第4話 幼なじみが壊れた!
翌日、俺は珍しく1人で登校していた。
波野とは家が近い。それだけでなくどうやら生活リズムも似ているらしく、お互いいつも通りに家を出るとほぼ確実にばったり会って、そのまま一緒に登校するような流れになる。
誤解されたらまずいんじゃないかと指摘したこともあるが、別に困らないということだった。多分波野は色恋なんかに興味がなくて、誤解されたらされたで男よけにちょうどいい、くらいに思っているんだろう。
俺も別に嫌というわけじゃないし、あえて拒絶する理由もない。
「おはよう」
そのまま1人で教室に入ると、俺は誰にともなくあいさつする。
……まあ反応してくれるのが波野だけなのはわかりきってるから、実質波野に向けてるのと同じようなもんなんだけど。
しかし今日は、その波野からもあいさつが返ってこなかった。
視線をやってみると、波野は振り返ることもなく黙って席についている。
「何、喧嘩でもしたの?」
平島が俺と波野を見比べて言う。俺は肩をすくめることで答えた。
平島は顔を傾けて下から波野の顔を覗き込む。
「おーい、どしたー? 恒例の朝デートどころかあいさつも中止? そんなにひどいこと言われた?」
……なんで俺がひどいこと言う前提なんだ。
俺が内心だけで抗議していると、波野がちらりとこちらを振り向いた。頬が少しだけ赤くなっているように見える。
「べ、別に私は一緒に登校しようなんて思ったことないし? たまたまばったり会ってるだけなんだから」
「うん? それがどうしたんだ?」
わかりきってることを口に出されても、俺には首を傾げることしかできない。一方の波野は赤い顔で深呼吸をする。
「別に。晴香とナギくんが勘違いしないように言っておいただけ」
そしてまた前を向いてしまう。
……なんか怒らせるようなことしたかな。全然心当たりがないんだけど。
なんて思っていたら波野がもう一度顔をこちらに向けてきた。
「あ、あと……おはよう」
「お、おはよう」
駄目だ。まったくわけがわからない。腹は立ってるけど、無視するほど怒ってるわけじゃないってことか? それともめちゃくちゃ怒ってるけど、無視するのは気が咎めるとかそういうこと?
俺と同じか、それ以上に困惑していたのが平島だった。
「り、梨子が壊れた……」
うわ言のようにつぶやくと、勢いよく椅子から立ち上がった。
「ちょ、ちょっと柳屋! あんた一体どんだけひどいこと梨子に言ったのよ!?」
「いや、心当たりがない」
「そんなわけないでしょ! あのいつも優しくて穏やかな梨子がこんな態度取るんだよ!?」
「本当に。まったくわからない」
「どうせ、虫けらでもみるみたいな目で『ゴキブリと結婚しろ!』とか、『豚の子供でも孕んどけ!』とか言ったんでしょ!」
「お前の発想の方がよっぽどひどい」
そんな俺の抗議も意味をなさず、平島は俺の肩を掴んで、ガクガクと前後に揺らしてくる。
理不尽だ。理不尽だけど波野の俺への態度がおかしいのが間違いない以上、俺が無関係だとも思えないから強くは出られない。
「ぐえぇ……」
頭がシェイクされすぎて気持ち悪くなってきた。
胃液が、浜辺の寄せては返すさざなみのように――いや全然そんなきれいなもんじゃないけど――とにかくこみ上げて引いてを繰り返す。
「あっ……」
ふと目があった波野がそんな声を漏らした。その目には、まるで地球に最期をもたらす小惑星が迫り来るのを見上げるような絶望感があった。
「は、晴香、駄目だよ。このままだと教室とナギくんの尊厳がめちゃくちゃになっちゃう」
待て。俺の嘔吐をそんな教室を滅ぼすバイオテロみたいに……いや、結構バイオテロだな。やっぱりなんでもないです。
「え? でもちゃんと謝らせないと。怒ってるんでしょ?」
平島が眉間にしわを寄せて振り返ると、波野はばつの悪そうな顔で視線を泳がせる。
「そ、それは……なんというか、あー……ノーコメントで」
「つ、つまりとても口では言えないようなことを、梨子にしたり言ったりさせたり言わせたりしたわけね!? この外道!」
「し、てない……」
反論も虚しく、人類……もとい教室滅亡へのカウントダウンは着々と進む。
このままだと俺の吐瀉物砲の爆心地になるわけだけど、平島はその点わかってるんだろうか。汚物まみれにな¥る覚悟で波野のために頑張るってことなら、それには幼なじみとして敬意を表したい。
……あ、やばい。
と、不意に未知の怪物が喉元まで朝食がせり上がってきたそのとき。
「――はくしゅん」
波野が小さくくしゃみをした。
登場のタイミングを外されたモンスターが一瞬だけ首を引っ込める。
その間隙を縫って、何者かが俺と平島の間に割って入った。
「だめ! お兄ちゃんのこといじめないで!」
その声の主によって俺は平島から引き離され、なんとか急場をしのぐ格好になった。
――お、お兄ちゃん……? まさか氷美菜?
と考えて即座に首を横に振った……ら吐きそうなので内心だけで否定する。
氷美菜は俺のことお兄ちゃんなんて言ってくれない。初めてしゃべったときから今に至るまで、俺のことは「にい」と呼び続けている。
氷美菜には、兄に「お」とか敬称をつけてくれるような慈悲はない。おにぎりにもお寿司にさえ「お」をつけるのに。……まあ寿司は俺より格上かもしれないけど。
……いや、だとすれば一体誰が?
朦朧とする意識の中、その人物の正体を確かめようと顔を上げようとしたその瞬間。
「大丈夫だった!?」
そんな可愛らしい声とともに、俺の体を柔らかな衝撃が襲った。
まるで何かに抱きしめられているような、甘い匂いと柔らかさが俺を優しく包み込む。
視界に映るのはクラスメートの驚きや好奇に満ちた顔。その中にはなぜか、親愛なる幼なじみの姿だけがない。
……おかしいなー、早退したのかなー? そういえばさっきの「お兄ちゃん」って声、波野っぽい声だったなー……あははは。
俺が限りなく正解に近い推論から目をそらしていると、胸元に密着する温かさがゆっくりと離れる。
「保健室行く? お兄ちゃん」
そしてその代わりに、波野の目鼻立ちの整った顔が目の前に現れた。それはもはや反証も反駁も不可能な、決定的証拠だった。
「なっ、はぁ……!?」
観念して現実を受け入れた俺は、思わずそんな声を上げていた。
驚きのあまり突き飛ばしそうになった腕になんとか急ブレーキをかけたあと、そっと体から波野を引き離す。
「ど、どうしたの? ……あっ、抱きつかれるの嫌だった?」
俺から離れた波野が、捨てられた子犬のような顔で俺を見上げながらそんなことを言ってくる。
俺は頭の整理がつかないまま、口をパクパクさせて言葉を探す。
「い、嫌では、ないけど……なんというか、その……倫理的に? いや、ええと……そう、公序良俗的に好ましくない、とは思う……」
目をそらしつつたどたどしく言う俺に、波野は眉を垂らして首を傾げた。
「ごめんね、お兄ちゃん。言い方難しくてよくわかんない」
……またお兄ちゃんって言ったか?
いや、実は「お兄ちゃん」じゃないのか? どっかの異国の言語で「お兄ちゃん」に空耳するような言葉があるとか。
オニーチャン。アフリカとかその辺りの言葉にあったりしないか?
……まあ、仮にあったとしても今度は言葉の意味と波野がそんな言葉を使った理由という新たな疑問が2つ増えるだけなんだけどな。
まあそれはいい。とにかく難しくてわかんないそうだから言い方を変えよう。
「だから、つまりこういうのはお互いに恥ずかしいことだから、人の見てる前でやっちゃ駄目だってことだ」
「そっか、わかった。じゃあお家帰ってからにするね」
また一段と教室がざわついた。
――それは波野が俺の家に来るの? それとも俺が行くの? なんで家で一緒にいることが前提になってるの!?
多分教室中の疑問と俺の疑問はシンクロ率100%を超えている。
もちろん平島の表情も困惑の極致に至り、眉の角度といい目の開き具合といい、もはや言語で表現できる範疇を超えていた。
「じゃあ……手、つないでてもいい?」
「え」
多分今の俺の顔も描写不能性でいえば平島といい勝負をしてると思う。
わけがわからないまま波野に向き合うと、波野は上目遣いで瞳をうるませ、懇願するように俺をじっと見つめていた。
「……うぐぐ」
横にふろうとした首が動かない。駄目だと言ったら、とてつもなく悲しそうな顔で涙をこぼしてしまいそうに見えて、拒絶ができない。
「……い、いいぞ」
「ありがとう! お兄ちゃん大好き!」
そう言って、すぐさま俺の左手を両手でぎゅっと握ってくる。温かいし柔らかい。あと……なんというか、柔らかくて温かい。
俺が思考停止に陥る中波野はつないだ手をじっと見つめていたが、不意に顔を上げて心底うれしそうに笑った。
――くっ、可愛い……。
「はーい、ホームルーム始めまーす」
俺が悶えていると、そんなあいさつとともに担任の教師が入ってきた。
喧騒は収まらないまま、教室中で着席のための大移動が起こる。もちろん俺と波野も席につくわけだけど……。
「えへへ」
波野は俺の手を離そうとせず、波野の右腕と俺の左腕で机と机の間に1本の橋が架かる形になっていた。
そんなふざけた光景を先生が見逃すわけもない。
「そういうのは休み時間にやってくださいね」
俺は波野の手を左手からそっと外そうと試みる。
「くしゅんっ」
その瞬間、波野がまた小さくくしゃみをした。
一瞬の間のあとで、おもむろに顔をあげる。
波野はまず自分の手を見た。そしてその手に沿って移動していった視線は、やがて俺の視線とかち合った。
目を見開き、顔を真っ赤にする波野。
「……えっ、私、今何して……!?」
なんかいつも通りの波野っぽいので、普通に要望を出してみる。
「……離してもらってもいいか?」
俺が言うと、波野は飛び退くようにして手を離した。
「え、あの、ごめんナギくん私、なんかちょっと変になってたみたいで、なんか私、えっ、抱きついたよね? 何、え、なんで……?」
そしてカンフーの達人が拳の嵐をいなすかのように、両手をせわしなくバタバタさせる。顔はもう耳まで赤く染まっていた。
「なんで」は俺の台詞だよ……。
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