第7話 ― 5

「まずは、ごめん赤尾」


 親友の口から真っ先に飛び出てきたのは謝罪だった。ここへ来る途中にも軽く謝っていたが、どうやらそれの続きらしい。赤尾からすれば、聞きたいことがあり過ぎてそれどころではない。


「竹沢、お前……あれ、気付いて」

「昼にお前と合流する少し前、見かけたんだ。正直その時点でお前に今日は帰れって言おうかとすら思ったけどな。事務局のほうで話をしてから、教職員棟の方に入っていったし気を付けていれば遭遇はしないだろうって思ってた。早く帰らせたのは万が一を思ってってやつだ」


 教職員棟は、事務局がある場所の上の階だ。学生が主に使う教室棟とは少し距離があるし、用事が無ければ近くに立ち寄るようなこともない。実際ついさっきまで鉢合わせることなど無かったのだから、竹沢の読みは正しい。

 なんでこの大学にあいつが、という疑問には竹沢も首を横に振った。直接対峙したのは彼も先ほどが初めてで、昼休みにも事務局で会話をしているのを少し離れた場所から断片的に聞いていただけだという。


「見ていて分かったのは、事務局側からもちょっと予定外の訪問だったっぽいことと、あとはあのババアが妙に偉い立場になってるっぽいことくらいだ。事務局でずいぶんと図々しい態度取ってたけど、対応してた職員さんめっちゃ萎縮しちゃっててさ。教職員棟の方に行ったっていうのも職員連れて荷物持たせながらだぜ」


 道端で汚物を見た、とでも言わんばかりに不愉快そうな顔でそう吐き捨てた竹沢だったが、その表情がまたこちらを気遣うものに変わって赤尾を見据える。


「俺らが小学校の時に、お前が散々やられた担任だ。覚えてるよな、その反応だと」

「……ああ」


 覚えているなんてもんじゃない。あれから十年以上、夢で何度苦しんだかわからない。出来上がったトラウマに夢の中で自ら塩を塗り込むような真似を、最低でも週に一回は必ず見た。酷い時期は毎日だ。そのことは竹沢にも話したことなどない。

 大学に上がるよりも以前に一度だけ、寝坊の理由に使ったことがあったが、詳細は話していなくとも「それ」関連ではないかと気遣われた。以来極力話題に出さないようにして、時折向こうから突かれても覚えていないの一点張りだ。

 やっぱりまだ引きずってるんだな、と苦々しげに吐く彼の言葉は間違っていないが正確でもない。引きずってるというより、忘れたくても勝手に記憶がついてくるのだ。


 けどさ、と竹沢の言葉のトーンが明るくなった。わざと、無理やりそうしているのだということが分からないほど赤尾も鈍感ではない。


「追いつくまでにちょっと会話聞こえたよ。人探ししてるんだって? それなら、あんまり心配いらないかもしれないな。事務局の方に行ったのも人探しのためだったとしたらさ、すぐ見つかるだろうし。そうなればあのババアがこの大学に顔を出す理由なんてもう無いはずだろ?」


 それにさ、と能天気っぽさを意識しているのであろう親友の言葉は続く。


「向こう、俺たちの顔なんか覚えてなかっただろ。まあ結構昔だし、向こうからすれば何人いるかも数えてられないような大量の教え子のうちたかが二人だしさ。下手に刺激しなければ目を付けられることもないだろ。もちろん顔見て嫌な気分になるのは赤尾だし、避けたいなら協力はするぜ俺も」


 代返だけでも一週間は稼げるだろ、なんてことを画策し始めた竹沢。ありがたい話ではあるし、正直赤尾としてはあの元担任を見なくて済むのであればどんな手段にだって飛びつきたいところだ。自身のトラウマがそれくらい深かったのだというのを今日改めて思い知った。

 だが。赤尾は親友に向かって首を左右に振って、その思考を遮った。


「竹沢、それじゃ逃げきれない」

「なんでだよ、別に大学の講師になるわけじゃないだろ多分。一週間もあればあいつの姿なんてもう見なくても――」

「部長なんだ」


 端的な言葉ではあったが、察しの良い竹沢の表情が凍り付く。


「桃宮胡桃を探してるって言ってた。文芸部の部長だよ。どうあがいたって俺のすぐ近くに関わってくるんだよ」


 向こうは桃宮が文芸部の部長であることまで知っていた。事務局に出入りして、それでも連絡が取れずに足取りを追うのであれば次に顔を出すのは当人が主な活動場所にしているコミュニティだ。桃宮の場合はそれが文芸部になる。

 桃宮を探す関係で、文芸部員に話を聞こうとしたら? 事務局に顔がきくというのであれば、部員の名簿くらいは見れる可能性だってあるのではないか? もしそこで「赤尾雄一」という名前に元担任の記憶が万が一にも刺激などされてしまったら?


 どれだけ確率の低い「もしも」であっても、それは赤尾にとって十分すぎる絶望感だった。竹沢も決してそれを「気にし過ぎだ」などと一蹴することはなく、腕組みをしてしばらく考え込む。

 なんにせよ、と腕組みが解かれるまではそう時間のかかるものではなかった。


「部長以下文芸部員に連絡しとけ、赤尾。名前を隠すにせよしばらく顔見せなくするにせよ、部員の先輩方に手伝ってもらわなきゃ話にならんだろ」


 赤尾達が離脱した際にその場を離れていったその足で、文芸部への接触を行おうとする可能性すらある。連絡を取るなら早いうちにしておけ、と手で促されて赤尾は慌てて自身の携帯を取り出した。

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