第9話 ― 4
***
朝から大学に来てはいたが、講義に顔を出す気力は今日の桃宮には無かった。大学までわざわざ来た理由も叔母が夕方にここまで迎えに来るからに過ぎない。家で待っていればいいだろうという疑問とささやかな抵抗は「迎えに行ったついでに私の目の前で退学手続きを済ませてもらうためよ」と返された。
だから桃宮は夕方になるまでずっと、文芸部の部室で寝転がって過ごしていた。自宅でもめったにやらないようなだらけ方をしながら、頭の中では昨日後輩からぶつけられた言葉がリフレインしている。
「今のあんたこそ失格だ、かぁ」
だって仕方ないじゃない、と開き直るほどには腐っていないが、正直抵抗する手段があるなら教えて欲しいものだ。
叔母の脅しの効果は強く、逃げてしまえという発想は早々に捨てていた。脅しの矛先が桃宮本人ではなくその友人に向くのが巧く、同時に小狡い。背を向けて逃げた結果が自分に来るなら覚悟のしようもあるが、そこで他人が巻き込まれるとなれば二の足を踏んでしまう。子供の頃からちょくちょく干渉を受けるときは決まってこのパターンだった。
一回だけ、どうせ口先だけだと高を括った。当時の親友がそれから一週間で何の前触れもなく転校していったのと最後の見送りで口をきいてくれなかったのは多分偶然ではない。
ショックを受けて塞ぎこんだ時期があったので、向こうもそれは禁じ手扱いになったのだろう。その脅しは滅多に出てこなくなったし干渉も緩くなったが、それでも叔母的に「譲れない一線」では容赦なく使われた。
――叔母さんだって辛いのよ、でもあなたが言う事聞いてくれないから。
まるで自分が被害者であるかのような口調と表情で。大学進学の時はもう、早々に自分から友人とは距離を置いて、大事な物も極力持たず、失うものなど何もない状態で夜逃げ同然に進学したのだ。
両親は娘の味方だが、やはり親戚一同でも役職とコネを振りかざす叔母より立場は弱い。叔母に気付かれないうちに入学手続きから引っ越しの手配まで全て済ませて、その所在を割らなかった事が最大の援助である。
万が一見つかるといけないからと帰省もせず、一年ぶりに見た両親は気まずそうに目を合わせてくれなかった。
ここまでやって見つかった反動も大きい。今までなら従うにしても多少交渉をする程度の融通はあったのに、今回は一切の聞く耳を持ってくれないままだった。
――言いなりになってそんな笑い方してるあんたこそ失格だ。
笑う以外にどうしようもなかったのだ。部内で沈んだ顔をしていては事情を悟られるし、特に茶原などこういう点には潔癖だ。暴力は振るわずとも抗議くらいは絶対にやるし、そうなれば桃宮が我慢した理由が無駄になる。まず穏便には済まない。
子供の頃、どんな悪い奴にも屈せず立ち向かって勝利する正義のヒーローに憧れていた理由は二つだ。一つは些細なことでもう記憶に靄がかかっているが、もう一つは間違いなく叔母が干渉してきた反動である。小さなころから自分を抑えつけて従わせる叔母は桃宮にとって抵抗するべき悪役で、それに勝利するための見本がヒーローだった。
結局、一度として交渉による抵抗が成立したことはなく、桃宮という正義のヒーローが悪役相手に少しも膝を折らずに済んだ経験は皆無だ。今回も結局脅しに屈したわけで、そこへ重ねて赤尾からの詰りは多分、言った後で泣きそうな顔をしていた彼の自覚以上に刺さっている。思わずそこで敗北宣言をしかけるほどに。
図星というやつは、正しければ正しいだけ痛いのだ。
***
携帯の振動音で桃宮は我に返った。どうやら居眠りしていたようで、外は夕日が差していた。そのことが既に違和感だ。
今まで昼休みには確実に橙山はここに顔を出していた。あの外見で誰彼構わずフレンドリーな性格だから友人は多いはずだが、昼休みだけは必ずここに来ていたはずなのに。
うたた寝する自分を起こすことなく、静かに昼食だけ済ませて静かに去っていく橙山――想像しようとして浮かんだ絵面はどう考えても橙山ではありえない。
今日休みだったのかな、と結論付けて、少し残念に思いながら携帯に手を伸ばした。今日が最後なんだったらせめて色々喋りたかったんだけどな、という気持ちを飲み込んで携帯の画面を見ればそこには予想通り叔母の名前が出ていた。
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