第5話 虜家来トリケラ

      1


 病院と迷ったけど姉に会うと困るからアパートにした。先生の部屋を見てみたいというのが本音だけど。

 いますように。非番ですように。

 てゆうか病院に確認したから知ってるんだけど。

 呼び出しチャイムを鳴らしたら即行でドアが開け放たれた。一応インターフォンだってあるんだから確認したほうがいいと思うんだけど。

 アウトロー白衣先生が飛び出してきた。

 目が腫れてる。充血と隈。

「あ、えっと」

 予想してた人間と違ったからぽかんとしてる。

 こうゆうところもなかなか。

「おねーちゃんのだんなさんのところにいなくていいんですか」

「何の用で」

 警戒されちゃったみたい。

 顔が引き締まった。

「意識戻ったから安心ですか」

「すまないけど、用がないなら」

「先生の好きな人を教えてください」

 何言ってんだこの子は、みたいな顔で見られた後、溜息をつかれた。

「悪いけどそうゆうのは」

「違います。わたしは先生が好きなんじゃなくて、ちょっと興味があっただけで」

「興味があるにしても、そうゆうのはフツー訊かないんじゃないか」

「フツーじゃなきゃダメですか」

 先生が眉をひそめる。

 ちょっと怖い顔。

「そんなこと訊くためにわざわざ」

「変ですか」

「変だと思うが」

「教えてくれたらわたしもいいこと教えます。弟さんの」

「あきとか」

「あれ、あきとさんて言うんですか」

 先生がドアを全開させた。

「散らかってるが」

「構いません」

 本当に散らかってた。典型的な1Kなんだけど跳び石的な足の踏み場しかない。でもキッチンは使った形跡がなくそこだけいやにきれい。缶ビールの空き缶とカップラーメンの容器が散乱してる。

 気になるのはテレビ周辺のゲーム機と、尋常じゃないソフトの量。一応ダンボールがあるけど、ほとんど意味を成してない。

 先生はゴミ山から座布団を発掘してひいてくれた。

「どうもです」

「説明してほしい」

 姉よりすごい人がいたなんて。

 ぜんぶ読まれてる。

 だから逃げないように部屋に入れた。座布団の位置も玄関から一番遠い。先生の横を通らないと外に出られない。

「まずは先生からですよ」

「本当にあきとの居場所教えるんだな?」

「居場所を知ってるとは言ってませんけど」

「知ってるんだろ。とぼけんな」

 先生の鋭い目が貫通する。

「約束守れ」

「わたしは弟さんの、としか言ってません」

 地面が揺れたかと思った。

 先生が床に足を振り下ろした。畳なのに。

 踏み抜いてないよね。

「先生の妹だからって容赦しねえぞ」

「そうゆう態度はやめてください。怖いです」

 先生は姉のことを先生と呼ぶみたい。

 ちょっと。

 意外。

「死んでねえだろうな」

「さあ」

 鼓膜を突き抜ける衝撃音。

 脚の短いテーブルが叩かれた。

「いい加減にしとけよ。あきとどこやった」

「平行線ですね。まずは先生の番です」

「そんなこと聞いてどうすんだ。そいつぶっ殺しにでも行くか」

「聞いてから考えます」

 先生の本性は凄く荒々しい。病院ではそれを抑えている。

 弟の守熙モリヒロの前ではどっちの顔なんだろ。

「ゲーム好きなんですね。あ、これ先週」

「死んでる」

 ゲームソフトのケースを床に戻す。

 いま。

 なんて。

「死んでるって」

「聞きたかったんだろ。俺の好きな奴」

「ウソ」

「嘘言ってどうすんだよ。まあ正しくは行方不明なんだが」

 先生は静かに笑ってあぐらをかく。

 この顔はどこかで。

「俺のガキ連れてそれっきり。だいぶ前からなんも音沙汰なし。だからまあたぶん」

 守熙そっくり。

 先生に好きな人がいるって言ったときの。

「あの、ガキって」

「これも正しくはクソ親父のガキなんだ。俺の弟だよ。でもあいつは俺の子だとかいいやがるからそうゆうことにしてるだけで」

 わからない。

 ぜんぜんわからない。

「つまりは誰なんですか」

「ガキだよ。変なガキ。俺を医者なんかにしやがった奴だ」

「ずっと会ってないんですか」

「死んだんだよ。会えねえって」

「お父さんの子どもなのに、先生の子どもなんですか。その子どもを連れていなくなったガキって人が好きなんですね?」

「ああ」

「モリヒロさんには」

「あきと、俺のこと好きだって?」

「はい」

「なんかそんなんばっかだな。どっかの心理学者もそう言ってたろ」

「みたいですね」

 姉の配偶者も心理学専門。

「やりてえなら言やいいのに。そうじゃねえとか言ってたろ。ったく結婚してからそうゆうこと」

「あきとさんが本名ですか」

「ああ。モリヒロちかおはペンネームだったか」

 先生が座りなおす。

 というより日口にうゆを逃がさないように構えてる。

「約束だ。あきとは」

「場所は言えません。でも生きてます」

 先生が睨んでる。

 真っ赤に充血した眼が凄みを増す。

「もう一度言う。あきとの居場所吐け」

「そんな怖い顔されたら言えません」

「立場わかってんのか。約束って言いやがったの」

「わたしは、弟さんの、しか」

 痛い。

 腕を摑まれた。手首。

「吐くまで帰れると思うな」

「もっと言いたくなくなります」

 あざになるかも。

 指のあとがくっきりとか。

「てめえが首謀者か。ミカサキもあきとも」

 怒鳴られた。凄くでかい声。

 三仮崎ミカサキて誰だっけ。

「何が目的だ。俺に対する嫌がらせか。だったら俺に言やいい。なんだ」

 思い出した。

 姉の配偶者の名字だ。

「離してください。モリヒロさんを連れてこれません」

「信じられねえな」

「モリヒロさんが心配なら手を離してください。そのほうがいいです」

「俺も連れてけ。車出す。そうじゃねえと」

「わたし一人じゃないとモリヒロさんは連れ帰れません」

「根拠は」

「モリヒロさんを攫ったのはわたしの知り合いです。わたしの命令なら何でも聞きます。わたしの命令しか聞きません。わたしはあいつを殺さないといけません」

 先生が手を離した。

 力が抜けただけみたいだけど。

「時間がかかるかもしれません。でも絶対連れ帰ります。だからお願いです。誰にも言わないで下さい。あいつはわたし以外に止められません。くれぐれも警察にだけは言わないで下さい。警察に言ったらモリヒロさんが無事に帰ってこないという意味ではありません。警察には何も出来ないんです。あいつはとっくに死んでるから」

 そうだった。

 あいつは約束守ったんだ。

 わたしの目の前で。


     2


 煙臭い。換気扇からもうもうと排出される。入り口は煌々と明るい。カップル。学生の集団。続々と吸い込まれる。

 肉を求めて。

 駐車場に人が立っている。暗くなってきたから影しか見えない。

「場所変えようか」

「どこに?」

「俺の家とか」

「ホントにやった?」

 距離は三メートル強。

 コンパスの差できっと逃げられない。

「ここでその話はなあ」

「イエスかノーだけ言えばいい」

「イエス」

 即答だった。

 清々しいほどの通る声。

「どうやったか聞く?」

「興味ない。早く死んで」

「最後なんだからデートしてくれない?」

「家には行かない」

「犯されると思ってる? しないよ。確かに好きだけどそういう好きじゃないから」

「じゃあなに?」

 手を差し出される。

「それも含めて。ね?」

 この手で殺したんだ。

 この手であいつをバラバラに。

「洗ったよ」

「お茶だけ」

 焼肉屋の近くのファミレスに入った。もっと高級なところに連れてくと言われたけど、さっさと済ませたかった。場所なんかどこだって一緒。

 デートというのはどこに行くかじゃなくて。

 誰と行くか。

「奢るよ。なんでも」

「ファミレスでカッコつけられても」

「確かにそうだ。でも君が」

「君って言わないで。名前も呼ばないで」

「最後なのに?」

「関係ない」

 お腹なんか空いてない。何も食べたくない。要らない。

 あんたなんか。

「これとかどうかな」

「勝手に頼めば」

「デートってこと忘れてない?」

「忘れてる」

「冷たいなあ。せっかくお望み叶えたってのに」

「毒とかある?」

「毒殺がいい?」

「早いほうがいい。それだけ」

「こっち見てよ」

 睨んでやった。

 その余裕の微笑が鬱陶しい。

「中学のときと雰囲気変わったよね。あの時はもっと、なんていうかその、地味」

「うるさい」

「過去の話はダメ?」

「どんな話もダメ。口開かないで」

「あいつさ、何て言って誘い出したと思う?」

「さあ」

「寝たって言った」

 もしわたしがもう少し短気だったら。こいつの顔面に。

 お冷をぶちまけていた。

「しかも無理矢理」

 ダメ。

 やっぱりわたしは短気だった。

 目の前の顔にぼたぼたと水滴が垂れる。

 店員がタオルを持って走ってくる。監視していたが如きタイミングで。

「帰る」

「待ってよ。そうゆう約束じゃん」

 腕を摑まれる。振り払えない。

 なにこの力。

 この力であいつを殺した。

「離して」

「帰らないでくれるなら」

「もうヤダ。嫌い。あんたなんか」

 騒いだせいでフロア中から注目されている。店員も迷惑そうな顔をしている。次に何かやったら確実に追い出される。

 そのほうが好都合だけど、今この状況でこいつの意に反することはしないほうがいい。

 何となくそう思う。予感だけど。

 厭な予感ほど当たるから。

「デートだよ」

「二分」

「少ないなあ。最期だよ?」

 もう答える気すら起きない。

 ヤダ。本当にヤダ。

 下を向いてじっとしてたら顔を覗き込まれた。

「泣いてる?」

「知らない。見ないで」

「アイス好き? シャーベットのほうがいっか」

 なんか勝手に注文してる。

 なんで二人分。お腹壊せばいい。

「たぶん俺に文句言ってやろうと思ったんじゃない? あいつさ、実は君のこと」

「うるさい」

「あれ、知らなかった?」

 その白々しい態度がすごくイヤ。

 別にどうでもいい。誰が誰を好きとか。

「で、遭遇するなり俺に殴りかかってきたから」

 刃物で刺すジャスチュア。

「倒れたところを」

 振り下ろす動作。素手じゃなくて重いもの。

「動かなくなったら」

 切り落とした。のこぎりを使う動き。

「顔色悪いけど大丈夫?」

「誰のせいで」

「俺かな」

 本当に気持ちが悪い。食道の辺りがマグマみたいに。

 シャーベットが運ばれてきた。

 イチゴの。

「イメージはイチゴなんだよね。小粒なんだけど、期が熟してもどことなく酸っぱい」

 声を出せない。口を開くだけで吐きそう。

「食べてよ」

 首を振る。

「食べさせてあげようか?」

 もう泣きそうだった。

 こんな奴さえいなければ。

 こんな奴さえ。

 死の呪いをかけたい。あと二分でぽっくりいくような。

「しぃさん」

 睨みつけるしか出来ない。

「くぅさんとも呼ばれてたね。どっちがいい?」

「ヒグチなら許す」

「ペンネーム? わかった」

 苦肉の策。創作活動のときに使う偽名なんか教えたくなかったけど。

 本名呼ばれるよりずっとマシ。

「溶けちゃうよ」

「要らない。食べて」

「俺のどこが好きだった?」

「憶えてない」

「顔?」

 知ってる。こいつはぜんぶ知った上でわざと尋ねてる。

 性格最悪だから。

「俺、コンタクトにしたんだ。ヒグチさんにこれ以上嫌われたくないし」

 あと何秒。

 早く速く。

「高校のときの彼女はさ、確かに俺が告ったんだけど、俺から別れたよ。向こうも若気の至りみたいなとこあったみたいだから、それに大学も遠いしね。遠距離するくらいならって、それできれいさっぱりおじゃん。だいたい寝てないし。そうゆうとこ厳しくてね。なかなか」

「捕まる」

「そんなへましないな。何も残ってないよ」

「指紋。血痕。交友関係。ケータイ。呼び出したんなら尚更」

「ないない。心配ならニュース見る? 俺のとこで」

「どうしても家に呼びたいみたいだけど」

「当たり前だよ。ぐっと距離が縮まりそう」

 ピンクの塊が液体になっていく。

 脇にあった半分のイチゴだけ口に入れる。

「寿命は今日一杯」

 味なんかしない。

「いいよ。日付が変わる瞬間にあっち行く」

「約束?」

「約束」

 ファミレスを出て駅まで歩く。一方的にあっちが喋ってた。相槌なんか打たなくてもいいことが途中で判明。

 こいつは私の影に話しかけてるみたいだった。

 切符代も向こう持ち。むしろ当然。

 隣の隣の駅。

 知らない駅。

「毒殺がいいんだっけ」

「わたしに血が飛ばないから」

「んじゃ飛び降りも可?」

「潰れるところが気持ち悪い」

「首吊りは」

「目玉が飛び出して気持ち悪い」

 こいつの部屋はテレビとパソコン以外何もなかった。死ぬために片付けたらしい。

 わけわかんない。

「自殺ならそのほうが説得力がある。ほら、遺書も」

「用意周到すぎ」

「ヒグチさんに迷惑掛けたくないからね」

 時計すらなかった。

 ケータイで確認しようと思ったら電池が切れてた。

「テレビでいいよ。ニュースも見れて一石二鳥」

 ちょうどドラマかバラエティの時間だったからどのチャンネルも不発。アニメはだいぶ前に終わってる。ビデオ録ったから帰ったら観よう。先週いいとこで終わってたから続きが気になる。

「まあ俺の周辺が静かってのがその証拠じゃない? さて」

 急に立ち上がったからビックリした。

「シャワー浴びてきていいかな」

「その先があったらいま帰る」

「ないよ。どうせ腐るんだけど最後くらい」

「好きにすれば」

「ヒグチさんは?」

「髪長いの」

「ドライヤくらい」

「違う。証拠が残る」

「あ、そっか。そうだね。あんまり触らないほうがいいね」

 やつが部屋から出てすぐに水の音がした。

 リモコンでザッピングを繰り返す。指紋がつくと厭だったのでハンカチ越しにボタン操作。ほとんどバラエティ。お笑いとかクイズとか。

 ニュースをやってる局があったけど世界情勢云々。選挙とか経済とか。

 やってない。

 本当は騙されているだけなのではないか。

 あの電話だって。夕方のニュースだって。

 学生がバラバラにされて道路に散らばっていたくらいでマスコミは見向きもしない。

 パソコンを立ち上げる。パスワードを請求されなかった。

 壁紙を見てマウスを落としそうになる。

 一瞬何かわからなかった。一生何かわからないほうがよかった。

 男性器が肛門に挿入されている。

 写真がディスプレイいっぱいに。たくさんの写真で埋め尽くされているわけではなくて一つの写真が大きく。

「あ、見ちゃったか」

 後ろ。

 振り返れない。

 眼前の画像も見ていたくないが、やつがもし全裸だったらそのほうが苦痛。

「誰だと思う?」

 急いでシャットダウンした。デスクトップ型だからすごい目障り。

「ヒント。両方ともヒグチさんと顔見知り。片方はすぐ後ろ。もう片方は」

「やめて!」

 タオルで髪を拭くざかざかという音。

 耳を塞いでも聞こえる。

「どうせ死ぬんだからいっかなと思ってね。でも心配しないでほしい。中出しはしたけど粉々に刻んできたから。すぐ身元が割れたのは一刻も早くヒグチさんに会いたかったからで」

 生温かい腕が肩に。

 弾力のある湿気。

「ごめんね。せめてパソコンは開けるなって言っとくべきだった。シャワー浴びたらぶっ壊すつもりだったんだ」

 テレビの電源が消える。

 やつが金槌を持ってきて振り下ろす。

 破壊音。何度も何度も。

 次はパソコン。

 破壊音。何遍も何遍も。

 キーボードまで壊した。

「死んでよ」

 すごい怖い声だった。だからきっとわたしではなく。

 男。

「何飲んだら死ねるかな。希望に従うよ」

「硫酸」

「生憎持ってないな。漂白剤ってどう?」

「しらない。早く死ね」

 湿気がなくなった。

 水の音がしなくなった。

 いない。後ろに。

 何かが倒れる音。

 どこ。

 どこで。

 見たくない。でも見ておかないと。

 心配で眠れない。

 この部屋でないならトイレか。

 バス。

 そっちだ。曇りガラスの向こうに黒と。

 肌の色。

 開ける?

 開けない?

 呼んでみる。名前は厭だから間投詞。

 おい、とか。

 ねえ、とか。

 無音。無音。

 空気も留まってる。

 鼻につく刺激臭。足元に転がっているのはボトル。

 漂白剤。

 死んだ。

 やつは死んだんだ。

 生きてたらわたしの呼びかけに応えないはずない。

 赤い。紅い。

 黒。

 血だ。

 きっとそのまま排水溝。

 帰ろう。

 目的は遂行された。

 一人暮らしだと発見が遅れるかも。大家さんとか訪ねてくればいい。

 遺書は。

 床の上。

 わたしは関与してない。わたしは無関係。

 大丈夫。

 わたしはこんなやつ、しらない。


     3


 嗅覚なんか麻痺して久しい。

 網膜に結ぶ像も、劇的な変化がないから蜃気楼のようにぼやける。人間の眼は動くものに反応するように作られているから相当飽和気味。

 想い呈し。

 重い停止。

「お願い。こんなとこで」

 声が届かないのはわかっている。

 聞こえているのか、聞こえているのだがそれを意味として捉えることができなくなっているのか、わからない。どちらでも同じ。変化も差もない。

 どうせ、反応してくれない。

 守熙モリヒロちかおにおける真実は、馬善マゼンたけしろだけなのだから。

「立って」

 がりがりの細腕を引っ張る。

 関節が外れるくらいの力が欲しい。成人男性ひとりを楽に担げる力が欲しい。

「立てよ、モリヒロちかお」

 またあの声だ。

 私の声ではない低い声。だからこれはきっと。

 男。

 男なら、出来るかもしれない。

「大好きなおにーさんのところに帰りたくないのか!」

 反応なし。

 駐輪場の陰で休憩。バイクのタイヤに足をぶつけた。変なところに駐めてあるからだ。この痛みだと皮が剥けている。青あざになっている。

 にゅーの大事な商売道具に。

 深夜だけど人はいないわけじゃない。むしろ人が多くなる地区だってある。人が発明した明かりのおかげで。

 やはり人は滅ぶべきだった。

 あの時に。わたしが大学にいたときに。

 馬善たけしろが死んだときに、一緒に絶えるべきだった。

「行くよ。はい、立って」

 反応なし。

「立てよ。立って!」

 反応なし。

「立てってゆってるだろ?」

 自分でもビックリするくらい力が出た。

 火事場のなんとかかもしれない。そんないいものがあるなら早く遣いたかった。

 ショートケーキのイチゴは最初に食べる。季節はずれで不味い、冷凍保存されていた、ケーキ用イチゴだとしても。

 手が冷たい。

 守熙を摑まえている手はもっと冷たい。

 眩しい。上向きのライトなんか壊れろ。

 躓いた。落ちている石なんか地に還れ。

 イライラ。腹が立つ。

 いま世界中のすべての事柄が、わたしを邪魔している。

 わたしに反して動いている。わたしに抵抗している。

 だからうまく行かない。守熙を連れて廃ビルから逃げ出すことも。再度馬善たけしろの息の根を止めてわたしの精神安定を取り戻すことも。

 何がいけない?

 悪いのはだれ?

 馬善たけしろだ。ぜんぶあいつがいけない。

 そうでなければ人類すべてがいけない。

 わたしと守熙以外のすべてがいけない。

 コーハイもいけない。スミさんもいけない。テンチョもいけない。姉もいけない。姉の配偶者もいけない。アウトロー白衣先生もいけない。

 アウトロー白衣先生の好きな人はもっといけない。

 餓鬼ってなに?

 先生のお父さんの息子を、先生の子だと言い張る餓鬼。

 先生を外科医にした餓鬼。

 先生の息子っていう人を連れて行方不明。

 わけわかんない。

 ウソだ。

 ウソに決まっている。

 そんな支離滅裂なことがあってたまるものか。

 信じない。

 わたしは信じない。

 手が滑る。

 脳が統べる。

 守熙がまた地べたに座り込む。

「ねえ、やめて。本当にそうゆうこと」

 外灯のせいで顔がよく見えない。眼が慣れたから余計な明かりはむしろ邪魔。

 頬をはたく。

 もう片方も。

 きっと緩んでいる。空笑というやつだ。

 へらへらへらへらへらへらへらへら。

 頭を殴る。

 ここだ。

 ここに入っているものが守熙をこんなふうにしている。

 脳。

「戻って」

 痛い。

「戻れ」

 痛い。

「戻れ戻れ戻れ」

 熱い。

 手がべたべたする。

 精液。

 汗とか涙とか。

 違う。

 色が。

 血だ。

 だれの?

 わたし?

 こっち?

 あっち?

 冷たい。

 守熙が。

 私の手についた血を。

 舐めている。

 慰め?

 違う。

 調教?

 違う。

 食べている。

 血液を口から摂取している。

 頭を叩いて舌を離させる。

 わけがわからない。

 なんで。

 性欲と食欲が結びついている。強固なまでに。違和感すら滅却する。

 あんな淫靡な顔でものは食べない。

 首輪が欲しい。鎖が欲しい。

 飼うためではない。

 移動というただそれだけのために。

 公共交通機関と同義。電車やバスを利用する代わりに、守熙にはそれが必要。

「わかる?」

 反応なし。

「おにーさん、どこ?」

 反応なし。

「忘れちゃったんじゃないよね?」

 反応なし。

 吸って吐いて。

 吸って。

「あきと!」

 無言。

 ダメだ。わたしじゃ取り戻せない。

 わたしの役割は、守熙を先生の家に連れ帰ること。

「歩いて」

 腕を引っ張る。

 ずいぶん経ってから振り返る。

 腕の感覚がなくなってくる。

 わたしの腕が守熙の腕と一続きになっているような幻覚。

 メガネっ漢に吸収されるのは厭だ。

 メガネっ漢を吸収するのならまあ。

 ちがうちがう。

 メガネっ漢は須く観察対象であって、実際に触れてはならないのであって、影響を与えることも禁忌であって。

 空が白んでくる前に何とかなれば。

 明るくなったら終わりだ。

 わたしも守熙も精液のにおいしかしない。亡霊と馬善の精液。守熙が纏うのはフード付の白いパーカだけ。

 馬善たけしろが蘇って、世界が崩壊する。

 私は一向に構わないけど、全人類が死に絶えたってどうってことないけど、メガネっ漢見守り境界界長認定最上メガネっ漢の守熙ちかおだけは、先生に会わせてあげたい。

 起きてる?

 起きろ。

 眼を覚ませ。覚醒しろ。

 インターフォン。

 まどろっこしい。

「シイタの妹です。開けてください」

 扉を叩く。ちょっとくらい歪んだっていい。

 右手は守熙と。

 左手は先生と。

 血走った眼がドアの隙間からのぞく。

「約束、守りましたから」

 先生はおそるおそるチェーンを外す。

 のろい。おそい。

 隙間から見えた守熙が受け入れられない。

「何やってるんですか。わたしは、モリヒロさんを」

 先生は首を振る。痙攣的に。

 そうやって視覚情報を遮断している。

 意味を取らないように。どうしてこんな状態なのか考えないように。

「先生の弟ですよ? 先生が当直断ってまで夜毎捜したあきとさんは」

 何故。

 解読不能。わからない。

 エラー。何故。

 先生の脳内はそのエンドレス。

「早くしてください」

 あり得ない。

 先生は。

 ゆっくり。

 出て。

「あ、き」

 と、が掠れて聞こえなかった。

 守熙は何も見ていない。

 わたしも、先生も。

 空気すら相手にしていない。

 地面にぺたんと座って空笑している。

 へらへらへらへらへらへらへらへら。

 自分の性器を弄りながら。

 先生から感情が剥離する瞬間を眼にしてしまった。

 声は霧散。思考は凍結。

 灰色アスファルトが白濁精液で染まる。

 わたしは、守熙を無理矢理立たせて、先生の部屋に入れた。

 先生も部屋に押し込む。

 ドアを閉める。

 終わった。

 間に合った。

 ドアに背をつけて徐々に地面に近づく。

 ちょうど座ったところで。

 足音。

 ぺたん。

 違う。

 かつん。

 違う。

 どたんばたん。

「界長、お迎えに上がりました」

「頼んでない」

 今度は腰から上が見えない。

 あるのは。

 下半身。

「参りましょう」

「厭だ。死ね」

「三度目はさすがに」

 蘇生を繰り返すたび現世に持って帰れるパーツが減る。

「二回死んだなら三回目も同じ」

 ごつごつの手。

 べたべたの指。

 精液まみれ。

「洗って」

「洗いましたよ。こんなにきれいじゃないですか」

 同じ。そっくり。

 デートだとかいって連れ回されたあの夜と。

 微妙な差異があまりに微妙すぎて反吐も出ない。

「眼が悪い」

「三途の川にコンタクトを落としてしまいまして」

「拾ってくればいい。逝け」

「ちかおを喪った哀しみに打ちひしがれる私をどうかお慰め下さい、界長」

「漂白剤ってどんな味?」

「まるで五臓六腑が焼け爛れるが如く過激でした。しかし、肝心の味はというとあまりお勧めできませんが」

「わたしを騙した?」

「なんのことでしょうか」

「死んだふり」

「まさか。私はあの時浴室で」

「確認してない。胃洗浄間に合った?」

「すみません、何のことなのか」

 記憶していない。

 とぼけている。

 同じ同じおなじ。

「帰る」

「お送りします」

「モリヒロちかおで気づくべきだった」

 私は走る。

 耳のすぐ後ろに馬善たけしろの気味の悪い声がしても足なんか止めない。

 幻聴。まやかしの声。

 わたしの狂った脳内から響く意味のない音階。

「登場人物の九割以上が男、パーティなんか全員男ってゆう異色RPGアウラムフレイヴァスの製作者」

 この異常なまでの男性比にもかかわらず、決してBL臭くないため男女問わず広範囲に受け入れられている。ヒロインなし恋愛要素なし年齢制限なしの同人ゲーム。

 シナリオも練り込まれており、ヴィジュアルも綺麗な上、音楽も正統派RPGを意識したカッコ良さを売りにしている。主要人物は勿論のこと、脇役ひとりひとりにすら重厚なストーリィが存在し、個性的なパーソナリティを持ったキャラクタたちが織り成す物語は圧巻。

「ちかおの出世作ですね。さすが界長。あらゆる方向に造詣が深い」

「あんたはそれ手伝ってた」

「ご明察。といっても大したことはしてませんよ。あれは、すべてちかおひとりで」

「隠しシナリオ」

「いやはや、界長の眼は誤魔化せませんか。そうです。しかし、よくぞ発見されましたね。ちかおですら知らないと思うのですが」

「たぶんわたししか知らない。わたししか見つけられなかった。だから、わたしだけに向けて創られたストーリィ」

 わたしはRPGというものが苦手だった。傍らで誰かがプレイしているのを見ているのは好きなのだが、人があっけなく死んでしまう仕組みに違和感を感じて、自らコントローラを握るのを忌避していた。

 しかし、転機が訪れる。

 アウラムフレイヴァスの出現。

 RPGというのは、主人公の成長物語として組み立てられているものがほとんどであり、一般に通常戦闘と呼ばれる、雑魚キャラを倒すことで経験値を手に入れ、レベルを上げて技を修得していくのが普通である。それをしないと、ボスとの戦闘つまりボス戦でつまづいてしまう。自らのレベルの足りなさを痛感し、レベル上げをしにどこぞのダンジョンを行ったり来たりしなければならない。

 だが、アウラムフレイヴァスの主人公は、冒険を始める前から、あらかじめ最高レベルまでの技を修得しており、通常戦闘も、ほぼ存在しないに等しい。しかしこれは、面倒なレベル上げを一掃し、さくさくストーリィを進めるための手段ではない。

 このゲームは通常戦闘がない代わりに、ボス戦と呼ぶに相応しいものが圧倒的に多く、後に仲間になるキャラクタとは必ず戦闘を行う。出会いがしらすぐに戦闘ということもざらではなく、あらかじめ主人公が強くなっていなければ相手と渡り合えないため、このような手法を採っている。

 よって、RPGおんちでも容易くストーリィが楽しめ、レベル上げなしという物足りなさは夥しい数のボス戦でカヴァされるため、ゲーム熟達者も退屈しない。

「ゲームなんかするつもりなかった。でもおねーちゃんがこれならって勧めてくれて」

「いえ、界長が体験されたというその事実だけで本望です。あのシナリオは、メガネっ漢見守り境界界長ヒグチにうゆ氏に捧げた以外の何物でもないのですから」

 RPGにおいてゲームオーバになるには、戦闘におけるパーティの全滅が挙げられる。主人公をパーティから外すことが可能なゲームでなくとも、主人公が死んだらそこで終わりというものよりもこのほうが明解。例え戦力が微々たるものとはいえ、ひとりでも残っていれば戦闘は続行可能なのだから。

「失礼ですが、クリアは」

「してるわけない。どうなるの、あれ」

 一度もゲームをクリアしていない状態で、六回連続ゲームオーバになる。

 それが隠しシナリオの発生条件。

 こんな情けないことが平気で出来るのは、ゲームおんちのわたししかいない。

「ネタバレになりますがよろしいですか」

「わたしが訊いてる」

「重ね重ね失礼致しました。しかし誠に申し訳ないのですが、私もクリアには至らず」

「役に立たない」

 こんなことなら姉に聞いておけばよかった。

 当時はネタバレに過剰なまでに気を遣っていたから。

「では、もう一つの仕掛けには」

「気づかないわけない」

 日口にうゆとしか思えない人物が出ていた。

 いまは緩いウェーブで毛も染めているが、学生の頃は真っ黒のストレート。背は低く胸も手も足も何もかもが小さい。

 きっかけは姉の一言。

 これ、にうちゃんに似てるね。

「似てない」

「そうですか。あれは唯一、私が提案したキャラクタで、ちかおにも評判が良かったのですが」

 隠しシナリオには、アキトという名のメガネっ漢。

 まるでそのもの。

 可愛い系の外見も、口が悪いふりをしてる中身も。

「乙女ゲーは好きじゃない」

「気が回らずにすみません。あの時はBLという文化を知らなかったものですから」

 主人公たちが旅の途中で立ち寄る、音楽が盛んなとある王国において。

 遙か昔、その美麗な歌声によって伝説となった歌媛が失踪した理由は。

「ヘテロなんか見たくない」

「ええ、それはもう心得ております。後に界長の著作を拝見しましたとき、ようやく。しかし僭越ながら申し上げますと、界長にお送りしたディスクのキャストはやはり完璧だったのではないでしょうか」

 隠しシナリオの内容はともかく、メガネっ漢見守り境界界長としてそこに出ていた最上メガネっ漢アキトに萌えたのは事実。だからこそ日口にうゆは、アキトをモデルにしたパロディを描き続けたのだが、それら著作は、オリジナルBLと捉えられて当然。

 アキトという元のキャラクタを知っているのは、この世にたった二人。

 創作者。

 発見者。

「あんたはゲームに出てくる?」

「いえ、そもそもちかおがひとりで創った世界。私は存在し得ません」

「でもゲームを創ったときにはモリヒロさんの近くにいた」

「そうなってしまうでしょうね。隠しシナリオのこともありますし」

「ほら、死んだふり」

 足を止める。

 もう、走らなくていい。

 伸び放題の雑草。スカートが短いせいで脚が切れる。

 黒光るカラス。時間差で一文字に赤黒い液体が滲む。

 天に還る煙が粘膜を刺激する。

 苔むした石柱の群れ。

 冷える。末梢から凍える。

「不味かったんですよ。金輪際ご勘弁を」

 お供え物は漂白剤のボトル。

 見渡す限り一様に。

 首を振る。

 眼を背ける。

 圧迫感。首が苦しい。

 すべての墓石の刻印は。

 馬善たけしろ。

 生年と没年は荒く削り取られて。

 そこだけ空洞。

 穴。

 穴。

「約束ですよ、界長」

 地面が沈む。

 しらない。

 天空が落ちてくる。

 そんなもの。

 空気が消滅する。

 おまえなんか、しらない。

 脳だけぐらぐらして。

 してない。

 どこにいるのか立っているのかわからなくなる。

 約束。

 摑まる物が欲しい。

 走れ。逃げろ。

 鼓膜に吐息がかからない距離まで。

「どうされたのですか。界長、お待ちを」

 わたしは、もう一度それを破る。

 守るも何も。契約とか約束とか。

 世界崩壊まであと。

 二秒。

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