第42話

 柔らかな日差しが木々に降り注ぎ、薄緑色の光が透けている。窓から吹き込む爽やかな風に当たりながら、私はぼんやりと窓の外を眺めていた。手元には銀細工の元の純銀があるが、先ほどから何もいいアイデアが浮かばす、ただ銀に手の温もりが伝わるばかりだった。日課であるはずなのに、それすらも手につかないほど私は疲弊しているらしい。


「エナ様……どうか、お休みになってください……」


 カミラは酷く憂いだ声で、私に進言してきた。近頃の彼女には、心配ばかりかけている気がする。私はカミラの方を振り返り、小さく微笑みながら首を横に振った。


「大丈夫、私は大丈夫よ」


 まるで自身に言い聞かせるような調子のその言葉に、我ながら薄い笑みが零れた。「大丈夫だ」と言い聞かせていなければ、本当に臥せってしまいそうだ。そうなれば、兄やリヒトさんの思惑通りになってしまう気がして、無理をしてでも「いつも通り」の日常を過ごすことにしたのだ。






 ライスター公爵家の夜会から帰ってきた夜、私はまっすぐに兄の元へ向かった。いや、リヒトさんに向かわされたという方が正しいのかもしれない。兄は私の傷ついた掌を見るなり、酷く痛々しいものを見たかのように顔を歪め、すぐに魔法をかけてくれた。兄の魔法はすぐに効果を示し、傷口は瞬く間に塞がったが、兄の怒りは収まらなかった。


「……エナを傷つけた不届き者の名は?」

 

 兄はあくまでも平静を装っていたが、その声には確かな怒りが滲んでいた。部屋の隅で控えていた使用人がびくりと肩を震わせるくらいには威圧感のある声だった。


「陛下、申し訳ありません。実は――」


 あっさりと事の真相を口にしようとするリヒトさんを遮って、私は引きつった笑みを浮かべた。


「こ、転んじゃっただけよ、兄さん。何もないわ」


「……随分下手な転び方をするようだね、エナ。ナイフの上にでも手をついたのかい?」


 やはり、傷口を見れば刃物による傷だと分かってしまうだろう。それはどうやったって言い逃れできない。だが、リヒトさんに真相を語られるわけにもいかなかった。真相が兄の耳に届けば、アンネリーゼ様はおろか、ナイフを手にしていたリヒトさんまでもが罪に問われかねない。近頃は恐怖を抱く対象だとしても、私にとってリヒトさんが大切な存在であることに変わりはないのだ。出来ればそんな事態は避けたい。


「手当てしてくれたことには感謝してるわ。でも、何でもかんでも兄さんの手を借りなければいけないほど、私は子供じゃないのよ」


 それっぽい言い訳をして、私は兄さんの前に一歩歩み寄った。もちろん、兄のことを許せたわけではないが、せめてこの件は丸く収めなければ。


「だから、兄さんは気にしないで。ね?」


 「妹」としての立場を存分に使って強請るように言い寄れば、兄は呆れたように一度だけ溜息をついた。そして私を見下ろしたまま、薄く笑う。


「そうか、ではこの一件はリヒトに任せよう。リヒトは分かっているんだろう、エナを傷つけた罪人が誰か、然るべき罰は何か」


「はい、陛下」


「任せたぞ。……まあ、エナに嫌われない程度にやることだな」


 にやり、と笑って兄は私の頭を撫でた。本当に意地の悪い人だ。元の世界にいた頃よりも、確実に酷くなっていると実感したのだった。







 そんな昨夜のやり取りを思い出して、再び溜息をつく。全ての裁量がリヒトさんに委ねられるのなら、アンネリーゼ様が無事で済むはずがない。万が一、処刑なんてことになったらどうしよう。実際、聞き齧った程度のこの国の法律の知識によれば、王族を殺そうと画策した人物は処刑されてもおかしくないはずだった。


――まあ、エナに嫌われない程度にやることだな。


 兄がリヒトさんに最後に告げたこの言葉、これが上手いことリヒトさんに効いていればよいのだが。リヒトさんが本当に私のことを思ってくれているのなら、身をもってアンネリーゼ様を庇った私の気持ちを汲んでくれるかもしれない。そんな淡い期待を抱いていた。


 私はちらりと、私室のドアを見やる。銀細工が手につかないのは、リヒトさんがやってくるのを待っているからという面もあった。彼がどんな処罰を誰に下すことにしたのか、気になって仕方がないのだ。


「お茶でもご用意いたしましょうか。それとも、何か甘いものでも……」


 カミラは今朝からずっと、過保護に思えるくらい私を甘やかしてくる。彼女が昨夜の一件をどこまで知っているのか分からないが、この様子だと大方のことは聞いているのだろう。私が何か問題を起こす度にカミラに気を遣わせてしまっていることは、本当に申し訳なく思えた。


「……そうね、カミラの淹れてくれたお茶が飲みたいわ」


 握りしめた純銀をテーブルに置いて、私はカミラに微笑みかけた。「いつも通り」を意識しているつもりだが、彼女の目にはきっと弱々しい笑みとして映ったのだろう。カミラは私を慈しむような表情で微笑んだ。


「分かりました。実は今朝、とっても良い茶葉が手に入りましたので楽しみになさっていてください。すぐに用意してまいりますね」


 私を元気づけるためなのだろう。カミラの声はいつもより張りのあるものだった。ただ憂鬱な表情ばかりを見せる私のそばに居るよりも、こうして何か仕事をお願いしたほうが彼女のためになるかもしれない。


「ありがとう、ゆっくりでいいのよ」


 こんな私の傍にいては、息が詰まるだろう。もっとも、そんなことを言えばカミラは余計に困ったような表情をするのだろうけれど。


 「失礼します」と部屋を後にするカミラを見送った後、私は一人自嘲気味に口元を歪めた。何だか、この世界にいると周りの歪みに影響されて私まで病んでしまいそうだ。カミラのような素敵な友人もいるというのに、どうしても私の心を強く縛りつけるのは、私に愛を囁くあの人の存在だった。


 窓の外の風景をぼんやりと眺め、私は小さく息をつく。何の生産性もない時間を過ごしていることが、余計に自分の心を苦しめている気がした。せめて銀細工に没頭出来たのなら、この仄暗い心の中もいくらか晴れたかもしれないのに。

 

「……本当に、綺麗な世界だわ」


 窓の外へ向かって、どこか皮肉気に呟いた。誰の耳にも届きはしないというのに。


 その瞬間、ふいに響き渡ったノックの音に僅かに肩を震わせた。カミラがお茶を用意して戻ってくるにはまだ早い。私は恐る恐る「はい」と返事を返した。


「エナ様、ライスター様がお越しです」


 それは、私が城から抜け出したあの日にカミラの代わりにやってきたメイド、ビアンカの声だった。どうやら変わりなさそうな声の調子に安心しながらも、私は慌てて私室のドアを開け、彼女の姿を確認する。


「ビアンカ! 久しぶりね……元気にしていた?」


 ビアンカは切り揃えられた明るい茶色の髪を揺らして、僅かな動揺を瞳に映し出す。相変わらず鋭く思える目つきをしていたが、突然の私の親し気な態度に戸惑っているせいか、あの日よりいくらか柔らかく見えた。


 ビアンカは、私が城から抜け出したあの一件で、リヒトさんに処刑されそうになっていた三名の内の一人だ。リヒトさんの言葉を信じていないわけではなかったが、やはりこうして元気でいる姿をこの目で確認すると安心する。思わず頬が緩んだ。


「……おかげさまで、変わりはありません」


 ビアンカは動揺しながらも私の言葉の意図を探ろうとしていたようだが、結局無難な答えに落ち着いたらしい。こちらとしては意図も何もないのだから、変に気を遣わせてしまったようで却って申し訳なく思った。


「そう……それならいいの。何かあったら、いつでも知らせて頂戴ね」


 ここまで言うと、何だかリヒトさんを疑っているような気持ちになるが、念には念を押しておきたい。この城にいる以上、処刑されかけた他の二人の安否は確認できないので、ビアンカだけが唯一の指標だ。


「……私には、過分なお心遣いです。エナ様が、一介のメイドごときにそのように優しくされる必要はございません」


「私がしたいからしているだけよ」


「……噂に違わぬ、聖女のようなご令嬢にお仕え出来て私は幸せ者です」


 ビアンカは表情一つ変えなかったが、それでも少しだけ声が和らいだような気がした。彼女とも、仲良くやっていけるかもしれない。今度、カミラと三人で御茶会でもしてみようか。


「ライスター様が応接間でお待ちです。今、カミラがお茶をご用意しております」


 行き違いにならなくて良かった。連絡はちゃんとカミラにも行き届いているようだ。私はビアンカに小さく微笑みかけて、彼女と共に応接間へと向かった。

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