オイカゲさん
空付 碧
ぢぃっと
帰ってふと顔を上げた時、不審者と目が合った。
廊下をぬけたリビングのカーテンに、血の気なく背の高い男が、恨めしそうな虚ろな目でぢぃっと私を見ている。
オートロックの8階マンションに、男が侵入しているのも問題だ。けれど、カーテンの内側からマジマジと睨む目が常人の表情ではない。格好は分からず、ただ黒い影だけ伸びていた。
「あの、警察、呼びますか?」
玄関から上がらず、声をかける。なぜ問いかけたのかも分からないが、かすれ掠れに声を出しても返事はない。ただ、ぢぃっとこちらを見ている。
きっと誰かを呼ばないといけない。警察でもお隣さんでも、厄介になった方がいい。けれど女ひとりで会社と家を往復するだけの人生に、男がいるのではと踏み込まれる方が嫌だった。何かしらなじられるような事態になるのが嫌だった。
どう見てもおかしいこの状況でも、そう判断される方が嫌だった。
そろりと家に入る。
目を逸らさずに、カバンを握りしてめて、男に近づいていく。男は一切動かない。見れば見るほど、白目が濁った虚ろな目だ。
「チヲ、ノマナケレバ」
ふいに口から低い音が聞こえた。
ドッと血がめぐる。逃げろ、けど体が動かない。声を上げろ、でも喉が渇いた。立ちくらみがするほど血が巡っていく。
男は動かずに、私を見ている。呼吸が整った時、私は思い切りカバンを振り上げて、男を殴った。
空振りだった。彼の鼻筋をチェーンがサラリととおりすぎた時、攻撃を受けているにも関わらず、変わらず虚ろに私を睨んでいた。
「チヲ、ノマナケレバ」
どうしようか。
人で無い。いや、初対面から分かってはいる。これは、警察を呼んでも無駄だ。疲れてきて、少し目を逸らした。何も起こらなかった。
専門の友人も知らない。彼を追い払ってくれるような、知り合いも伝もない。こういったものに出会うのさえ初めてだ。
悩んだ末に、背を向けてみる。私がホラー作品に出ているなら即死だ。ゲームならもう終了。けれど目を逸らして何も起こらなかったのだから、問題ない、と判断した。
何も起きなかった。
生き残れる。ため息をついて、パソコンの電源を入れる。モニターに一瞬顔が写って、心拍が上がった。
マウスをスクロールして、次々似たような事例がないか調べてみる。
彼は血が飲みたいと思っている死者なのか、それとも吸血鬼というものなのか。
埒が明かない。
とりあえず動けるうちに、家から出た方がいい。そうだ、飲み物を取りにいこう。
一切動かない彼に背を向けて、台所へ立つ。外ではなく、台所へ行った。
冷蔵庫と壁の隙間に、男の目と目が合った。
真正面から、私を見ている。
皮膚がが粟立つ。
逃げないと。
なぜ、ここに居る?本気で、機会を伺っているらしい。早いうちにどうにかしないと。逃げないと。
おそるおそる冷蔵庫を開けると彼のいるところに暖色の光が当たる。彼は暗がりへ逃げ込んだ。
必死に考える。
考えるほどに、私は疲れていた。
私は、ニンニクのチューブを取って冷蔵庫を閉める。彼と目が合う。
手早くキャップを外して、中身を彼に近づけた。チューブからニンニクが出る。
何も起こらなかった。
彼は動かず、私を見ている。
私は手を引いて、彼の動向を気にかけながら、水道水をぐいと飲み、夜間で湯を沸かす。そのまま容器にお湯を入れて3分待ち、即席ラーメンに大量のニンニクを入れた。
黙ってリビングにラーメンを持っていく。男はカーテンの影から私を伺う。
ズルリとすすって、一気にたいらげる。ニンニク臭かった。滅多に使わないから、匂いが鼻につく。
机から顔を上げた。
カーテンから男が居なくなっていた。
衝撃で立ち上がってしまう。どこへ行った。いや、いないならいいのだ。でも、いたらどうしよう。ぱっと動いたのは台所で、見ると冷蔵庫の隙間から、鬱陶しそうな目を向けていた。そのまま消えて、カーテンの裏から私を見ている。
勝機がみえた。
どうやら体内に入れれば効果はあるらしい。ということはやはり、吸血鬼なのか。
冷静にデータを取りながらも、私は脂汗を握っていた。
さて、寝よう。疲れがピークに達して、眠くなって来た。
家から出ないと。けれど、少しでも早く眠りたい。早く眠って、朝が欲しい。
電気をつけている分には接触は避けられるが、明るい中で眠るのは得意じゃない。
ニンニクを取ったおかげか、寝室に男はいない。豆球でどうにかなるだろうか。
恐る恐る一つライトを落としてみる。彼は現れなかった。
ふうと息をついてベッドに項垂れる。
天井の影にビクリと反応したが、視線はなかった。私はそのまま疲れに任せて寝たのだった。
逃げないと。
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