あの貴婦人 ~神父オルガンティーノ、細川ガラシャをかく語りき~

長居園子

肥前国某教会にて

 あの、貴婦人のことを話してほしいというのですか?うーむ、それはなかなか難しいことをおっしゃるなぁ。いえね、話してはならぬということではないのです。ただ、確かにあの貴婦人とは十数年来の交流がありましたが、それは消息でのやり取りだけで実際にお目にかかったことはないのです。考えてみれば、不思議なご縁です。えぇ、ご縁。あなた方日の本の人々は、そう表現するのでしょう?いやぁ、実にしっくりくる言葉だ。思えば、いま私がこうして異国の地でデウスの教えを広めることになったのも、ご縁がご縁を結んだ繰り返しの結果かもしれません。えっ、私の人生?いやいや、そんな。お話するほどのことは何もありませんよ。はぁ、そうですかねぇ。そこまでおっしゃっていただけるなら、まずは自己紹介がてら私があの貴婦人と知り合った経緯からご説明いたしましょう。


 私の名は、ニェッキ・ソルディ・オルガンティーノ。出身地は北イタリアのカストという地です。二十代始めにイエズス会に入会して、しばらく神学校で学んだ後、三十七歳の時にこの国へやって来ました。いやはや来日したばかりの頃は、生まれ故郷とは何もかも勝手が違うこの国に馴染むのに随分苦労しましたよ。はい、衣食住や慣習・言葉の違いにも戸惑いましたが、一番困惑したのは宗教観というか神々との付き合い方ですかね。何しろこの国の人々というのは、神はいくらおいでになっても多いことに越したことはないと言わんばかりで、神はこの世にただ一柱ひとばしらしかいらっしゃらないという私たちが伝える教えを、根本的に理解してくれてはないようでした。同志たちの精力的な活動もあってか、いまでは私たちの奉じる神のことを知っている人も増えましたが、熱心な信徒の中にさえ、いまだにミサを終えた足で法要に向かうという者もおりまして…。その者に矛盾を問いかけても本人は不思議そうな顔をするばかりで、何がおかしいのかまるで分かっていないようなのです。来日したばかりの頃は、そういったこの国の人々の認識も改めるべきであると思っていましたが、いまでは私も「何だね、それは?面白そうじゃないか」と言って、一緒にその法要へ参列してしまうのですから、人のことは言えません。はい、そうですね。この国に来て私の宗教観も、確実に変わったと思います。無論デウスの教えは私の人生の全てを覆い尽くすものであり、私という人間の核となっていることに変わりはありません。しかし、他の人が信じる神を敬うことは、己の信じる神を否定することではない。私はそのことをこの国の人々から学びました。


 話がそれましたね。ともかく長い航海の末九州の地へ降り立った私は、しばらく言葉の習得に時間を費やした後、京都の布教活動の責任者となりました。かの地は皆さんご存じの通り、この国の中心であり古い伝統が息づく地です。ですから、新たな信仰を広めようとする私たちのことを追い払おうとする人もおり、始めは故郷に帰りたくなる時が何度となくありました。ですが、当時は明日の命をも知れぬ戦国の世。犯した罪を懺悔したがっている人や、親しい人をきちんと弔ってやりたいと願っている人は大勢いました。そういった人々の相談を受けているうちに、織田信長公や高山右近殿が私たちの活動に興味をお持ちになり、教会建設の援助などをしてくださったお蔭で、信徒はどんどん増えていきました。しかし、信長公が本能寺の変でお亡くなりになり、豊臣秀吉公の世になると状況は一変しました。秀吉公がいずれ私たち宣教師がキリシタンたちを扇動し、日の本を乗っ取るのではないかと危ぶみ、キリシタンたちを迫害するようになったのです。そういうわけで、私たち宣教師たちも以前のような活発な布教活動はできなくなりました。


 あの貴婦人と知り合ったのは、バテレン追放令が出される少し前のことです。先ほども申し上げましたように、私は彼女とじかに逢ったことはありません。彼女が夫君の目を盗んで大坂の教会を訪ねた際に対応したのは、グレゴリオ・デ・セスぺデスというイスパニア出身の宣教師です。奇しくも復活祭であったこの日、わずかな従者を連れて突然現れた彼女を、当初セスぺデスは大層怪しんだといいます。と同時に、彼女の美しさに畏敬の念を感じてしまったことを、後日私へ告白してきました。「お顔立ちが整っていて物腰も優美でしたが、何より御身から発する清廉な雰囲気に圧倒されました。ヨーロッパでも、あれほどの女人にはお目にはかかったことはございません」彼はいつもあの貴婦人の思い出話をする時、決まって熱に浮かされたようにそう言います。ひと目見た瞬間から彼女が並々の身分ではないと分かったセスぺデスは、内心強い好奇心を覚えながらも、拙い日本語で教会内を案内しました。「私の言っていることがどの程度通じていたかは分かりませんが、あの貴婦人は、十字架にかけられたキリスト像へ長いこと祈りをささげていらっしゃいました。そしてまもなく修道士の高井コスメが外出先から帰って来ると、矢継ぎ早に近しい人たちから聞きかじったというキリシタンの教えについて質問し、さらには禅宗から得た知識などをもとに我々と議論を交わしたのです。まったく、本当に美しく聡明な貴婦人でしたよ」一体この女人は何者なのか。セスぺデスはますます謎を深めるばかりでしたが、彼女が出し抜けに洗礼を受けたいと申し出た時には大慌てしたそうです。というのも、彼女がもし秀吉公の側室やどこぞの大名家の正室なのだとしたら、下手に洗礼なんぞ施して後々面倒なことになったら大変です。なので、手を合わせてしきりと懇願する彼女に申し訳ないと思いつつも、「次に、こちらへいらした機会に」とその場での洗礼は断ったそうです。


 あぁ、そうそう。逢ったことはないと言いましたが、後姿だけは見たことがあるんですよ。ちょうど彼女たち一行が教会から出てきたところを、遠くからですが見たんです。彼女が私たちの教会を訪れた日、私は遠方へ出かけていたんですが、その日の夕方、やっとのことで教会の手前までたどり着いたところで、疲労のあまり路傍の石に座り込んで、しばらく涼んでおったのです。すると、教会の出入り口からセスぺデスとコスメと共に数人の人々が出てくるのが目に入りました。何となくそのまま観察していると、一行は丁寧に二人へ頭を下げ、暮れなずむ初春の街中へ足早に去って行きます。「はて、彼らは何者なのだろう?」私もセスぺデス同様首をかしげましたが、とりわけ守られるように一行の中央にいた細身の女人に興味を引かれました。私は京都に長くおりましたので、着物の質の良し悪しについてもある程度なら分かるのですが、その女人の着ていた紫苑色の地に散り桜が配された小袖が、大変美しいと思ったのです。あれは一歩装い方を間違えると仰々しく悪趣味なものになってしまいますが、彼女は非常に上手く着こなしていましたね。いまでも目を閉じると、まぶたの裏にあの後姿が浮かび上がります。彼女が何者か知りたくてたまらなくなった私は、飛ぶように立ち上がり急ぎ足で教会へ戻ると、まだ入口で見送っていたセスぺデスとコスメに、さっそく一行の素性を尋ねました。が、彼らも困惑するばかりで答えられません。通常本人が明かさない限り、私たちは教会へやって来る人の素性は極力詮索しないことにしています。しかし、この頃からだんだんキリシタンへの風当たりが強くなってきたこともあり、警戒心が強くなっていた私たちは不安が拭い切れず、話し合った末使いはしりをしていた少年に一行の後をつけさせることにしました。一行はもう随分遠くの方まで行ってしまっていましたが、少年は持ち前のすばしっこさで追いつくと、彼らが越中殿のお屋敷へ入って行くのを確認してすぐに戻って来ました。


 あの貴婦人がどうも越中殿、細川忠興殿のご正室であるらしいと知った時、私たちは驚くと同時にひどく納得させられました。「そうか。あの、明智光秀殿のご息女か…」とね。本能寺の変は、私たち異国人にとっても寝耳に水でしたから、まして彼女の受けた衝撃は察するに余りあります。細川家が父君に加勢しなかったことについても、彼女なりにいろいろ思うところはあったのでしょうが、とりわけ変の直後から二年間丹後の山奥で幽閉生活を強いられたことは、彼女の孤独感をさらに深めたのではないでしょうか?彼女が具体的にどのくらい前からデウスの教えに興味を持っていたかは知りませんが、この二年間の幽閉生活の間に、近侍していたマリアからキリシタンの信仰について多少は聴いていたのかもしれません。うん?あぁ、そうですよ。あのキリシタンの清原マリアのことです。多分あの時、私たちの大坂の教会のことを教えたのもマリアなんじゃないかなぁ?あの子ともしばらく会っていないが、息災にしているだろうか…。


 おっと、失礼。ともかく、あの貴婦人が生涯で一度きりの教会訪問をして数日後、彼女から礼状が届きました。その礼状に返書を送ったのを機に、私と彼女の交流が始まったわけです。当初は二~三通の消息のやり取りだけで終わるかと思いましたが、彼女が「実は離縁しようか悩んでいる」と相談してきたあたりから、いつの間にか文通をする間柄となってしまいました。えぇ、そうなんですよ。彼女は一時期、離縁をしたいと望んでいたんです。もともと本能寺の変以後夫婦仲はあまり上手くいっていなかったようなのですが、いまの細川家へ厄介になっている状態では信仰に生きられないから、宣教師やキリシタンたちの多くいる西国地方へ行き隠遁したいと思っていたようです。彼女の熱意は痛いほど伝わりましたが、ご存じの通りキリシタンは離婚を禁じられています。ですから、「あぁ、そうなさい」とおいそれとは同意できませんでした。それに、夫君である越中殿は大層ご気性の激しい方らしいと聞いていましたから、離縁を切り出した妻に彼がどのような仕打ちをするのかという懸念もあったのです。従って、あれやこれや教義を持ち出して説き伏せ、何とか離縁は思い止まらせましたよ。いやぁそれにしても、この国の人々は気軽に離婚・再婚をしますねぇ。私の故郷では、結婚というものは神の御前でした誓いなので原則離婚ができないんですよ。この国で布教活動をし始めて間もない頃、離縁しようか悩んでいると相談に来る人の多さには驚きました。結婚は家と家の結びつきで、利害関係で成り立っているという考え方がより強いからでしょうか?


 申し訳ない、また話がそれましたな。離縁を思い止まった彼女は、その後周囲の人々にキリシタンへの改宗を勧める活動を生きがいとしたようです。マリアによると、「デウスの教えを知る以前のお方さまは、ひどく思い悩み塞ぎ込まれることが多く、お子さまたちにさえ会いたがらない日もございましたが、信仰に生きるようになられてからは慈悲深く闊達なお人柄となり、そのお変わりように家中の者たちも大層驚いておりました」だそうです。もともと細川家は学識の深い家柄ですから、当主の正室がそこまで入れ込む異教に、仕える者たちも興味津々となったようです。そのため彼女の子どもや侍女たちを中心に、細川家中にどんどんキリシタンが増えていきました。が、折悪しくこの頃秀吉公がバテレン追放令を出し、私たち宣教師の国外退去を命じたこともあり、夫君の越中殿は妻の布教活動に真っ向から反対しました。先ほども申し上げたように、越中殿はご気性の激しい方でしたから、家中のキリシタンを追い出したり、ひどい時には彼らの耳や鼻をそいだりして、とにかく妻の信仰をやめさせようとしました。私も当時は越中殿を冷酷な夫だと非難しておりましたが、いまにして思えばあの方もあの方なりに、家と妻を守りたいと必死になっていたのかもしれません。あの頃謀反人の娘が正室ということで、細川家は微妙な立場に立たされていたと思いますが、その正室がキリシタンとなれば、ことによると家の存続自体も危ぶまれたのでしょう。ですが、秀吉公の迫害政策や夫の反対を神が与え給うた試練と受け取った彼女は、むしろいよいよ洗礼したいという気持ちを強くしていきました。さすがにここまでくると、私たちも何とかしてその願いを叶えてやりたいということになりまして、皆で相談した末司祭の代わりにマリアが洗礼を授けることになりました。当初は熱心なキリシタンとはえ、聖職者ではないマリアに果たして洗礼の儀式が執り行えるのかどうか心配いたしましたが、事前に教会へ洗礼の手順を教わりにきたマリアは、それこそ穴の開くほど私たちの一挙手一投足を観察し、こちらが返答に窮するほどの子細な質問を矢継ぎ早にしてきました。その執念ともいえる〝予習〟が功を奏したのか、女主人へ洗礼を授けるという大役をマリアは立派にやってのけたようです。もちろんこの洗礼は越中殿が遠征中に秘密裏に行われたものだったのですが、帰還して妻がキリシタンになったことを知った時は、それはもう大変なお怒りようだったそうです。しかし、洗礼をしたことで心の平安を得た彼女は反論するようなこともせず、清水のように澄んだ目で激昂する夫を見つめるばかりだったそうです。まったく、さすがは明智光秀殿のご息女といいましょうか。あの越中殿を相手に大したものですよ。うん?あぁ、はい。洗礼名の「ガラシャ」は、私が名づけました。私の国の言葉で恩寵や恩恵という意味です。いやぁ、我ながら良い名をつけたと思います。あの後姿にぴったりと合う名はないだろうかと思案しながら、何気なく首にかけていたロザリオをもて遊んでいた時に、まるで啓示のように「ガラシャ」という言葉が浮かんだのです。いまではキリシタンたちの間で彼女を偲ぶ時は、皆親しげに「ガラシャさま、ガラシャさま」と呼んでいるし、世間でも本名の「お玉」ではなくこちらの洗礼名の方が知られているそうです。


 こうして名実ともにキリシタンとなった彼女には、しばらく平穏な日々が続きました。うん?越中殿との夫婦仲?さぁ、私も離縁したいと相談されていた頃はあれこれと内情は耳にしていましたが、その後は立ち入って尋ねるようなこともしませんでしたから。妻の美貌を盗み見た庭師を、越中殿が無礼打ちにしたとか、そんなおどろおどろしい噂話もありましたが、真偽のほどは定かではありません。ただ、私から見てあのご夫婦は世間が言うほど険悪な仲ではなかったと思います。むしろ似た者同士で、妙なところで馬が合っていたというか…。あるいは関ヶ原の戦いの折、あの貴婦人が西軍の人質となることを拒み潔く死を選んだ背景には、憎んでも憎み切れない夫君への操があったのかもしれません。あの時は私も覚悟はしておりましたが、いざ彼女の死を伝え聞いた時にはほかの信徒と共に深く嘆き悲しみました。はい?なぜ彼女が死ぬと分かっていたかって?あぁ、それは直前に相談を受けていたからです。「自殺をすることは、神への冒涜になりはしないか」とね。えぇ、本当ですよ。何でも越中殿は常々、「万が一の時は、恥のないようにふるまえ」と言いつけていたらしく、あのいくさの折も妻へそう命じて出陣して行ったそうです。いやはや、私ももう何年もこの国におりますから、お武家さまのならいもある程度理解はしているつもりですが、それでもやはり名誉のために愛する者へ死を命じるというのは、個人的には共感ができませんね。どんなにつらくとも苦しくとも、愛する人には生き抜いてほしい。そう願わずにはいられないのが、人の心のではなのではないでしょうか…?


 おっと、失礼。度々話を脱線させてまことに申し訳ない。あの貴婦人のことを偲ぶと、同時に様々なことが思い出されてつい感傷的になってしまって…。とにかく、キリシタンは自殺を禁じられていますから、どうすればキリシタンとして武家の子女として、双方の慣習に殉じた死に臨めるか、それが彼女の目下の課題となりました。私も当初は生きる道を選ぶよう説得していたのですが、何やらとりつかれたように潔い死に様を模索する彼女の熱意におされて、いつの間やら彼女がしようとしているのは自殺ではなく殉教なのではないかと考えるようになりました。実際、キリシタンたちの間では彼女は殉教者として敬われていますし、私自身も彼女は殉教したのだと解釈しております。はい。確かに、家臣に刀で自らの胸を突かせるというやり方は、傍目には自殺以外の何物でもないように感じられますが、大事なのは過程ではなくその心なのではないでしょうか?殉教する直前まではべっていたマリアによると、屋敷内の礼拝堂で最後の祈りを終えた彼女は、死出のお供をしたいと訴えた侍女たちに対し、「そなたたちが自身の生を全うし、いつかパライソへやって来る時を、わたくしは待っていますよ」と穏やかな表情で語りかけ、ゆったりと控えの間へと消えて行ったそうです。「まさしくあの慈悲深いお姿は、聖母さまそのものでございました。あの瞬間私には、デウスさまのほかにもうお一柱、崇め奉るべきお方ができたのです」キリシタンとして生きていくならば、本来あってはならぬ考えを涙ながらに語るマリアを、しかし私は叱ることもできず、静かにその肩をさすることしかできませんでした。口にこそ出しませんでしたが、私もあの貴婦人が死によって己の魂を昇華させたことを感じたからです。


 その後の関ヶ原の勝敗と細川家の方々の行く末は、世の人々の知る通りです。常々言いつけていたこととはいえ、いざ妻が壮絶な最期を遂げたことに越中殿は激しく動揺されたのでしょう。あの時妻と一緒に大阪の屋敷にいながら、自分だけさっさと逃げてしまったご長男の嫁を追い出し、嫁をかばったご長男も廃嫡にしてしまったとか。いまでも時折、越中殿がご家族といろいろと揉め事を起こしているようだという話を風の便りで聞きますが、あのお方はどうもお身内に厳しいところおありのようですな。ただ、妻に関してはやはり泣きどころというか、甘いところがあったようで、あの貴婦人が亡くなって一年ほど経った頃に、「一周忌をやってほしい」とあちらから申し出があり、京都の教会で彼女を供養する盛大なミサが執り行われました。えぇ、もちろん。越中殿を始め、細川家のご家族も参列されましたよ。生き残った侍女たちから、私が焼け落ちた大阪の細川家のお屋敷から彼女の骨を拾い、殉教者として祀って葬儀と埋葬をしたことを伝え聞いたようで、「妻の遺骨をお持ちだとか」とミサを終えた後に、越中殿の方から話しかけてきました。それまで噂話や彼女の消息から越中殿のげきしやすさを度々聞いていた私は、この時も遺族に断わりもなく勝手に妻を埋葬したことに彼が怒っているのではいかと心配しつつ、恐る恐る信者たちのためにひと欠片だけ手元に置いておいた遺骨をお見せしました。最初彼は、小さな白磁の骨壺に納められた愛しい女人の欠片を無表情にじっと見つめていましたが、やがて音もなくはらはらと涙をこぼし、両のてのひらでそっと骨壺を包み込みました。彼の周囲には細川家のご家族が集まり、皆言葉を交わすことなくその光景を見守っていました。私も目頭が熱くなるのを抑えかねましたよ。正直なところ、いまでも彼女が死を選んだことが正しかったのかどうか分かりませんが、十数年消息のやり取りをする中でいつも漠然と感じていたのは、「この貴婦人には、生への執着がない」ということでした。投げやりとは違うのですが、何やら己の生き死にはもう無頓着というか…。多分私は、心の底ではいつかきっとこのような日がやって来ることを分かっていたのだと思います。彼女を慕う人々と共に、彼女を偲ぶ日がいつかやって来ることを…。


 さて、私が話せることは全てお話ししました。あぁ、いえいえ。そんなお気になさらず。私も、久々にあの貴婦人のことを語ることができて嬉しかったですよ。近頃めっきり気力がなくなりまして、お迎えの日もそう遠くないような気がしますから。いやいや、もうこの歳では故郷に帰ることはできんでしょう。幸い、ここ肥前はまだキリシタンの弾圧がそれほどひどくはない。その時が来たら、静かに自分の運命を受け入れたいと思います。あの貴婦人が、そうしたようにね。えぇ、ではお気をつけてお帰りください。あなたにも、神のご加護があらんことを!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あの貴婦人 ~神父オルガンティーノ、細川ガラシャをかく語りき~ 長居園子 @nanase7000

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る