第39話
アンネリーゼ様と、いつの間にやら湧いて出てきた彼女のご友人らしき令嬢に囲まれるようにして導かれたのは、夜会が催されている大広間からかなり離れた隅の部屋だった。アジュールブルーのカーテンが、夜風にたなびいている。部屋に置かれた調度品はどれも一級品だと一目でわかるが、あまり生活感が無い。それに、王城の私の部屋に比べるとかなり手狭で、公爵家の人々が暮らすにしても規模が小さいように思えた。おそらく、客間のような部屋なのだろう。休憩場所としては、確かに適切なのかもしれない。
だが、ここで呑気にアンネリーゼ様とお茶が出来るなんて、流石の私も期待していない。明かりの一つも灯されることはなく、バルコニーから指す月明かりだけが部屋を照らしていた。
部屋の扉が、きっちりと締められ、そのあとにガチャリと音がする。恐らく鍵を閉められてしまったのだろう。アンネリーゼ様と彼女に付き従う4人のご令嬢と対面する形で、私は息を呑んだ。
アンネリーゼ様は宝石のような美しい緑色の瞳で、じっと私を見つめていた。私とほとんど同じくらいの身長だというのに、何だかその視線は見下されているような感覚に陥る。不快な感覚だが、ここで私が耐えることによって事態が悪化しないのならばそれでいい。豪華な革張りのソファーを前に、座る気配すら見せない彼女の次の一手をひたすらに待った。
「単刀直入に申し上げますわ」
永遠に続くかのように思えた沈黙を破ったのは、アンネリーゼ様の、やけに耳に残る美しい声だった。ぎゅっとドレスを握りしめながら、彼女の言葉の続きに耳を傾ける。
「お義兄さまから、離れてくださいまし。聞けば、近頃はまるで恋人のように振舞っているとか……」
離れられるものならば、いっそ離れてしまいたい。リヒトさんのことは好きだが、近頃の日々は息苦しくてならないのだから。このまま「はい」と頷けたなら、どんなに良かっただろう。
けれども脳裏によみがえるのは、森から戻った私がリヒトさんと交わした約束のこと。
――もう二度と僕から逃げないと誓いますか?
罪なき3人の民と魔女の命、それから大切な友達の家を守る代わりに誓った約束。もしもここでアンネリーゼ様の言いつけに従えば、破ることになってしまう。もちろん、この場を凌ぐためだけに「リヒトさんからは離れます」とアンネリーゼ様に告げることもできるが、万が一それがリヒトさんの耳に入れば、約束を反故にしたとみなされても不思議はない。あまりにも危険な賭けだった。
この件に関して、私はリスクのある行動をとるわけにいかないのだ。何せ、代償が大きすぎる。人質を取られているようなものだから余計に動けない。
「……できません」
軽く俯いて、私は声を絞り出した。いつかの舞踏会で、アンネリーゼ様と口論をしたときのような威勢は微塵もない。
「……そう? そういうことならば、わたくしたちのとる行動は一つですわ」
アンネリーゼ様のその言葉を合図にするかのように、4人のご令嬢が急に私を取り囲むようにして距離を詰めた。間を置かず、4人それぞれがぶつぶつと何やら呟き始める。あまりに小さな囁き声だったのでその言葉は分からなかったが、突然私を取り巻き始めた光を見て、魔法の発動呪文の類だったのだと気づいた。
抗う間も術もなく、金色に光り輝くロープのようなものに手足を縛られてしまう。魔法の効果なのか閉塞感も痛みも無かったが、確実に動きは制限されていた。バランスを崩し、そのままべたりと床に倒れ込んでしまう。黒髪が床に投げ出されていた。
「っ離してください!!」
情けなく床に転がりながら、傍に寄ってきたアンネリーゼ様を目いっぱい見上げる。首をひねってしまいそうだったが、そんなこと、この際問題ではない。
「うるさいですわね」
アンネリーゼ様の瞳に合わせたような深緑色の靴が、私の黒髪を踏みにじった。もちろん痛みを感じる訳はないのだが、とても屈辱的だ。対してアンネリーゼ様はとろけるような美しい笑みを浮かべていた。いい趣味してるわ、このお姫様、と心の中で悪態をつきながらも必死で策を考える。
森で見かけたあの茨を変形させたときのように、縛られたロープに魔力を集中させてみるが、やはり質が違いすぎるのかまるで効果が無い。魔法については銀細工を作ることしか能がないので、とても太刀打ちできなかった。
「わたくし、丁寧に言って差し上げましたわよね? あなたが、お義兄さまから離れて行かないようならば、その命は惜しくないものとみなしますわ、と。まさかお忘れになっていたのかしら?」
冗談じゃない。そんな物騒な台詞、一度訊いたら忘れるはずがない。私は全力で首を横に振る。
「知りません……そんな話。同意した覚えもありませんわ」
「ああ! そうでしたわねえ……」
くすくすと嘲笑うかのようにアンネリーゼ様は私を見下ろすと、ドレスの袖を少しだけ捲り、何やら光るものを見せつけてきた。どうやらそれはブレスレットのようで、細やかな金の鎖がいくつかの宝石を繋ぎとめている。豪華でアンネリーゼ様らしい品だと思ったが、ある宝石を見た瞬間、さっと血の気が引いていくのが分かった。
「アンネリーゼ様、それはっ……」
それは、アンネリーゼ様と初めて対峙した舞踏会で彼女に奪われた、リヒトさんからの贈り物のイヤリングとチョーカーの宝石を細工したものだった。リヒトさんの瞳を思わせる空色は、見間違うはずがない。
「あなたが卑怯な手を使ってお義兄様から受け取ったこの宝石が無くては、お話が通じないのでしたわね。つい、失念しておりました。宝石を奪った後にあのような大事なお話をするなど、ライスター公爵家の長女として失格ですわ……」
わざとらしく肩を落とすアンネリーゼ様を前に、私は絶句した。とてつもない量の感情が一気に渦巻き始める。
本来ならば私はここで、自分の甘さを呪うべきだった。泣いて後悔するべきだった。それなのに、真っ先に口をついて出てきた言葉は自分でも驚くほどに愚かな無いようだったのだ。
「アンネリーゼ様、そのような……そのような見つかりやすい場所に、その宝石を身に付けてはいけませんっ……。リヒトさんに、見つかったら……」
自分でも、何を言っているのだろうと思う。私は今、魔法で捕らえられ、あわよくば殺されようとしているのだ。それなのに私の頭の中は、あの宝石がアンネリーゼ様に手元にあることを知ったとき、リヒトさんはどう対応するかということで一杯だった。自分の命が危険に晒されている現状よりも、アンネリーゼ様が受けるかもしれない仕打ちを考えるだけで涙が出そうだ。
アンネリーゼ様が私から一方的に奪ったものなのだから、彼女の自業自得だともいえるだろう。それは誰の目に見ても明らかだ。もちろん、私もそれを分かっているつもりなのに、それでもアンネリーゼ様がひどい目に遭わされることは耐えられなかった。それは、ただ、私のせいでこの世界の人が被害を被る姿を見たくないという、ある種の私の我儘から来るものだったのかもしれない。
私さえいなければ、アンネリーゼ様はこんなにもお怒りになることは無かった。私からリヒトさんの贈り物を奪うこともなかった。私が、悪いのだ。私さえいなければ。
「お願いですっ、今すぐどこかに隠してくださいっ……お願いですから……」
殆ど涙目になって懇願する私の姿は、アンネリーゼ様にどう映っただろう。ただ、得体の知れないゴミを見るような目であることは確かだ。実際、私も自分がよく分からなくなっていた。本当ならば自分の命を守るために策を巡らせるべきなのに、私の脳内はただ、リヒトさんがアンネリーゼ様に向けるかもしれない害意への恐怖で一杯になっていた。
きっと、もう、少しずつ私はおかしくなっているのだろう。元の世界へ戻るきっかけすらつかめぬ日々と、私を絡めとるかのようなリヒトさんの視線、一人で受け止めるにはあまりに重すぎる愛、私を自由にしてくれない兄。その全てが少しずつ少しずつ、私の心にヒビを入れて始めていた。
「何を訳の分からないことをっ……。あなたに心配されなくとも、そんな下手な真似は致しませんわ……。それとも、わたくしを心配する振りをして隙を狙っているのかしら? 小賢しい女ね……」
「早く、始末して頂戴」などと物騒な言葉が聞こえてくるのも、今の私には最早どこか他人事だった。ふわりと緑色の光に包まれ、体が宙に浮いていても、頭の中を支配するのはただアンネリーゼ様を心配する気持ちと、リヒトさんへの恐怖だけ。抵抗する余裕さえなかった。
「アンネリーゼ様、お願いです……その宝石だけは、どうか……」
壊れたように同じ言葉しか繰り返さない私を、いよいよアンネリーゼ様もそのほかのご令嬢も不気味に思っているようだった。その気持ちはよくわかる。私だって私が怖い。
柔らかな緑色の光に包まれたまま、気づけばバルコニーの柵の上を漂っていた。ちらりと屋敷の外を見やれば、艶やかな赤い花らしきものが月の光を受けて輝いている。ただ、花の一つひとつの形が確認できないほどに、このバルコニーは高い位置にあるようだった。ここから落とされれば恐らく死ぬのだろう。
夜風に混じった焦げたような臭いで視線だけ動かせば、すぐにボヤ騒ぎのあった離れが目についた。今は火の手らしきものは見受けられない。無事に消火できたのだろうか。誰も傷ついていなければいいのだが。
そんな現実逃避をして、思わず自嘲気味な笑みが込み上げた。自分が絶体絶命の状況で呑気に他人の心配とは、捉えようによっては「巷で噂の聖女様」らしい姿だと思ったのだ。笑いながら、つうっと目尻に涙が伝っていく。
もう、いいかな。
ごめんね、お父さん、お母さん、小百合。
何だかもう、疲れちゃった。
次第に私を包む光が薄くなっていく。ああ、これで終わりだ、と悟り瞼を伏せる。
「っエナ様!!」
私の名を叫ぶあの人の声と、私の周りを囲んでいた光が消えたのは、殆ど同じタイミングだった。
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