雨宿り

紙野 七

雨宿り

少年は疲れ切っていた。歩くことも止め、深い森の中で丸くなって座り込んでいる。

瞼にかかる重力が増すにつれて、意識が少しずつ体を離れていく。ひたひたと静かに打ち付ける雨音に紛れて、微かに誰かの呼ぶ声がする。


「逃げないで」


彼女は何度もそう繰り返す。目を瞑ろうとする僕を叱責するようでもあり、消えかかった僕の意識を引き上げるような力強い声でもあった。その声に心地良さを覚え、ずぶずぶと沈んでいく僕に対して、彼女は酷く悲しそうな顔をした。


「もう僕はわからないんだ。ここがどこなのか。自分が誰なのか。この体のどこまでが僕のもので、この意識のどこまでが僕のものなのか。身体も、心も、思考も、感情も、この雨粒のように弾け、消えてしまう」


そう。もう何も見えず、何も聞こえず、何も感じない。不感症に心地良く酔い溺れる。ただどうしてか、雨が降っていることだけはわかった。ゆっくりとつまみを回すように、徐々に雨音が彼女の声をかき消していく。


雨が降り続く。今日も、明日も、明後日も。いつまでも決して止むことはない。

雨音のゆりかごに揺られながら、僕は永遠に微睡み続ける。

真っ暗なこの世界の中で、僕は少しずつ色んなものを失っていく。指の間からすり抜けていくそれらを、僕はもう拾おうとすらしない。


「ここはとても居心地がいいんだ。雨が降っていて、隣に君がいる。他には何もない。僕さえもいない」

しかし彼女は言う。

「いいえ、そこには私はいないわ。あなたが消してしまったから。そして、あなたが消えることはない。それを望んでいないのはあなた自身なのだから」

彼には彼女が何を言っているのか、まるで理解できなかった。けれどもう関係はない。もう彼女の声は聞こえない。そこにもう僕はいないし、ここにはもう何もないのだから。


思考は壊死し、失くしてしまった言葉の欠片は、ガラスのように綺麗に砕け散った。

空と地面の間、雨に溺れるこの場所だけが、僕を救う唯一だった。僕はそうしてただ待ち続ける。自分がゆっくりと死んでいくのを。


雨が降り続く。今日も、明日も、明後日も。いつまでも決して止むことはない。

雨音のゆりかごに揺られながら、僕は永遠に微睡み続ける。

真っ暗なこの世界の中で、僕は少しずつ色んなものを失っていく。指の間からすり抜けていくそれらを、僕はもう拾おうとすらしない。


どれほどの時間が経っただろう。微睡み、消えかかって揺蕩う意識の中で、僕はふと雨音に遠い記憶を重ねる。漠然とした『記憶』。それが僕を現実に繋ぎ止め、引き上げていく。しかし僕はその記憶が何なのか。もう思い出すことはできなかった。


「それさえも無くしてしまったのね」


森の中で目を覚ます。そこに彼女の姿はない。

僕は白痴のまま、再び眠りについた。


雨が降り続く。今日も、明日も、明後日も。きっともう止むことはない。

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雨宿り 紙野 七 @exoticpenguin

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