第6話 腐兆プテラ

     1


 もし私が生物学的に男だったら、という具現がそこにいた。

 艶のない黒髪。無機質の眼。蒼白い皮膚。教授の存在する空間に含まれる生き物は、すべての生命維持活動を制限されているかのような。

 無。

「きみが、シイタ君だね」

 淡々とした機械的な発声。

 唯一の差異は、メガネの有無くらいで。

「皆、私を怖がって眼も合わせてくれないのだよ。酷いときはただの一言も対話が出来ない。ひたすら頭を下げられる。私は彼らのつむじ、彼らは床ばかり見つめる。でもきみは」

 教授は椅子から離れる。

 距離は。

 落下速度的に。

「冷たいね」

「失礼ですが、初対面でそのような言い方をされますのは」

 無表情の教授は。

 無表情の私に。

「ここは私には広すぎる。最上階を丸々与えられてもね。だから近々私の息子を呼び寄せようと思っている。どうかな」

 紫色のクリアファイルを差し出した。

「先生、謝罪がまだです」

「あれはこの間中学に上がったばかりなんだ。だがね、私は後悔している。あれを学校なんぞにやるべきではなかった。おかげですっかり学校教育の申し子に育ってしまって、模範生などと囃し立てられているそうなんだ。あれは根が素直だから、褒められればその期待に応えてしまう。挙句、受けるテスト受けるテストすべてパーフェクトスコアを取ってしまうものだから」

「あの、先生」

 紫色のクリアファイルは差し出されたまま。

「天才少年と呼ばれるに至ってしまった」

 教授は私を見続ける。

「だから私は決心した。あれは中学には向かない。むしろ幼稚園も小学校にさえ行かせるべきではなかったのだ。私の大学に迎える。手続きはすでに済んだ。あとはあれの意志次第なんだ。しかし私はあれにそのことを伝えることが出来ない。世界には私を拘束するものが多すぎる」

 私は仕方なく紫色のファイルを受け取った。中身が見たかったわけでも、差し出されたから受け取るべきだという義務感でもない。

 宙に留まる異様な存在が憐れで。

「そこで、きみに頼みたい。あれを説得してはもらえないだろうか。いや、説得ではないな。話を切り出す。それが正しい。頼めるだろうか」

「先生」

「何かな」

「先ほどの発言の謝罪をしていただきたい」

「すまない」

 それはあまりに拍子抜けな謝り方で。

 私は何について怒っていたのか、すっかり忘れてしまった。

「頼めるかな」

「そのために私がこの大学に呼ばれたのであれば、返事は一つしかありません」

「ありがとう」

 思えば、教授と面と向かってまともに話をしたのはこれが最初で最後だった。

 このあとすぐに教授は。

 意識不明で発見される。

 教授の息子は、国の頭脳を輩出するとまで言われる超有名進学校で、入学して以来誰にも学年首席を譲ったことのないという如何にもな生徒だった。

 天才少年。

 それは教授に息子のために用意されたような概念。

 外見も言動も、その行動すべてに渡って父親を髣髴とさせる。遺伝子がそっくりそのまま受け継がれている。

 何の不純物も混じることなく。

 世界中のあらゆる現象を拒否して。

 その息子に会ったのは、入院中の教授をお見舞いに行ったときだった。

 いや、当の教授は愛息以外の見舞い云々を一切遠ざけていたので、学校を休んで病院に足を運んだ教授の息子を待ち伏せしていただけなのだが。

 すごく厭そうな顔をされた。

 彼も父親同様無表情を貫いていたが、不完全な無表情だった。無になりきれていない有の残滓が節々にちらつく。

 自宅に送るという建前で乗せた車の中で、大学へのスキップの話を持ちかけたら。

「考えさせてください」

 彼は、中学一年とは到底思えぬ、落ち着いた口調で言った。

 冷たい。

 あの時、教授の研究室で、教授が私に伝えたかったのはこれのことだった。

 決して貶しているわけではなく、ただ単に纏った印象を述べたかっただけ。

 教授から受け取った紫色のクリアファイルを手渡したあとは特に会話もなく、彼は車酔いをするからと、ずっと窓の外を眺めていた。運転手が黙々と業務をこなす中、私は彼の隣で、天才少年の整いすぎた横顔を見つめていた。

 黒縁メガネの向こうでは、一体何を考えているのだろう。

 そんなこと、永遠にわかるわけなかった。

 六月初旬の深夜。病院の隣の研究所。管理しているのは言うまでもなく教授。

 そこで、すべてが起こってすべてが終わる。

 血だらけの教授が病院に担ぎ込まれる。

 発見したのは、その息子。

 傍らに落ちていたナイフからは、教授の指紋しか出なかった。

 自殺。他殺。

 一命を取り留めた教授は、何も語ろうとはしない。公にしないで欲しい。それだけ。

 心理学と名の付く関連組織すべて、いや、名を関していなくともほんの僅かでも心理学が掠れば、医学、法律あらゆる分野に多大な影響を及ぼす人であっただけに、この事件は根こそぎ封印される。

 そこを根城にしていた、天才博士の失踪とともに。

 博士と親しかった名外科医も、博士を崇拝していた私の配偶者も、何も言わない。

 教授の息子はしばらくの間、大学と眼と鼻の先にある病院の精神科に通っていた。父親があんなことになったのだから無理もない。入院していた時期もあったようだから、通院になっただけ回復していると見ていいと思う。

 私の配偶者の三仮崎ミカサキ(当時はまだお付き合い程度)も、それと同時進行で彼の話し相手になっていたらしい。曲りなりも心理学者で、専門も臨床に近いということもあったが、それ以上に、彼から好かれているようだった。そうでなければ、相談相手になって欲しいなんて思わない。

 そもそも三仮崎は、教授が意識不明で入院されたときに呼び寄せられたピンチヒッタだった。よって、教授が回復されればお役ご免になる。それだけの存在。

 ただ、学生からの評判は異常なまでにいい。顔がいいから、だけではなさそうだ。鉄壁で無表情な教授より数兆倍も取り付きやすく気さくな雰囲気がいいのだろう。心理学で国内最高峰と謳われるこのお堅い大学では、珍しいタイプだったのかもしれない。

 通院回数も減って、だいぶ顔色がよくなってきた教授の息子は、ある日私の研究室を訪れてこう言った。

「大学に行くことにします」

 楽しげとはいかないものの、一番前の席を陣取って熱心に講義を聴いてくれているようだから、私はそれでいいと思った。担当の精神科医も、臨床に近い心理学者の三仮崎も、一様に彼の回復らしき兆候を喜んだ。

 だがそれは、これから起こることの前触れですらなかった。

 事件の一年後のちょうど同じ日、教授の息子は自殺を図る。血だらけの父親が倒れていた研究所の屋上から。

 担当だった精神科医ならびに三仮崎が駆けつけ、運よく未遂に終わったが、息子が飛び降りたショックからか、その父親も半年ほど入院することになる。

 妹が事故に遭ったのも、研究所の事件とほぼ同時期。執刀医があの先生だったから助かったようなものの。

 私がこの大学に来てから、こんなことしか起こらない。

 もしかしたら、私が疫病神なのかもしれない。

 私がここに来たから、こうなってしまったように思えて仕方ない。

 あれから何年経ったのか。

 ついに己の配偶者も交通事故に遭い、その彼の古い友人の、といっていいのかわからないけど、外科医の弟は、内部が徹底的に壊されている。

 私は実際に見ていないが、その兄に会えば言語を封じられるほどに伝わる。目下業務に復帰できない外科医から相談を持ちかけられているはずの、三仮崎の表情からも、これ以上ないくらい流れ込んでくる。

 担当の精神科医は、以前教授の息子が自殺未遂を起こしたときも担当だった。失踪した博士とも何らかの繋がりがあったと聞いている。腕のほどはよくわからない。

 髪は寝起きの如くぼさぼさ。口の周りには剃り残しなのか、微妙な長さの無精ひげ。やる気のなさそうないい加減な風を装った、猫背気味の男。とりあえず白衣さえ羽織っておけばぎりぎり医師には見える。

 メガネを掛けているので、自称メガネっ漢見守り境界界長を名乗っている妹の評価が気になるところだが、それは叶わない可能性が高い。

 無理に時間をとってもらって、会うことにした。

 私のクライアントでないことも、私の専門でないことも、重々わかっている。つまりこれは単なるお節介もしくは迷惑、妨害、果ては越権行為に過ぎない。心理学という基盤でしか共通項のない私には、何も出来ない。

「こうやって二人で会うのは、ええっとですね、初めてでしたか」

 照明がちかちか眩しい。

 深夜だから。

「どうぞあの、お掛けくださいね、ええ」

「その喋り方は何とかなりませんか」

「ああ、すみませんね。そのまあ、癖らしいのでね、はあ。直そうと思ってもですね、無理なんですよ、たぶん」

 私は丸椅子に腰掛ける。

 診察室。

「どうしてここなんですか」

「さあて、私は特に問題ないのですがね。それに、端的に済ませたいからと申されたのは、ううん、先生のほうでは」

 精神科医は、見せ付けるように大あくびをする。

「それはすみません。大事なお時間を」

「いえいえ、一度貴女とお話してみたいとね、以前より思っていたのですよ、はい。それで、お話と言うのは」

「カタクラあきとさんのことです」

「ほお、ご存知でしたか。いえ、内容ではなくその、お名前のほうですがねえ。下の」

 精神科医は不可思議な顔で笑った。

 下品で卑しいというよりは、独特すぎて奇妙奇天烈。

「容態は聞きません。私が聞いてもどうなるものでもありませんし」

「あれ、違うんですか、私はてっきり。ふむ、よくわからない方ですね」

「どうすると、あのようになるのですか」

 空調の風が顔に当たる。

 薄っすら鳥肌が立ってきた。

「えっとその、いまのご質問は、どのような意図が」

「あきとさんをあのようにしてしまったのは、私の妹です。ですから、妹が彼にどんなことをしたのか知っておくべきだと思いました」

 精神科医は大袈裟に頭を掻いてううん、と唸った。

 演技だ。白々しい。

「そのことはあの、先生には」

「私の口からは言っていません。でも、おそらく妹が」

「ああ、そうなんですか。では、さぞおつらいでしょうね、はあ、お察しします」

「察しなくて結構です。質問に答えてください」

「あのう、訊きづらいのですがそれは私が答えなければいけないのでしょうか」

「私はあなたに訊いています。担当医のあなたに」

 精神科医は、落胆したような呆れたようなどうでもよさそうな表情を作って、背もたれに寄りかかる。仰け反る。天井の染みを改めて数えなおしているのかもしれない。

 ぶーんという耳鳴り。

 ちりちりという幻聴。

「私は結婚していたのですがね、まあ学生に毛が生えたような頃ですからだいぶ前なんですけれどね、実にううんその、言葉では言い表せないくらい酷いことが重なりまして、別れさせられたんですよ、はい。哀しい話でしょう? そうなんですよ、哀しすぎるんですよ。その時にですね、お世話になったというか、お世話させられた、妙なピアノ講師がいらっしゃいましてね、ええ。その方が私にしようと思ったこと、いえ、私の患者にやったことと、よく似ていますねえ。だから私はえっと」

「言いたい事がよくわかりません」

「私にもわかりませんよ」

 精神科医はあっけらかんと答える。

 急に喋りだしたと思ったら、ちっとも要領を得ない。

「質問に答えてもらえますか」

「いやはや、恐ろしい方ですね貴女は。さすが、ミカサキ先生の浮気を笑って許容されただけのことは」

「許容はしていません。それと恐ろしくもありません」

 精神科医は仰々しく頭を下げた。座ったまま。

「すみません。あ、あのお怒りでしょうかね」

「お怒りです」

「申し訳ない。その、やはり私は質問に答えないと」

「何が問題ですか。あなたの口から言うのが躊躇われるのですか。それとも私相手だと話しづらいのでしょうか。または、私に話したところで気分を害するだけだと、心配しておられます?」

 どうも調子が出ないと思ったら部屋のせいだった。

 私が患者のポジションを採らされているから。

 私は席を立つ。

「え、あの、どうされましたかね」

「場所を変えましょう。空き部屋の一つや二つございますでしょう?」

 廊下は薄暗かった。診察室と明度の差が激しい。

 コーナを曲って小さな部屋に入る。

 小さな、と形容したのは、私の研究室の半分以下の面積だったから。長机の両側にパイプ椅子を並べたら、もう余地はない。

「お望みならば、ええ、実践しましょうか」

「結構です。間に合っています」

 奥が窓だった。暗幕がかかっている。

「彼はですね、決して性欲が亢進されているわけではなく、性的な行動を強いられているだけです。調教とでも申しましょうか。心理学では学習でしたっけ。しかし自慰をしようが実際に性交をしようが、彼に快感はありません。意志を飛び越えたところで自動的にやっていますので、一次的要求に近いですね。呼吸や発汗、心筋や内臓の」

「私は容態を訊いていません。質問の内容が変化しているように思われますが」

「ですからね、学習理論なんですよ。アルコールや薬物などによらず、経験により比較的永続的な行動変化がもたらされること。初期は抵抗を封じるため薬物なんかも利用された可能性もありますが、終日犯され続ければ慣らされて、ええっと順応でしょうか」

「無理に心理学に結び付けなくて構いません」

「そうですか。はあ、実はこれでも心理学が好きでしてね。どこまで話しましたっけ。ああそうだ、順応です。どこぞに監禁されていたんでしょうね。体も随分痩せ細って、満足な食事も与えられていなかったのだと。しかし、あの、先生の妹という方は生物学的に」

「私は女だと思ってますが」

「が?」

 精神科医の尋ね方は肯定的でも否定的でもなかった。

 ただ単にが、という音を発声しただけだった。

「中に男の人がいるそうなんです。妹は創作活動、主には絵を描いたり文章を書いたりですが、その行為は自分ではなく、自分の中にいる男の人が行っていると」

「はあ、それは興味深い。えっと一応確認なのですが、性同一性障害的なもの、ならびに心理的両性具有といいますか女性の中の理想の男性像アニムス、或いは解離性同一性障害らしきものだったりですね、現実感喪失のような離人症的なものとは」

「違うようです。絵を描くときは割と意識できるようなんですが、文章のほうは渾然一体としているそうです。キーボードを叩いているときはわからなくても、手を止めたり文字を読み返しているときに、ああこれはわたしが書いたんじゃないな、と思うそうで、そのときに男の人の存在を感じると言ってました」

「ううん、その男の方は、妹さんとお話を?」

「いえ、思考部分が共有できるようなので、会話は必要ないみたいです。妹はひとりでいるときにしか創作活動を行いません。例え姉とはいえ、私が傍らにいると出来ないみたいで。ですから、妹の中にいる男があきとさんをあのように」

 ドアの向こうで足音。

 踵のしっかりした靴とぶかぶかのスリッパの共鳴。

「人格がもう一つあるわけではない。会話も必要ない。キーボードで作業されているときに存在を意識しやすい。ううむ、なかなか複雑な男の方ですね」

 精神科医が腕時計に眼を遣ってこれはいけない、と呟く。

「お時間ですか」

「見ていかれませんかね、ええ」

「見ることは出来ますが、診ることは出来ません。違法です」

 上に行くと思ったらエレベータは地下に向かった。何フロア下がったのか、意図して見ないようにした。

「実はここを遣うのはですね、三度目でして」

「今の発言から何を読み取ればいいのかわかりません」

「今回を含めまして三度とも、私が担当だ、とまあそのくらいですかねえ」

 ひんやりとした廊下。冷気が皮膚の表面に纏わりつくようで薄気味悪い。

 天井に蛍光灯はなく、サイドの壁にある心許ない明かりが床を照らしている。足元さえ気をつければ平気なのだろう。

「コネですか、技量ですか」

「どちらもですかね、はい」

 教授も何を考えているのかよくわからない人だったが、この精神科医はそれを遙かに凌いでいる。思考の道筋がランダムすぎて。底を探られまいとしている。防衛が高いのか。自己開示の度合いが著しく低い。

「私の分析をされましてもね、あまりどころかその、まったくもって肩透かしな結果に終わると思われますからね」

 黙っていたからバレたのか。

「職業柄癖なんです。お気に障ったならすみません」

 それともただの当てずっぽうか。

「いいえ、貴女が謝られる理由はありませんよ。あのえっと、何と言いますか、私なんぞにそのご聡明な思考力を遣っていただかなくとも、と恐縮してしまった次第でしてね」

「ミカサキ先生とも普段こういった掛け合いを?」

「そっくりそのままお返ししたいところですが、ううむ、残念ながら貴女に嫌われたくない。断腸の思いでこの疑問をしぶしぶ封印することに」

「博士とは」

「ええっと、どちらの博士をご想定で?」

 反応時間に著しい遅れなし。

「博士と聞いて何も浮かばないのであれば結構です。眠くなってきたせいかしら。ちょっと思考がおかしくなってきたようです」

 表情が見えない場合、鎌かけなどすべきではないのだが、彼の場合表情はむしろ妨げになる。あの独特の笑い方をされたら、思わず退路を探してしまう。

「そうですか、はあ。なんだか気持ち悪いですねえ」

 突き当たりは、暗証番号とカードキーと指紋認証で厳重にロックされた扉だった。私が背を向けたのを確認して、精神科医がロックを解除する。

「ここまで来ておいて申し上げるのも、とは思うのですが」

「なら言わないでください」

「そういうわけにもね、いかないのですよ。私はカタクラあきとさんの担当医として貴女をここに連れてきました。ということは、貴女がここで見たこと、感じたこと、そのすべてにおいて、ううんその」

「守秘義務の件は重々承知しています」

「そう、それです。どうもね、年寄りになるとテクニカルタームが出てこない。お恥ずかしい限りですよ、ええ。それでですね、貴女がここでカタクラあきとさんを見てもその、誠に申し上げにくいのですが」

「意味はありません。むしろ失礼に当たるのはわかっています。しかし」

「妹さんといえども他人です。違いますか? そうでしょう。そうですね、はい。ですから私は最終確認を取らせていただきたいのですよ。貴女がカタクラあきとさんを見たことにおける余波並びに弊害は一切関与できない、とねえ。困るんですよ、患者を増やされますとね。ただでさえこう忙しいのに、ううむ」

 イライラするほど遠回りで過剰装飾極まりないが言いたいことは一つ。

 受けたショックのせいでどんな診断が付こうが知ったこっちゃない。

「いまならね、オプションで担当医のですね、鬱陶しい説明が付きますよ。事前と最中と事後と、どれにしましょうかね」

「事後、ということにします。優しい言葉を掛けていただきたいから」

「はあ、それはまた、うれしいですね。信用されていると、そうとってよろしいでしょうか」

「どうぞ。受け取るほうは自由ですから」

 ドアは自動で開いた。

 私は早々に眼を背ける結果となる。

 眼を瞑っても見えてしまう。記憶が映像を再現する。

 ひたすら白い。

 白。

 白。

 色が違うのは頭髪くらい。

 その他は、ただただ白。

 白い城。

 シーツも肌も照明も身に着けた衣類ですら。

 へらへら。笑うに値する刺激がないのに笑ってしまう。空笑。

 四肢をベッドに拘束されているのに愉しそうに。

 しかし、眼球より厭わしい感覚があった。

 嗅覚。

 ハンカチで鼻と口を覆っても何の役にも立たない。

 部屋という空間がそのにおいで染まっている。

「ああ、うっかり言い忘れましたがね。あまりベッドに近寄らないでいただきたいのですよ。遠くからね、そう、扉付近にいていただけるとこちらと致しましてもね」

 精液。

 精神科医は、ゆっくりと勿体つけた足取りで私とクライアントとの間に移動する。それとほぼ同時に、カタクラあきとの目線も移動する。私から、精神科医に。

 眼差しの質も変化した。

 まるで、愛おしい人と邂逅したときのような。

「えっと、お察しの通りですよ。彼はね、見える人間見える人間すべて」

 距離はほんの数メートル。

 カタクラあきとは、これ以上ないくらい恍惚の表情になって。

「お兄さんに見えますのでね」

 微笑んだ。


     2


 世界が崩壊したあと、どうなったかは知らない。

 スミさんの後遺症の具合とか。コーハイはわたし不在でもあのバイトを続けているのかとか。テンチョの経営方針に変化があったかとか。姉の配偶者は退院したかとか。アウトロー白衣先生は職務に復帰したかとか。

 極上メガネっ漢の守熙モリヒロは元気だとか。

 姉は、変わらないと思うけど。

 きっとあのワインレッドのフレームのメガネをかけて、鉄壁で冷静な表情を保ったまま、暇そうな学生相手に講義をしているに決まっている。

 一回くらい大学に忍び込んで、さも学生みたいな顔で、姉の講義を受けてみたかった。

 姉は絶対に気がつかない。

 日口ヒグチにうゆは変装も得意だから。

 講義が終わっても気がつかない。

 日口にうゆは逃げ足も速いから。

 そして、忘れたことにこっそり話題に上らせる。

 姉が緊張して、メガネのフレームを触る様子が眼に浮かぶ。

 愉しい。

 すごく愉しい。


      3


「ヒグチにうゆさん、だよね。あの有名な」

「心配しなくていいですよ。あすこ、辞めてきましたから」

「辞めたったって。うちとしてはそりゃ、あのにゅーちゃんが来てくれたら万々歳だけど、うちが引き抜いたみたいに見えない? 弱ったなあ。敵に回すとなると」

「心配しないでください。店がなくなって路頭に迷ってたにゅーちゃんを優しく迎え入れてくれたいいお店、てゆうカキコミで大繁盛しますよ。物見遊山も含めて」

 数日後。

「本当ににゅーちゃんの言うとおりになったけど、その」

「心配ですか。ここもそうならないかって」

「まさか、とは思うけど。いや、違う違う。ごめんごめん。変なこと訊きそうに」

「なんですか?」

「ごめん、忘れて。あ、制服だけど」

 数週間後。

「わ、ホントににゅーちゃんだ。え、噂には聞いてたけど、へえ。こうゆうのも似合うじゃん。どきどきしちゃうなあ」

「噂って? いい噂ですよね?」

「前いたとこ。潰れちゃったんでしょ? にゅーちゃんいなくなったら誰も行かないよ。一番人気の人だって、あーえっと、なんとかさん。黒髪の清楚な感じの。俺、けっこーファンだったんだけど、あの人も辞めちゃったんだって? 残念だなあ」

「なんで潰れたか知ってます?」

「そんなの。にゅーちゃんがいなくなったからでしょ? 違うの?」

「噂になってません? どうして潰れたか」

「どうだろ。俺もそこまで調べたわけじゃないからなあ。ほら、事実と捏造と入り混じってるじゃん? いちいち信じてたらやってけないもん」

「じゃあ一応は噂っての、知ってるんですね?」

「根も葉もない虚偽だよ。だってあり得ない。確かにケーサツがうろうろしてたけど」

「ケーサツ? なにかあったんですかね?」

「報道されてないから、ガセだよ。あんな、いまどきないって」

「聞かせてくれません?」

「え、気持ち悪いよ? にゅーちゃんホラーとか平気? 駄目ならやめたほうが」

「教えてくれないならほかの人に聞きます」

「あ、ちょっと、え、怒った? 俺なりに気を遣ったつもりで」

 次の日。

「ごめん。にゅーちゃん。怒ってるよね?」

「教えてくれるんですか?」

「うん、でも、気分悪くなっても俺に冷たくしないでね。約束だよ。にゅーちゃんのいたとこさ、変死体が出たとかで。身元がわかんないくらいひどかったらしいよ。唯一わかったのが、性別が男だったってくらい」

「変な風に死んでたってことですか?」

「変てゆうか。あ、まだ時間平気? あんま大きな声じゃ言いにくいんだけど、腰から上がなくて、しかも何も着てなかったみたいで」

「下半身だけ。あ、それで男だってわかったんですね?」

「下世話な話でごめんね。でも、それがあったから男だってわかったってゆうよりは、なんてゆうか、言いにくいなあ、にゅーちゃん相手だとこうゆう話しにくいや。切り取られててさ、それが。切ったのが、あーごめん、ほんとごめん、ゆっちゃうけどケツの穴にね」

「その人のペニスがその人のアナルに刺さってたんですか?」

「にゅーちゃん、結構ずばっとゆっちゃうね」

「ただのBL作家だと思わないでください。わたしの作品読んだことないでしょう?」

「無理だよ。俺、そうゆうの耐性ないし」

「莫迦にしてるんですか? 腐女子はアタマがおかしいとかって」

「違うよ。みんながみんなにゅーちゃんみたいな腐女子だったらなあ、とは思うけどさ」

「ほら、莫迦にしてる。もう時間でーす。さようなら」

 数ヵ月後。

「すごいよ。にゅーちゃんのおかげで」

「大繁盛ですか? よかったですね」

「ねえ、ちょっと訊いていい? 気を悪くさせたらごめんよ」

「なんですか?」

「どうしてうちに来たの? ほかにも」

「ここの服、アレンジ自由だから。気分で変えられるし」

「まあそれが売りだからね。へえ、やっぱ受けるんだ。種類増やそうかな」

 メガネっ漢選り取り見取り。

 今度は誰にしよっかなあ。

「えーコンタクトにしちゃったんですかぁ」

 お前だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

うきまだり 伏潮朱遺 @fushiwo41

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ