内で連れてこられた家は、どこにでもあるような普通の――と呼ぶには少々大きい家だった。

 というより、今のご時世にアパートやマンションではなく一戸建て住宅を持っている時点でそれなりに裕福なはずだ、と赤尾は内心で見立てを付けていた。庭付きだったり大きなガレージがあったりするわけではなくとも、その家の規模は苦学生の赤尾には少々眩しい。


「ただいまー! 光汰こうた、もう帰ってるかー?」


 玄関を開けるなり大きな声で、おそらくは弟のものだろう名前を飯塚兄――慧が呼ぶ。その後ろから、誰に向けるでもなく小さくお辞儀をしながら入る赤尾の耳に返事の声は聞こえてこなかった。

 もしかして今日は珍しく部活に行っているのでは、と一瞬抱いた期待は視線を足元にやった途端に捨てざるを得なかった。踵が少し潰れて、真新しい汚れがいくつかついた子供用のスニーカーが一足、玄関扉に向かってきっちりつま先を揃えて鎮座している。少なくとも帰宅はしているらしい。


 あがってくれ、と慧に促されて靴を脱ぐ。橙山、桃宮、そして竹沢と続いてそれに倣うが。

 ――こういうとこって、性格出るよなぁ。振り返った背後の様子を見て赤尾はしみじみとそう思った。


 靴を綺麗に揃えたのは橙山と桃宮で、桃宮に至っては玄関扉をくぐる前に小さなお辞儀と「お邪魔します」の言葉までついている。

 脱いだ後の靴を見ても踵が玄関扉を剥いている橙山に対して桃宮はわざわざつま先側を外に向けなおす手間までかけていた。普段奔放な所がある癖に妙な所で育ちが良い。橙山の方も決して雑ではないのだが、隣のちびっ子が丁寧過ぎて差が目立つ。

 竹沢に関しては言わずもがなである。つま先どころか靴の上下すら揃っておらず、右靴だけ横に転がってしまっている。女性二人が入るまで扉を開けて支えていた辺りが、かろうじて紳士らしさを見出せるところか。そこは扉を開けて一番乗りで入っていった赤尾が文句を付けられる場所ではない。


「性格が出る、と思うんだけどなぁ」


 口の中でひっそりと呟いた言葉は誰にも聞きとられなかったようで、反応する者はいなかった。後ろをついてくる面々の様子を確かめた後、もう一度視線は最初から置かれていた子供用のスニーカーに向いた。

 きっちりと丁寧に揃えられた靴だ。しかも自宅で。

 これが他人の家だったり公的な場であれば、桃宮ほどでなくとも多少は余所行きの態度で振舞うこともあるだろう。事実赤尾がそうだ。独り暮らし中の自宅に帰ってきたからといって靴を丁寧に揃えたりはしないし、玄関をくぐる前にお辞儀だってしない。

 猫を被る必要のない自宅でここまで所作が丁寧というのは、育ちがいいかもしくは本人の根が生真面目かの一体どちらか、はたまた両方か。すくなくともその靴からイメージできる姿は、現在進行形で部活をサボり続けている拗ねた子供のそれではなかった。


 玄関からすぐ見える階段を上り、二階の小さな廊下の右手が例の弟の部屋らしい。扉の前には「光汰」と書かれたネームプレートがぶら下がっている。

 あまり大人数で部屋の中にまで押しかけても狭いだけだ、ということで事前に桃宮たちとは相談し、今回は先輩二人は部屋の外で待機だ。直接話に行くのは兄である飯塚慧と、赤尾。そして依頼を直接紹介した身として立候補した竹沢の三人。


「光汰、入るぞ」


 兄のその声にも反応はなく、そのまま扉が開く。

 服や漫画、鞄などが乱雑に散らかったいかにもな「男の子の部屋」の奥で、そこだけは物が散らかっていないベッドの上にあおむけで寝そべった少年がいた。

 剣道部だったというだけあってやはり鍛えてはいたのだろう。中学生にしてはそれなりに体の輪郭が太く、少し離れた位置からでも腕や足が筋肉で太いことは分かる。浅黒い肌と低い鼻は兄とそっくりだ。髪型はさすがに兄と異なり、そこそこ長い。目元に少しかかるかどうかといった具合の、緩く癖のついた黒髪だ。


 そんな外見の少年は部屋の中で、特に何もせず寝転がっている。感情を乗せない顔のまま両手両足を力なくベッドに投げ出してただひたすらにぼうっと、死んだ魚のような目つきで天井を眺めていた。

 正直に言えば、一瞬赤尾はよからぬ想像をして肝を冷やしたほどだ。目を凝らして数秒待って、ようやく胸が上下しているのに気づいて安堵する。そんな誤解をしても仕方ないと思えるほど、目に生気が宿っていなかったのだ。


「光汰、ノックしたら返事くらいしろって」


 ドアを開けて直接の呼びかけに、ようやくその目が動いて慧を捉える。そこからゆっくり視線が動き、赤尾と竹沢にも目が合う。


「……誰、その人たち」

「光汰、この人たちは俺の通う大学の文芸部で――」


 何の迷いもなく紹介を始めた慧と弟の光汰の間に慌てて割り込み、言葉を遮る。放っておけば何の澱みも無く「剣道へのやる気がなくなったお前に気合いを入れてもらいたくて呼んだんだ」と言いかねない。それはまずい。

 文芸部がお悩み相談を請け負っているのはあくまでもT大学内だけのローカル知識だ。この弟にそれを話したところで通用しないし、むしろ「余計なお世話だ」という刺激になってしまう。


「ええと、初めまして光汰くん。君のお兄さんの友達だよ」

「兄貴の友達が、なんでわざわざ俺の部屋に来るの」


 つっけんどんな返しに、ナイフでも突きつけられているかのような感覚に陥る。不貞腐れたような口調は明らかに不審がっているものだ。

 迂闊な返事をしたら話を聞くどころじゃなくなるな、と必死に頭の中で返答をシミュレートして、ようやく出てきたのは。


「よ、よかったら友達になれないかなー……って……ははは」


 生気がないまま鋭さを増した眼光というのは、たとえ中学生のものであっても十分心を傷つける。そのまま続きの言葉を言うような度胸はさすがに赤尾も持ち合わせが無かった。

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