第7話 ― 4

 驚きで凍り付いた全身が、その衝撃から数秒遅れて動き出す。

 それは決して冷静なものではない。早鐘のような鼓動と浅くまともに吸えない呼吸、手のひらは既に汗でびっしょりだ。


 どうしてここに、この元担任が。

 硬直していた一瞬のうちにその疑問は赤尾の脳内で何度反響したことだろう。ろくに返事もできず、かといってその場から走って逃げだすことすら赤尾にはできなかった。

 ――ここで背を向けて走れば、背後からどんなふうに吊し上げられるか。

 冗談でも誇張表現でもなんでもなく、十年以上も前の仕打ちを今でもなお恐れるほどに自身のトラウマが深いのだと、赤尾は改めて思い知らされていた。


「ところで、あなたはここの学生さんかしらぁ? こぉんな時間まで講義なんてまあ、大変ねぇ」


 完全に竦んで動けない赤尾に向かって投げつけられた言葉は、そんなものだった。それで理解する。向こうは赤尾の事を覚えていない。そのことにほっとすると同時に、赤尾の決して表に出せない深い部分で憤りの炎が燻ぶった。


 あれだけの事をしておいて覚えていないのか。道徳の時間と称して赤尾の悪い所をクラス全員に挙げさせてリスト化したり、それを名前こそ伏せたものの教室に貼りだしたり、クラスメイトの前に立たせて吊し上げてみたり。既にいい歳こいてたあんたがあれだけ率先して八歳のガキを潰したくせに、きれいさっぱり抹消済みか。

 赤尾は覚えている。それら大っぴらに他の生徒を扇動していたことだけではない。廊下の片隅にクラスのやんちゃ坊主を複数集めて、赤尾を最初に泣かせた子にご褒美のお菓子をあげましょうなどと焚き付けていたのだって偶然だが廊下の影からこっそり聞いていたことも覚えているのだ。

 イジメは被害者の方がいつまでも覚えている割に加害者はすぐに忘れてしまう、というのは知っていたが、それでも冷静ではいられない反応だった。


「実は今、人探しをしているのだけれどぉ。あなたもしかして」


 語り掛けてくるその言葉はもはやノイズでしかない。

 今この場でネタを割ってしまったらこのババアは動揺するだろうか、いいやしないのだろう。名前を出しても覚えていないか、覚えていても罪悪感を感じていないかだ。そんな絵面が容易に想像できる。それでもこのまま話を聞きたくなくて、腹の底の黒いものをとにかく叩きつけてやりたくて、


 あんたが散々痛めつけたガキだよ俺は。今でもお前をぶっ殺してやりたいくらいに憎んでるよ、よくもまあ俺の前に顔を出せたなこのクソババア。

 そう言ってやろうとして、顔を上げて息を深く吸い込み。


「桃宮胡桃って子をご存じないかしら? 文芸部なんかをやっているらしいのだけど」


 その言葉に出鼻を挫かれた。

 一瞬何を言われたのか分からず再び固まって、それから挙げられた人名と部活動のことを思考が処理していく。どう反応したらいいのかも何もかもを脳が放棄して、頭の中が真っ白になりかけたその時だった。


「あ、見つけた!」


 それは聞きなれた親友の声だった。背後から駆け寄ってくる足音がして、すぐに赤尾の肩に手が置かれる。横に視線を向ければやはりそこにいたのは昼間に忠告をしてくれた竹沢だった。こちらの顔を覗き込むその表情は険しい。


「よう、探してたんだぜ。今日は一緒に遊びに行く約束だろ? 先輩達も待ってるからさ、ほら急げ急げ」


 いつもより陽気な口調をした竹沢の口から出てきたそれは間違いなく赤尾に向けられたもので、つまり山田という名前は彼が今咄嗟に出した偽名だ。目の前の存在に対して赤尾を赤尾であると認識させまいとしていなければそんな行動はとれない。一通りの事情は把握してくれているらしかった。

 険しい表情を一変させ、昼食時にカフェで見せるような人懐っこそうな笑顔を作った親友は目の前の元担任に向かって「じゃあ、すいません。俺ら急ぐんで、失礼しました!」と軽く会釈するなり、赤尾の手を引いてその場から歩き出した。頭が真っ白になりかけていた赤尾としてはそれを拒否するような理由もない。


「悪い赤尾。万が一って思って近くに待機してたんだけど出遅れた。とりあえず一旦離れるぞ、いいな」


 尋ねているくせに返答を待たずに竹沢の歩幅が広くなる。ついさっき終業のチャイムが鳴ったばかりの廊下にはまばらに人がいたが、日ごろサッカー部で鍛えている偉丈夫が大股で歩けば突っ切れない密度ではない。赤尾はほとんど引きずられるような格好でそれに着いていくだけである。

 ちらりと背後を振り返ると、元担任の中年女はもはやこちらを見ておらず、ゆったりとした足取りで廊下の反対側へと歩き去っていくところだった。


***


「とりあえず離れたな、ここで大丈夫だろ」


 親友がそう言って足を止めたのは、普段赤尾達が使うのを断念している食堂の手前だった。さすがに食堂内はもう営業終了して閉まっているため、その手前だ。大きく張り出した屋根が食堂入口の外側にも日陰を作り、そこにもベンチや丸テーブルが数か所ある。いわゆる屋外席だ。

 食堂内部は人気の極みながら、こちらは季節を問わず人が座ることはない。すぐ近くに講師用の喫煙所があって臭いがきついからだ。それが今はむしろありがたい。今からするであろう話が人目を多少なり気にするべきものであることくらいはわかる。


 なにより屋外で視界が開けているため、周囲に人が接近してきても気づきやすい。

 可能性は低いが、それでも先ほどの元担任が二人のいる方へと歩いてきたらすぐに気付いて逃げられる位置だった。

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