第40話

「エナ様っ!?」


 ゆっくりと目を開ければ、私の体は再び光に包まれていた。先ほどとは違ってどこか温かく、眠気を誘う穏やかさだ。宙に浮かんだままだというのに、ぼんやりとしてしまう。


 だが、それもすぐに終わりを告げた。駆け寄ってきたあの人の腕に、ふわりと落とされたのだ。初めて出会った日のような、横抱きの体勢にされてしまう。それでも恥じらうような繊細な心の動きはないまま、私はぼんやりと私を抱き上げるその人の顔を見つめた。


「……リヒト、さん」


「エナ様っ、エナ様……。ああ、お可哀想に……。今すぐ解いて差し上げますからね。恐い思いをされたのでしょう、もう大丈夫ですよ」


 するすると手足を縛っていた金色のロープが解けていく。もともと痛みなどは無かったので、劇的な変化はなかったが、それでも手足が自由に動かせることに安堵した。


「……ごめんなさい。ありがとう、ございます」


 私の声は力無いままだった。一度命を諦めた後というのは、不思議と現実感があまりない。もっとも、この世界はいつだって私にとって非現実めいた存在なのだけれども。


「こんなに憔悴なさって……僕が目を離したばっかりに……」


 リヒトさんが私の肩口に顔を埋めるように寄り添ってくる。私を抱きしめる腕の力は、体が軋むほどに強かった。


「どう……して、お義兄様……」


 顔が殆どリヒトさんの体に覆い隠されているせいでその姿こそ見えなかったが、アンネリーゼ様が絶望に打ちひしがれるような声を漏らす。その声に、私の意識は一気に覚醒した。


 まずい。この状況は言い逃れできない。現行犯もいいところだ。私は慌てて体勢を立て直そうともがくも、リヒトさんに息が出来ないほど抱きしめられているせいでそれも叶わない。じたばたと手足だけが揺れる、情けない姿を晒してしまった。


「ああ、苦しかったんですね。すみません、つい……」


 リヒトさんはまるでアンネリーゼ様の声など聞こえなかったかのように私に微笑みかける。そうして少しだけ腕の力を緩めてくれた。


「どこか痛むところはありませんか? 手首は? 足は?」


 そう言いながらこの上なく丁寧な仕草で私の手を取り、ゆっくりと観察し始める。カミラと対になる銀細工のブレスレットがしゃらりと揺れた。


「赤くはなっていないようですね……。足は、帰ってカミラさんに診ていただきましょう。……もっとも、お望みであれば僕が確認いたしますが」


 リヒトさんはまるで二人きりの空間で見せるような悪戯っぽい笑みを浮かべて、私の頬を撫でた。いつの間にか慣れてしまったその体温に、不覚にも安心してしまう。だが、今はそれどころじゃないのだ。


「お義兄さま! 無視しないでくださいまし!」


 殆ど泣き叫ぶような声で、アンネリーゼ様は言った。その勢いでこちらに駆け寄ってこようとする。だが、それはまずい。彼女はまだ、例の空色の宝石がついたブレスレットをしているはずだ。


「だ、駄目です! アンネリーゼ様! こっちに来ちゃ……」


 気づけば咄嗟に叫んでしまっていた。アンネリーゼ様が一瞬足を止めて、やがて私の視線に気づいたようにブレスレットの付いた手首を掴む。良かった、気づいてくれたようだ。


「……おや、エナ様。僕を無視してあんな卑し女にお言葉をかけられるのですか?」


 その言葉に、私は大きく目を見開いた。確かにアンネリーゼ様は数多のご令嬢に酷い仕打ちを繰り返してきたようだが、仮にも一国の公爵令嬢だ。それに、義理とはいえリヒトさんの妹なのだ。嫌な予感がする。もしかするとこの状況は、もう手遅れなのではないだろうか。


「あのよう害虫、気にするだけ無駄かと思いましたがエナ様は違うようですので……先に駆除いたしますね。その方が、エナ様とゆっくりお話が出来そうだ」


 そう言いながらリヒトさんは私を抱き上げると、丁寧に丁寧にソファーまで運び、ゆっくりと柔らかい座面の上に降ろした。


「が、害虫……? 駆除……? 何を言って……」


 唖然としているうちに、リヒトさんは私の手の甲に口付けを落とし離れて行ってしまう。先ほどまで私の頬に触れていた手には、いつの間にかナイフが握られていた。それほど刃渡りの長いものではないので、恐らく護身用に携帯しているようなものなのだろう。そしてその刃先は、まっすぐにアンネリーゼ様に向けられた。アンネリーゼ様のただでさえ白い顔が、一気に青白くなるのが分かる。


「生憎、刃の錆びたものしか持っていないけど……構わないだろう? アンネリーゼ」


 アンネリーゼ様は、まるで状況が理解できないと言った様子だった。何かを口走ろうとしているようだが、先ほどから乾いた息の音が漏れるばかりだ。生粋のお嬢様であるアンネリーゼ様は、刃を向けられたことすらないだろう。


「お、義兄さま……どうして、そんなものを……」

 

 やっとのことで絞り出した声には、いつもの誇り高さはまるで見受けられなかった。小刻みに彼女の細い肩が震えている。


「……君には日ごろから失望していたけど、ここまで愚かだったとは……。王族であるエナ様に危害を加えたんだ。その命を持って償うのは当然だろう?」


 それは、兄が妹に言って聞かせるような穏やかな調子だった。内容が内容でなければ、それはただ微笑ましい光景だったのかもしれないが、今は却って恐怖を煽る声音だった。


 刃先を向けられていない私だって、身が竦む思いだ。でも、黙っているわけにはいかない。このままでは本当にアンネリーゼ様が殺されかねない。


「ま、待ってください、リヒトさん!」


 ふらふらとした足取りで、私は彼のもとへ駆け寄る。リヒトさんはいつも通り穏やかな笑みで私に向き直った。


「どうされました? エナ様。汚れてしまいますから、離れていてください。……ああ、わざわざこのような醜い場面をお見せするのも忍びないですね。今、信頼できる者を呼びますから――」


 その言葉を言い終わる前に、私はナイフを持つリヒトさんの腕にしがみ付いた。出来ればナイフを振り落としてしまえたらよかったのだが、16歳の少女の力で年上の男性に適う訳もない。まるで駄々っ子のように、リヒトさんの腕にしがみ付くことしか出来なかった。


「お願いです、やめてくださいっ……」


 力もなく、魔法の使い方も知らない私には情けなく懇願することしか出来ない。それでも、何もしないよりはマシという信念のもと突き進む他に無かった。


「ちょっとした悪ふざけみたいなものですから……お誘いに乗ったのは私の方ですし……。どうか、見逃していただけませんか」


「……あなたを殺そうとした者を庇うのですか?」


「殺そうだなんて、そんな……」


「殺そうとしていたでしょう。あなたの手足の自由を奪って、あの高さから落とそうとしていたんですから」


 せめて、私の手足を縛るあのロープさえなかったら。そうしたら、何か適当な言い訳をつけることもできただろう。こんなに口下手な懇願をせずとも済んだのだろう。


「お願い、傷つけないでください……。私のせいで誰かが傷つくのを見るのはどうしても嫌なんですっ……」


 泣きつくようにリヒトさんにしがみ付けば、ナイフを持っていない方のリヒトさんの手が、ぽんぽんと優しく頭を撫でてくれた。その慈しむような仕草に、僅かに期待が膨らむ。説得に応じてくれたのだろうか。


「……それは、王族としては大変生きづらいでしょう。そういうことなら、エナ様はここでご覧になってください。何事も、少しずつ慣らしていけば乗り越えられるものですよ」


 物騒な言葉には似つかわしくない端整な笑みで、リヒトさんは言った。ああ、多分、この人はどうかしているのだと、私は気付く。いや、気づくのが遅すぎた。もう、何もかも全部、彼の手の中にあるのかもしれない。


 でも、それでも私は。


 小さく笑みを浮かべたまま、リヒトさんがアンネリーゼ様に振り上げた刃先を、私は素手で掴んだ。錆びているとはいえ刃物だ。ぷつりと皮膚が切れる感触がして、すぐに赤が流れ出す。想像を超える激痛が掌に走った。


「っ……」


 一気に脂汗が滲む。掌が、まるで心臓のように脈打っていた。本当は泣いて叫びたい苦しさだが、それでは意味がない。私は必死にリヒトさんを見上げ、その空色の目に訴えた。


「お願いですっ……。ナイフを、渡して、くださいっ……」


 状況を把握したらしい背後のご令嬢たちから悲鳴が上がる。いつもは全く動じないリヒトさんも、目を見開いて驚きを露わにしている。


「エナ様……? 一体何して……」


「離してくださいと言っているのですっ! 私の目の前で、この場にいる誰も傷つけさせませんわ……」


 痛い痛い痛い。本当はもう、生理的な涙で目が潤んでいる。でもこれは、自分の我儘のせいで負った傷だ。王族に仇なした、この国の法に乗っ取れば罰せられるべき人間を、私の我儘で見逃そうとしているのだから。つくづく私は為政者には向いていないらしい。

 

 一向に引く気配のないリヒトさんからナイフを奪うように、私は少しだけ力を込めて彼の手からナイフを引き抜く。意外にも、ナイフはすんなりと奪うことが出来た。茫然とした様子のリヒトさんの手には、あまり力が入っていなかったのだろう。私はそのナイフを出来るだけ遠くに投げ捨てると、傷口を確認する前に背後のアンネリーゼ様と4人のご令嬢を振り返った。


「この場であったことは不問にいたします。早く夜会へお戻りなさい」


 一応、この部屋の中では最も高位に立つのは私だ。このくらいの物言いは許されるだろう。勝手に不問にしたことは、兄が聞けば怒り狂いそうだが何とか収めよう。とにかくこの場から、生きて彼女たちを逃がすことが先決だった。


 4人のご令嬢は深々と礼を、アンネリーゼ様は信じられないとでも言いたげなふてぶてしい視線を私に送り、小さなこの客間を去って行った。ぱたり、と扉が閉められ、部屋の中には私とリヒトさんだけが残される。


 月明かりに照らされた静寂の中、気分が少し落ち着いたのか、先ほどよりもずっと傷口が痛みだした。未だどくどくと溢れる赤を見る限り、それなりに深い傷を負ったらしい。リヒトさんが振り上げたナイフの刃先を受け止めたのだから、不思議はないのだが。


 ぽたぽたと上質な絨毯に血痕が出来て行くのを見るのは忍びない。早々にこの部屋を出た方がいいだろうと判断した私は、先ほどから言葉一つ発さないリヒトさんを見上げ微笑んだ。出来るだけいつもの調子を意識したのに、痛みのせいか若干引きつってしまう。


「助けてくださって、ありがとうございました。……こんな手なので、私は広間には戻りません。でも、リヒトさんは戻っていてください。私は公爵家のどなたかに治療を頼みますから」


 本当は、どうしてアンネリーゼ様に刃を向けたのだと問い詰めたい気持ちもある。けれどもそれよりもやはり恐怖が勝っていた。リヒトさんのことが、日に日に見えなくなっていくような気分だ。


 「それでは」とリヒトさんの前から立ち去ろうとしたその瞬間、手首を強く掴まれ引き留められる。振り返れば、俯いて表情を見せないリヒトさんがそこにいた。


「……どこへいくんですか?」

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