第4話 ― 3

 なるほど、と茶原が頷いてから橙山のほうに視線を向ける。二人から少しだけ離れた位置でそのやり取りを見守っていた橙山は小首を傾げていた。


「写真のモデルですよ先輩。橙山先輩に、コンクールに出すための写真モデルになってほしいってことで。さすがに本人の同意なしじゃあ、ちょっと」

「ああ、うん。そこじゃなくってさ、私がわからないのは」


 かみ砕いて説明する茶原だったが、橙山の反応はどうも煮え切らない。横で見ていた赤尾も不思議に思って口をはさむことにした。


「なんか、気になることでもあるんですか?」

「そうそう、ちょっとねー。なんで私かなぁって」

「美人だからじゃないっすか?」

「そう思ってもらえるのは普通に嬉しいけど、なんか釈然としないっていうか。っていうか赤尾君そういうの本人に言うなら演技でもいいからもう少し甘酸っぱくいこうよ、照れたり頬赤らめたりさぁ」


 ちょっと難しいっす、と顔色一つ変えずに言い放つと橙山からは不貞腐れたような目が返ってきた。

 言わんとする意味は分かるが、講義後の部室や赤尾入部後の歓迎会で酒を煽っては誰彼構わず絡みに行く様子を知っている立場では甘酸っぱい気持ちを持てと言う方が無茶だ。たとえ酒乱でも美人なのは見ればわかる事実なので否定はしないと、それだけの事である。

 そんなことより、釈然としないというのは何なのか、と赤尾や茶原が続きを待っていると、橙山は少しだけ考えてから榎園のほうを見て口を開いた。


「部誌の設置場所で待機して、人影見えた途端に待ってたぞー文芸部ーって飛びついてきたり、私の顔見て見つけたーとか言ったりさ、依頼する前から私の事知ってて指名しに来た感じなん?」


 無論だ、と問われた榎園が何の迷いも無く首を縦に振る。


「どこかで話したり会ったりしたことあったっけ?」

「いいや、今日が初対面だが?」


 持っていたお茶を取り落としそうになった。茶原のほうも視線が再び未確認生命体を見るものに変わっていたので、おそらく思っていることは同じだろう。


「なんだ、つまり、その、榎園先輩、ちょっと纏めていいですかね」


 茶原が額に手を当てて榎園に尋ねる。手で覆う直前に赤尾の位置から見えた彼の表情は、眉間に深い皺を寄せて眉が八の字をひっくり返したようになっていた。知らない人が山道で見れば熊と見間違って死んだふりの一つでもしそうな顔だったが、茶原のその顔が怒りではなく「物事の整理がつかないから脳内の情報を必死に処理しているときの顔」だというのを赤尾は知っている。

 要するに軽く混乱している。


「榎園先輩は、写真の被写体をしてほしいと、橙山先輩を指名して依頼に来たわけですよね」

「ああ、そうだ」

「ただ、当の本人とは面識がないと」

「本名が橙山だということも今日ついさっき初めて知ったな」

「……ただ、文芸部に理想の被写体がいるということは」

「ああ、半月ほど前から知っていた」


 妙にしゃべり方が堅苦しい今回の依頼人の答えに、質問をもう一つ。


「それは、どこかで偶然橙山先輩を見たことがあったとかですか」

「話の分からないやつだな君は。初対面だと言っただろう。顔を見たのは今日が初めてだ」

「……すいません、被写体に選んだ理由を聞かせてくれますか。一般人にも理解できる理屈で」


 すげえ、と横で聞いていた赤尾は茶原に内心で拍手を送りたい気分だった。榎園の話は支離滅裂すぎてどうにも掴みにくいうえに、向こうはそれが伝わらないということを理解していない。芸術家にありがちな、己の感性が常識や他者への配慮よりも優先されているタイプだ。

 赤尾なら半分も話を聞かないうちに匙を投げていただろう。少なくともここまで根気強く付き合えない。


 よくぞ聞いてくれたと榎園は自身の鞄の中から何かを取り出した。文庫本サイズの薄い小冊子。文芸部が発行している『言の葉』の先月号だった。

 榎園は取り出したそれの真ん中あたりのページを開き、茶原の前に差し出してきた。赤尾と、少し離れていた橙山も近寄ってその中身を覗き込む。開かれたそのページにあった短編はどうやらジャンルとしては恋愛ものらしい。筆者名は「花桜夢子」とあって、ここで赤尾は違和感に気付いた。


「誰ですか、これ」


 部誌の制作に関わったのは今月号が初めてで、そこに書かれていた作品は一通り目を通したはずだが、今月号にこんな名前の筆者はいなかった。今月号でも見た三人の先輩のペンネームは「正義のヒーロー」「あしなが本屋」「少女T」で、それぞれ上から桃宮、茶原、橙山のものだ。花桜夢子などと言う甘ったるい名前に心当たりはない。

 赤尾の疑問をよそに榎園は語る。


「先月、たまたま手に取って読んでみた時にこの作品に心打たれてね。この花桜夢子という人物の書くたおやかな文章、繊細な心情の描写が実に美しい」


 いちいち妙に芝居がかった言動の榎園が、そこで再び橙山を見た。


「読んだ瞬間分かったとも。これを書いた著者がきっと感受性豊かな素晴らしい女性なのだろうと。これほど心の豊かな女性であれば、きっと外見も美しいことだろうと! そしてその予想は正しかったのさ!」


 なるほど読めてきた、と赤尾は納得した。

 要は文章だけの先入観で、勝手にこの花桜夢子とかいうペンネームの人物を文芸部所属の美女だと決めつけていたのだろう。ただの勘違いで済めばよかったが、実際文芸部には目を惹く美女がいるものだからややこしくなる。

 榎園の脳内では橙山こそが、己の心に思い描いていた文芸部所属作家の「花桜夢子」なのだ。結果部分だけ見てしまえば勘違いもやむなしといった具合だが、そもそも勘違いした起点が妄想で作り上げた作者像のため同情する気にはなれなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る