君と僕と貴女

@raityou1234

君、僕、貴女

 校庭の隅に植えられている、名前も分からない植物の葉が太陽の光をたっぷりと浴びて青々しく茂っている。季節は夏だった。

 「倉敷、授業に集中しなさい。」

 そう指摘されてようやく窓の外に放り投げていた視線を黒板へ戻した。教壇に立っている少し額の広い男性教師は、汗の滲んだシャツを着ていた。

 僕が頭を軽く下げると中断されていた授業が再開される。男性教師の声は低く、くぐもった声だ。これ以上聞いていても瞼がつまらないと視界を覆ってしまいそうになる。ならば、ともう一度窓の外を見た。視線の先には植物、茶色に焼けた土、その土の上に伸びる白い線、それから、それから。

 彼女。

 僕が勝手に好意を寄せて、勝手にこうして見ている、彼女。三波さん。

 白い体育着を着て、走り込みをしている。女性の体育教師はその様子をしっかりと見守っていた。

 僕もまた、彼女の姿を見守る。

 別段、南さんは目立つような容姿をしているわけではない。しいていうのであれば彼女の髪は、美しいと思う。それから少しはにかんだ時に出来るえくぼが、可愛いとも思う。ただそれだけで僕の心は十分に惹かれていた。

 クラスが違うために彼女と顔を会わせて喋ることなどまずなかった。しっかり喋る機会と言えば、週に一回ある美化委員会の集まりくらいだろうか。それでも小さな恋心の芽はすくすくと育ち、今では立派な大きさになっている。ただ、花を咲かせるつもりはなかった。意気地が無いつもりではないけれど、なんだかこの恋心はしまっていたほうがいいと感じたのだ。

 僕と彼女はそういう関係で良かった。僕の恋心は、そう在ればよかった。

 「それでは今日の授業はここまで、明日は小テストがあるからしっかりと予習復習するように」

 男性教師がとんとん、と軽く机の上で教科書類を整えてから退室をする。それを合図に教室中が一気にうるさくなった。

 僕は下敷きで暑さをしのぎながら、放課後まで時間が経過するのをひたすら待つ。学生の一日など、漫画のようにきらめいてはいない。僕はその筆頭のような生活を送る学生だった。

 そうしてようやく下校時間になれば、重い鞄を肩から下げて席から立つ。火ともまばらになった教室内で、からりと扉が開かれる。

 「すみません。倉敷くんはいますか?」

 「三波、さん」

 「ああ、よかった倉敷くん。少し美化委員のお手伝いをしてもらいたくって」

 黒くて長い髪を高く結い上げた彼女は、少し太めの眉を八の字にさせながら僕にそうお願いをしてきた。くらり、と眩暈がする。この感覚を覚えるたびに、ああ僕は彼女が好きなんだなと改めて認識するのであった。

 「いいよ。何を手伝えば?」

 「書類の印刷を頼みたいの。少し量が多くって」

 「分かった」

 廊下を二人で並んで歩きながら、僕は三波さんの言う言葉一つ一つを丁寧に咀嚼してのみ込んで、それから返事をする。茜色に沈んでいく空が、僕たちの影を色濃くしていった。

 印刷するために教室を移動して、作業を始める。部屋には僕と彼女の二人きりで、こんなことは初めてだった。

 「じゃあ私はこっちを印刷するから、倉敷くんはそっちをお願い」

 「うん」

 てきぱきと仕事をこなす三波さんの背を見て、僕も自分の腕を動かし始めた。がちゃん、がちゃん、とコピー機の音が室内に響く。夕暮れ時の薄暗さを晴らすように、人工の灯りが僕と三波さんを照らし出していた。

 会話の無い、ただ機械音のみが空間を支配しているかのように見えたが、三波さんがコピー機の音を無視するかのように口を開く。

 「そういえば倉敷くんと二人で作業するのって初めてだね」

 「確かにそうだね」

 そんなことは君に頼まれたときから僕は思っていたよ、なんて言えなかった。

 「クラスも違うし、なかなかこうして話す機会もないから」

 「美化委員会の集まりのとき、くらいじゃないかな。話していたのは」

 三波さんは僕の言葉にうんうん、と頷く。窓の外から聞こえる他の生徒たちの声が、少し静かになったような気がした。

 高く結った黒髪が、宙で遊ぶように揺れる。彼女が僕の方へ振り向いたのだ。その顔には、僕の好きなえくぼがあった。

 「じゃあ今日は得しちゃったな。倉敷くんとたくさんお話しできて」

 ひ、とまるで怯えるような息が漏れそうになって、噛み殺す。うるさくなった胸のあたりへ手をやり、赤くなる顔を必死に隠そうとするのに耳やうなじまで熱くなってきてしまう。自分の周囲だけ、真夏の昼のようになったのではないかと錯覚が起きそうなほど体が熱くて、どうにかなってしまいそうだった。

 慌てて印刷用紙に手を出して、親指に鋭い痛みが走る。ぷっくり自分の指の腹から出てくる赤を見つめてようやく体の熱が沈静化した。

 「ごめん。少し切っちゃったみたいだから水で洗ってくるね」

 「大丈夫?絆創膏、貸してあげようか」

 「いいや大丈夫だよ」

 そういって印刷室を出て、水道に向かう。くすんだ銀の蛇口を捻れば透明な水が流れ始めて、僕は迷いなく自分の指を水流に当てた。流れ落ちる赤色を見つめながら、ああ、ああ、と息が零れそうになるのを必死に抑えた。それでも、これほど思いを寄せていても、やはり彼女に自分の気持ちを教えてはいけないという理性が働いてしまう。どうしてここまで頑なになるのかが、もう自分でも分からない。……意気地が無いわけではないと、思っていたけれど、結局は意気地なしなのかもしれない。

 怖いのだ、彼女が自分にどのような想いを抱いているのか。知ることが、分かってしまうことが、僕の前に彼女の心が開かれることが、心底怖い。……やはり、意気地なしだ。

 今日、初めて彼女と二人きりになって自分の弱さを知ってしまった。恋とはかくも己を弱らせるものなのかとも、驚愕した。今までのように遠くから見つめていたり、週に一回だけ会うだけであれば、このような自覚はなかったかもしれないのに。

 ハンカチで水に濡れた指を拭う。薄い皮がめくれたそこを抑えれば、まだほんの少しだけ血液が出てきた。それをもう一度ハンカチで拭う。

 印刷室へ向かう廊下の途中で、とうとう傷口から血液は出なくなった。

 扉を開けて、三波さんが待っている部屋へ入れば印刷していた資料を重ねながら三波さんに再度大丈夫、と心配される。僕は平気だよと返すしかなかった。

 分厚い紙を分けて、整えて、分けて、整えて、繰り返して繰り返して。ようやく作業が終わったころには光球はとうに地平の向こう側へ沈み、暗い藍色が滲むようにして空に広がっていた。星の姿はあまり見えない。

 「随分と暗くなっちゃった。こんなに遅くまで付き合わせてごめんね、倉敷くん」

 「ううん、気にしていないよ。それよりも……三波さんこそ、こんなに遅くまで平気なの」

 「私?平気だよ」

 「ええとそうじゃなくって」

 時計の針を見れば短針が六を、長針が八を示している。

 「……送っていくよ。僕で良ければ」

 「本当に?」

 下心が無いと言えば嘘になるけれど、それ以上に彼女が心配で出た言葉は変な風に受け止められることは無く、誠実に受け入れてもらったらしい。彼女はそれじゃあ甘えちゃおうかな、とまたえくぼを作った。

 外に出て自転車置き場に向かえば生温かな風が頬を撫でていく。じっとりとした夏の湿気が夜の空気を不快なものにさせていた。

 僕も、彼女も自分の自転車に跨って並列に走る。この田舎に並列走行を注意する勤勉な警察官はいなかった。

 「倉敷くん、今日は本当にありがとう」

 「少しでも力になれたのなら、良かった」

 もつれそうになる舌をどうにかこうにか動かしながら彼女との会話を楽しむ。これだけ一緒にいても緊張が解けないのは、恋というもののせいなのだろうか。

 坂道になって、並列では危ないだろうと彼女の後ろになって進む。風の流れに乗るように、少し汗の香りと彼女の匂いが混ざって鼻孔を擽った。心地の良い香りだな、と思ってから変態的な思考をしてしまったことに胸が痛んだ。

 彼女の家はどうやら僕の家よりも学校に近いらしく、坂道を降りて暫く自転車を漕いでいたら「じゃあここで」と彼女が言葉を区切った。

 「また明日、学校でね。倉敷くん」

 「うん。またね三波さん」

 右手を振れば、彼女は左手で振り返す。その姿が闇に溶け込むまで僕は彼女を見送り、自分の家へ帰った。

 次の日。普段通り重い鞄を自転車のかごに投げ入れて学校へ向かう。途中で数人とすれ違ったが誰もが眠そうな、あるいは気怠そうな朝の顔を見せていた。

 自転車置き場から、わざと歩みを遅くして人の流れに乗りつつ教室へ向かう。目の前の教室の扉を開けば今日も一日が始まる、この瞬間が何よりも嫌だった。それでも仕方がないと日常を始めるために扉に手を掛けた。

 見える光景は変わらない。無変化の眺めに僕自身も加わる。

 朝の体感時間は非常に短い。あっという間に時計の針は時を刻み、気がつけば朝のホームルームが始まる時刻になる。

 入ってきた男性教師、今日も今日とて額が少し広い。変わらない日常だ。

 けれども、その後ろから入ってきた影は「非日常」であった。

 「今日は転校生を紹介する」

 白い肌で、青色の目を持つ彼は目の前に広がる僕たちの表情を見て何を考えているのだろうか。

 「神木です。よろしくお願いします」

 ともすれば、冷たいと思えるくらいの、低い声。しかしその言葉はしっかりと教室の隅から隅まで伝わった。黒くて短い髪の彼は、まるで教室の中身に興味が無いと言うようにそれだけ口にすると教師の示した机に向かう。その行き先は、僕の前の席。

 「倉敷」

 彼が椅子に座る直前、僕に声をかける。名前を教えた覚えはない。ましてやこうして呼ばれるとも考えていなかった僕は目を彼に向けるだけで精一杯だった。

 空の青とは違う、海のような青が僕をずっと見つめていた。息苦しさを覚えそうだった。

 「倉敷、久しぶり」

 そう彼の放った言葉は、僕がすっとんきょんな、あるいは馬鹿みたいな声を上げるのには十分すぎるもので。

 教室中が、騒がしい。

 その中心に今自分はいるのだ。

 「また会えて嬉しい。これからよろしくな」

 僕が何かを返す前に、始業の合図である鐘の音が出しかけた言葉を飲み込んだ。



 

 




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