土曜の朝、わたしは制服を着て学校へ行く準備をした。両親はおどろいた様子でわたしを見たが、こんどはたずねられる前に、今日は学校へ行くとわたしは言った。「気をつけてね」「気をつけてな」と、ふたりはほとんど同じことを言った。自分を心配し、いたわる視線を苦しいとわたしは思った。

 こうして制服を着て、学校への道を歩くのは何週間ぶりだろう、とわたしは思った。目につく景色はふしぎに新鮮に感じられたが、それは緊張と恐怖に、自分の感覚がとぎすまされているためのようにも思われた。

 学校に到着したが、まだ始業までにはかなりの間があり、来ている生徒たちもほとんどいなかった。早く来すぎたかと思い、わたしは逡巡したが、もう生徒たちがほとんど登校している教室に入っていくのは、なおさら耐えがたかった。朝早くから練習をしている運動部の姿が運動場のほうに見えたが、それとは対照的に校舎の中はしずまりかえっていた。上履きに履きかえたわたしは、久々にこのうすぐらく冷たい廊下に立っていた。

 数人の女子生徒が、ふいにしゃべりあいながら廊下の角から現れ、わたしは思わずうつむいたが、それは全く面識のない一年生たちだった。彼女らが行きすぎるとわたしは顔をあげて息をつき、はげしく動悸をうっている自分を意識した。

わたしは廊下を歩きだした。冷たいリノリウムの床、コンクリートの壁、螢光燈に照らされた長い廊下をわたしは見た。自殺したあの少女がかよっていた中学校にも、おおよそこのような感じの風景があったのだろうか、とわたしは想像し、どの中学校にもありそうなこんな当りまえの風景からも、今や永遠に引きはなされた彼女のことを思った。

 階段の下までやってきたとき、さすがにわたしは躊躇したが、やがて一段一段、ゆっくりと確かめるようにのぼっていった。ここへやってきて、もう引きかえすわけにはいかなかった。今この階段をのぼることこそ、わたしに課せられたひとつの使命なのだとわたしは考えた。この無機質なコンクリートの階段は、わたしがそこに存在することをこばむあの教室へとつづいている。そこに自分の居場所がないことを思うと、わたしの足は思わずとまりそうになった。壁に手をついて体をささえ、足を前にはこびながら、わたしは以前に読んだ、ある本の一節を思いかえした。

 ――わたしは希望を捨てない。何度でも立ちあがって、歩みつづけるんだ。かがやく未来にむかって……。

 それはかつて、あれほど嫌悪感をおぼえた『希望を捨てない』の結末のせりふだった。それはこの場でふたたびくりかえしてみても、うつろにひびくようにしか思われなかったけれど、今はその言葉に力があることを信じたかった。わたしの住む世界は物語のように都合がよくはなくとも、わたしがアキコでなくとも、わずかにせよ何かしらに希望をいだいて、教室へとむかって歩みつづけなければならないのだとわたしは思った。自分自身にそう言い聞かせながら、わたしは一段々々、歩みをすすめていった。

 ようやく三階の廊下にたどりついたが、教室までの道のりはたいそう遠く思われた。扉の硝子窓ごしに教室の様子をうかがうと、中にいるのは数人の女子だけだった。わたしに害もあたえないが、当然親しくもなく、ほとんど関係をもっていない人たちだった。

 扉を引きあけると、かたまってしゃべっていた数人の内気な女子たちは、何気なくふりむいたあと、一瞬おどろきの表情をうかべた。そしてまるでいけないものでも見たかのように、すばやくその視線をそらせておしゃべりをつづけた。

 わたしは何気ないふうを装って自分の席に近づいたが、見るとその天板の上に、鉛筆かなにかで文字が書かれているのが、日光の加減でわかった。わたしは机のかたわらに立ち、書かれた文字を見下ろした。

――死ね!

 何度も鉛筆を往復させた太い線で、大きくそう書きなぐられていた。書かれた内容を読みとったわたしは、思わず一瞬息をのんだが、しいて落ち着いた様子を装おうとした。女子たちはおしゃべりをつづけていて、こちらを見てすらいなかったが、どの同級生にも隙を見せてはいけないのだとわたしは思っていた。筆箱から消しゴムをとりだして、「死ね!」の文字を消し去った。その落書きがいつ、誰によって書かれたものなのか、わたしにはわからなかった。書かれた言葉がまた新たに、自分の胸に生々しく傷を刻みこんだのをわたしは痛切に感じていたが、今はそのことを考えるべきではない、と自らに言い聞かせた。

 ひとまず椅子に腰かけたわたしは、佳織はいつごろ来るのだろうかと考えた。もしもあの女子グループよりも遅く来るのだとすれば、話しかけることはむずかしいだろう。グループに入ってからというもの、彼女は常にその群れにくっついて行動していたから、ほとんど話しかける機会はないかもしれなかった。ほかの子ならばそんなことには大して気にもせずに、群れの中の佳織に話しかければよいのだが、わたしはそうはいかなかった。……どうしてわたしだけがそうなのだろう。わたしが何をしたというのだろう。そんな思いに行きつくと、思わず目の奥があつくなるのを感じたが、わたしはこらえた。

 しかし、機会があったとしても佳織に何を話すというのだろう、とわたしは思った。仲直りしよう、とでも言うべきなのだろうか。それとも、どうしてわたしのことが嫌いになったの、とでも? 理由はわかりきっていた。彼女はわたしのようになることが怖いのだ。わたしへの攻撃にくわわったのは、ひとつの防禦手段だった。自分もくわわらなければ次は自分が標的になるかもしれない、という恐れだ。しかし今、おそらく彼女は内面までも変ってしまっている。

 ――みんな変ってしまったのね。三人でたのしく遊んだのも、もう二度とかえらない思い出になってしまったのね。……

 わたしは美穂の言葉を思いかえしていた。そうだ、佳織は変ってしまった。わたしも変ってしまった。美穂だけがあかるい環境の中で、かつてと同じように、変らずかがやいていた。たった二年間で、深い溝がわたしたち三人をへだててしまったのだ。

 日は段々とのぼり、薄暗かった教室の中もあかるくなりはじめた。生徒たちは次々と登校してきた。わたしはいくつもの好奇の視線にさらされている自分を意識し、椅子にちぢこまるように腰かけてうつむいていた。保健室へ逃げこみたいという思いがわたしをいざなおうとした。しかしせめて佳織が来るまでは待とう、とわたしは自分をおさえこんだ。

 教室に佳織が入ってきたとき、わたしはすぐには立ちあがれなかった。ほかの女子と一緒にはおらず、ひとりで歩いてきて、机に鞄を置く姿が見られた。わたしには全く気づいていない様子だった。話しかけるなら今しかない、とわたしは覚悟をきめた。立ちあがり、鞄をあけている彼女の背後へと、ゆっくりと歩み寄った。

「佳織」と呼びかけたわたしの声は、心もちかすれていた。佳織は敵を捕捉した野生動物のように、おどろくほどのすばやさでふりかえった。ほとんどにらみつけるような、けわしい目つきがわたしをとらえた。わたしは思わず後ずさりしかけたが、その視線をまっすぐに受けとめようとした。わたしの顔を見た佳織の表情に、おどろきの色があらわれたのをわたしは見た。そしてその口が、自分の名の形に動いたのまでも、見たように思った。

 ――恵美。

 わたしはうなずいたが、その瞬間、胸にさまざまな思いが一斉にわきだしてくるのを、おさえることができなかった。胸がつまり、言葉が出てこなかった。ようやくにして、わたしは言葉をしぼりだした。

「佳織。あのね……」

 しかし佳織はそれを聞いていなかった。聞くことができなかったというほうが正しいかもしれない。そのとき、彼女は再び、何かを聞きつけたかのように、教室の入口をふりかえったのだった。つられて何気なくその視線の先を見たわたしは、全身がこおりつくように思った。そこには佳織の属す、あのグループの女子たちが立っていた。全員が扉の前に立ちどまったまま、わたしと佳織とをながめ、口元に冷たい微笑をたたえていた。

 再びわたしに向きなおった佳織の顔にも、同じような微笑がうかんでいた。しかしそれは、あくまでも周囲に見せるために取りつくろった表情にしか見えなかった。その目や口元には、あやうい焦りと恐怖の色さえうかんでいた。

「なに話しかけてきてるんだよ、ブス!」

 そう言い放つがいなや、佳織は腕をのばして、力づよくわたしの胸をついた。押されたわたしは体の均衡をくずしてよろめき、背後の机に腰をぶつけた。大きな音がひびき、教室内の生徒たちが一斉にふりかえった。扉のあたりにいる女子たちは、うれしそうに笑いさざめいた。

 わたしは激しい衝撃をうけていた。佳織が今までにこれほど強い言葉でわたしをののしったことはなかったし、あと少しで成立しそうだった会話の時間は、もろくもくずれさってしまったのだ。わたしは何も言えず、変貌した佳織のすがたを見つめていることしかできなかった。

「わたしに近寄らないでくれる? 前にも言ったけれど、あんた、くさいんだよね。きたないんだよ」

 明らかにそれは、女子グループたちに聞かせることを意識している言葉だった。佳織がしているのはひとつの演技なのだ。しかしいずれにしろ、今の彼女に何を言ったとしても無駄だということを、すでにわたしは悟っていた。

「いいね佳織、もっと言っちゃえ」と女子のひとりがさけんだ。それとほぼ同時に、「坂口、帰れ!」と叫んだものもいた。「帰れ! 帰れ!」と和すものが現れたやいなや、その言葉の波動は教室全体を支配して、「かーえーれ! かーえーれ!」の大合唱に変っていった。

「かーえーれ! かーえーれ!」

「かーえーれ! かーえーれ!」

 わたしは教室全体を見わたした。すでに学級のほとんどの生徒が登校してきており、その誰もが声をそろえて、わたしひとりにむかって大合唱をあびせていた。佳織のグループの女子たちはひときわ大きな声で、手をたたきながら「かーえーれ!」と叫び、わたしより前に教室にいたあの内気な女子たちも、はずかしげな笑みを口元にたたえて「かーえーれ!」と和していた。一度も会話したことのない男子たちの群れも、楽しげに「かーえーれ!」と合唱し、そしてかたわらの佳織も、わたしの目の前で手をたたき、「かーえーれ!」と叫びつづけていた。

 耳を聾するばかりの嘲弄の言葉に取りまかれて、わたしはどこか、夢の中にいるような気がしていた。その合唱のただなかに立っている自分自身を、正常に認識できない気がしていた。茫然とあたりを見わたし、この教室をおおっている波動、誰もが身をまかせずにはいられない波動を感じていた。わたしひとりだけが疎外されたこの狂騒の中で、誰も耳をかたむけないことを痛いほどに知りつつも、わたしは今までずっと胸にいだいてきた思いを、投げかけてみずにはいられなかった。

「おかしいよ」とわたしは叫んだ。「みんな、ねえ、おかしいと思わないの」

「おかしいのはお前の頭と顔だよ」とひとりが叫び、どっと笑い声がおこった。わたしの言葉は砂に吸いこまれる水のように、そこではかなくかき消された。しかしわたしはあきらめなかった。背後の佳織をふりむいた。視線がまともにぶつかった瞬間、彼女がかすかに後ろめたそうな表情をうかべながら、目をそらせたのをわたしは見のがさなかった。

「ねえ、佳織!」わたしは絶叫した。「あなた、それでいいの? そこまでして孤立からのがれたいの? わたしたち、友だちだったでしょう? それなのに……」

 わたしはわれ知らずのうちに、佳織の肩をつかんでいた。佳織はわたしの顔を見ずに「かーえーれ!」と叫びつづけていた。わたしはくやしかった。何をうったえても意味がないということが、くやしくてならなかった。

「触れるな!」

 わたしはにわかに形相を変えた佳織に突きとばされ、よろめいて、今度は机に腰をぶつけるだけでは済まずに、床にたおれた。したたかに腰や背を床に打ちつけた。一斉に笑い声があがったが、それも長くはつづかなかった。

「何のさわぎですか! もう鐘は鳴りましたよ!」

 担任の女教師だった。わたしはよろめくようにして立ちあがった。皆は一斉にだまりこんでわたしの方を見つめた。全てはわたしの責任にされるのだろうと、わたしは瞬時に直感した。ほとんど間をおかずに、学級の中心である女子のひとりが叫んだ。

「先生……。さっき突然、坂口さんが昂奮して暴れだして。みんなで必死になだめようとしていたんです……」

 皆は次々に、神妙な顔をしてうなずいた。もういい、とわたしは思った。もうやるべきことは全てやったのだ。目的は達成されたとは言いがたかった。しかしもういい、これ以上ここにいても何の意味もない。

 担任教師はまゆをひそめてわたしを見た。わたしが腰をぶつけて後ろへ押しやられた机、床の埃によごれた制服を眼鏡ごしの目でながめた。問題児に向けられる視線をわたしは感じた。

 わたしは自分の机まで行くと、鞄をつかんで教室を出た。「坂口さん!」と担任の教師がさけぶ声が聞えたが、わたしはもうふりかえらなかった。無人の薄暗い廊下を、何も考えずにただ歩いていった。

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