パリャードク

町野 交差点

パリャードク

 そこは奇妙な場所だった。

 木々や花々がまるで逆立ちをするかのように天上から生え、コンクリートで舗装された道路が、天上に入った亀裂然として縦横無尽に張り巡らされている。あるいはその傍らを川が流れ、その川の両岸を錆びた橋が繋いでいる。その他、山や谷、動植物といった、本来地上にあるべきはずのものが全て天上にあった。ただ人間の姿だけが、それがさも当然であるかのように欠けていた。

 足元には、空があった。青く澄んだ空。所々に薄くのっぺりとした雲が、アクセントをつけるようにいる。太陽も足元で燦然と輝いていた。それは醜いの諸物を焼き尽くさんばかりに赤々と燃えていたが、しかし不思議と熱くはなかった。太陽は天上で最も人工的で最も醜い穴、ロシアのコラ半島にある、SG-3に沈んでいる月を、ただそれだけが己の使命であるかのように照らしているのだった。

 ――ここはロシアなのだろうか。

 しかし、そこはロシアではなかった。SG-3の隣にはビンガムキャニオンがあり、そこから少し離れた所には富士山があった。あるいはアルプス山脈が。言わばここは、この世の最も醜いものたちと最も美しいものたちが偏在している場所、世界の縮図とでもいったような場所だった。それを象徴するかのように、かつてSG-3を塞いでいたであろう錆びた鉄の蓋が、富士山の山頂に取り付けられている。

 ここは確かに奇妙な場所だった。しかし心なしか、私はこの場所に親和を感じていた。勿論、どうして本来地上であるべきはずの大地が天上にあり、天上であるべきはずの空が地上にあるのか、どうしての上に立っている事が出来るのかは、到底私の理解の範疇を越えていたし、この場所に真理を見いだすほど私は単純でも無かったが、少なくとも、この場所は美しかった。私がこの場所を受け入れるには、その確かな事実だけで十分だった。

 「なるほど、君はロマンチストなのだな」

 突然後ろから声を掛けられ振り向いてみれば、そこには男がいた。先程まで誰も居なかったはずの場所に立っているその男は、腹が裂け、内蔵が溢れ出している。それは奇妙な事だった。しかし、この場所の奇妙さからすれば、それは些細なことに過ぎなかった。

 「貴方は何方ですか」

 「私は三島由紀夫だ」

 なるほど、まるで瓢箪の様に面長で、それでいて必要以上に男臭いその顔は、確かに三島由紀夫そのものだった。何よりその全裸の体を覆っている隆々とした筋肉が、彼が三島由紀夫であることを誇示している。

 「しかし貴方は、死んだはずではないですか」

 「ああ、私は死んでいる」 

 確かに三島由紀夫は死んでいた。それはあまりに当然すぎる事実で、聞くまでも無いことだった。

 「なぜ傘をさしているのです。ここでも雨が降るのですか」

 彼は現れた時から、ずっと傘をさしている。腹から内蔵を露出させ、それが恰も己の存在意義の全てであるかのように鍛え上げられた筋肉を持つ彼が傘をさしている様は、あまりに滑稽だった。

 「うむ、死海が降ってくる」

 我々の上には、確かに死海があった。死海の雨とはどのようなものなのだろうか。皮膚に当たれば、やはり痛いのだろうか。真水である本来の雨より幾分か重いはずのは、どれほどの速度で落ちてくるのだろうか。

 しかし結局のところ、そんなことはどうでも良かった。

 「ハラキリは、やはり痛いのでしょう」

 「皆が同じことを聞く。腹を裂くのだ、痛いのは当然だろう。しかし、死ねばそんなことはどうでも良くなる」

 私が聞きたいのはそんなくだらない事ではなかった。

 「思想の為の死は、ただの詭弁だったのでしょう」

 彼は答えなかった。私も答えが聞きたいわけではなかった。思想の為の死が本気であろうと偽りであろうと、私にとってはどうでも良かった。ただ彼は決起を呼び掛けて腹を切り、誰もそれに応じることはなかった、結局はそれだけのことだった。

 「君はミシンを扱えるかね」

 話の流れを無視して、唐突に彼はそういった。ミシン。この場所には、それはあまりに不釣り合いな言葉だった。

 「少しなら。あまり上手くはありませんが」

 「私の腹を縫ってくれんかね」

 腹を縫う。三島由紀夫の腹を、ミシンで縫う。それは思想の為の死よりも、武装蜂起よりも、あるいはハラキリなどよりも、何倍も愉快な事だろうと思った。

 「私は構いませんが、しかし縫ってしまっても良いのですか。その裂けた腹は、貴方の象徴ではないですか」

 ハラキリをしていない、三島由紀夫。それはもはや三島由紀夫ではなかった。

 「いいんだ。腹を縫合したところで、私がハラキリをした事実は変わらない。なんなら、もう一度ハラキリをしても構わないんだが」

 それもそうだと思った。

 「あそこに、大きなミシンがあるだろう。あれで縫ってくれ。あと、ついでにこの切断された首も頼む」

 いつのまにか、浮遊していた雲がミシンに変わっていた。白くて大きな、ミシン。それはまるで大理石で出来ているかのように、艶々として美しかった。補助テーブルの部分は手術台のように長方形になっており、人が一人横になるには十分過ぎるほどの幅もある。ペダルもミシン本体の根本の部分にひとつと、それと向き合うように補助テーブルの反対側にもひとつあり、人のような大きなものを縫うには都合が良かった。

 「さあ、はじめてくれ」

 補助テーブルに横たわって、彼は言った。横になるとどうしても首が転がってしまうのか、彼は両手で頭部を押さえていた。


 気がつくと、太陽が沈んでいた。

 どういうメカニズムか昼間よりも月は輝きを増し、足元には宇宙に存在するもの全てをちりばめたかと思われるほどの恒星が、一面に雄大なを成している。 あるいは、獅子座や水瓶座、オリオン座といった、春夏秋冬の別のない、無数の星座までもが、そこには厳然として光輝いていた。

 それは美しい光景だった。あまりにも美しすぎるほどに、美しい光景だった。

 それだけではない。スプートニクやボストーク六号といった、言わばとも言うべき宇宙船達が、その星座の海を縫うように、私がそれと認識出来るほどの距離を脱力然と――スプートニクに限って言えば、その宇宙ミッションシリーズにおける全ての宇宙船が、まるで何かに備えているかのように縦隊を組んで――ただただ流されるままに浮遊していた。

 ――あそこには重力がないのだろうか。

 私の視認出来る領域に宇宙空間が存在し、そこを宇宙船が浮遊している。それはやはりどうしようもなく奇妙なことだった。

 ――あの中には、ライカやテレシコワがいるのだろうか。

 人間の愚かなエゴイズムの犠牲になった宇宙犬を、そしてその醜悪なエゴイズムの象徴である女性をこの目で見ることが出来たなら、一体どれほど愉快なことだろう。まして、織物工場に勤める純粋なでしかなかったはずのテレシコワが宇宙を漂っている様は、あるいはこの場所そのものよりも美しいものであるかもしれない。

 しかし、私は彼女の元に行くことなど出来なかった。私は宇宙飛行士でもなければ、鴎でもなかった。私は思想も持たず、信念も夢もない、ただのちっぽけなつまらない人間でしかなかった。そのような人間が簡単に行けるほど宇宙は人類に親密ではなかったし、この場所もそれほど甘くはない。それは解りすぎるほどに解りきったことで、当然すぎるほどに当然の事実だった。

 そこは手の届きそうな程に近く、そして絶対に手の届かない程に遠い場所なのだった。

 ふと、テレシコワも同じようなことを感じたのではないか、と思った。あまりに近く、あまりに遠い場所。彼女が宇宙酔いなどという悪夢を味合わなければ、我々にとって宇宙はもっと親密な存在に成り得たかもしれない。あるいは、彼女が政治家などというこの世で最も下劣な身分にまで身を落とすこともまた、なかったのかもしれない。それらはただ不運が引き起こした悲劇に過ぎず、しかし同時に厳然として動かしがたい現実なのだった。


 腹が縫い終わると、三島由紀夫は消えてしまった。まるでその存在そのものが嘘であったかのように、忽然と、跡形もなく消えてしまった。別れの言葉すら無かった。彼はまたどこかで楯の会でも作って憂国の志士を気取っているのかもしれない。しかし、首を縫っている間の彼の表情、どこか呆けた生気のない、新聞や雑誌で度々見かけた例の生首の写真そのものの表情を思い起こすと、彼にはやはり憂国の士やボディービルダーなどよりも、天才文学者の方が余程相応しい肩書きであるようにも思われた。


 ふと、足下に目をやると、ボストーク六号の上に三島由紀夫が胡座をかいて座っていた。彼は変わらず全裸で、それでいて頭には鉢巻きを巻いている。手には日本刀が握られていた。あるいはテレシコワも、その下でパニックを起こしているのかもしれない。

 ――ああ、彼はまたハラキリをするのだろう。

 それは無意味な行為には違いなかった。しかし、我々が生き続ける事もまた、同じくらい無意味なことに違いなかった。生の醜悪さに比べれば、死の醜悪さなど取るに足らないものでしかない。長く懊悩に満ちた人生の中に一瞬の燦めきを灯さんがため汗水垂らし努力するくらいならば、いっそ派手に死んだ方が余程簡単に強烈な明かりを灯すことが出来る。何より、彼の内蔵と共に吹き出すであろう血飛沫は、この無重力空間を美しく染めるだろうと思われた。美を含蓄してさえいれば、たとえ三島由紀夫のハラキリであろうと、この場所は包容してくれるに違いなかった。

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