第41話
怒っている?
表情の見えないリヒトさんを前に、一番に考えたのはそんなことだった。アンネリーゼ様たちをこの場から逃がしたことが許せなかったのだろうか。
リヒトさんは掴んだ私の手首を引き寄せるようにして、距離を詰めた。至近距離で、翳った空色の瞳に見つめられると息が詰まりそうになる。近頃のリヒトさんはいつも、こんな目で私を見ている気がした。
不意に、血に塗れた手をリヒトさんに取られる。傷口にリヒトさんの指が触れるだけで、声が出そうなほどに痛んだが、表情を歪めるだけに留めた。あまり、情けない姿ばかりさらしたくない。
「……そんな表情をされるほどに痛むのに、どうしてあんな者を庇ったのですか? エナ様は、噂通りの聖女にでもなるおつもりで?」
笑うような調子が含まれた声に、私は何も言えなくなってしまった。全部、私の我儘なのだ。私のせいでこの世界の人々の関係が崩れて行くのを見たくないという、ただそれだけの信念で動いたまでのこと。
ふと、リヒトさんに触れられた掌の傷に魔力の流れを感じ、彼を見上げる。彼は相変わらず憂いを帯びた表情をしていた。
魔力の流れが途絶えると同時に、嘘のように掌の傷の痛みが消える。掌を見れば相変わらず傷は生々しく赤を吐き出し続けていたが、まるで他人の傷を見ているような心地だった。いつか、舞踏会の夜にリヒトさんがかけてくれた魔法を思い出す。あのときも、彼は傷の痛みを拭い去ってくれた。
「……リヒトさん、本当にありがとうございます」
なんだかんだ言いつつも、私を思いやってくれたのだろう。近頃の彼には恐怖を抱くことが多かったが、久しぶりに胸が温かくなる。だが、リヒトさんの表情は一向に晴れることのないまま、血を流し続ける私の掌を見つめていた。
「あなたがご自分を犠牲にしてまで守るべき価値のあるものなど、この世界にあるはずがない」
ぽつり、と呟いたその声はどこか虚ろだ。思わず、俯くリヒトさんの頬にそっと手を伸ばす。胸の奥がきゅっと掴まれるような、切ない苦しみを覚えた。それは、想いを寄せるリヒトさんが苦しんでいるのを辛く思ったからか、あまりの彼の愛の重さに押しつぶされそうになったからなのかは分からない。
リヒトさんは彼の頬に添えた私の手に、自らの手を重ねるとどこか不安定に笑った。相変わらず端整な笑みなのだが、心臓を直に握られているような緊張感が走る。
「それなのに、どうしてあなたはご自分の体を大切になさらないのですか? ……アンネリーゼたちに殺されかけているときもそうだ。あのとき、バルコニーから今にも落とされようとしていたのに、あなたはまるで眠り姫のように安らかな表情をしていましたね」
じりじりとリヒトさんが私と距離を詰めてくる。一定の距離を保とうと軽く後退っているうちに、膝裏に革張りのソファーの座面が触れた。まずいと思った時には既に遅く、軽い力であっけなくリヒトさんに押し倒されてしまう。もっとも背中は座もたれについたのでソファーに座るような形になったのだが、リヒトさんが退路を塞ぐように私の前に立ちふさがり、私は身動きが取れなくなっていた。
とん、とリヒトさんはソファーの背もたれに折り曲げた右前腕部を当て、寄りかかるようにして私との距離を詰めた。リヒトさんは吐息のかかりそうな距離で、虚ろな目のまま小さく笑って私を見下ろしている。
「ああ……もしかして、死んだら僕から逃げられるとでも思いました?」
完全否定は出来ない。近頃の私は、正直リヒトさんの束縛に疲れ切っていた。でもそれは一因でしかなく、あのとき私が命を諦めた要因はまだまだ他にもある。元の世界へ帰る方法が見つからないこと、兄の横暴な態度、私のせいで変わり始めるこの世界の人々の人間関係。その全部から、もう逃げ出してしまいたくなっただけだ。
だが、その長考による沈黙を、リヒトさんは是と受け取ったのだろう。リヒトさんは不意に口元を押さえたかと思うと、小さな声で笑い出した。やがてそれは次第に大きくなり、哄笑と呼ぶに値するものへと変わる。初めて見るリヒトさんの反応を前に、私は完全に身動きが取れなくなっていた。ただ目を見開いて、笑い続けるリヒトさんを見つめることしか出来ない。
リヒトさんの手が肩に添えられたかと思うと、私はいとも簡単にソファーに横たわる形で押し倒されてしまった。両手はソファーの座面に縫い留められるように押さえつけられ、完全に抵抗できなくなる。いつも紳士的なリヒトさんの行動とはとても思えなかった。恐怖と緊張で、心臓が煩いくらいに脈打っている。それでも私は声一つ出せず、ただ怯えるようにリヒトさんを見上げることしか出来なかった。
「可哀想に……命を絶ってでも僕から逃げたいんですね」
リヒトさんの指先が、そっと私の頬にかかった髪をよけた。その仕草はいつも通り、壊れ物に触れるかのような繊細さで、数秒前に私を押し倒した人間と同一人物の仕草とは思えない。そのちぐはぐさが、余計に恐怖を駆り立てていた。
虚ろな空色の目に移りこむ私は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。この表情は彼にどう受け取られているのだろう。何となくだが分かり始めたリヒトさんの性格上、良い方向に捉えられていないことだけは確実だった。だからこそ余計に、この誤解だけは解かなければならない。
「リヒトさん、誤解です。私、リヒトさんから逃げたいから命を諦めようとしていたわけでは――」
その言葉は途中で遮られてしまう。リヒトさんの人差し指が私の唇に触れたからだ。そのままカミラに塗って貰った紅を剥がすかのように、リヒトさんの指が唇の表面を滑る。
「……言い訳は、聞きたくありません。余計に惨めな気持ちになりますから」
リヒトさんはどこか寂しげに笑うと、人差し指に付着した紅を自らの口元に運び舐めとった。直接口付けられているわけでもないのに、かあっと顔が熱くなるのが分かる。16年の人生で恋人の一人もいたことのない私には、少々刺激の強い光景だった。
「……一つだけ、教えて差し上げますね」
先ほどまでの取り乱した姿はどこへやら。リヒトさんは、体勢こそ異常だが、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべると、そのままそっと私の耳元に口を寄せた。僅かに耳朶にかかる吐息に、びくりと体が跳ねてしまう。
リヒトさんが小さく息を吸った音の後、それは死刑宣告よりも鋭く、恋人に言い聞かせるかのような甘い声で告げられた。
「あなたは、たとえ死んだって僕からは逃げられない。……絶対に」
死後の世界のことなんて誰にも分からないのに、なぜだかリヒトさんなら本当に私を逃がさないような気がした。彼ならやってのけそうだと、根拠もなく信じてしまうくらいには、私は彼に染められているのだろう。
リヒトさんはそっと私の耳元から顔を離す。至近距離で目が合うと、リヒトさんは憐れむような眼差しで私の目尻に触れた。
「泣いてるエナ様も可愛らしいですね……。怖かったんですか? でも、エナ様が悪いんですから、このくらい耐えていただかないと」
リヒトさんにそう言われて初めて、私は自分が涙を流していることに気が付いた。特別悲しいわけでもない。掌の傷が痛むわけでもない。ただ自然と涙が流れていたのだ。多分、キャパオーバーだったのだろう。何かが決壊したように、次々と涙が溢れだし、そのたびにリヒトさんの指がそれを掬っていく。
「どう、して……」
掠れた声はまるで囁き声のような大きさだった。リヒトさんは私の涙を拭いながら、小さな笑みを浮かべて続きを待っているようだ。
「どう、して……リヒトさんはそこまで私のことを気にかけるの……?」
敬語を使うことも忘れて、私はまるで独り言のように呟いていた。
どうして、この人はここまで私のことを。それは、近頃、ぐるぐると頭の中を巡ってやまない疑問だった。私とリヒトさんは、そう長い付き合いがあるわけではない。せいぜい出会って2か月弱といったところだ。そんな短い期間しか共に過ごしていない私のことを、他の何より優先してくれる彼の心が分からなかった。
今回のアンネリーゼ様の件だってそうだ。リヒトさんが彼女に恋心を抱いていなかったにせよ、義兄として彼女を慈しむ情はあるはずだ。それはぽっと出の私では到底覆せない感情であるはずなのに、どうしてああも簡単に切り捨てようとするのか。それが私には分からなかった。リヒトさんを怖く思う一因ともいえるだろう。
リヒトさんはふっと笑うと、涙に濡れた私の頬を大きな掌全体で拭った。そしてそのまま私の頬にそっと口付けを落とす。たったそれだけなのだが、リヒトさんの愛が伝わるような丁寧さだった。リヒトさんは乱れた私の髪をそっと指で梳きながら、甘い笑みを見せる。
「教えて差し上げても良いのですが……一からご説明するとなると、きっと朝が来てしまいますよ? それでもいいのですか?」
確信犯の笑みを浮かべて、リヒトさんは私の髪を梳き続けた。リヒトさんと朝まで過ごすのはこの国の常識で考えれば大問題だ。それこそ、婚約話が一気に進展しかねない。私は慌てて首を横に振って、自由になった手を使って体を起こした。涙はどうやら止まったようだ。
リヒトさんは「残念です」と笑いながら胸ポケットから白いハンカチを取り出し、血まみれの私の掌に当てた。殆ど血は止まっているが、この方がいくらか安心できる。
「では、名残惜しいですがお城へお送りいたします。……立てますか?」
「……ええ」
私は差し出されたリヒトさんの手に、傷ついていない方の手を重ね、立ち上がった。あまりにも様々な感情を抱いたせいか分からないが、少しくらくらとする。体がひどく怠かった。
そうして、私はリヒトさんに導かれるままに、波乱の客間を後にしたのだった。
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