じとりと

 帰るのが遅くなった。そのまま会社に泊まらせてもらいたいのだが、定時で帰れとうるさいのがモットーである。


 鍵を開けて、一握りの期待をふくらませてドアノブを回す。開いた時、先日よりも近い、洗面台のドアからこちらを見ていた。

 血の気が引く。

 急いで電気をつけた。廊下が明るくなり、影はカーテンまで引っ込んでいく。

 なんで、近くなっていたのだろう。

 開けた瞬間、あの顔が目の前にあったら、さすがに次の瞬間を想像できない。


 昨日と同じように、台所へ行くと冷蔵庫の影に立っている。水をあおり、湯を沸かしてパスタをゆがく。仕上げはニンニクを絡めて、いただきます。


 一口食べる事に視線の距離が離れていく。ニンニクは有効だ。毎日食べよう。フォークをくわえたまま、引き続きネットで除霊氏を探す。

 ただ、どこも吸血鬼を堕とすとは書いていない。これは問い合わせて見るべきだろうか。


 ついでに引越し物件も追加で探してみる。

 休みをまとめて取る余裕が無いから、合間合間でやっていくしかない。

 原因の男は、目を見開いたまま私をずっと睨んでいた。



「最近やつれました?」

 後輩からの声に、心臓が跳ねる。

 口臭も気になるが、連日のニンニク漬けで体臭が酷いのではないか。

 香水を振って誤魔化しているけれど、そういうものは掻い潜られて潰される。


「今度リフレッシュに旅行へ行きませんか?」

「旅行、ですか」

 魅力的なお誘いだ。私は二つ返事に答える。

「いいですね、行きたいです」


 あの男のことを考えなくて済む時間がほしい。睡眠以外では、隙間という隙間に視線がいって怯えながら暮らしている。

 なんで部屋を出ないのか。でも、逃げるほどの危害が今は出てないし、気になるだけで、別に。


「……ストーカーですか?」

 声を潜めて聞かれる。

「違うよ!?」

 詮索された。鳥肌が立つ。やめてくれ、やめてください。私には、何も無いのだから。


 暗くなった夜道をさ迷うように帰っていく。どうしよう、バレたらまずい。でも私は何もしていない。ただ男がいて、私はそれを殴って、ニンニクを食べて、追い払おうとしているだけだ。

 私の家だから。何かいるけれど、追い払えば何も無い。何も無い人生を、誰とも分合わずに生きていける。

 家の鍵を開ける。

 男はカーテンの裏にいた。



 そもそも、私はここに居ていいのか?

 なんで逃げない?なんで頼らない?なんでここに居たがる?



 不意に目が覚めると、男と目が合った。

 確かここは寝室で、ちゃんと寝たはずなのに。動かない頭で、男の様子を見る。

 真っ平らな、お面のような顔だった。男が私に顔を近づけてくる。

 動いた。


「チヲ、ノマナケレバ」

「あ……」

 真っ暗な中で見る彼は異様だった。

 目の隈が浮き彫りになり、丸い目を強調していた。ギョロリと目が動く。息が引きつった。何を間違えた、なぜこうなった、いつも通り電気をつけてニンニクを食べて除霊師を探して、ドロリとした目と目が合っていた。


「チヲ、ノマナケレバ」

「どれ、どれくらい、ですか」

 ひゅうひゅうと息が漏れる。気が動転しながらも声が出た。でも的外れだ。銀製の十字架のペンダントを握りしめた。

 男は視線を動かさない。


「ヒトリブン」


「ちょ、ちょっとずつなら、ちょっとなら」

 冷静になろうと呼吸を繰り返す。息がしづらい。男は口を半開きにしたままこちらを見て、言った。

「オマエ、クサイ」

 ハッと息が漏れた。

 実践していてよかった、けれど直接言われるとは思わなかった。

 このように会話をするとは思わなかったのだ。いつも片目だけだったのに、今は2つの目でぢぃっとこちらを見ている。


「チヲ、ノメナイ」

「おおおかえりください」

 一筋の光だ。希望が見えた。

 生きれる。生き残れる。早く帰れる。帰れる?

「カエラナイ」

「いや、美味しくないです。私はまずいです」

「チハ、ノメナイ」

 こちらをじっと見つめたまま、男が影のままの手を動かす。銀食器のナイフとフォークを持っていた。


「いやいやいやいやなんでそんなもの」

「チハ、ノメナイ」

 繰り返して、ゆっくりこちらに刃物が向かってくる。

 逃げたい一心で体に力を入れるけれど、まるで動かない。男は虚ろにこちらを見たままだ。

「だってだって吸血鬼でしょう!?なんで銀なんか」

「チ、ダケジャナイ」


 ギリと太ももにナイフが刺さった。戸惑わず、まっすぐ私を刺していく。痛みで声がひっくりかえる。過剰に反応したせいで深く刺さった。

 血が流れて、男は動きを止めた。


「ニクモ、クエナイ」

 そうか、血から染み込んだニンニクか。

 興奮状態で、必死に後ず去ろうと藻掻く。

 男は、ナイフとフォークを落とす。じっとりとした目で私を見た。

「オマエ、イヤダ」

「帰って!!帰って!!」

「オマエ、ユルサナイ」


 男はそれきり、ふたつの目でぢぃっとこちらを見ていた。至近距離で睨まれている。

 帰りたい。日常に帰りたい。あの時、早く助けを呼べば。家に帰らなければ。相談をしていれば。

 泣きながら男を見るけれど、最初にあった時とおなじ、黄色い白目に塗りつぶされたような黒い瞳が、私を見ているだけだ。

 夜が明けたら、これは消えるだろうか。それまでに血は残っているだろうか。私は生き残れるのだろうか。そうしたらもっと、きっと。

「チヲ、ノマナケレバ」

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オイカゲさん 空付 碧 @learine

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