その後、来週の日曜にまたこの公園で会おうとの約束をかわして、わたしと美穂は別れた。

 わたしには、別れぎわの美穂の、言葉に言いあらわしがたい悲しみの表情がわすれられなかった。わたしは破壊者の気持をあじわった。それは後ろめたい悔いをともなう気持だったが、同時にわたしは、いずれ美穂も目ざめざるをえなかったであろうとも思うのだった。わたしが佳織をふくむ同級生たちに打ちくだかれたその繊細な硝子のような持ちものは、いつしか美穂も捨てなくてはならないものだったのだと。

 その晩わたしは夢を見た。わたしは制服を着て中学校にいた。かたわらに佳織と美穂がいた。わたしたちは手を取り合って、笑いながら廊下を駆けていた。友とともに駆けながら、わたしは自分の幸福を感じていた。長いあいだ、つらく暗い時間をすごしてきた気がしたが、それはなぜだったのかもはや思いだせなかった。それでよかった、苦痛の時間はついに終ったのだから。わたしはふたりのあたたかい手をにぎっていた。教室に入って机をかこんで三人でおしゃべりをした。心がふるえるほどに楽しかった。何人かの生徒がよってきておしゃべりに加わった。わたしはたくさんの生徒たちと親しくしゃべりあい、ふざけあった。そのとき教室のすみにけわしい顔をした女子のグループがいるのを見つけた。わたしがふりかえると彼女らは立ちあがってよってきた。いじわるくわたしをののしり、こづきまわした。美穂が抗議するのが見えた。しかしわたしのまわりにいたほかの生徒たちは、いつの間にか消え去っていなくなっていた。わたしは佳織の姿を見つけた。彼女はわたしをののしる敵たちの中に入っていた。冷たい笑みをうかべているのが見えた。彼女もわたしをののしった。わたしは衝撃にうたれて床にすわりこんだ。ああそうだ、もう佳織は友だちでも味方でもないんだ、とわたしは思った。はらはらと涙がこぼれてほほを伝った。佳織たちのグループはすでに立ち去り、ほかにも誰のすがたもなかった。暗い教室にわたしはひとり取り残されていた。……

 目がさめると、枕は涙でぬれていた。わたしはカーテンを通してさしこむ早朝のひかりの中で目をしばたき、悪夢からさめたわずかな間の安心感からふたたび、現実の闇に沈みこんでいかざるをえない自分を見出した。わたしは枕に顔をおしつけ、熱い涙をふたたび流した。そうだ、もう佳織は友だちでも味方でもないんだ、とわたしは夢の中での自分の言葉をくりかえしてみた。そして三人で、かつてのように仲よく遊んでいた夢の中での自分たちを思いかえした。わずかな時間でもいい、あれが現実だったなら……。しかしそれはかなわぬ望みだった。もう、二度とわたしと佳織、そして美穂が一緒に遊ぶなどということはありえないのだ。わたしはそのことをよく知っていた。


 わたしはその後の数日間を図書館からかりてきた本を読むことについやした。かりてきたのはどれも小説だった。物語の世界に没頭しているうちは、現実の苦しみをわすれていることができた。しかしひとたび目がさめると、ふたたびわたしを取りまいているその空虚なさびしい世界は、わたしの体をふるえさせるほどにおそろしかった。

 そのころわたしの関心をひいたのは、新聞に出ていた中学生の自殺記事だった。自殺したのはわたしと同じ二年の女子生徒で、いじめをほのめかせる遺書がのこされており、原因を調査中であると記事には書かれていた。わたしはその記事を切りとっていくたびも読みかえした。彼女が電車にとびこんで自殺したのは、わたしが学校へ行かなくなって間もなくのころだった。この生徒も学校で苦しみつづけていたのだろう、とわたしは思った。もしも自殺ではなく、不登校という選択肢をとっていたのなら、今も彼女は生きていたかもしれない。

 わたしは名も知らぬ、遠くはなれた地方のその女子生徒の死を思った。思わずにはいられなかった。……あの日、保健室でわたしが風にゆれるカーテンをながめていたとき、彼女はまだ生きていた。白いひかりが部屋をみたしていたあのしずかな時間、彼女はなにをしていたのだろう、とわたしは想像した。そのころにはもう死をこころざしていたかもしれない。

 わたしとて、死を思わないわけではなかった。しかしそれはどこか現実ばなれした考えに思われ、わたしはあえて目をそむけようとしていた。しかしこの新聞記事を読んでにわかに、わたしは急速に死というものを近しいものと感じはじめた。なぜかといえば、それは自殺した彼女がついこの間まで生きていた、わたしと同じ中学二年生であったからだ。それなのに今、彼女は誰も知らない、遠い世界へと去ってしまった。二度と彼女の姿を目にすること、声を聞くことのできる者はいない。もう誰も彼女に干渉することはできないのだ。

 部屋にとじこもったわたしは、もし自分が死ぬとすればどのように死ぬだろうかと考え、美穂のことを考え、佳織のことを考えた。時折、心配した母や父が扉の外からわたしに声をかけた。思索を邪魔されるのはいらだたしく、わたしはいいかげんな返事でそれに答えた。両親が手をさしのべてももうとどかないほど遠いところまで、自分はやってきてしまったのだとわたしは思っていた。

 そんな中でいつしか、死はわたしのそばに寄りそう存在となりつつあった。それはおぞましくもふり捨てがたい相手で、とりとめもない考えにふけるわたしはいつしか自分が死ぬことを考えていたり、自殺したあの少女のことについて想像をめぐらせていたりした。

 彼女はもうどこにもいない。この世界中のどこをさがしても、日本のある地方に、わずか数週間前まで当りまえのようにいて、学校にかよっていたあの彼女は、もういない。そのことがふしぎに思われてならなかった。死が彼女をつれさった距離というものは、人智をこえた、はかりしれないほどのものにちがいなかった。わたしのこの肉体とて、ひとたび死がそこから命をつれされば、たちまちくずれ、消えてなくなってしまうのだ。生きるものと死んだものとの距離ははかりしれないほど遠くとも、生きるものと死そのものとの距離は、今まで思っていたよりもはるかに近いことを、わたしは知った。たった数分間息をとめるだけで、高所から一歩ふみだして重力に自分の体をまかせるだけで、簡単に死はわたしをもおとずれるのだと。

 ある木曜日の夕方、居間の電話が鳴った。ちょうど家族は誰も家におらず、出ずにやりすごそうかとも思ったが、しばらくたっても鳴りやむ気配がなかったのでわたしが取った。受話器ごしに聞えてきたのは、美穂の声だった。わたしはほっと息をついた。

「ああ、美穂……どうしたの?」

「恵美! あのね……」美穂は申しわけなさそうな口調で言った。「今週の日曜にまた会おうと言っていたけれど、用事ができて行けなくなってしまうみたいなの。土曜日は午前に学校が終るし、さしつかえなければこちらの日でもいいんだけれど……どうかな?」

 構わないよ、とわたしは答えた。美穂が約束のとりけしを提案しなかったことにわたしへの気づかいが感じられて、少しうれしかった。そして思いがけなかったこの電話が、孤独な思考にしずみこんでいたわたしを、すくい上げてくれる手のようにも思われた。土曜の午後三時に中央公園の入口で待ち合わせることになり、そこで用事はすんだ。しかしわたしも彼女も、まだなにか言い足りないことがあるかのように、電話を切らずにそのまま押し黙った。

 わたしはなにかを美穂に言わねばならない気がしていた。あまりにも先週の日曜日、多くのことを話しすぎたのではないかと思っていた。後味のわるい別れかたをしたことを思いかえしたわたしは、少しでも美穂を安心させるようななにかを、この機会に言っておきたかった。

 沈黙の末に、とうとうわたしは言った。

「わたし……、土曜の午前は、学校に行ってみようかな」

「学校へ?」そうかえしたあと、美穂は少し間を置いて、「それはいいことだけれど……大丈夫なの?」

「やっぱり、わたしも少しは立ち向かわないといけないのかな、と思ったんだ。美穂ががんばってる話を聞いてね。それに土曜日なら、何かあったとしても、午前中で帰れるから……」

 わたしは、美穂を納得させるというよりは、むしろ自分自身を鼓舞し登校へとみちびきたいという一心でそう答えていた。登校するということはひとつの突破口であると思われたし、たった今ではあるが、自分の中にめばえた決心をぐらつかせたくはなかった。

「がんばってね」美穂の声はあたたかかった。「わたし、ずっと恵美の味方だから。いつでも恵美の力になるから。このこと、わすれないでね」

「ありがとう」

 わたしはふいに目の奥があつくなるのを感じた。彼女はまだ、わたしの親友であったのだとわたしは思った。佳織がわたしを見捨ててからというもの、わたしは友だちというものを信じられなくなっていた。美穂すらも、もう友だちではない存在だと見なしていたことをあやまりたかった。では土曜にまた会おうね、との言葉をかわして、わたしたちは電話を切った。

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