第4話 胃口尾イクチオ

     1


 情も故意も捨てた。

 一番最初のイメージは学校の宿泊行事。

 たまたま班が一緒で。

 いや、ちょっと気になり始めたときにくじ引きで班が一緒になって。

 運命だと錯覚した。

 そのままだらだらと中学三年間。

 高校も同じところだったから。

 クラスは違ったけど。

 幸運だと思い込んだ。

 そのままだらだらと三年間のつもりだった。

 観てるだけでよかった。

 誰にも取られないという前提の元なら。

 たまにあり得ないタイミングで廊下ですれ違うと。

 全身総毛立った。

 選択科目も同じクラス。

 二年になって選択コースになったけど。

 それもほとんど同じ。

 舞い上がるしかない。

 偶然でなければ。

 これはなに?

 観察対象から。

 繰り上げろということ?

 ムリムリ。

 ダメダメ。

 不可能にもほどが。

 何度も駅で電車を待ってるところを観た。

 同じ電車で帰るのをやめてほしい。

 同じ車両なんか乗れない。

 わざと遠くから乗るのに。

 それでも同じ車両になってしまう。

 なにをさせようとしているの?

 わからない。

 わかりたくない。

 親が迎えに来るまで駅で待ってたことがあった。

 どうして同じタイミングで同じことをするの?

 早く車が来ればいい。

 来ない。

 来ない。

 こうゆう時に限って渋滞。

 相手はガードレールに寄りかかってぼんやり。

 告白すべき?

 待ってる?

 あり得ない。

 ないない。

 親の車を探すふりをして三回くらい前を横切る。

 意味なし。

 視線は感じない。

 そうだよ。

 あり得ないから。

 違う日にたまたま友だちに会って。

 そいつはあいつと友だちで。

 なんで一緒に帰んなきゃいけないの?

 ボックス席の向かいに座ってなにをさせようとしてるの?

 悔しいから友だちを知り合いに降格させた。

 いつだったか文化祭のときに。

 すべての答えが出る。

 なにも。全校生徒の前で。

 彼女を紹介しなくてもいいんじゃない?

 殺してやろうと思った。

 いまこの瞬間たったひとりだけ殺せるとしたら。

 あいつにした。

 死ね。許さない。

 いままでのは。

 無になった。

 そんなやつを葬る場所は。


     2


 ずっとアウトロー白衣先生が姉の配偶者の傍に付きっ切り。

 ついに先生を職務に戻そうとするスタッフは現れなくなった。説得も聞く耳持たず。無理矢理廊下に出してもバネの如く元の位置へ。万一持ち場に戻れたとしてもどうせ上の空だろうから諦めてる。

 最初から俺がやってりゃこんなことには、とか。

 お前俺に切られたいって言ってたろやってやったんだから眼開けろよ、とか。

 睡眠なんか採ってない。絶えず悲痛な語り掛けが響く。それがあまりに重いせいで人を遠ざけている。

 姉も引き返してしまう。顔すら見れず。

「いいの?」

「いいも何も明日から学会なの。準備があるし」

「そんな場合じゃ」

「ホントはふたりで行くつもりだったんだ。だから私が行かないとね」

 なんで。

「にうちゃんは?」

「朝早いの?」

「来る?」

 ふたりで電車に乗るのは久し振り。

 曇ったみたい。姉がメガネを外す。

 眼が充血している。

 珍しい。完璧な姉の顔にヒビが。

「目薬ある?」

「ドライアイ用だよ?」

「じゃあいいや」

「寝てないの?」

「事務処理が溜まっててね」

「負けたって思ってない?」

 車内アナウンス。

 まだ着かない。

「涙の量で勝ち負けが決まるならね。それに最初から勝負になってない」

「先生の好きな人って誰?」

「それ訊いてどうするか、に寄るね」

「教えて」

 車内アナウンス。

 まだ着かない。

「私の口から言うことじゃないな」

「知ってるの?」

「知らない」

 ウソだ。

「おねーちゃんの知り合い?」

「さあ」

「わたしも知ってる人?」

「どうかな」

「言ったほうがいいよ」

「私には効かない。優しくないから」

「ゆってよ。ゆわないと」

 車内アナウンス。

 いま着いた。

「おねーちゃん」

 反対側のホームに立っている男。

 足元が覚束ない。ふらふら黄色い線を辿ってる。

 ホームの監視カメラ。

 そんなの意味ない。

 マゼンタは透明物質。人語もわかるしメールも打てる。メガネっ漢見守り境界界員。趣味はメガネっ漢誘拐監禁撮影会。似非メガネっ漢抹消絶滅。

 壊れたら。

 破棄。

 保存。

 奴隷。

 ダメ駄目やめて。望んでない。

 メガネっ漢見守り境界界長日口にうゆはもうこれ以上なにも。

 聞け、マゼンタ。界長が命令する。

 いるならいますぐその行為を。

「にうちゃん?」

 姉が振り返る。階段を半分くらい下りてる。

 横目で確認。

 ああもう。

「改札出たとこで待ってて」

 ダメだ。

「なんで?」

「なんでも」

 姉が階段を上がってくる。ヒールで地上を蹴って。

 やめてよ。

「来ないで!」

 男の。

 足が。

 縁から。

 線路に落下して。

 電車が通過。

 飛んで潰れる。

 悲鳴なんか聞こえない。

 ぶるぶる。

 メール受信。

 見れない。いま見たら。

「にうちゃん!」

 人集り。どんどん増えて。

 ざわざわ。

 ひそひそ。

 がやがや。

「言ってよ」

 そう。そうだよ。

 あれは似非メガネっ漢なんだから。似非なら生きてても。その価値を有しないでのうのうとメガネなんか掛けて。

 当然だった。

 何も悪くない。悪いのはあっち。

 日口にうゆは何も。

「にうちゃん」

「教えて」

 騒げ喚け部外者。

 黙せ呑め関係者。

「庇ってるの? ゆわないとおねーちゃんが」

 姉は首を振る。

 ゆっくり。

 こんなときでも落ち着いている。

「ウソ。絶対知ってる。ゆって、ゆったほうが」

 姉は向かいのホームを見遣って。

「自殺かな」

「なんでわたしに訊くの?」

「違うよ。独り言」

 人身事故。運転見合わせ。

 ホームにアナウンス。

 繰り返し繰り返し。

 終わらない言い訳。

「訊くなら自分で訊いて。それでどうするのかも自分で決めて」

 いまさっき眼にした衝撃的な光景よりも、マゼンタから送られてくるどんな映像よりも過激。扇情的に洗浄された戦場。

 いまの姉の眼は。

 ぞくぞくするくらいの。

「先生には気が狂うほど愛してる人がいる」

 姉はそれ以上何も言わない。

 だから日口にうゆも何も言わない。

 改札を出てタクシーに乗る。

 人身事故だってね。そうみたいですね。

 目的地は。


     3


 廃ビルだった。

 扉からして錆びている。取っ手にべたりと古い油が染み付いている。やっとの思いで開けたのにすぐに閉めたくなった。

 鼻を突き刺す異臭。何の臭いかわかるからさらに吐き気。

 およそ人間から流れ出るすべての体液を混ぜた。

 眼が慣れない。人工的な闇には人工的な光で対抗。

 壁紙がぼろぼろ。

 違う。なにか。

 写真というより映像のコマ送り。壁どころか天井にも床にもみっしり。意味を剥奪された成れの果て。抜け殻たちの痙攣的な乱交。

 知らない顔。

 あんなものではなかった。やはり大量に飼って。

 亡霊にもなれず。

 階段にもみっしり。手すりにも。踊り場になにか。

 肌がほとんど露出。隠すという言葉という概念すら忘れ。

 そこだけ圧し掛かる重力量が違う。床にめり込んでしまいそう。危うい。溶ける。呼吸すら億劫。脳にあるのは麻薬的な快楽。

 異常な摩擦と過剰な振動で世界から隔離されている。

 滑った。

 手すりに摑まるけどぬらぬら。

 思わず手を離す。バランスを崩して転びそうに。

 足首捻ったかも。

 倒れるよりいい。どうしても床に接触したくない。

 透明な液体が唾液や先走りなら。

 白濁の粘液は精液。

 鼻にハンカチを当ててゆっくり階段を上がる。避難訓練みたい。逃げる方向が逆。死にに行くような。

 そっか。

 死にに行くのかも。

 二階に上がった。

 どこからか呻き声とも雑音ともつかない不気味なノイズ。耳まで塞ぎたくなる。手が二つしかないのが恨めしい。異臭が強まる。天に近づくほど増強。

 源は。

 踊り場にまた。人間量は倍に。

 傍ラニ人無キガ如キ振舞ヒ。

 ディスクの映像が眼前で繰り広げられて。

 隣を通るにはあまりにも経験地が低い。ボスは次のステージ。中ボスで篩い落とされる。辿り着くまでにリセットボタン無駄連打。一度押せば元に戻れるのに。

 彼らは視線を感じない。どこかが故障している。

 ただひたすらに、調教の成果を見せ付けられる。

 ぽたぽた。

 どこかで雨漏り。違う。

 雨水に色はない。

 雨水に勢いはない。

 手すりの間から白い腕と白い脚。顔を照らしても瞬きもせず。眩しいはずなのに。気づいてない。外界の刺激を察知する能力が鈍磨になって。

 レンズも白濁で汚されて。

 白っぽいパーカ。

 声が掛けられない。

 何を言っても不適切。何を述べても無力。

 助けると言ってたのは。

「界長」

 雑音混線の無機的な音。

 守熙の白い腕が動く。機械的に。操り人形のよう。

 後ろから操っている主が大きな手を伸ばす。

「ようこそおいで下さいました。途中の催しは観覧されましたか」

 わざと見ないようにしていたのに。特定を避けていたのに。

 お得意さん。

 店員さん。

「お気に召しませんでしたら仰っていただければ」

「何人いるの?」

「すみません。数えたことがございませんので」

「顔見せて」

 照らす。

 落ちる。すぐ足元。

 ケータイだった。

「データフォルダをご覧下さい」

 ちょうど液体の中に沈んで。

 唾液精液。

「防水です。お気遣いなく」

 手に取らずに床で開く。ボタンを爪の先で押す。

 予想済みの画像。

「もっと前の」

 スクロール。

「二つだけ突出したものがあるはずです」

 見たくない。

 タイトルで誰が映ってるのかもう。

「消去なさったほうが界長のためには」

「消していいの?」

 あの雨の日にバイト先で日口にうゆの写真を撮った男の。

「勿論。私は界長に迷惑を掛けたくない」

 消去しますか。

「バックアップは」

「ありません」

 イエス。

「ホント?」

「信じて下さい。もしあったとしてもその持ち主が界長のフアンだという証拠にしかなりませんよ。ところで本日のご用件は確か」

「なんで捕まらないの?」

「捕まって欲しい、ということでしょうか」

「そうじゃない。誘拐の件」

「誘拐? 私が? 界長、大いに誤解です。彼らは無理矢理連れてこられたのではありません。彼らの意志で私の元に来たのですから」

「でも誘った」

「そうだったかもしれません。ですが、それが証明できない。彼らは私のものです。ほら、ちかお。ちょっと遅いけど界長に挨拶してくれませんか」

 明かりを逸らす。

「ううん、謙虚ですね界長。じっくり観賞なさればいいのに。いまのちかおの顔、すごく良かったのですが撮っていなかったのが悔やまれます」

 奴隷というよりただの玩具。

 戻せる?

 戻るの?

 人間はここまで壊れても。

「モリヒロさんをわざと逃がしたのはなんで?」

「わざと? どうしてそう」

「タイミングが気持ち悪い。見えないリードをつけて放し飼いにしていただけ」

「界長、言葉に棘を感じますが、何かご不満でも」

「モリヒロさんはおにーさんが好き。知ってる?」

「そのようですね」

「返して」

「厭です。いくら界長に言われましてもそれだけは」

「壊さないで」

「壊れてますよ。ここまで達するのにずいぶん手間が掛かりましたがその分愛おしさも増すものです。ほら、もう一回挨拶して」

 それは挨拶とは程遠い。挨拶の概念を排して。

 意味が濾されて無の抽出。

 死体より酷な。

「何人殺したの?」

「申し訳ございません。数えておりません。そういえば界長のお姉様の配偶者のご容態は如何でしょうか。界長のお友だちの方は残念ながら後遺症が」

「わたしは殺さないの?」

「界長、どうしてそんなことを仰られるのか」

「モリヒロさんから離れてこっち降りてきて」

「何故私が尊敬する界長を」

「口封じしたほうがいい。ここ出たらぜんぶ言う」

「おや、出られるんですか」

 足元に注意。ゆっくり一段一段。

 大丈夫。

 息止めて。

「いらっしゃらないほうがよろしいかと」

「怒ってる。わかる?」

「それはいけない。どうぞ吐き出して」

「死ね!」

 日口にうゆは持参したナイフでマゼンタの。

 位置は。


     4


 意味なし。忌みなし。

 アウトロー白衣先生は気づかない。

 眠ってる?

 遂に極限。つついてもピクリともしない。

 頬に涙の痕。

「先生?」

 ダメっぽい。待ってよう。

 ところで意識戻ったのかな。看護師さんに訊いてみる。

 え、ついさっき。

 あ、それで先生安心して。

 姉に言うべき?

 優先順位はそっちじゃない。

「先生?」

 揺すってもダメ。

 せっかく来たのに。

 寝言も言わない。つまらない。よく漫画なんかだと重要なこと呟くのに。

 手帳の端を千切ってメッセージを残す。

 膝の上に。どきどき。

 電車は止まってる。たぶん生きてない。病院に運ぶまでもなく。繋がっていたものがばらばらになって。流れていたものが固まって。

 マゼンタが要らなくなって処分。

 知らない人。見たことない人。

 姉の勤める大学が見える。姉の配偶者もここに。

 行ったことない。行きたくないし。

 夏休みだけど。行ったって。行っても。

 帰宅しても連絡は来なかった。

 姉の家に泊まるのは諦めた。今この状況で姉の顔を見たら自白してしまう。

 あの眼。

 また視たい。

 それが視れるなら何人殺そうが構わない。

 先生はまだ寝てるのかな。それとも気づいてない。

 誰なの。

 どこに。


      5


「何点でしたか私は」

 刺したのに。

「九十九点」

「それは残念」

 血が出ない。

 照らしても。

 なにも。

 刺さった感覚が。

「抜いていただけませんか」

「一点足りない」

「何故一点落としてしまったんでしょうか」

「名前忘れ」

「欄がありましたっけ」

「わざと作らなかった。一点取らせないために」

「では私は満点も同然ではありませんか。光栄です。副界長になれないのが心残りですが」

「その席は空けてある。誰も就かせない」

 抜いた刃先を照らす。

 何も付いてない。

 いるのにあるのに。

 守熙だってそこに。

「どうかおやめください界長。私のことは空気だと思っていただいたほうが」

 階段を上がる。

 転びそうになる。足首がいまになって痛む。

 気持ちの悪い手すりに頼るしか。

 三階建てだった。外から見て確実に。

 屋上?

 無人の踊り場。無尽の階段。

 屋上なんてない。

 四階。五階。誤解。

「界長、上に興味がおありですか」

 顔を照らす。

 ちょうど手が。守熙の。

 蒼白い。

「眩しいですよ。吃驚してひっくり返るところでした」

「どかして」

「そんなに私の顔に執着なされても困ります。見せびらかすほどの代物では」

 ディスクの映像と同じ。

 鼻から上が絶対に見えない。違うのは上半身が露出していないこと。

 Tシャツ。生地の厚い。

 しかしあの男は腹にナイフが刺さって倒れて。

 別人?

「あの時わたしを指名してわたしの写真を撮ったのは誰?」

「さきほどのケータイの持ち主ではないかと」

「マゼンタ」

「はい」

 返事のタイミングに違和感なし。

 なら。

「マゼンタはあなた?」

「おそらく」

「どうしてヒグチにうゆに認めてもらおうと思ったの?」

「界員だからですよ」

「メガネっ漢見守り境界はメガネっ漢に危害を加えない。マゼンタは界則第一条を破ってる。よって退界を命ずる。文句は言わせない」

「界則があったんですか」

「いま作った。界長は絶対」

「危害、というのは具体的に」

「界長が見て危害だと思ったそれが危害。歯向かうのは界則第二条違反」

「厳しいですね。発足当初に界則がなかったことが奇跡のようです」

 また照らす。

 ダメ。どうしても照らせない。

 守熙が手を出したわけでもないのに。守熙は限りなく床に近いところで非人間的に活動しているというのに。

「人類を滅ぼす方法、と聞いて何か思い出せますか」

 体感温度が下がった錯覚。

 脳を陥没させる液状魔法。

「界長が大学におられた頃、いつでしたか、飲み会があって、その時に界長が発言された内容です。私はいたく感動致しました。それが私と界長の出会いです。しかしサークルの面々は皆、無視するどころか一様に馬鹿にして。そのせいで界長はサークルをやめ、そこにいた形だけの友だちにも別れを告げ、ただ黙々とひとり学生生活を送られた。それで良かったのです。界長の崇高な考えなどあんな有象無象には理解なんておこがましい」

「なんで」

 それは誰も憶えていないものだと。

 日口にうゆだっていまのいままで忘れていた。

 いや、それより誰かに話した?

 話してない。誰にも言ってない。言えるはずない。

 じゃあ。

 マゼンタはまさか。

「知っていますとも。私は界長が境界を創られる以前より界員を自負しております。しかし恐れながら訂正させていただきますと、私はあんな下らないサークルに籍を置いていたことも界長の通われた大学に足を踏み入れたこともありません。悪魔が人類を滅ぼすために遣わせたのが両性具有ですがそれでは殖えてしまう。その点界長の方法は完璧です。もうあとは人口減少に向かうしかない。それを実行しましょう」

 男が跪く。

「さあ、界長。私めにご命令を」

 マゼンタは。

 あいつだ。


      6


 なんでよりによって焼肉なんか。

 髪や服ににおいがつくじゃない。それにお肉だけ食べてれば幸せ、とかそうゆうわかりやすい種族じゃない。

 肉は嫌い。魚も嫌い。野菜も特に欲していない。

 何も要らない。

 わたしが欲しいのは。

 メガネっ漢ただひとつ。

 どれがいい、とか訊かれても。どれも美味しそうには見えない。ドリンクだけ頼んでぼんやりしてよっかな。お腹も空いてないし。

 肉を勧めないで。

 食べないの、とか訊かないで。

 もう帰ろっかな。つまんないし。どうして来ちゃったんだろ。別に奢りでもなんでもないし。第一奢りくらいでほいほい付いてくるような脆弱な意志なんか。

 あれ?

 いま通路を通った人。

 メガネ。

 顔がよく見えない。もう一回通ってくれないかな。

 隣の人がご飯が終わったからお代わりがどうとか言ってる。

 そうだ。

 さっきの人を呼べば。

 あ、ダメ。違う人が来ちゃった。

 でも。

 この人も結構メガネっ漢。

 すごいスゴイ。

 このお店はなかなかメガネっ漢率高い。

 帰るのはやめよう。みんなが肉に夢中になってる間にわたしはメガネっ漢観察。

 ふへえ。

 どきどき。

 また通った。今度は顔が見えたよ。

 相当高レベルのメガネっ漢。

 眺めてるだけで悶絶しそう。メガネが完全に顔のパーツになってる。近視だと思うけどそんなに度はいってないかな。ちょっと横見てもらえばわかる。

 この距離感が最高。

 すぐ傍。一メートル弱。

 でもさっきからフロアをぐるぐるしてる。客はほとんど肉に夢中だから店員に声をかけないけど。

 まずい。眼があった。

 急いで逸らしたけど、見てるのバレたかな。

 胸にネームプレートがある。

 え。

 うそ。

 なんで。

 見間違い?

 単なる偶然?

 そんな名字なんか。

 でも大学は。

 ううん、知らない。どこにでも行けばいい。

 ちがうちがうちがう。

 ドリンクを持ちにいくと見せかけて席を立つ。

 炭酸にしよう。

 半分くらい溜まったとき。

 後ろに。

 気配。

 向こうは。

 気づいてた。

「外、出ようか」

 コップの中身を一気に飲み干す。

 鼻に抜けそうだった。気持ち悪い。

 どうせ短時間だし、なんていえば良いかわかんないから断りは入れない。肉に夢中だからひとりくらいいなくなったって気がつかない。お酒も入ってるし。

 風がひんやり。上着置いてきちゃった。

「寒い?」

「別に」

 自分の声が自分の声じゃない。いま喋ってるのはわたしじゃない。

 いま代わりに喋ってるのは。

 男。

「二人だけで話すのは初めてだよね」

「そう?」

 顔なんか見たくない。声なんか聞きたくない。

 気配なんか感じたくない。

「こっち見てよ」

「何の用?」

「俺のこと好きだったってホント?」

 思わず。

 振り返る。

「な、んで」

「あいつに聞いた。実家帰ってるときに偶然会って」

 あれだ。

 友だちから知り合いに降格させたあいつ。

 流れ上、一緒に帰らなきゃいけなくなったあの事件以来、わたしの機嫌が悪くなってるのを察して理由を尋ねられたのだ。わたしも、すでに大学生だったから高校のときのことなんて時効だと思って鬱憤晴らしに話した。絶対に言うな、という約束はしたけど。

 ちょっとなにそれ。口軽すぎ。

 知り合いから他人に降格させたい。

「ごめんね。気づかなくて」

「それがなに?」

 腹が立つ。ムカつく。イライラする。

「怒ってるよね。俺、あの時彼女いたし」

「だから?」

「あいつにそれ聞いてさ。別れたよ」

「ふうん」

「でさ、まだ俺のこと好きだったら」

 好き?

 莫迦じゃないの?

「そんな怖い顔しないでよ。俺も謝って」

「謝るくらいなら消えろ。わたしはもうどうだっていい。だいたい告白もしてないし。好きだったってのも気のせいに決まって」

「気のせいでも好きならうれしいんだけど」

 うれしい?

 だれが?

「ねえ、ダメかな。俺、あいつに言われてすごい気になって」

「言われたから気になっただけ。そんなの」

「中学のときから見ててくれたなんて」

 いまここに。

 刃物があったら。

 その口を。

 切り裂いて。

「鈍感にもほどがあるよ。ごめん。でも俺あんとき」

「うるさい!」

 思い出したくもない。

 宿泊学習なんて。

「一緒に食器片付けてただけなのに、急に足踏まれたのはそうゆう」

「うるさいうるさいうるさい!」

 いまここに。

 銃があったら。

 その頭を。

 撃ち抜いて。

「もう俺のことどうでもいい?」

 言葉を発したくもない。

 殺したい。

 いなくなれ。

「許してほしい」

「じゃあ死んで」

 臆した。

 当然。そのまま。

「死ね。いま目の前で」

「死んだら許してくれるってこと?」

「その前にあいつ殺して。バラすなって言ったのに、なんであんたに言っちゃった? ああムカつく。粉々にして内臓ぶちまけてやりたい。それやってきて。ニュースで報道されたらもう一回口利いてやってもいい。どう? 出来ないよね? だからいますぐわたしの前から消えろ。二度とそのツラ」

「メガネが好きだって聞いたんだけど」

 そうだ。

 どうしてわたしはこんな奴をメガネっ漢に認定しちゃったんだろう。どうして中学のときのあいつだって気がつかなかっただろう。

 くやしいくやしいくやしい。まるでまだあいつのこと。

 違う。

 わたしが反応したのは顔だけ。メガネの似合う顔。

 顔が好きだっただけ。

 そう。

 わたしが好きだったのは。

「てめえなんか顔だけ。性格は最悪。文化祭のとき、あんな」

「あれはその、お祭り気分で。それとあのイベントの主催委員と知り合いで、そうゆうのは、盛り上がるからって」

「無理矢理とでも? 莫迦じゃねえの? わたしの目の前で彼女との馴れ初め高々と発表しやがって。死んで。死になさい。さっさとあいつ殺して」

 そいつはメガネを外して。

 靴で踏みつけた。

「なんのつもり?」

「こうすれば顔を見てもらえるかなって」

 だれが。

 余計腹立つ。

「このままだと俺が息吸ってるだけでイライラの原因になりそうだね。わかった。近いうちに絶対殺してくるから。そうしたら」

「出来る?」

「約束守ってくれるなら」

 約束だって?

 人殺しの報酬だよ?

 莫迦にもほどが。

「いいよ。ニュース見たら会いにいく。せいぜい捕まらないようにね」

「ありがとう」

 そもそもテレビなんか嫌い。アニメ以外は観ない。

 殺人なんか出来るわけない。

 ネット依存気味だからニュースサイトくらいならたまに。

 一週間特に何もなかった。

 ほら、出来るわけない。こんなことなら目の前で死ね、にしとけばよかった。このままあいつが殺人をしなかったら二人とも生き残っちゃうじゃん。

 ああ損した。

 頭に血が上ってるとそうゆう失敗をする。

 大学の退屈な講義が終わってアパートに帰る途中、ケータイが震えた。

 高校のときの友だち。

 あんまり交流がない人。表示された名前も一瞬誰なのかわからなかった。確かにクラスは同じだったけど、なんとなく付き合いでアドレス帳に入ってるだけの文字列だから。

 仕方ない。用事はわかんないけど。

「もしもし」

「あ、えっと急にごめん。いま、いい?」

 こんな声だったっけ。

 俄かに顔が浮かばない。

「結構仲良くしてたみたいだから知ってるかな。一応、私が番号知ってる人には全員かけてるんだけど」

 聞きおぼえのある名前。

 いま。

 なんて。

「知ってる? もう地元大騒ぎだよ? 全国ニュースでやってると思うけど」

「しらない」

 知るわけない。知ってるはずない。

 わたしは無関係。

「それ、いつ?」

「今日。詳しくは私もよくわかんないんだけど、とにかくそうゆうわけだから」

「殺された?」

「みたい」

「じゃあまだ」

「捜査中じゃないかな。早く捕まってほしいけど」

 つるりとした革のような沈黙。

 ざらりとした布のような空洞。

「ひどいよね。バラバラなんて」

「なんか、落ち着いてる」

「これでもね、結構ショック受けてるんだ。ごめん。もう」

「ありがと」

 切れた。最後だけ声が震えてた。

 アパートに帰ってテレビをつける。どのチャンネルにしても。

 同じ。繰り返し。

 男子学生のバラバラ遺体が。

 粉々にして内臓ぶちまけてやりたい。

 道路に。

 場所は。

 知らない。たぶん他人に格下げしたあいつの行った大学の傍。

 本当に。

 殺した。

 粉々にして内臓ぶちまけてやりたい。

 約束。

 ヤダ。

 なんであんな奴に会いに。

 人殺しとかそうゆうことじゃなくて。

 きらい。もうどうでもいい。

 絶対守る必要のない約束だと思ったからしたのに。

 ヤダ。

 あんなやつ。

 いまさら付き合えるわけない。付き合いたくない。

 あんな似非メガネっ漢。

 ケータイがぶるぶるゆってる。ディスプレイを確認したくない。

 きっと他人に格下げしたやつのケータイから盗んだんだ。

 わたしはあんなやつに番号もアドレスも教えてない。

 うるさいうるさいうるさい。

 電源を切れない。

 こわい。

 やだ。

 今度はメール。立て続けに三通も。

 どうしよう。

 着信拒否。メールブロック。

 だめだ。そんなことしたって意味ない。

 わたしが番号からケータイを替えないと。

 チャイム。

 うそ。

 なんで。

 どうして部屋まで。

 チャイム。

 違う。きっと違う人。

 でもわたしの家は姉と親以外知らない。

 だったらただの訪問。新聞とか大家さんとか。

 ドアスコープを覗きたいけど、あれは覗くと外からわかる。

 それにもしあいつだったら。

 ドアを叩かれてる。

 壊さないで。

 ヤダ。

 凄まじい音。

 やめて。

 窓に何か当たった。

 石だ。今度は窓。

 ここは二階だからまさか登ってこないと思うけど。

 あいつだったら。平気で人を殺すあいつだったら。

 鍵を確認してカーテンを引く。

 ベッドの中に潜る。

 ようやく静かになった。

 メールチェックのためにパソコンを立ち上げる。

 やらなければよかった。よく考えればパソコンだって。

 メールボックスいっぱいに。

 あいつからのメールが。

 消去する際に見てしまった。


 会いたい。

 約束です。


 たったこれだけの文章を何百通と送りつけてくる。常軌を逸してる。

 異常。

 異常。

 きもちがわるい。

 場所はこないだの焼肉店。時間は十分後。

 あり得ない。

 会って何をしようと言うのか。

 わたしの目の前で死んでくれる。

 そうゆうことだ。

 そうだ。私が望んだから。

 なんでそんなものを観にわざわざ。でも行かなかったらたぶん。

 わたしが殺される。

 それはヤダ。なんであいつなんかにわたしが。

 行こう。

 そして自首させよう。

 でもそうしたらわたしが殺人依頼者に。

 ダメダメ。私は部外者。

 不可能だ。

 絶対わたしも捕まる。

 じゃあやっぱりあいつは。

 死んでもらおう。


     7


「思い出されましたか」

 わたしは首を振る。

「私は界長の純情を弄んだ挙句最低の方法でふったあのマゼンたけしろです。そもそもここで彼らと暮らしているのはその罪滅ぼしのつもりだったのですが、いつしか私も界長と同じ嗜好を持つに至り。あのディスクはちょっとした贈り物です。まさかあれほど食いついていただけるんなんて思ってもみなかったものですから」

 わたしは首を振るしかできない。

 なにも認めたくない。

 なにも信じたくない。

「マゼンタ、という呼び名でわかっていただけなかったのは少し哀しいですね。界長の秘めた想いを無断で暴露したあの者にはそう呼ばれていたのでもしやもしたら、という仄かな期待もあったのですが。それともうひとつ、わたしは哀しかったことがあります」

 立っていられないけど。

 座りたくない。

 床を汚している液体が。

 こいつの精液だから。

「遠路遥々界長のメイド姿を拝みに行きましたら、界長はわたしに気がつきもしない。それどころかだいぶ無下に扱われまして。ああいうところに足を運んだことがなかったものですから、いまここでお詫びいたします。舐めるように見て申し訳ありません。界長があまりにお美しく。それとお写真は先ほど界長の手で消去して」

 あんな。

 顔だった?

 あんな。

 童顔のくせにチャラ男。背丈はさほど高くない。年齢は同じか少し下。年上には思えない。余裕ぶってるだけで。ペンダントトップがヘアピンにしか見えない。

 ウソだ。

 ちがう。

「変装したつもりはありませんが、私の顔が変わっていたのでしょうか。ああこら、ちかお。いまは界長と大事なお話を」

 足元の守熙がしきりにマゼンタ、じゃなくて、馬善たけしろに擦り寄る。

 発情した犬猫のように。

「ううん困りましたね。どうでしょう界長。いまここでちかおを可愛がってもよろしいですか」

「正気?」

「よかった。久し振りにお声が聞けました。ええ勿論、正気です。是非界長にはライヴで観賞していただきたい。本当に可愛いのですよ、ちかおは」

 馬善たけしろが守熙を抱き上げて口の端をべろりと舐める。

 吐き気がした。

 後退りしたら滑って転んでしまった。

 手にどろりとしたものが絡まる。

 視覚的に確認したくない。見たら胃液が逆流してきそうで。

「界長、いまお椅子を」

 ダメだ。力が入らない。

 立ち上がれという中枢からの命令が末端に伝わらない。

 馬善たけしろが守熙を床に下ろしてどこぞに消える。

 守熙は淋しそうな声を上げて自分の性器を弄りだした。

 やめて。

 たった三文字の言葉が出ない。

 表情が弛緩しきっていて眼が強烈な快楽で濁っている。蒼白い手が細長いものを摩擦する。びくんと痙攣しながら白濁の粘液が飛び散った。

 それがわたしのすぐ足元に落ちる。黒い靴だから白の斑点は目立ちすぎる。

 今度こそ吐いた。

 吐瀉物が床に散らばる。それが馬善たけしろの精液と混ざったかと思うとさらに吐き気が増した。

 まるでわたしが馬善たけしろと交わったみたいな。

「お待たせしました界長。おや、ちかお。私のいないところでしちゃいけないって言ったろ。ゆうこと聞けないと罰を与えなきゃいけないよ」

 馬善たけしろが持ってきたのはただのパイプ椅子。でも馬善たけしろが持ってきたというそれだけでとても汚らわしいものに思える。

 座りたくない。床も厭だけど。

 これはもっと厭。

「ちかお。そこに立ちなさい」

 せめて言葉を発すればいいのに。そうしないと本当にただの。

 性奴隷にしか。

「界長、お座り下さい。床は汚いですよ。それにその格好では疲れてしまいます。ああそうか。椅子が安すぎるから気に入らない、とそうゆうことでしたか。誠に申し訳ありません。それに大事なお洋服も汚れて。どうしましょう。見ての通りこんな掃き溜めにはまともな衣服など」

「死んでくれるといったはず」

 自分でもビックリした。凄まじく低い声。

 だからきっとこれはわたしじゃなくて。

 男。

「そういえばそんなお話も御座いましたね。ですがそもそもは界長の約束反故のために私はいまもこうやってのうのうと」

「死ね。死んで」

「そうしたいのは山々なのですが、先ほどのでおわかりいただけたと思います。私は一度死んだ身。二度は死ねません」

 上半身裸の馬善たけしろが、白いパーカだけ被った守熙の周りをぐるぐると回る。

 たまにやわやわと下半身に触れる。

 そのたびに守熙が恍惚の表情を浮かべる。

「ちかお、出したらもっときつい罰を与えますよ」

 もう。

 意味が剥離してる。

「そうだ界長。なにかリクエストが御座いましたら遠慮なくお申し付け下さい。界長の優れた著作の数々、じっくり読み込まさせていただいております。いまやBL界では界長なしでは成り立たない。しかし最近、そうですね、私が畏れ多くもディスクを贈らせていただいた辺りから何も発行されていないのではないでしょうか。私はそれが残念でなりません。やはり生々しいまでの実写では妄想の種になりえないのでしょうか」

 逃げよう。逃げたい。

 こんなところにいたら精神が壊れる。

 でも。

 守熙は?

 連れて帰りたい。先生が心配してるとかじゃなくて。姉に謝りたいとかそうゆうことでもなくて。

 日口にうゆはメガネっ漢見守り境界界長だから。

 メガネっ漢はなんとしてでも保護しないと。

「どうか余計なことをお考えになりませんよう。ちかおはわたしの」

「観てるからさっさとやれば」

 馬善たけしろの顔が異様なまでに緩んだ。

 相変わらず鼻から下しか見えないけど記憶で視えた。

 あの時の顔。馬善たけしろから呼び出されて焼肉店に出向いたときの。

 日口にうゆは椅子に腰掛ける。

「つまんなかったら殺すから」

「どうぞ、界長のお気に召すまま」

 そんなのつまらないに決まっている。

 だってすることはただの。

 射精。

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