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 ――ねえ恵美、あの雲、ソフトクリームみたいに見えない?

 ――え、どれどれ?

 ――ほら、あの小さい雲の横。うずまきみたいになってるやつ。

 ――ええと……あ、ほんとだ! ソフトクリームだ! 佳織すごい!

 ――わたしはすごくないよお、雲がすごいんだよ。実はわたしね、雲を見るのが好きなんだ。みんなにはぜったい言わないけど。

 ――雲を?

 ――うん。雲をながめていると、なんだか……やさしい気持になれるんだ。でも内緒だよ、みんなに言ったら駄目だからね。ふたりだけの秘密だからね。

 ――うん、誰にも言わない! 佳織とわたしだけの秘密ね!

 ……………………………………………………。

 おだやかにながれる雲をわたしは見た。空はどこまでも澄みわたり、とぎれとぎれにうかぶ雲は、清らかに白かった。わたしは泣きはらした目を、ただ、長いこと空に向けていた。

 わたしは草地に横たわっていた。学校をとびだし、バスで中央公園までやってきて、何時間がたったことだろう。この広い公園の隅の、人気もほとんどない草むらのあいだにある、かくされた草地。ここに横たわって、わたしは全てをはきだすかのようにひたすらに泣きじゃくった。ひとしきり涙を流したあと、長い放心状態がおとずれた。わたしはあたたかな陽射しをあび、草地にあおむけになったまま、遠い記憶をよびおこしていた。

 ずっと以前には、佳織や美穂と公園で遊んだこともあった。小学校低学年のころ、ふとしたときに佳織は、自分は雲をながめるのが好きだとわたしに打ちあけたのだ。雲をながめていると、なぜかはわからないがやさしい気持になれるのだと。たったそれだけのことだったのだけれど、まるで重大な秘密をおしえるかのように、ささやくようにわたしに言った。わたしはそのとき、友と秘密をわかちあう、くすぐられるような喜びを感じた。自分にだけは打ちあけてくれるという、佳織のわたしに対する信頼を知って、うれしかった……。

 今の佳織は雲をながめることはあるのだろうか。空を見上げ、やさしい気持をよびおこすことはあるのだろうか。わたしとあんな会話をかわしたことなど、もうおぼえてはいないだろう。そんなことを考えると、流しつくし、かれはてたはずの涙が、またこぼれた。雲は日のひかりをあびて、白くかがやいていた。

 わたしは何時間もそのままでいた。日はそのあいだにも徐々にのぼりつづけ、やがて青空の頂に達した。遠くで正午の鐘が鳴りわたったが、空腹はほとんど感じられなかった。三時に美穂はこの公園に来るのだということをわたしは考えたが、もうどうでもいい気がしていた。何もかもが遠かった。しかしまた明日からは、学校へ行かない生活がはじまるのだということを、わたしは考えたくもなかった。いつまでこの生活はつづくのだろう。どうするのが最善の道だったのだろう。わたしは美穂のようにはなれない。佳織のようにも、あの学級のどの生徒たちのようにもなれない。わたしがわたしであるかぎり、どこにも逃げ道などない。「帰れ!」の大合唱が今も脳裡を離れなかった。それはわたしがどこへいっても、何十人、何百人もの声となって、追ってくるように思われた。

 死のうか、とわたしは思った。あの女子生徒のように、電車に飛びこむだけですべてが終る。首をつってもよかったし、どこかの高所から飛びおりてもよかった。誰もわたしを追ってはこられない。死後にどれほど彼らがわたしを愚弄したとしても、わたし自身にはもう誰も手だしできないのだ。それはなんとすがすがしい、完璧な逃避計画だろう。

 わたしはなおも長い間、草地の中でその考えを追っていたが、ふと、今は何時なのだろうと思って起きあがった。わたしは腕時計を持っていなかったが、すでに正午からは何時間もたっているはずだった。美穂と会う気がなくとも、せめて今の時刻は知っておきたかった。立ちあがり、体から草や落ち葉をはらって歩きだした。

 美穂と待ち合わせをした公園の入口までくると、噴水のわきの時計塔が二時半過ぎをさしているのが見てとれた。まだ美穂の姿はなかったが、もういつやってきてもおかしくはない。その前にここを立ち去ろう、との思いが突然生じた。そのときわたしは、美穂がかけてくれた数々のあたたかい言葉すらもわすれていた。

 公園を出て大通りを歩いた。あたりの風景はほとんど目に入ってこなかった。わたしは夢遊病者のように歩道橋をわたり、大通りをはずれて、さらに道を歩きつづけた。住宅、工場や駐車場がつらなるあたりまで来ても、わたしは立ちどまらず、ふりかえりもしなかった。遠く、電車の疾走する音が聞えた。小学校の校舎のすがたが見えた。

 道行く人々のすがたはほとんど目に入らなかった。ただどこかへ自分の体を運搬していくだけの機械のように、わたしは空虚な心をかかえ、ただ歩きつづけていた。いつしかわたしは、電車の走りぬける、線路の姿をさがしていた。線路は工場や何かの事務所の建物の間に見え隠れしていたが、高い金属のフェンスにはばまれて、そのすぐそばまで近づける場所というのは、なかなか見つからなかった。

 どこをどう歩いたのか、やがてわたしは電車の線路沿いの、広大な空き地へとやってきていた。そこはおそらく大きな工場をとりこわした跡地で、あたりは似たような灰色のトタン造りの建物に囲まれ、やや離れたところには、黒くくすんだコンクリートの煙突がそびえたっていた。あたりはしんとして人気はなかった。

 空き地はひどく広く、荒涼としていた。細かくくだかれた砂利やコンクリートの破片で一面がおおわれ、ならされていた。ところどころに、割れたびんのかけらが日にきらめいていたり、土管が積みあげられていたりした。無彩色の殺伐とした光景に、空の色だけが青く、目にしみるようだった。

 わたしは足元に注意しながら、奥へむかって進んでいった。制服を着てこんなところにいる自分の不自然さをふと感じ、歩むにつれて、意味もなく涙がわいた。ここでは人の声ひとつ聞えなかった。

 線路と空き地との間には、申しわけ程度の低い木の柵があるだけだった。線路の反対側の工場からは、高い塀越しに機械のうなる音がずっと聞えていた。これが迫りくる電車の轟音とともに、わたしが人生の最期に聞く音なのだとわたしは思った。

 わたしは柵をまたぎ、線路の敷かれた敷地内に入った。

 目の前には赤さびた鋼鉄のレールが一直線にのび、延々と枕木がつらなっている。左右を見わたしたわたしは、ひざのふるえを感じずにはいられなかった。

 電車が見えたら線路上に立とう、とわたしは思った。どちらから次の電車が来るのかわたしにはわからなかった。しかし、電車が来ればその車体のきらめきで、その轟音で、すぐにそれとわかるはずだった。ふと、自殺した女子生徒の姿を思った。もうすぐあなたのところへ行くよ、とわたしは口の中でつぶやいた。世界はしずまりかえっていた。工場の機械の音さえも、もはやわたしには聞えなかった。

 ――電車が見えた。銀色にかがやく車体が、まるでここからは動いていないようにさえ見えるのだけれど、徐々に大きくなり、そして迫ってくるのがわかった。わたしの呼吸は激しくなった。息を深く吸って気持をととのえようとした、しかしもはや、そんなことをする必要すらないのではないかという思いが、ちらと脳裡をかすめた。轟音が聞えだした。わたしなどのことは何も関知していない、無慈悲な疾走だ、とわたしは感じた。わたしの住んでいた世界とはそんなものではなかったろうか。わたしが死んでも、それは湖に投げこまれた小石のひとつにすぎない。波紋は一瞬だけひろがり、そしてすぐに消え去ってしまう。しかしもうどうでもよかった。わたしの世界がここで幕をひけるなら、それでいい。長い長い逡巡の果てに、ついにわたしは最後の行動に移ろうとしていた。

 わたしは線路に歩み寄ろうとした。……

 そのとき、わたしの名をよぶ声がした気がした。誰かがわたしの名をさけんでいるのを、確かに聞いたように思った。わたしは思わず立ちどまり、あたりを見まわした。声は再び聞えた。

「恵美! 恵美!」

 わたしはふりかえった。美穂がいた。空き地のやや離れた場所、二〇メートルほど離れた場所に立ち、駆けてきたばかりの姿で激しく胸を上下させ、目をおおきく見開いてわたしを見つめていた。驚愕の表情がその青ざめた顔にあった。

「やめて……」

 美穂は茫然とした様子のまま、わたしに近づこうと一歩ふみだした。

「こないで」とわたしは叫んだ。美穂はわたしにむかって懇願の表情で手をさしだしたまま、そこに立ちつくした。しかしわたしは完全に時機を逸した。電車は轟音をたてて、たちまち目の前を通過していった。自分の命を絶つはずだった鋼鉄の車輪が、すさまじい勢いで回転しながら行き過ぎた。わたしは黙ってうなだれた。電車が走り去ったあとには、広々とした赤茶色の線路だけが残された。そのむなしい空白をながめたわたしの心からは、はりつめたものが一挙にずり落ちていった。それは先ほどとは正反対の「どうでもいい」という感情だった。わたしはふらふらと柵を乗り越え、空き地にへたりこんだ。わたしの名をさけんで、美穂が駆けてきた。

「恵美……、ごめんね……ごめんね……」

 美穂は倒れこむようにしてわたしをかき抱き、むせび泣きながら謝りつづけた。なぜ彼女が謝るのだろう、とわたしは思った。約束をたがえて公園を去り、こんな場所までやってきて自殺しようとしたのはわたしのほうであるのに。そんなことをぼんやりと考えていた。

「美穂」とわたしは言ったが、つづけて何を言うべきかわからなかった。「どうして、ここがわかったの?」

「わたしね……、公園の入口に恵美が出てきたとき、ちょうど待ち合わせ場所に着いたんだ。でも、突然恵美が公園を出て、そのままずんずん歩いていってしまうから、おかしいなと思ってついていったんだ」美穂は涙にぬれた目でわたしを見つめた。「様子が普通じゃないのも、遠くから見てすぐにわかったよ。どうして、ねえ、どうして死のうとしたの?……学校ね、学校で何かあったのね?」

「もう何もかも駄目だから」わたしはさえぎるように叫んだ。「わたしは死ぬしかない。死ぬことでしか逃れられない」

「なにから恵美は逃れたいの? なにもかも駄目だなんて、そんな……」

「美穂にはわからない」わたしは美穂の、うったえかけるような目から視線をそらせた。「あなたにはわからないよ。わたしはどこまでも、いつまでもわたしなんだから。わたしがわたしであることで、皆からは笑われて、からかわれて、ののしられて、無視されて……。わたしはわたしであることから逃れられない。できることならわたしはあなたのようになりたかった。あなたのように皆から愛され、かがやいて、幸せを見つけながら生きていきたかった。でもそうはできない。わたしとあなたはいつまでも別の人間なんだから。この永遠に変らないわたしという枠組みの中で、生きていかなくてはならないのよ。あなたも同じく枠組みの中で生きてはいるけれど、このわたしの気持だけは絶対にわからない。世界そのものが違うのだもの。でも、本当はわたしだって……」

 わたしは涙をこらえることができなかった。涙は熱くはらはらとこぼれた。きっと自殺したあの少女も、同じ涙を何度も何度も流したにちがいないと、わたしはにじむ景色の中で思った。美穂がわたしの肩を抱いたが、語り終えたわたしはあらがわなかった。美穂の顔はよく見えなかったが、彼女も泣いていた。

「恵美、ねえ、あなたはあなたのままでいいんだよ」美穂はささやくように言った。涙に声までもがうるんでいた。

「どうしてわたしがこんなに泣いているのかわかる? かけがえのない友だちの恵美が自殺しようとしたほど苦しんでるのを知って、でも、それだけじゃないんだ。わたし、恵美を見ていると、一年前の自分を見ている気がするの。中学に入ったばかりのころのわたし、本当につらい毎日をおくってたんだ。テニス部が原因だったの。わたし、三年の先輩たちにひどく嫌われてた。なぜなのかは今もよくわからないんだけれど、たぶん生意気に見えたんだと思う。小学校の頃からテニスをしていたから、気分がうわつきすぎていたのかもしれない。色々な嫌がらせをされて、そのうち二年や一年の人たちも加わってくるようになった。仕事を全部おしつけられたり、ちょっとした失敗でしつこくからかわれたり、練習のときに誰にもペアを組んでもらえなかったり。でも三年の先輩が引退すると、ぴたりと嫌がらせはされなくなって、新しく入ってきた後輩たちからも、ずいぶん慕ってもらえるようになったから……。

 ねえ恵美、たしかにわたしはあなたにはなれないし、あなたはわたしにはなれない。でもいつまでも同じわたし、同じあなたではないんだよ。わたしは恵美のやさしさも、心のこまやかさも知っている。わたしはそんな恵美が大好きだし、いつまでもそんな素敵なところを守っていってほしいと思ってる。そもそもね、学級内での地位なんて、なんとなくの雰囲気で決ってしまうものなんだから。もしも他の学級だったならば、恵美の……、それに佳織の立場も、全然違うものになっていたと、わたしは思う。所詮その程度のものなんだよ。全然、死ぬほど思いつめるほどのものではないんだよ」

 わたしは美穂の言葉を一語々々、かみしめるように聞いていた。わたしの周りを囲んでいた、ある世界の壁が、幻のように溶け去り、消え去るのを感じていた。そしてそれとはまた別の、あるひかりに満ちた、いくつもの世界の存在が、わたしの前にひらけてくるのを感じていた。

 それが本当に、わたしを受け入れてくれるものかはわからなかった。しかし、わたしが新たな世界にふみだすことができるのなら、そこに生きる意味があるはずだった。今のわたし自身から逃れられる未来があるのなら、そこでわたしは生きていくことができるはずだった。涙を流しながらも、今のわたしはそう思うことができた。

 美穂は腕をのばしてわたしを抱いた。わたしはほおに彼女の髪のなめらかな感触をおぼえながら、そのあたたかい腕の中で、この数週間のことを思いだした。初めて保健室を訪れた日のこと、部屋で暗い思索にふけった日々、新聞で見つけた少女の自殺に、いつまでも思いをはせつづけたこと……、そして佳織の罵声、同級生たちの笑い声、担任教師のさげすみの目……その全てが視界に明滅し、目の前から消え去っていった。

「だから一緒に生きよう、ね……また何度でもやりなおそうよ……」

 美穂の言葉にわたしは何度もうなずいた。うなずきながら涙がまた流れた。わたしはむせび泣きながら、美穂の体を強く強く抱きしめた。美穂はうなずき、同じく泣きながらわたしを抱きかえして、背をやさしくなでさすった。

 日が上空からさし、わたしの目の前にある、美穂の風になびく髪を、茶色にきらめかせていた。涙ににじんだ視界に、そのひかりばかりが強く、そして白くかがやく結晶となって視界をおおった。わたしは美穂のあたたかみを全身で感じていた。涙ははらはらとこぼれつづけた。日のあたる広い空き地にすわりこみ、わたしたちは世界が終るまで、決して離れまいとするかのように抱きあって、とめどなく泣きつづけた。


  ――二〇一六、一一、二五――

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