第36話

「……エナ様? エナ様?」


 不安げなカミラの声に、ふっと意識が覚醒する。薄目を空ければ、カミラが心配そうに私の顔を覗き込んでいた。彼女越しに窓の外を見やれば、日は随分と高く、寝坊してしまったのだと一目でわかった。


 リヒトさんが訪ねてきた後の記憶が無い。でも、こうして寝台に横になっているということは、いつの間にか眠ってしまったのだろう。随分長く眠ったはずなのに、体は何となく怠く、頭が痛かった。


「ああ、エナ様、どこかお悪いのですか? お医者様をお呼びしようか、迷っていたところなのです……」


 あまりに長く眠ってしまったものだから、カミラが起こしに来てくれたのだろう。軽く上体を起こしながら、少しずつ状況を把握し始めていた。


 不意に、昨日リヒトさんが口にした「処分」という言葉が頭を過り、私は思わずカミラの肩を掴んだ。そうだ、リヒトさんはちゃんと見逃してくれただろうか。目覚めたら、処刑台に血が流れていたなんて、あまりに後味が悪い。


「カミラ! ご実家は……男爵家は大丈夫? 何も、変わらない?」


「私の……実家ですか? 特に、変事があったという知らせは届いておりませんが……」


「この間のビアンカというメイドは!?」


「ビアンカですか……? 彼女なら、通常業務に戻っております。御用があるなら呼び寄せますが……」


 ああ、よかった。何も、変わっていないようだ。ほっと息をつきながら、カミラから手を離す。


「そう……昨日から今朝にかけて、誰かが処刑されたという話も聞かないわよね……?」


「……? そうですね、現在、公開処刑に値する罪人はおりませんから」


「そう、なら、いいの……」


 リヒトさんは、私との約束を守ってくれたようだ。この短時間でかいた冷や汗が、一気に引いていく。取り返しのつかない事態になっていなくて良かった。


「悪い夢でも見られたのですか……? 顔色が……」


 カミラは痛ましそうに私を見ていた。傍から見れば、気が触れたとでも思われかねない言動だったかもしれない。それでも、確認せずにはいられなかった。私のせいで人が死んでしまったら、私は罪悪感で息もできなくなりそうだ。


「ええ、でも、もう大丈夫よ。……取り乱してしまったわ」


「……お可哀想に。湯あみの準備が出来ておりますから、どうかご気分を落ち着かせてくださいませ」


「ありがとう、カミラ……」


 彼女の手を借りるようにして、ベッドから足を降ろす。いつからか慣れ始めたこの日常が、この先延々と続いていくのか。不意にその事実に気が付いて、私は深い絶望に襲われた。



 




 この日々に、不満があるわけじゃない。食事も美味しい、衣服も美しい。周りの人は親切で、皆、私を尊重してくれる。諦めてしまえば、これほど恵まれた環境はない。


 それでも、それでも私は。


 あれから数日経って、この世界での私の日常は豊かなまま穏やかに過ぎていった。森で追った傷も、失った魔力もほとんど回復したし、あの日リヒトさんに罪人として名を上げられた人々も、何一つ変わらぬ生活をしている。その事実だけが、私の判断は間違っていなかったのだと証明してくれていた。


「浮かない表情をされてどうしました?」


 暖かな木漏れ日の下、すぐ隣でリヒトさんが笑う。彼はあれから毎日のように私に会いに来ていた。逃げないと誓ったのに、疑い深いのはお互い様のようだ。


 リヒトさんとは、上手くやっていると思う。殆どの人は私とリヒトさんが恋人同士だと思っているだろう。実際、その認識は大きく間違っているともいえぬ距離感だが、未だ私の中には、多くの人を断罪しようとしたリヒトさんの影が燻っていた。


 正直に言って、リヒトさんのことは好きだ。その端整な横顔も、私に親切にしてくれることも、ちょっとした話の面白さも、全てが私を夢中にさせた。でも、同時に心に浮かび上がる恐怖心もまた、確かに私の胸を締め付けるのだ。私のちょっとした行動が、誰かの命を奪いかねない。ある意味、幽閉されるよりもずっと息苦しい感覚が続いていた。


 こんな些細な質問さえ、答え方を間違えれば彼の怒りが誰かに向かうかもしれないと思うと、息が詰まった。かといって、答えることを放棄して逃げ出せば、約束を反故にしたと捉えられかねない。私は曖昧に微笑んで、手にしていた本を閉じる。


「少し、疲れてしまって……」


「今日は長い時間外に居ましたからね。そろそろ中へ入ったほうがよろしいでしょう」


 そう言ってリヒトさんは立ち上がり、私の前へ歩み寄った。本当に、一つ一つの所作が優美な人だ。複雑な心境とは裏腹に、思わず見惚れていると、不意にリヒトさんの手が私の耳元に伸びた。


「失礼します。イヤリングが、少し曲がっているようですので」


「……申し訳ありません、リヒトさんに、こんなこと」


「とんでもない。エナ様に触れる口実が出来て、嬉しく思います」


 相変わらず、こういう歯の浮くような台詞をさらりと言ってのけるところは流石だ。何度言われても慣れない。心のどこかで彼に対する怒りにも似た感情があるはずなのに、頬に熱が帯びるのを隠し切れなかった。


「……以前、ここに怪我をされたんですね。犯人さえ見つかれば、今すぐにでも亡き者にしたいところですが」


 リヒトさんの長い指が、耳朶に触れる。少しくすぐったいような気がしたが、それよりも彼の言葉に血の気が引く思いだ。頬に帯びた熱が一瞬で冷めていく。以前なら、冗談だと笑えたのかもしれないが、この人は本当にやりかねない。


「……怖いことを仰らないで。私はもう、気にしておりませんから」


 私は引きつったような笑みを浮かべて、リヒトさんを見上げた。この調子では、アンネリーゼ様のことは絶対にばれるわけにいかない。あれはお互い悪かったのだと言っても、リヒトさんが納得してくれるはずもなかった。流石に義理とはいえ妹なのだから処刑などはしないだろうが、彼女を冷遇するくらいのことはするかもしれない。


 数日後にはライスター公爵家の夜会が迫っており、そこでは間違いなくアンネリーゼ様と対峙することになるだろう。私はなるべく身を潜めていたいのだが、リヒトさんがエスコートする以上、目立たない訳がなく、またそれをアンネリーゼ様が不快に思わない訳もなかった。


 どうか、何事もありませんように、と祈ることしか出来ない。私に隠蔽できる程度の嫌がらせならば全力で隠す気でいるが、いつかの舞踏会のときのようなことをされたら隠し切れないだろう。


「エナ様は、本当に慈悲深いお方ですね」


 その言葉と共に頬に口付けを受ける。こんな甘ったるい接触も、日常茶飯事になりつつあった。そのたびに、確かに私の脈は早まっているのだが、リヒトさんはそれに気づいているだろうか。もし、私のこの気持ちに気づいてくれているのなら、私が何も言わずにリヒトさんの前から姿を消すことはないことくらい、分かってくれそうなものなのに。


 リヒトさんに差し出された手を取って、城の中へと戻る。こうして手を繋いでいても、彼は時折、不安げな目で私を見下ろすのだ。そのたびに、私はなるべく穏やかに微笑んで見せるのだが、彼の浮かない表情が払拭されるわけではない。


 どうすれば、この人を安心させてあげられるのだろう。この悩みは紛れもなく恋心から来ている物なのに、彼はそれにも気づかない。兄に並ぶ魔術師と称えられるほど優秀で聡明な人物のくせに、妙なところで鈍いから困る。この先も試行錯誤の日々が続く予感を感じながら、私はぎゅっと彼の手を握り返すのだった。

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