第2話 ― 10
「ねえ、坂崎っていうのよね、あんた」
慎重に言葉を選びながら、桃宮はようやく追いついた坂崎のほうへと声を掛ける。
ここで下手な言葉を口にするのは避けなければならない。そこそこ幅の広い川と、その上の橋。そして坂崎の手にはまさに茜色の巾着袋が握りしめられている。ただでさえ最悪の事態に至る条件は揃い過ぎていた。
それに加えてもう一つ。桃宮は茹で上がったタコのようになっている坂崎の顔を見て眉間に皺を寄せる。
少なくとも追い詰められてここから身を投げるような心配はあるまい。そんなタマには見えないし、そもそもあれはそういう悲壮感に満ちた色合いの顔ではない。
――思い通りにいかないなら腹いせに酷く傷つけてしまえ。
どちらかといえばそのような、身を投げるよりさらに醜くて悪質なものだ。
まだ実行に移す踏ん切りがついていない様子の今が最後のチャンスだ。
「もう話は聞いてると思うから隠さないわよ。あたしは文芸部の桃宮」
下手に誤魔化した方が相手を刺激すると踏んで桃宮は先にこちらの情報を明け渡した。赤尾のあの様子では既に相手はこちらの事を知っているだろう。
「さっきは、うちの後輩が強引なことをして悪かったわ。ごめんなさい……とりあえず、話を聞いてほしいんだけど」
「き、聞くことなんかない! お前ら僕の邪魔がしたいんだろ、僕と彼女の間を引き裂きたいだけなんだろ!」
ああ、うん。この物言いは赤尾くんキレるわ。桃宮は内心で深く納得する。
部活に関して消極的なことを言っていたわりに依頼人の前から無言で立ち去ることもできなかったり、言った自分でも薄っぺらいと思うような安い挑発でも気迫たっぷりの視線で噛みついてきたり、本人は冷めているつもりでその内側は多分熱血だ。依頼人の三島を見てからこの男の言動を聞いたなら我慢などできなかったのだろう。
そこに理解が及んだのは桃宮も割と同類だからだ。今も内心で「邪魔するまでもなくあんたと三島さんに引き裂くような間とかないわよ」とその横っ面を張り倒したい衝動に打ち勝ったところだ。
「別に邪魔したいわけじゃないわ。むしろアドバイスなんだけど」
「はあ⁉ 頼んでないよ!」
「まあそう言わずに。あたしが何も言わないうちから返す返さないの話をする辺り、三島さんがそれを返してほしいって思ってるのはわかってるんでしょ? それを返さないからうちに依頼が来るぐらい三島さんに嫌がられるんじゃない。むしろ誠実な態度で返してあげれば、普通に恩くらいは感じてくれるだろうし、仲良くなりやすいんじゃないかなって」
盗んだのがあんた自身って時点でその望みはもうないでしょうけど、とはさすがに声に出さない。実際声に出した部分だって決して嘘八百というわけではない。盗むのではなく偶然落とした持ち物を拾って渡してやるなり、付きまとい行為をするよりも前なら何かしら不快感のない接し方はあったはずだ。そこから仲良くなればいいものを、わざわざその芽を潰したのは彼自身である。
耳に聞こえの良い情報だけを選んで聞かせていく。口調を穏やかに、警戒心を持たせないようにすること自体はもともと得意だ。外見の効果もあるのは少々悔しいが。
桃宮の言葉を聞いて、思うところでもあったのか坂崎の顔色が少し落ち着く。もう少し話を続けなければならないかと思っていたが、これだけで鎮静化するあたり随分ちょろい男である。話をしながら距離を詰めていたが、これなら必要なかったかもしれない。そう思った矢先だった。
「ひっ」
桃宮と向かい合っていた坂崎が短い悲鳴を上げて一歩後ずさる。視線は桃宮の肩越しにさらに後ろ側のほうを向いていた。
「おい、桃宮。こいつか坂崎ってのは」
待ってお願い今出てこないでややこしい。
振り返るまでもなくその熊みたいな低音の声が茶原のものであることはわかる。確かに赤尾が指さしたこの男を追う際に、緊急だからと講義中なのも承知で電話は掛けた。だがそれは『あたしの方を助けに来い』ではなく『赤尾くんの様子を見に来てあげて』という意味だ。場所だって赤尾がいた自販機前としか伝えていない。
なんで来た、と振り返って睨みつけようとして答えがわかった。
「赤尾くん、追いかけてきてたのか……」
殴られたといってもペットボトル。中身があるとはいえ大事にはなるまいと思ってはいたが、足元がふらついていたのは確かだろうによくまあ追ってきたものだ。追う途中で合流したのだろう、茶原という名の蛮族を背後に従えた赤尾の表情は必死そのものである。
取り逃がしたことに責任を感じたりしたのだろうが、その表情とその立ち位置だと殴られた怒りに燃えるあまり鬼のオーラを具現化しているようにしか見えない。
既に追い詰められている坂崎のメンタルに、とどめを刺すには十分すぎる光景だった。
「ひ、ひいいいいいい! 来るなああああ!」
「あのちょっと待って坂崎落ち着い――」
一度落ち着きかけていた反動か、先ほどまで以上にヒステリックな悲鳴を上げた坂崎は、桃宮が制止するような間すら与えずに、手に握っていた巾着袋を川のほうへ投げ捨てた。
綺麗な放物線を描いた巾着袋が橋の手すりを軽々と飛び越え、下の方で軽く小さな着水音がする。それを確認することもなく背を向けて走り去っていった坂崎を追うような気力は、桃宮にはなかった。
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