第50話 エピローグ
「逃げた?」
春。――真新しいオフィスの通路を、これまた真新しいスーツに身を包んだ男女が歩いて行く。
「何の話です」
「あの男ダ。キヅキ、ミハタ」
片方は長い黒髪を流した色白の女、もう片方は雲を突くような褐色の肌の巨漢だった。
「それで?」
「とぼけルな。お前だロう。手引きをしたノは」
一匹のモルモットが、単独で〝企業〟の実験施設から逃げられるわけがない――とでも言いたいのだろう。
巨漢は、隣の女を見下ろすでもなく、轟くような声で問い質す。
「――なにか、証拠でも?」
「無い。ただの勘ダ。しかし、たしカだ」
女は前を向いたまま、この上なく嫌そうな顔をした。
「それでよく、人を糾弾しようと思えましたね」
認めたくはないが、このよくわからない男との付き合いも早や一年になる。
溜息を吐いて見せても意味がないことは分かっている。
「バカなことを言っていないで集中なさい。何時までも、〝新人〟ではいられないのだから」
たしなめるように言い含めてはみるが、まぁ、無駄だろう。
「理由が解ラん」
これである。――仕方がない。なまじ、あしらおうなどとすると、余計にこじれるだけなのだ。
「教エろ。なゼだ?」
「仮に――仮に私だったとして、の答えですが」
そう前置きをして、女は告げる。
「障害が必要だと思っただけのことです」
「障害? ……このままデは、つまらんとでも言いたいノか?」
巨漢は重苦しく首を捻る。阿呆でも見下ろすような視線には、今更ながらに怒りが湧いてくる。そんな酔狂であるわけがない。
「……先の試験でも痛感しましたが、安易な道並みほど人を堕落させるものは有りません。寛容な場面で安楽な道を選ぼうとするような凡俗は〝企業〟には不要」
「……フム」
巨漢は小気味よく歩を刻んで前を行く女の背に、奇妙なものでも観るような視線を落としている。
「高みに登らねば、ここまで来た意味はない」
断言する声に反駁はない。同期として、それは言うまでもないことだからだろう。
「この先、〝企業〟はあらゆる国を、あらゆる敵を、あらゆる場所を踏破して、世界を統一します。――ですが、その過程があまりにも容易なものであったなら、〝企業〟そのものが道を踏み外すこともあり得る」
「……それで、あの男を野に放ったのか? バカらしイぞ。
「別に、それでもかまいません。ただ、彼の成長に敬意を表して、チャンスを与えたくなっただけです」
「何ノ「チャンス」だ?」
「そう、――我々に踏みつぶされる「敵」に成り得るチャンスを、です」
女は初めて巨漢を見上げ、ふふん、と少年のような笑みを浮かべた。対して、巨漢はバカらしいとばかりに肩をすくめる。
「相変わラず、お前の考えてイるこトは、分かラん」
「こっちのセリフです。――仮に、の話に乗ってあげたんですから、後はしばらく黙っていなさい」
しばらく、歩幅の違う両者が長い通路を闊歩する音だけが響く。
「……踏みつブす。とは言いなガら、妙に、期待してイるように見えルが、な」
黙れと言ったのにまるで効果が無い。まったく腹ただしい。
「そのくらいにしておきなさい。どのみち、我々の前途においては些事でしょう。――我らが〝企業〟の覇道は」
両者の歩みが止まる。眼前にはマンハッタン島がまるまる収容できそうな巨大な地下坑が広がり、その中心部には、今まで秘されていた〝企業〟の心臓部が、静かに脈打っていた。
「これからが本番なのですから」
不眠罪ゲーム どうやらショートスリーパーの少年〝ゼロ〟は『睡眠時間を賭けるデスゲーム』で、無双するつもりのようです(旧題インソムニア・ゲーム) どっこちゃん @dokko-tyan
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